十三日目 スズメバチ
マジか、マジかマジか。ど、どうしよう、変に動くと刺されるってテレビで言ってた気がする。だから下手に動けない。うっそー!? どうしよう!
戸惑っている間にもカラダの周りでぶんぶんウルサイ。ハチは大人しくお池の周りの野バラの蜜でも吸っててほしかった。でも可愛く花の蜜を吸う輩には見えないよね。こいつらって何食べるの? ……樹液かぁ。
俺に群がっているのだからそうなのだろう。もしかして人間を刺して食べたりはしないと思うが。
「ヒィッ!?」
正面にばかり気を取られていたら、横から迫ってくる一匹のスズメバチに気が付かなかった。右頬に留まられたと理解し、俺は目を瞑って、その鋭い針で肉を刺される幻想を思い描く。
絶対痛いだろう。刺されたら今後アナフィラキシーショックとかも気を付けないといけないかもしれない。
だけど毒針は、滑らかな指に代わって訪れた。
「あっ? えっ? ……痛く、ない」
「やっと、会いに来てくれたのですね」
「……はい?」
声のした方を見ると、長身な女性が俺に抱き付いていた。サテンの黒い手袋でなぜか顔を撫で回されている。は? いや、誰ですか?
うーん、でも正体はなんとなく分かるよ。貴女スズメバチでしょ? 背中に広がった翅があるもん。この個体に刺されるのは免れたものの、しかしながらいまだに俺の周りには彼女の仲間たちが飛び交っていた。
チラチラと辺りを気にしていたら、ハチ美女のねっとりとした声がかかる。蜂蜜のように粘り気があって、どこか甘い。
「あたしを見て。どうかあたしだけを、見ていてください」
そんな憂うような、どこか物悲しそうな目で見つめられたら、人生経験のない俺はあたふたしてしまう。姉貴とはまったく違うお姉さんの気質を浴びて、どうすればいいのか分からなくなった。
それでもスズメバチの言った通りに、彼女の顔を見つめている。優しく誘われているようだ。なぜか吸い付いて、離れられない。
「危ない!」
「え――?」
なんだって君は天使のように俺の前に現れるんだろう。傷付けたのに、こんな俺を助けてくれる。右手にはたわわに実ったビワを携えて、彼女はスズメバチの注意を引いた。
「そんな……、そんなことしたら! そっちだって危ないよ、羽田さんっ!?」
今回タイミングよく現れたのは、左手首に湿布を巻いた羽田さんだった。
「大丈夫! 私にはご先祖さまが憑いてるから!」
は? いや待って、ちょっと。そんないきなりスピリチュアル的なことを言われても困る。……お盆だから?
「ビワ娘……」
「ん?」
すると隣にいるスズメバチ女性は、謎の言葉を残して飛び立っていった。他のハチも羽田さんに集まってきている。ビワってそんな効果あるの? すごい、今度からハチに出会ったらビワ探してみよう。
ってそんな悠長なことを言っている場合でない。今度は羽田さんに命の危険が及んでいるじゃないか! そんな彼女は俺からスズメバチを遠ざけるべく、林の奥に走っていってしまう。
俺の脚力を舐めるなよ!? だてに陸上なんかやってねぇー!!
「羽田さん!」
「黒木くん!? 近付かないで! 危ないから!」
とか言われても、羽田さんを見捨てて逃げられるはずがない。でもどうしたらいい? ハチの壁のせいで思うように側に寄れない。
「それ、こっち放れない!?」
手元のビワを指さして、俺の方に投げてくれと伝えてみる。だけどそれは必死に拒否された。どうしてそんなに頑なにビワを離さないのだろう。それさえどっかにやってしまえば二人とも助かるような気もするのに。
「それはできないの! もうすぐ池だから、こっちに来ると本当に――っ、ひゃっ!!」
「羽田さん!? うわっ!?」
たぶん俺と話していて計算を誤ったのだろう。数学は、実は苦手だって言ってたし。どうでもいいけど、池の周りって滑るよね。受験生じゃないからこそ滑ることは許されている。しかも整備されてないのか、周囲に置き石のひとつもない。窪地に水が溜まっているだけに見えるのに、それでもそれなりに深かった。
俺の足の先から頭のてっぺんまで、水が溜まっている。人一人を呑み込むくらいの水かさだ。さすがに池に落ちた衝撃でビワは手元から離れたのか、俺の目の前で漂っていた。
そうだ、羽田さん! 彼女はどこに!?
そう思って泥が巻き上がった視界を掻き分けると、彼女は水面を険しく見つめていた。気を失っているわけではない。少し地面を蹴れば、すぐにでも上がれる距離だ。だけど羽田さんは浮上することはなかった。それどころか浮き上がろうとする体を一生懸命沈ませようとしている。
あぁ、俺はね、筋肉が多くて、あまり水に浮かないんだ。いわゆる、カナヅチってやつね。自慢の足も、水中ではどうすることもできない。でもゆっくり進んで、やっと羽田さんの側に寄ることができた。
持ち上げようとしたけれど、羽田さんは首を横に振って上の方を指す。ごぼごぼと水の音しか聞こえないが、その上空にヤツらはいた。スズメバチだ。まだ何かを探してぶんぶん飛び回っている。怖ぇぇー!
そうか、羽田さんはハチが諦めてどこかに行くのを待っているんだ。こうして静かに待っていると、小さな影たちは、どこかへ消えていくのが見えた。
「ぷあっ!」
「ごふっ! はぁはぁ」
一瞬だったのかもしれないが、緊張と息苦しさで数年寿命が縮んだと思う。整備されていないと思ったけれど、反対側の方はきちんと土手があった。なんだよ、滑り落ち損じゃないか。
「羽田さん、大丈夫? 助けてくれて、ありがとう」
「ううん、まさか同じところにいるとは思わなかったよ」
「は、はは……。そうだよね」
俺は昨日のことを思い出して気まずくなる。早いところ上がってしまおう。こちらが先に上がれたので、引っ張ってあげようと腕を伸ばしたら、服が透けているのが目に入った。
「ぐはっ!」
あれ、おかしいぞ? 今日は涼しいはずなのに、水も嫌ってほど被ったのに、顔が熱くなってきた。見ちゃいけない! このまま上がったら羽田さんの、し、し、下着が……!
「どうしたの?」
「あっ、いやっ、その……! ちょっと待ってて!」
理由も告げずに走り出す。超特急で走れば往復でも20分はかからないだろう。水分でシャツが張り付いて重いが、涼みグッズだと思えばちょうどいい。
お願いだから羽田さんが誰にも見つかりませんように! 変な輩に捕まったらヘンタイだ。いや違った、タイヘンだ。
汗と池の水が混ざり合うくらい経って、家に着いた。玄関を開けるとバイトに出かけようとしていた姉と鉢合わせる。
「どしたの? そんなにびしょ濡れで」
濡れては堪らずと姉は身を引く。これから仕事に出かけるのだ。そりゃあそうだろう。でもごめん、俺も、女の子を守らなきゃいけないから!
姉の肩を掴んで、必死に詰め寄る。
「お姉ちゃん!!! 下着貸して!?」
「はぁ!?」
姉の平手打ちは、スズメバチより痛いと思う。
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