二十三日目 オオムラサキ
「うわぁ! マジかよ!」
「ちょ、黒木くん! 落ち着いて!」
俺はオオムラサキを振り払おうと、無意識にぐるぐる回っていた。まるで自分のしっぽを追いかける犬だ。端から見ればとても滑稽だったに違いない。気付けば図書館ももう開く時間で、数人が目の前を行き交っている。
側に居た羽田さんはさぞ恥ずかしかっただろう。でも俺だってテンパって何をしているか分からなかったんだ。めっちゃ恥ずかしい。
「この子弱ってるみたい! 無理に動かないで!」
「――え?」
しかし羽田さんも必死だったと見える。俺の上腕二頭筋を掴んで、制止にかかった。やっぱり俺よりも虫が好きなんだな……。その落胆で俺は落ち着きを取り戻す。何とも悲しい結末だろう。
いやまだだ! まだ夏は終わっちゃねぇ!
「やっぱり、あまり動いてない。ちょっとこっちにおいで」
いくら羽田さんが優しくても、そう簡単には移動しないだろう。と思っていたが、ゆっくりオオムラサキはその白い腕を伸ばした。
えっ、意外……。もしかして俺に虫姫の呪いが掛かっているように、羽田さんにも呪いが掛かっていたりするんだろうか? 先祖が自分の子孫に? うーん、何とも良く分からない。
「ねぇ、この子、黒木くんのおうちにいた子かな?」
「え、あー、そうだよ。……た、たぶん」
はっきりと言ってしまったら少し怪しまれるのではないかと思ったので、若干曖昧にしておいた。すでに羽田さんの手に渡ってしまったのでこの状態では判別ができない。しかし俺の記憶にはあのおっぱ――、じゃなかった、顔がはっきりと刻まれていた。もう言い逃れはできないし、否定することもできない。
「このオオムラサキは、いつから飼ってるの?」
「飼って、って頼んだ覚えはないけど。んー、夏休み始まってすぐぐらい?」
「そうなの!?」
何か不味かっただろうか。驚いたように俺を見ている。別に虐待なんかはしてないし……。餌はもしかしたら、今日は吸わないで出てきてしまったのかもしれない。一晩中鬼ごっこをしていたから。
「だったら、そろそろ寿命なのかもね」
「じゅ、みょう……?」
その言葉に、俺はどきりとした。いままで話してたのに? いままで笑ってたのに? どうしてお前らは、こうもあっさり居なくなる。
「ここに放してあげた方がいいかもしれないね」
別れは味気なく、不意に訪れる。でも別に、ずっと側に居てほしいわけじゃない。できれば離れて行ってほしい。だからこの話は望んでいたことなのだ。
しかし元気に旅立っていくものだと、勝手に思っていた。さようなら、また今度、とへらへら笑って去っていくものだと。
「黒木くん? 黒木くん、大丈夫?」
「はぇ!? ああ、うん。えっと、大丈夫……」
「この雑木林なら樹液の出る木もたくさんあるし、心配しなくていいと思うよ。ちょっと寂しいかもしれないけど」
言われて俺は木々の向こうを見渡す。奥までは見えないが、昨日のアブラゼミやスズメバチ、なんたってヘラクレスオオカブトがいるくらいだから餌には困らないんじゃないかと思う。
そうだよね。いつまでも俺の家に置いてはいられないし、ここで暮らす方が幸せになれるだろう。そう悟った瞬間、しかし俺が話を付ける前に、オオムラサキがふわりと舞った。
「あっ」
別れの言葉を聞くのが嫌だったのだろうか。彼女は無言で一匹、素早く雑木林の奥へと吸い込まれていった。
「行っちゃったね。また来年、オオムラサキに会えるといいね」
優しそうに笑う彼女は、でも知らない。あの個体には二度と会えないことを。いや、昆虫好きな彼女ならもしかして、知ってて言ってるんだろうか。俺も虫好き仲間として認定されているので、元気付けてくれたのかもしれなかった。
「あ、あぁ。……じゃあ、行こうか」
気を取り直して羽田さんを図書館に誘う。そう、当初の目的はこれなのだ。虫一匹とのさよならなんて、心を痛めるまでもない。あばよ、オオムラサキ。
どうか、最期まで元気でな。
「お待たせ、返してきたよ」
羽田さんは思ったより早く本を返してきた。どうやら返却ボックスに投函すればそれでいいらしい。本当にどうして俺は呼ばれたんだ?
「せっかくだから勉強しない? 静かな穴場があるんだよ」
こそっと穴場、なんて言わないで。寝不足の俺にはもう最低なことしか思い浮かばない。止めよう。自分で自分の頬をつねって、変な妄想を吹き飛ばすことにした。
「どうしたの?」
「いっ、いや! なんでもないよ! あー、勉強、勉強ね。よし、やりましょうか!」
できるだけ軽快に腰を上げ、その穴場とやらに向かう。古文書コーナーのさらに奥に、本の匂いまみれのテーブルが二、三個あった。ひんやりとして静かで、そこだけ違う空間に来たような感覚になる。
「ここらへんは小さい子も来ないし、少しくらいゆっくりしてても大丈夫。でも、ウルサイのは厳禁ね」
「う、うん……」
なんだろう、この何とも言えない特別感は。だって、おかしい。同じ図書館内には人がいるはずなのに、ここだけ本当に誰もいない。これじゃあ何かやましいことをしてもばれないのでは……!
ああ、駄目だ! それでは嫌われてしまう!!
羽田さんはそそくさと勉強道具を広げて、すでに参考書の世界に入り込んでしまった。期待した俺が恥ずかしい!
「羽田さんは、そんなに勉強してスゴイよね」
「えぇ? そうかなぁ?」
今日の課題を決めたのか、ペンを走らせていた羽田さんがこそばゆそうに笑っていた。向かいの席に腰掛けて内容を覗き込むが、さっぱり何が書いてあるか分からない。今日は生物のようだ。
「でも家ではそんなに勉強してないよ? むしろ家に居る方がはかどらないんだよね。困っちゃう」
「そうなの?」
へぇ、と感心したが、確かに俺も家に居るとまったく勉強しない。いや、ここに来ても勉強がはかどるかと言われたら怪しいものなのだが。
「私ね、行きたい大学があって……。農学部なんだけど」
「のう、がくぶ……?」
寝不足ということもあるが、俺の脳みそが一瞬仕事をしなかった。数学を一生懸命学んでいたから、てっきりその、何だろ、法学部、とか? そういう頭の良いところに進みたいのかと思っていた。
どうして寄りによって農学部? 農業とか、将来はそっちの道に進みたいのだろうか?
牛や馬、野菜に囲まれる羽田さんを想像して、思ったより似合っていると感じていたところに訂正の声が掛かる。
「農学部って言っても、農林とかの方じゃなくて……。昆虫学科の、方で……」
「昆虫学科!? そんなのあるの?」
羽田さんは恥ずかしそうに、人差し指を口元に持って行って、シッのポーズを取る。ごめん、ウルサかった。でも他人の注目を浴びることに恥を感じているわけではなさそうだ。
「その、誰にも言ってないんだけどね」
そんな初出し情報を俺に言ってくれて良かったんだろうか? でも嬉しそうに、しかし遠慮がちに口元がムズムズ動いている。
「私小さい頃から昆虫が好きで、だから虫の研究をするのが夢だったの。でも家では……、虫の話をするの、禁止されてるんだけどね」
「そうなの?」
とは訊いたけど、確かに虫が好きな人も珍しい部類に入るのだろう。羽田さんには悪いけど、家族が虫ギライでも納得はできた。しかも可愛い娘が気味悪い昆虫の世話なんかしてたら卒倒しかねない。
ご両親、気持ちは痛いほど分かる。けど。それなら俺はやっぱり羽田さんを応援したい。
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