十日目 カブトムシ

「掃除だけはやっときなさいよ?」

「はい、ありがとうございます。お姉さま」


 取りあえず姉はカブトムシのかごにミヤマクワガタを放り込んで、オオムラサキを格子の虫かごに戻した。ムネアカオオアリは外に逃がしてくれたようだ。

 やっと緊張から解放されて肩を落としたが、姉の言葉に再び気合を入れ直させる。


「でも姉ちゃん、今日は遅くなるんじゃ……?」

「あぁー、それね。今日は思ったより暇だったから、時間短くしてもらったのよ」

「そうなんだ。今日、暑いもんねー……」


 姉弟だというのになぜかぎこちない。先ほどミヤマクワガタよりもらった情報が多くて何を話していいのか分からないのだ。誰にも相談できないってツラい。


「キッチンの窓が開いてたみたいよ。あそこの小窓」

「お、おう。そっか、教えてくれてありがとう」


 何か言いたげにしている俺を気にしたのだろうか。姉貴はひとつの疑問を解決してくれた。見れば、換気のためにキッチンに備え付けられていた小窓が少し開いている。子どもならギリギリ通り抜けられそうな幅だ。だけど数枚のガラスの板が重なっていて、誰も出入りできないようになっている。


 虫なら、話は別だが。


 というかしれっとミヤマクワガタは飼われている感じになっているけど、良いのだろうか?


「あー、あのさ。俺、去年、クワガタってくっつけてきてたっけ?」

「……一のこと?」


 ハジメ? ハジメってなんだ? あー、去年の虫! って、え、去年第一号ってクワガタだった?


 怖くてあんまり覚えていない。少女に見える以外の物体はほとんど見ていないから。もしそれがミヤマちゃんのお父さんなら申し訳ないことをした。


「えっと、オスのクワガタだよね? それってどうしたっけ?」

「はぁ? そんなのもう売っちゃったわよ?」


 そりゃあ、そうか。もうここに居ないもんね。あー、ごめん。虫の姿ながらも睨まれている気がする。


「じゃあ、どこに?」

「覚えてないの? いつものペットショップよ」

「あぁー。なるほど」


 売るってなったらそうだよな。仕方ない、明日行ってみるかぁ。そうしたら満足して一匹くらいは帰ってくれるかもしれない。




 そう、思ったんだけど。


「えぇ? 去年のミヤマクワガタ?」

「そうなんです。残って、ないですかね?」


 店主はあごひげを弄りながら、申し訳なさそうにこちらを窺っていた。うーん、と唸っていたが、彼はちゃんと教えてくれる。


「去年買い取ったヤツはもう売れちゃったし、それに……」

「それに?」

「ミヤマクワガタなら、もう死んでると思うよ」


 えええーっ!? ウソでしょ!? 俺の努力はなんだったの? ……いや、それほど努力はしていないけど。どうしよう、似ているヤツを買ったってバレるよね?


 俺には分からないけど、向こうは顔だって知っている仲だろうし、すり替えても絶対に分かるだろう。昆虫の方も、もしかしたら人間の顔は全部同じに見えているのかもしれない。


「ミヤマクワガタはね、クワガタの中でも寿命が短いんだよ。新しい個体なら入ってるけど……、急にどうしたの?」

「あっ? い、いえ!」


 親父さんはどうでもいい雑学を吹き込んでくる。どうしたものか。しかしミヤマちゃんはお父さんの死に目に会えなかったのか。それを考えると悲しくて、申し訳なくなってきた。望んでいない体質だとはいえ、間接的に俺が引き離したようなものだ。でも向こうが勝手についてきたんだぞ!? ……ごめん、謝るよ。


「大丈夫かい?」

「あー、はい、……大丈夫です。ありがとうございます」

「こんにちはー。おじさん、今日は――っ!? 黒木、く、ん……?」


 この場に似つかわしくない女の子の声がしたので、昆虫娘かと思ったら違ったらしい。夏制服の白いブラウスが眩しく夕日に照らされている。棒タイは涼やかに胸に下がり、俺と同じ学校のものであることを表していた。その丸眼鏡と三つ編みは、確かに見覚えがある。でも、どうして君がここに……?


「羽田、さん?」


 あっ、そっか。虫だけ売ってる場所じゃないしね。ここの店主は虫が好きだから若干特化してるけど、犬や猫、鳥の餌なんかもあるし。思わぬところで会ったので、羽田さんはびっくりした顔をしている。そんな、幽霊に遭ったみたいな顔はしないでほしい。


「あー! 橙子ちゃん、いらっしゃい! いつもの昆虫ゼリーでいいよね!?」

「え? えっ!?」


 羽田さんは赤面して下を向いた。そうか、分かったぞ! 家族が、兄弟か誰かが飼っていて、買い物を頼まれたんだな!?

 え、そうだよね……?


「知り合いなの? 虫好き同士、仲良いねー! そうそう、去年のミヤマ、買っていったの橙子ちゃんだよ?」

「はっ!? ええ!?」


 俺はおじさんと羽田さんの顔を交互に見返す。待って、ミヤマクワガタを買ったのが、羽田さん? 頼まれて、買ったのかな? そんなの欲しい本人が行けばいいじゃん? わざわざ人を使ってまで……、んんん? となると、どうなるの?


「橙子ちゃん、あのミヤマ、育てたの黒木さんのお宅なんだよ」

「えっ? えっ?」


 そうだよね、いきなり言われても意味分かんないよね。どうかそれをそのまま、虫好きの家族に伝えてくれ。あぁでも、変に噂されると後が辛いかもしれない。


「あの子、黒木くんが育てたの!?」

「い、いやー……」


 正確に言えば少し違うのだけど、ずずい、と詰め寄ってくる彼女の目はなぜか真剣だった。あれー、おかしいなー? もしかして、もしかしなくても、虫好きなのって、羽田さん自身?


「黒木くんも虫が好きなのね!? じゃああのときのバナナとカルピスって、もしかして蝶もいるってこと!?」


 違う。蝶がいることは認めよう。でも虫が好きなのは断じて違う。どうしてこうも誤解されるのか。


「あー、やー、まー、オオムラサキは、いるけど……」

「やっぱり! 気になってたのよ!」


 それでどうして蝶に行き着くのか。昆虫女子の想像力は豊かだ。


「今年はカブトムシもいるんだよな?」


 止めて、おじさん! これ以上拍車を掛けないで!? ほら、羽田さんってば、さらに目を輝かせてこちらを見ているじゃないか。

 カブトムシといえば王様だ。海外にはもっとデカいヤツもいるが、都会で採れるのは珍しいのだろう。


「ふぇっ!? カブトムシ!? 幼虫から育てたの!?」

「いや、どっかから、迷い込んできたんだ」


 そんな羨望の目で見られたくない。思わず俺は顔を反らす。羽田さんって、昆虫好きなんだ……。いやでも、これはチャンスじゃないか? 羽田さんなら要らない虫を育ててくれるかもしれない!


「あのさ! 羽田さん、カブトムシ、見に来ない!?」




「お邪魔しまぁす!」


 これが本当にあの優等生、羽田さんなのだろうか。にこにこと嬉しそうに男の家に上がり込んでいる。でも今日はちゃんと母さんもいるし、何もやましいことはないぞ!


 ちなみに昨日帰りが遅かったのは、買い物帰りにママ友とばったり会って話に花が咲いたらしい。もっと早く帰ってきてほしかった。


「あらあらぁ、お友達?」

「初めまして、クラスメイトの羽田 橙子です! これ、つまらないものですが」


 良くできた人だ。途中スーパーで何か買い物をしていると思ったら手土産だった。俺は肩を竦めて、この後のことを思い浮かべる。果たして手土産が要るような行事だろうか?


 あ、あのね! 別に変なことはしないって!


「あらまぁ! お気を遣わせてしまったようで、ごめんねぇ。上がって上がって! お茶を用意するわね!」


 しかし母は何か違うことを察したようだ。意気揚々とキッチンへ向かったと思ったら、手には茶葉じゃなくて冷凍小豆を持っている。赤飯か……、典型的な母親だな。


「じゃあお言葉に甘えて、上がらせてもらうね。黒木くん」


 うわぁ、でもいま、最高に青春っぽい。

 きゅんっ。あれ? 俺いま何か――?

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