十二日目 スズメバチ

 ほかほかの赤飯。もち米ではないものの、思っていたより美味しかった。子どもの頃はあんまり好きじゃなかったと記憶しているけど、時間って経つと何でも忘れちゃうんだな。

 姉の記憶も、できればすぐにでも抹消してくれたら、どんなに楽なのだろう。あのときの俺を見た姉の目は少し、少しだと思いたいが、蔑んでいたようにも感じる。


 夕焼けが射し込むリビングで、カーテンも扉も閉めずにいかがわしい行為を試みていたと見えたらしく、俺は体温が5℃ぐらい下がったのではないかと感じたほどだ。


「それでそれで? 橙子ちゃんとはどうなったのぉ?」


 訊かないでくれ。それ以上は何もない。というか何かをしようとか思ってない。


「ついに男になったんだな!」


 父さんも話に乗ってこないで。泣きそう。

 男って悲しい生き物で、息子の浮いた話にニヤニヤしながら酒を呑んでいる。息子の隠したい部分を想像して肴にするな。恥ずかしい。


「ホンット、サイテー」


 そしてお姉さまは俺にだけ聞こえるように言わないでほしい。でもそうだよね。俺ってばまだドキドキしてるもん。押し倒したわけじゃないけど、気まずい。

 お腹は空いてるはずなんだ。しかし思い出すとご飯が喉を通りづらくなる。


「……ごちそうさま」

「あら? もういいの? いつもはお茶椀5杯くらい食べるのに……、美味しくなかった?」

「3杯でも充分よ」


 うん、美味しくなかったわけじゃない。姉は悪態を吐いて俺の茶碗を見ている。俺も陸上始める前は普通の食事量だったけど、それじゃあ体力が付かないのでね。しかしその体力は走る分だけあればいい。


「橙子ちゃんによろしくねぇ。またおいで、って言っておいて」

「ぐぅ……!」


 そう、母は見ていない、あの惨事を。惨事って言ってしまうと羽田さんには申し訳ないけど、もっと申し訳ないことを俺はしてしまった。


 倒れると思って、思わず腕を掴んでしまったのだ。羽田さんの細い腕では俺を支えられるはずもなく、瞬く間に一緒になって床と平行になる。背中を強打したので変な気を起こすこともない。痛くてそれどころじゃないからな。


 でもやっぱり、俺を覗き込んできた羽田さんの顔は、思い出すと動悸を抑えられない。吊り橋効果ってヤツだよ、たぶん。


「も、もう俺、二階上がるから!」


 考えるな、考えるな! 変に意識したら次顔を合わせづらい。というか次があるのだろうか。羽田さんは気にしないでって言ってくれたけど、あのあと最悪な気分だった。姉貴の目線も冷たいし、夏なのに毛布を被りたい。隠れたい衝動もある。


「えっと……、お邪魔、しています」


 さすがにその場にふさわしくないとは気付いていたものの、それでも言わずにはいられなかったのだろう。言葉を切りながら、俺の腹の上で羽田さんは姉貴に言った。


「あぁー……、幹也の、姉です。お邪魔だったのはアタシかな」

「いっ! いいえ! あーっ、行かないでください!!」


 羽田さんには優しそうに答えたのに、俺には掛ける言葉もないのかそそくさと二階に上がろうとしている。待ってください、お姉さん。誤解しないで! 背中が痛くて身動きが取れないんです!


「いたっ」


 すると俺じゃなくて羽田さんの方から声が上がる。えっ、どこか痛めちゃった!?


「だいじょ――」

「どうしたの? 大丈夫?」


 そのときは姉が天使のように見えた。駆け寄った姉貴は眉をハの字にして、本当に心配している様子だ。もちろん心配されたのは俺じゃない、羽田さんだ。


「手首を捻っちゃったみたいで……、でもしばらく安静にしていれば大丈夫だと思います」

「そんな甘く見ちゃダメよ。女の子に傷でも残ったらどうするの!? ほら、こっちに座れる?」

「すみません……! ありがとうございます」


 姉は羽田さんを丁寧に起こして、テレビの前に置かれているソファに移動させた。やっと俺の上からは重さがなくなったが、代わりに痛みがまた込み上がってくる。一旦どこかに消えたと思ったら、姉は救急箱を持って再登場した。てきぱきと湿布を一枚出して手首に貼っている。あらお姉さん、救急箱の場所なんて知ってたんですね。意外と家庭的じゃん。


 俺は自分の家の天井を見上げて、こうなっていたんだな、って改めて思う。人間、こういうときだと本当に呆然とするんだね。知らない天井とまでは言わないけど、ダイニングの電球をこんなに見たのは初めてだ。


「はい、できたよ。あまり動かさないようにね」

「ありがとうございます! 嬉しいです」


 羽田さんは左手首に貼られた湿布をさすってはにかんでいる。利き手じゃなくて良かった。でもあれって俺が巻き込んだからだよな。とっさのことで、たぶん受け身に失敗したんだ。あぁー、ごめん。めっちゃ罪悪感。


「ちょっとアンタ! いつまでも寝っ転がってないで、ちゃんと謝りなさいよ!? 何があったか知らないけど、最低な真似はしないでよね!?」


 ……はい、ごもっともです。痛む背中に喝を入れて、何とか起き上がる。羽田さんは寝てた方が良いって言ってくれたけど、そんなことはできないよ。


「アタシは救急箱(コレ)片付けてくるから、これ以上変なことさせちゃダメよ」


 キッと目を吊り上げて、釘を刺される。そうですね、節々が痛くてそれどころでもないけれど、でもごめんなさいは言うべきだ。


「あ、あの、その、ごめん。痛かったよね?」

「そんなそんな! 大丈夫だよ! 私だって、黒木くんに近付きすぎちゃったし……、びっくりしたよね……? 私ったら、昆虫のことになると、周りが見えなくなっちゃって……」


 それは確かにそうだけど、でも気にすることじゃないと思う。さっきのは俺が完全に悪いんだし、羽田さんが気にすることじゃ――。


「ごめんね、私帰ります! その、こっちはほんとに気にしないで! むしろ、その、背中ごめんなさい! それじゃ!」


 だけど俺がフォローするより先に、羽田さんは早口で、自己完結した別れの言葉を告げる。申し訳ないのか、眉を下げて泣きそうな顔をしていた。


「えっ!? 待ってよ!? いった!」


 激痛で追い掛けられない。玄関が閉まる音がして、俺はひとりの世界に取り残された感じがする。そういえばいままで忘れていたけれど、昆虫たちは珍しく驚いたのかそれぞれ壁に張り付いていた。おかげでしばらく人間同士の会話を楽しめたよ。最後はなんだか煮え切れなかったけど。


 結局のところ、羽田さんはお茶に一回も口を付けなかったので、すっかり冷めたあとで俺がいただくことにする。


「ねぇ、アンタ。さすがにそれは、引く」

「ぎゃー! 違います!!」


 背後に迫る姉の気配を感じ取れず、叫びをあげた。もったいないから飲んでいただけであって、イヤらしい行為など一切していない。そんなこと、できるわけないじゃないか。羽田さんは、俺より昆虫が好きなんだ。


「彼女、帰っちゃったの? 寂しくて虫と遊ぶなんて、もっと寂しい想いをするわよ」

「それも違いますぅ……」


 しかしそんな俺を見かねたのか、姉は昆虫をひっ捕らえて虫かごに詰めてくれた。虫って空気読めるのかな。あれからは特に寄ってくるでもなくじっとしてくれている。


 でも寂しいのは合ってるのかもしれない。なぜか俺の心には木枯らしが吹いているようだった。



 そのことを思い出しながらベッドで転がっていたが、いつの間にか寝てしまっていたようだ。肉体的にも精神的にも疲労が溜まっていたらしい。次に目を開けたら、すでに朝日が射し込んでいた。


 あー、辛いな。というか背中が痛い。これじゃ走れないよ。いいや、ただの言い訳だ。でも今日はどうにも起き上がる気力がない。勉強でもしておこうかな。だったら今日は図書室に――、いや、行けないよなぁ。


 学校の図書室なんて、せっかく部活をサボっていく場所じゃない。だって高矢や虻川先生に会っちゃうかもしれないじゃないか。……それに、あの子に、合わせる顔がない。


「今日は、あっちに行こうかな」


 あそこなら、今日はたぶん居ないハズ。夏休みの宿題を詰めたカバンを担いで玄関を出る。いつものランニングコースを走ることなく、ただゆっくり歩いていった。今日はまだ涼しい。涼しいって言っても、暑いことには変わりないけど。早いところ冷房で涼みたい。俺だって起きていれば風邪を引くことはないんだよ。……寝なければね。


 オレンジ色の壁、はめ込まれた厚いガラス、隣には雑木林。図書館だ。

 うぅん、いざ来てみてはいいものの、お腹が痛くなりそう。そういえばこの雑木林にはミヤマクワガタのお父さんが眠ってるんだっけ。

 少しだけ、手を合わせておこうかな。



 だけどそれが間違いだった。どこに埋まっているのか分からないので適当に黙祷して手を合わせていたら、耳元でブンブン音がする。どこの暴走族だ!? 虫の翅みたいな音出しやがって!


「……え?」


 俺の周りに集っていたのは、黄色と黒の危険模様。それも大量に飛び交っている。どうしよう、怖い。虫だからってこともあるけど、こいつは本当に命の危険がある。


 ハチだ。それもデカい。これってあの、駆除番組とかで良く見るヤバいヤツ――!?


「スズメバチ、じゃ、ない、よね?」


 願いを込めて言ってみるが、それはたぶん叶うことはない。

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