六日目 ムネアカオオアリ

 虫の餌だと思ったら、本当に虫の餌だったらしい。丁寧に虫かごに置かれたそれは、俺が買ってきたバナナとカルピスだ。蝶ってそんなの食べるんだ。正確には、吸う、か。オオムラサキはすぐさま小皿の淵に乗り、口吻を伸ばして吸い上げている。改めて、あんな口でカラダをどうにかされないで良かったと思った。


「アンタも飼う気なら、餌の作り方くらい覚えなさいよね」


 そんなこと言われても。もともと飼う気は全くないんですが。それでも覚えなきゃなんないのかなぁ。


「ま、しばらくは大丈夫だとは思うけど」

「そう……、良かった」


 それならば心置きなく晩飯が食べられる。食卓の近くに虫かごがあるだけで気まずいのに、これ以上母さんの手料理をまずく感じさせないでくれ。本当はめちゃくちゃ旨いんだぞ!?


 それから数日間は特に何もなく平和な日々だった。汗もこまめに拭いているし、網戸だって閉まっている。よしよし、順調だぞ!

 俺だって常日頃から虫に襲われているわけじゃない。だけどあの日は油断していた。俺のカラダに集る虫に、不覚にも気付かなかったのだ。




 陽射しが暑くて、コンクリートの上には陽炎が揺らめいている。今日は休日で陸上部の練習はない。俺は自主練で走り込みをしていたが、どうしても暑くてコンビニでアイスを買った。涼しいはずの朝に出かけたのに、もう全身ビショビショだ。近くのベンチに腰を下ろして袋を開けたが、すでにちょっと柔らかくなっていた。


「いっけね、溶けるの早……」


 棒から指を伝ってバニラが垂れる。地面に白い水滴を作っていった。


「あれ、黒木くん? 久し振り」

「羽田……さん」


 ふんわりしたワンピースに身を包んだ彼女は、重そうな荷物を肩に提げている。そう言えば練習後はいつも疲れて、図書室に行けず仕舞いだった。今日も勉強かなぁ。よくやるよ。……と思ったら隣に腰掛けてくれる。あっ、スルーじゃないんだ。嬉しい。


「暑いね、汗びっしょり」

「あー、うん。いままで走ってて、……臭くない?」

「そうだったんだね! 大丈夫だよ」


 笑いながら答える羽田さんに、ほっと胸を撫で下ろす。やっぱり女性は優しいほうがいいよね。俺の周りには強い女がいすぎる。話に気を取られていたら、またアイスが垂れてきてしまった。急いで手元に目線をずらし食べようとするが、


「ひぇっ!?」


 俺の腕を掴んでいたのは、小学生くらいの幼女だ。頭頂にはアホ毛が二本、触覚のように飛び出している。暑いのか、この子も額に汗をくっつけていた。可愛いくりくりした目で、なぜか俺は睨まれている。いまどきないような体操着とブルマ。しましまソックスは、とある層にダイレクトアタックだ。

 いやそんなことどうでもいい。幼女の背中にはその背丈ほどもある翅と、お尻には楕円形の枕みたいなのが生えていた。


 あぁ、この子も、虫なのね。


「ど、どうしたの? いきなり……」


 隣で座っていた羽田さんが驚いて身を反らしている。ごめん、見えるわけないよね。俺を睨んでいる幼女なんて。


「い、いや、虫がさ……」


 たぶんここに居る。そう思ってアイスを持つ手を示した。あ、でもごめん。気持ち悪い虫だったらどうしよう。俺には人間に見えているので、たまに変なのをくっつけてしまうときがある。


「ムネアカオオアリね! でも翅が生えてる。こんな時期に結婚飛行は行わないはずなんだけど……」

「えっ? アリ?」


 なんだ、アリくらいなら俺でも払いのけられるね。でも変に潰れたらどうしよう。考えるうちにアイスは溶け落ちていく。

 翅生えてるけどアリなんだ、この子。


「あの! これ、ください!」


 幼女は手首を掴んで離さない。ますます目を険しくして、きゅっと唇を結んでいた。これってなんだよ、俺には黒木 幹也って立派な名前があるんだぞ!?


「溶けたアイスに引き寄せられちゃったのかなぁ?」


 あっ、そっちか。そうだよね、アリだもんね。樹液なんか吸わないか。頬をぷくっと膨らませて、紅潮した顔でこちらを見ている。暑いんだろう、だったら冷たいアイスは持って来いだ。


「じゃあ、これあげたら帰ってくれるかな?」


 その質問はアリ幼女にも羽田さんにも、どっちも答えられるものだった。我ながらナイス。幼女は目を輝かせながら満面の笑みを作っている。八重歯が可愛い。


「黒木くん、優しいね。ちょっと分けてあげてもいいかもよ」

「そうかなぁ。じゃあちょっと――あっ!」


 優しいって言われて油断したんだ。残っていたアイスは全部、ずるりと落下する。羽田さんの目には、ちゃんと地面に落ちたと見えてほしい。


 だって、ねぇ……。落ちると思って幼女もアイスを追ったのか、ぺたんと座り込んでしまった。お約束のように俺の手は掴んだままなので、姿も虫に戻っていない。


 幼女の滑らかな太ももに、バニラアイスが零れ落ちる。


「やんっ、冷たぁい」


 アイスが冷たくて良かった、切実に。赤茶色のブルマとハイソックスの間、絶対領域と言われる部分に白くて冷たいものは液体となって滑り込んでいる。

 あっ、駄目駄目。そんな声上げないで。


「――っ! ごめん、もう行かなきゃ!」


耐えきれず俺は腕を振り切って、この場をあとにした。




 いま思えば腕を振るうだけで良かったのかもしれない。だって羽田さんには今度何か奢ろうと思ってたんだ。彼女にもアイスの一本や二本、買ってあげてもよかったかもしれない。


 でもさ、属性はないにしても幼女にそんな声出させちゃ駄目でしょ。あれ? でももしかして昆虫が人に見えるのが俺の幻想であった場合、願望だったりするのか?


 悶々としながら帰宅して、冷たい水で顔を洗う。熱した頭にはちょうど良かった。もうあの幼女には出会うこともないだろう。だって、不本意だったけどアイスの残りを全部あげたし、もう大丈夫――。


「へぇ?」


 鏡に映ったのは、マヌケな声を上げた俺。そしてもうひとり。いやもう一匹……?


 あのアリ幼女だ。え? なんで? どうして?


「あのぉ……」


 申し訳なさそうに幼女はおんぶされている。なんてことだ。本物の幼女だったら俺は誘拐犯だ。いやしかし、背中にいつ付いた?


「何度か話しかけたんですけど、聞いてくれなくて……」


 だったらこちらも申し訳ない。一生懸命走ってたから、耳の神経を研ぎ澄ましてなかった。


「投げられたら、背中に落っこちちゃったみたいなの」


 投げられた? 幼女を投げる趣味はないぞ? あー、いや待て。もしかして、振り払おうと思って腕を回したときか?


「はぁー……」


 気付いた俺はその場にへたり込む。全身から力が抜けた。本当に、何のために急いで帰ってきたんだよ……。虫たちは重さを感じないし、大きい虫は別だけど、連れ帰ってくることも確かに多々あった。


「……悪かったな。下ろしてやるから、家へ帰っていいぞ」

「あのね、お兄ちゃん」

「ん?」


「おうち、分からないの」


 あ。そう、なんだ。じゃあ帰れないの? マジで? めっちゃ困るんだけど。


「あー、じゃあ、会った場所に戻れば、おうち分かる?」


 幼女はうんうん、と首を縦に振る。おっと、それだと触覚みたいな毛が揺れて気持ち悪いぞ。みたいな、じゃなくて触覚なんだろうけど。想像するとさらに鳥肌が立つので、薄目で見ながら流すことにする。


「しょうがないなぁ……」


 俺はひとつ、気合を入れ直すと、脱ぎたてほやほやのランニングシューズに足を突っ込む。後で消臭でもしておこう。普段は思わないけれど、靴があったかいとこんなに不快なんだね。玄関をいつも整理してくれる母に感謝だ。


「じゃあ、しっかり掴まってろよ」

「うん!」


 アリ幼女はぎゅっと背中にしがみつき、元気よく頷いた。

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