五日目 オオムラサキ

 昨日姉に勉強はいくらでもする、って言わなきゃよかったよ。いやさ、本はいまでも好きだし、分からないなりに勉強も本来は苦痛でもない。だけど部活の後の図書館は、ただの涼しい休憩所になってしまう。寝ちゃうんだ、いつの間にか。


 朝練に行く前に姉に目を付けられてしまって、夏休みの宿題をカバンに詰め込まれてしまったのだった。


 だけど灼熱の外で時間を潰すわけにも行かず、従順に勉強をしに……、たぶん勉強をしに足を運んだのだ。


 古い紙と糊、インクの匂いが微風に乗って、俺の鼻をくすぐる。そうそう、本がたくさんあるところに行くと突然『お花畑』に行きたくなると聞くが、あれにも正式名称があって、青木まりこ現象と言うらしい。……誰?

 しかし、いまのところは大丈夫そうだ。


「黒木、くん?」


 腹の具合を確かめていたら、物陰から女子生徒の声が掛かった。本の束に隠れて、一度見逃していたらしい。

 丸眼鏡の女子は、同じクラスの優等生で……えっと、名前何だっけ?


「部活だった?」

「うん。ちょっと、ついでにね」


 頭を掻きながら脳みそをフル回転させる。夏休みでかつ部活帰りに立ち寄る生徒もいるにはいるだろうが、やはり数は少なかった。いまだって彼女とふたりきり。地味目だが、顔は整っている。意外と社交的で、クラスの中心とまではいかないものの、変に浮いて悪目立ちすることもなかった。


 だから名前を思い出せないなんて、すごく気まずい。


「でも、ちょうどよかった。さっさと宿題終わらせたくてさぁ。ちょっと教えてくれない?」

「いいけど、後で理解できなくても知らないからね」


 にこ、と笑って向かいの席を指さす。オレンジのシャープペンシルが太陽に照らされて眩しく光った。

 俺は指されるがままにその椅子に腰掛けカバンを下ろすと、彼女の教科書や参考書が目に留まる。ラッキー、名前付きだ。


「あの、羽田(はだ)さん――」

「ぶっぶー、残念。私はハダ、じゃなくてハネダ。羽田(はねだ) 橙子(とうこ)」


 なんてことだ。二択で間違えるなんて。勘は悪い方なのをいまさら思い出し、申し訳なくなる。


「ご、ごめん……」

「でもまぁ、あんまり話したこともなかったもんね。気にしないで、良く間違えられるし」


 苦笑する顔を見ると、ますますいたたまれなくなる。でも羽田さんは、気にするでもなく再度参考書に向かった。宿題と、それにプラスして勉強するなんて、なんて羽田さんは勉強熱心なんだろう。


「いや、ごめんね。なんか今度奢るよ」

「大丈夫だって。あ、これ宿題ね。もう終わってるから、分からないトコあったら訊いて?」

「えっ!? もう!?」


 思ったより声が反響してしまったので、俺は急いで口元を覆った。改めて周りを見渡してみるが、やはり誰も居ない。迷惑は、恐らくかけていないだろうと踏んだ。


「びっくりしたぁー。この時間だともう誰も居ないと思うよ。でも大声出すのは厳禁ね」

「ふが……」


 羽田さんには迷惑かけちゃったみたいだ。やっぱり今度なにか奢ろう。三つ編みを掻き上げながらまた彼女は紙片に視線を落とす。そんなに一生懸命になってまで、行きたい大学とかあるんだろうか。受験は来年だというのに、準備が早すぎる。


 この高校はスポーツも特化してるけど、勉学にも励んでいるんだよなぁ。時たま――うーん、いつも? 授業についていけなくなるので、俺はスポーツ推薦で何とかしようと考えていた。行くかどうかは別として。

 ――っていうか大学ってスポーツ推薦あるの? やべ、知らないわ。今度高矢に訊いてみよ。


 勉強は適当だけども、期限を過ぎるのは良くない。分からないなら分からないなりに何かしら努力はしないと、例え少しだとしても身には付かないだろう。


 ありがたく羽田さんから貸してもらった宿題をペラペラとめくってみる。すごい、本当に全部埋まっている。いやいや、さすがの俺でも答えを丸写ししようなんて、そんな、そんなことは微塵も……、すみません、考えてました。そもそも高校生にまでなって宿題とかだるい。

 でもこれを丸写ししても、自分には何が書いてあるか理解できない。マルはもらうが、それ以上はないのだ。だから諦めて、秀才の彼女に頼ることにする。


「ねぇ、羽田さん。悪いんだけど、全部、教えてくれない?」



「それで、これがこうなって……」

「あー、なるほどねっ」

「……本当に分かってる?」


 怪訝そうに、羽田さんは覗き込んでくる。何度教えられても同じ答えにならないので、俺は首を傾げていた。ヒーローだった小学生からやり直した方が良いかもしれない。おかしいなぁ、本は好きなんだけど。


 体育を抜いて全教科オール2の俺には隙がないぜ。1じゃないところがチャームポイントだ。ちなみに5段階評価だぞ。そこまでバカではない、たぶん。


 結局夕方まで羽田さんに付き合ってもらって、進んだのはだいたい3ページ。ねぇ、まだあと4教科残ってるんだけど?

 それでも俺はまだ楽な方だ。教科専攻してないからな。羽田さんは数学を専攻しているようで、ページの全てが答えられている。


「しっかし、すごいな、羽田さんは。もう宿題終わらせたんだよね」

「うん、何とかね」

「いやでも、昨日の今日だよ? いくらなんでも早すぎだよ」

「そ、そうかなぁ? やりたいことがあったから、本当は、急いで終わらせちゃったんだ」


 照れるように口元を参考書で覆う。そこにも数学の文字があった。


「やりたいことって、数学の勉強? 数学が好きなんだね」

「うーん……、好きというか。逆に苦手なんだよね」

「はぁ!? これで!?」


 また図書室で大声を出してしまった。今度は、奥から顔を出してきた司書のおばさんが咳払いをしている。夏休みの間はこの人が本の守護者らしい。


 だったら、無理に勉強しなくてもいいのに。と、俺は感心する。他にもたくさんの参考書が並んでいるが、どれも良く使われているようだった。こんな本を買ってまで勉強しようという気はない。


 そのとき、俺のスマホが揺れた。姉からの着信だ。まずい、すぐ出ないと殴られる。


「やっば、ちょっと電話」


 羽田さんに断って、図書室を出た。途中でおばさん司書と目が合ってしまったので、気まずいながらも軽く会釈してごまかす。扉の外でやっと通話ボタンが押せた。


「もしも――」

『遅い、グズ! お姉ちゃんが電話してやってるんだから早く電話に出なさい』

「ご、ごめん。でもいま図書室で勉強を――」

『ちょっとバナナとカルピス買ってきて』


 あなたに言われたから、ちゃんと勉強してたのに……! どうして姉はいつもいつも弟の話を聞いてくれないんだ!?


 バナナとカルピスね。はいはい、分かりましたよ。バナナはまだしも、ジュースはけっこうカロリー高いんだぞ!? 太っても知らないからな!?


「お帰り、大丈夫だった?」

「あー、うん。でもそろそろ帰らなきゃいけなくなって……。姉貴から、バナナとカルピス買って来いってさ」

「バナナとカルピス……? そう、なんだ」


 ちらと羽田さんは俺から目線を外した。何か変なこと言った? いや待て、いま思えばけっこう下品な会話だったんじゃない? これ。


 いやいや純情そうな優等生の彼女に、そういうことは察せないだろう。うん、目の端に埃かなんかが舞ってたのかもしれない。だけど俺はバツが悪くなって、そそくさと荷物をまとめた。


「あ、あのさ、また勉強教えてよ! 嫌じゃなかったらだけど!」

「うん、ちゃんと復習してね」


 念のため変なことを考えさせずに、次回顔を合わせられるための保険を作っておく。女子生徒にイヤらしいことを言ったなんて噂が広まれば、俺は終わりだ。

 別れ際の羽田さんの笑顔は、愛想笑いじゃないことを祈る。




「はい、買ってきたよ」

「あー、そこ置いといて」


 買ってきてやったのに、何だその態度は!? 姉はリビングでテレビに倣って、良く分からないヨガのポーズをしている。攻撃が一段階上がりそう。

 無防備な片足立ちなので、いまくすぐったらバランスを崩すだろう。後で足蹴(あしげ)が飛んでくるからやらないけど。


 ダイニングテーブルに買い物袋を置いて、その横にあるものに目が留まる。カブトムシとオオムラサキ。カブトムシはまだプラスチックの壁なので安心感があるが、オオムラサキは針金でできた格子の虫かごなので、飛び出した節足が白目ものだ。


 なんで捕まえて、って言っちゃったんだろう。自分を殴りたい。


「ここ置いとくからね!」

「はいはい」


 こちらを見ようともしない。しかし怒っても仕方がないので、俺は宿題の続きをすることにした。せっかく教えてもらったことが無駄になってしまう。

 だけど数字の並びを目撃した瞬間、俺は気を失った。




「――はっ!?」


 寝てた!? ウソ!?

 紙の上によだれの跡があるから、夢ではないのだろう。やっちゃったよー。全部抜けた。だけど腹は減るんだね。下からは良い匂いが上がってきている。今日はカレーじゃん。やったね!


 大きなあくびをしながら階段を降りたら、小さな皿を持った姉と鉢合わせた。でも中にあるのはカレーじゃない。またダイエットとかで別メニューなんだろうか。白い液体の中に浮かぶのは、半分に切られたバナナ。あまり美味しそうには見えない。まるで虫の餌だ。

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