第2話 家出/ボール蹴り

「……だ」

 サターニアはぽそりと呟いた。消え入りそうなその声音に、ドラゴはかえって安心する。やはり少しばかり緊張しているだけのようだ。歳のうえでは成魔となっても、中身はまだまだ子供ということだ。


「大丈夫だから、ちゃんと聞こえるように言ってみなさい。このあとの宴が心配なのか? もしどうしても嫌なら、そっちは出なくても構わないから」

 重圧を取り除こうと愛娘をなだめる。だが返ってきた反応はドラゴの予想の外にあった。

「もうやだっ! こんなのつまんない! あたし魔王なんてやめる!」


 突然サターニアは玉座から立ち上がった。涙目で頬を膨らませる。

 ドラゴは唖然とした。愛娘にこんなぶうたれた顔をされたのは、赤ん坊の頃におむつを変えてあげるのを忘れた時以来である。

 他の臣下達もわけが分らないといった様子で固まる中、サターニアはずんずんときざはしを下りると、そのまま出口へ向かって歩き出す。


「ちょっと待て……待ちなさい、こら、サターニア!」

 初めに動いたのはやはりドラゴだった。巨躯を素早く翻すと、腕を高々と掲げ、陰の氣をまとわせる。まるで超局所的な雷雲が発生したかのように、バチバチと蒼白い稲妻が閃き走った。


 サターニアは足を止めた。だが振り向くことはせず、片方の掌をそっと持ち上げて後ろに向ける。

「サターニア! いい子だから玉座に戻って!」

 ドラゴの腕が唸りを上げた。放たれた雷光が宙を走り、幾つにも枝分れし、編み上げられた凶悪極まる網が、サターニアを捕らえるべく襲いかかった。


「そんなに椅子なんかが大事なら、父上が座ってればいいじゃんか!」

 駄々っ子みたいに叫び返したサターニアが、えいっと可愛らしく手を閃かせた。

「うおっ!?」


 ドラゴが放ったいかずちの網が、残像さえもなく消失する。直後、轟然たる衝撃波が渦を巻き、ドラゴにぶち当たってひとたまりもなく吹き飛ばした。そして叩きつけられた先はぴったりと玉座の上だ。もちろん偶然などではあり得ない。反撃の威力も角度も、サターニアが完璧に制御した結果である。


 初代魔王が自ら作り成したという玉座はさすがに頑丈だった。魔族最強の戦士が容赦ない勢いで激突しても、ひび一つ入っていない。もっとも当の戦士の方は白目を剥いて失神してしまっているが。


「誰か文句のあるひと?」

 サターニアの問いに、答えを返せる者はない。

「……じゃあね、さよならっ」

 ぷいっと顔を前に向けたまま、魔王少女は家出した。


     #


「ふーんふふーん、らららららー♪」

 気分良くルナは鼻唄を口ずさむ。

 遊歩道を取り巻く木々の新緑が鮮やかだ。爽やかに吹く風の中にいると、身の内が洗われる心地がする。


 ランディア王国の首都フィデルは、森の都として知られている。中でも広壮な王宮公園は市民達の憩いの場だ。時刻は未だ早朝ながら、散歩をするルナの足取りは溌剌として、眠そうな様子は影もない。


 ルナももう十六歳、結婚していたっておかしくない年齢だし、少しは世の中のことも知っている。とりわけ、近年来不透明感を増す国際情勢には無関心ではいられない。今は比較的平和なランディア王国だが、いつ嵐のただ中に巻き込まれるか全く予断を許さない状況だ。


 だがまだ起こってもいない事態について、あれこれ思い悩んだって仕方ない。備えや心構えは大切だし、なおざりにするつもりはないけれど、どうやったって明日に手は届かない。ならば今この瞬間を楽しまないのは損だ。


「あら?」

 能天気なまでに軽やかに弾む足元に、ころころと転がってきたものがある。見れば蹴球用のボールだ。どうやらルナに負けず劣らず朝から元気な者がいるらしい。


「おーいヒメー、ボール取ってーっ」

 持ち主を探して顔を上げれば、遠くから素直に明るい声が呼び掛ける。ルナは笑みをこぼした。知らない男の子だが、向こうはこちらが誰だか分ったらしい。


「よーし、行っくよーっ」

 男の子に負けじと声を張ると、ルナは思いきり足を振り上げボールを蹴返した。お嬢様っぽい清楚なワンピースなど着ていても、体を動かすことは得意なのだ。空振りなんてかっこ悪い真似はしない。

 ルナに蹴られたボールは、勢いよく宙に浮き上がった。そのままぐんぐんと飛んでいき、大きく両手を振る男の子のはるか頭上を越えていく。


「……あれ?」

「ヒメー……?」

 ボールの行く末を見送った男の子が、ルナを振り返って残念な人に出くわしたような視線を向けてくる。


「やはは、ゴメンゴメン。ちゃんと取ってくるからさ、待っててね」

 ルナは軽く両手を合わせると、ワンピースの裾を跳ねさせて駆け出した。そしてちょうど男の子の傍を通り過ぎた辺りのことだ。


「任せろ!」

 遊歩道のさらに先、ルナと同じ年頃の若者が、転がってきたボールを狙ってしなやかに足を振り抜く。


 ボールは鮮やかな曲線を描き、ルナ達の少し手前で落下すると、持ち主の男の子の方へ真っ直ぐにやってきた。まだぎこちない動きながら、男の子はしっかりと足で受け止める。


「ありがとー、おにーちゃん! あと、いちおうヒメも?」

 こちらに近付いてくる若者にぺこりと頭を下げて、ルナには生意気に首を傾げると、男の子はボールを蹴りながら走り出す。


「どういたしましてー……」

 ルナは引き攣った笑みを浮かべ、男の子に手を振った。まだ幼くとも我が国の大切な民である。その役に立てたのなら本望だ。むしろ迷惑を掛けてしまうところだった気もするが、結果として上手く済んだので良しとする。

「……相変わらず馬鹿力だな、ルナは。ちょっとは加減ってもんを覚えろよ」

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