二十一日目 オオムラサキ

 いや、俺だってそうそう同じことは繰り返さないだろう。まさかまた閉め忘れるなんてことはないはずだ。実はいままで閉め忘れていたわけではないが、恐怖でいつも最後はおろそかになってしまうのだった。結果的に俺に災いが降りかかっているので自業自得ではあるのだが。


 でもさすがにそんなことはもう――。


「そうなるだろうとは思ったよ」


 ねぇ、なんで蝶ってそんなに素早いの? いじめ? いじめなの?


 開けた瞬間飛び出してきて、思っていた通り俺に抱き付いてきやがった。もう疲れてるんだよ。今日、俺は雑木林まで行ってスズメバチに襲われかけたんだ。明日だって早いのに。


「主様、やっとこうすることができ申した」


 確かに最近側に居なかったもんね。でも俺的には別に問題ないし、何ならもっと離れていても良かったんだよ?

 腕に絡んで顔を埋めてくる。できればそれは人間の彼女にしてもらいたい。彼女居たことないけど。


「ですが主様! またおひとり女子(おなご)を連れ帰ったのでありんすか!?」


 お前にはあの立派な大胸筋が見えなかったのでありんすか? あれが女性に見えたのなら貴女の目は節穴です。頬を膨らませて怒っているが、毛ほども申し訳ないとは思わない。


 とはいえ俺の周りにライバルが増えるのがイヤなんだろう。でも言っておく。どう間違ってもお前らを選ぶことはないから。


「あのさ、その心配はしなくていいと思う」

「お心に決めた相手はわたくし、ということでありんすね!」


 都合よく解釈しないで。君たちに耳はないのか、耳は。……昆虫の耳ってどこ?

 それとも脳の問題なのかな? 俺は多少の哀れみを込めてオオムラサキを見てやるが、彼女は露ほどにも思っていないようだった。嬉しそうにまた顔を染めて、俺に寄りかかっている。


 あぁ、いや、いまはそんなこと気にしている場合ではない。


「餌持ってきてやったから、早いトコかごに戻ってよ」

「もう! せっかく会いに来てくだすったのに、そのような物言いをするものではありんせん! 夜はこれからなのですよ?」


 そんなしっとり見つめないで。そしてそんなにくっつくとイヤでも豊満な、胸が……! しかし今日はつくづく縁があると見える。俺だって嫌いじゃないけど、本物の、人間のおっぱおが良いです。ちなみにいっぱい、の『い』を『お』に変えても別に変なものにはならないからね!?


「わたくしをほったらかしにしていた罰でありんす! 今晩は寝かせませんからね!?」


 寝かせてくれー。再三言うが明日は大切な用事があるんだ。お前らに付き合っていられるほど暇じゃないんだって。


 早起きは得意な方だけど、夜更かしは苦手なの。羽田さんとの約束の時間に遅れるかもしれないだろ!? いや、もしかすると俺の家まで迎えに来てくれるかも……。それはそれで、最高にきゅんってなる。


「いやいやいや! 男として女子を炎天下の中待たせることは! ……しかし、姉貴はまだ風呂だし、誰も救ってくれないのね」


 自身の境遇を悲しく思う。子どもの頃なんて覚えてないし、口が滑っただけなのにずっとこんなことになるなんて思ってなかったんだ。男はいつでも騎士(ナイト)になりたがる癖で、怖がっている家族を守ろうとしたんだろう。でも実は男の方がビビりだ。


「主様、さ、お布団へ参りましょうか……」

「って参らない! 参らない! 俺のカラダだけはこれからも守っていくからね!?」


 なぜ布団なのかはこの際ツッコまないでおこう。面倒なことになりかねないから。


 もし姉が何らかの事件に巻き込まれたとき、最悪見捨てても構わないが、俺の、俺だけのカラダは誰にも渡しはしない。虫の話を信じ切っているわけでもないが、これ以上人に近付くと困るだろう。人類がいつか昆虫に支配されてしまうかもしれないじゃないか!


 だからいま近くに居るヤツラだけじゃなくて、これからも死守し続けなければ! ……あれ、これってけっこう人生ハードモードなんじゃないの?


「そんなぁ。他の子にはおカラダを許しているというのに、わたくしには下さらないのですね?」

「いいや、許してない。許してない」


 確かに最近は甲虫類ばかりくっつけているが、それも好きでやっているわけでもない。カラダどころか心も許しているつもりはなかった。うぅん、逆か?


「でしたら、やはりわたくしが一番ということでありんすね! 嬉しい!」

「ヒーッ!」


 違うのに! でも大迫力のお胸には敵いそうもない。抱き付いている間は人間の女性に見えているし、何ならこのまま引っ付けておけば――、いや止めよう。背中の翅に目が行って、妙にリアルな鱗粉に拒絶を覚えた。


 俺は昔、オオムラサキにも樹液成分を与えていたのだろうか。そんなこともう覚えてないよ……。


「ねぇ、主様。わたくしにはあまり時間がないのです。一生のお願いがございまして」


 何? 妙にしんみりして。あ、分かったぞ! こういうときってだいたい俺のカラダを舐めさせて、とか吸わせて、とか言ってくるんだ。そんなの絶対に叶えてやらないからな!?


「どうかわたくしに、主様の御子を宿させてくださいませ」




 結局のところ、俺は一睡もできなかった。だってあんなこと言われたらさ、あることをせずには居られないでしょ? 俺は肩で息をして、やっと訪れた休息を味わっていた。かすかに揺れるカーテンの奥から光が差し込んでいるので、もう朝が来たのだと悟る。なんてこった。


 汗で服が張り付いて気持ち悪い。夜とはいえ夏は暑いのだ。昨日は特に暑かったし、その気温をずっと引き摺っていたと思えた。こんなことならリビングでも冷房を入れておくんだったよ。もう寝るだけだろうと思って切っていたので、部屋の温度は上昇するばかり。しかし電源を点け直す余裕は微塵もなかったのだ。

 オオムラサキも疲れたのか、壁に止まって動かない。昨日はお楽しみどころか、大運動会だった。激しかった。


 だってあんなこと言われたら、逃げ惑うしかないじゃないか! 一生懸命捕まらないように逃げて逃げて逃げまくって、気付いたら朝になっていたのだ。


 俺の純潔が虫ごときに失われて堪るか!


「あらぁ、幹くん今日は早いのねぇ」


 母さんだ。もうそんな時間? 結局姉貴は戻ってこなかったな。俺が代わりに奮闘していたというのに薄情な人だ。


「あ、あぁ。俺、今日は用事が……」

「今日も練習なの? じゃあたくさんご飯作るわね」

「いやぁ、今日は練習じゃなくて、ふわぁ、羽田さんと図書館に……」


 げっ、いけない! そんなこと言うんじゃなかった。母さんの目が輝いている。眠くて頭が回らなかったのだ。つい口が滑ってしまった。


「まぁ! まぁまぁ! 図書館デートね! お母さんもお父さんと付き合っていたとき良く行ったわぁ」


 いや、あの図書館できたの俺が小学生低学年くらいだったと思うけど。あー、まぁ別の図書館もあるにはあっただろうから不思議ではないか。それでもそんな思い出の地、みたいに語られても困る。


「い、いや、そんな良いもんじゃ……」

「だったら今朝はウナギね! たっくさん食べていきなさい!」


 わーお。俺のために朝からウナギを出してくれるらしい。それは嬉しいけど、そんなに食べれるかな?

 今日は不本意に徹夜してしまったし、めちゃくちゃ疲れているんだ。そんなの胃に入れられるかと心配していたが、やっぱり母さんの料理はうまくてぺろりと平らげてしまった。


 はっ! 違う違う! 精を付けたいわけじゃないのにぃ!!

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