二十二日目 ムネアカオオアリ
しょうがないから俺は早めに家を出ることにした。いつまでもあそこに居ると居心地が悪すぎる。
「もう出かけるの? 頑張ってねぇ」
玄関で靴を履いていると、背中から嬉しそうに母がエールを送ってくれた。何を頑張れと言うのだ。勉強か? そうか、そうなんだろう。
ヘラクレスオオカブトのかごはすでにカバンの奥底に詰めている。
「お願いだから、出てこないでくださいね」
人間の姿がちらついて、なぜか敬語になってしまった。念のため、念を押しておくんだ。姉が閉めてくれたから頑丈だとは思うが、万が一ということもあるからな。
いやしかし、あの筋肉は羨ましかった。最後にトレーニング方法でも……、止めておこう。昆虫には昆虫にしかできないやり方があるかもしれない。
「あっ、そうだ!」
俺はすっかり忘れていた約束を思い出し、図書館の途中にあるコンビニに寄ることにした。以前勉強を教えてもらったときに、羽田さんに何か奢るって言ったんだ。自分で言っておいて約束を破ることはできない。
いまはこれしか用意できないけど、いつかまたちゃんとした何かを奢ってあげよう。でもちゃんとした何かってなんだ?
コンビニや高校の購買しか手が届きそうもなくて、俺は肩を落とす。何でなの? お父さま、ご実家はお金持ちなんじゃないんですか?
泣いてもどうにもならないので、俺はひとつ、ペットボトルの紅茶を買った。あのとき口を付けなかったので、もしかしたら好きじゃないのかもと思ったけれど、これで終わらせたくないからな。今度はちゃんとした何かを……だからちゃんとした何かってなんだよ。
「ありがとうございましたー」
「うおっまぶしっ」
そういえば今朝はひつまぶしだった。調子に乗って朝食を食べ過ぎたせいか、少し眠い。自動ドアが開かれると、朝日が目に刺さって眩しかった。徹夜は筋肉に悪いのにな、帰ったらいっぱい寝よう。
そんなことを考えて、近くのベンチに腰掛ける。まだ図書館が開くのには時間があるし、約束の時間にも余裕があった。
「あー、今年は散々だな……」
「お兄ちゃん、おはよう!」
「おー、おはよう」
もうこいつのいきなりの登場にも慣れてきたころだ。そこまで出会ってないけど。実のところ眠くて驚くどころではない。俺の膝に両手を突いて、幼女は顔を覗き込んでいる。
あくびを連発していると、ムネアカオオアリは大きい目をさらにぱちくりして訊いてきた。
「お兄ちゃん、眠そう」
「んー、昨日、ちょっとな。オオムラサキに襲われたんだ」
言葉の真意は分かるかどうか知らないが、俺にとっては同じことだ。恐怖以外の何物でもない。
「オオムラサキのお姉ちゃん? この前おうちに遊びに行ったら、退屈そうにしてたよ?」
いつの間に遊びに来たの? 怖っ! ストーカーに家が知られている恐怖って、こういうのなんだろうか? つーか、怖っ!
「あのさ、お兄ちゃん疲れてるから、早いところ仲間の元に帰ってあげたら?」
「あ! そうそう、忘れてました!」
ほぅら、そうだろう。大切な仲間を忘れちゃいけないぞ。でもそうではなかったらしい。ムネアカちゃんは嬉しい報告を俺にしてくる。
「お母さま、すっかり良くなったのです! お兄ちゃんのおかげです!」
「へー、あ、そうなんだ。良かったね」
「はい! そう言えば、お母さまはお兄ちゃんに会ったことあるって言ってたよ?」
はい? 誰が? ムネアカちゃんの、お母さまが……? うーん、でも、ムネアカちゃんが人間に見えてるってことは、確かに彼女の先祖にどこかで会ったことがあるってことになるんだろうか。
さっきから唸ってばかりだ。頭が回りにくいんだ。幸い周りには人も居ないし、考えてもしょうがないことを訊いてみる。
「そう、じゃあお母さまは、俺を吸ったってこと?」
「うん。それはそれは甘くておいしくて……とろけるようだったって」
片手を頬に当てて、うっとりした表情を作る。君には吸わせてないよね? それなのにどうしてそんなメスの顔をするんですか? 子どもにそんなこと教えないでよ、お母さま。
いやまぁ、昆虫は幼女でもメスって言うか。
だけど有力なことを聞けた。やっぱり俺の成分を摂取すると人間に近付くのだろう。どうしてかは分からないが。もしかして、掛けた呪術に関係あるとか?
いけない、瞼が、重い……。
「だからね、お兄ちゃん! ムネアカにもその、ちょっとでいいから、ペロッてさせてくれない?」
「――駄目っす!」
ありがとう、おかげでちょっと目が覚めたわ! 散々言ったつもりなのだが、まだ聞き入れてもらえないのか。しかしここに居ると時間の問題だな。そそくさと荷物を持ってこの場を去ることにする。
「じゃ、悪いけど俺今日は大事な用事があるんだわ! 元気でな!」
もう会うこともないだろう。向こうは俺を見つけられるかもしれないけど、俺は向こうを見つけられない。でもアリが居なさそうなところに行けばいいんだ。ぜひ平穏な暮らしを送ってくれたまえ。
小走りで振り切り、やっと図書館前まで辿り着いた。後ろを振り返ってついてきていないことを確認する。ほっと胸を撫で下ろしたとき、聞きなれた声が届いた。
「あれ、黒木くん? 早い、ね。おはよう」
羽田さんだ。図書館前の石の椅子に腰掛けて、ひとりぽつんと待っている。彼女は早いと言ったが、羽田さんもまた早かった。丁寧に編み上げられた三つ編みを、恥ずかしそうに触っている。
あれ、道中、羽田さんに会ったっけ? 図書館までは一本道で、いやでもあのコンビニの前の道を通るはずなのに……。もしかして――、
「おはよ。もしかして、もっと早くに来てた?」
「ふぇっ!? い、いや、あの、別に、そんなこと、ない、けど……」
あたふたしながら顔を赤らめている。思った通り俺よりずっと早く来ていたらしい。そんなことなら寄り道なんてしなきゃよかった。でも早めに会えて、ちょっと嬉しい。
ただ本を返すだけなのに、と思うけど、そんなに本が好きなんだな。羽田さんって真面目だけど、堅苦しすぎなくて接しやすい。世の中の女性に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだった。女性は優しいほうが得だぞ!
「あ、その、まだ少し時間あるし、ちょっとお話しない?」
言って羽田さんは隣を空けてくれる。石の摩耗したところを撫でて、こちらに座るよう促した。恥ずかしそうにはにかんでいる。俺は二つ返事で快諾し、素早く隣に移動した。
「そうだ、本預かっておこうか? 俺が返さなきゃいけないんでしょ?」
「あっ、あの、いやぁ、じ、実はね、別に誰が返してもいいっていうか……」
「え? それってどういう……?」
ごにょごにょと呟いているが何事なんだろうか? 誰が返してもいいってことは俺じゃなくて家族でもいいってことか? 誰か会いたいヤツでもいたんだろうか。そういうことなら早めに言ってくれたら良かったのに。いったい誰に会いたかったんだろう?
「あー、あの、また俺ん家来てよ。会いたいヤツがいるなら会せるし。いつでもいいからさ」
「へ? あ、う、うん……」
あれ? 今度は微妙な顔をして笑っているぞ? ん!? まちがったかな……。
思えば何の脈絡もなかったか。俺の頭の中で考えていただけなので、相手には伝わっていないのだろう。寝不足はいけないな。
堪えきれず俺はあくびを噛み殺すが、羽田さんには気付かれてしまったようだった。
「どうしたの? 眠い?」
「あぁ、ごめん! ちょっとオオムラサキに追いかけられてて――」
いや、こんな話をしても信じてはくれないだろう。羽田さんの先祖に虫姫の呪いを掛けられたというが、もうこのご時世でそんなオカルト信じてないと思うし。
「あー、何でもないよ! いまの話、忘れて!」
「オオムラサキって、黒木くんの背中に付いてる子?」
「はぁっ!?」
ウソだろ!? いつの間に!? そう言えば虫かごに戻してなかった! 背中を振り返ってシャツを寄せると、オオムラサキがぴったりとくっついている。
「まぁ、わたくしのことはお気になさらず」
気になるってば!!
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