四日目 オオムラサキ

「ただいまー」

「あねっ、いや、姉ちゃん!」


 バイト帰りで疲れた顔をする姉の足元に、俺は滑り込んだ。今朝と違ってバッチリ化粧をしている。この不愛想な顔で、聞いて驚け、バイトは接客業だ。いったい何枚の仮面を持っているのだろうと、半ば感心する。


「……アンタ、何やってんの?」


 正座する形となった俺は、かしこまってお願いをした。カブトムシは膝の上でお姫様抱っこよろしく居座っている。


「お願いします。またこいつを取ってください!」

「一号と一緒に遊んでたの? いくら大好きだからって、勉強くらいしなさいよ、アンタ」


 違う。断固として違う。遊んでたんじゃない、もてあそばれていたんだ。涙を飲んで懇願する。


「勉強はいくらでもしますから! お願いだから取ってくださぁい!!」

「こんな夜更けに大声出さないでよ、近所迷惑。……ほら、取ったよ」

「あっ!」


 力強く掴まれていたと思ったのに、姉が引っ張るといとも簡単に離れていった。少女は名残惜しい声を上げながら昆虫に戻る。そして姉に連れられて一号はかごにそっと置かれた。


 あぁ、一号? 今年はそんな名前にしたんだな。去年は一(はじめ)で、おととしはワンだったはずだ。姉は夏にやってきた虫を、種類関係なく捕まえた順に名付ける。そのネーミングセンスはあまりに安易だが、変に可愛い名前を付けて情が湧くのも避けたかった。

 だから虫には数字がちょうどいいのだ。でも一号、俺にはもう触れてくれるな。


「ちゃんと餌、あげてくれたんだね」

「へっ? あぁ、うん。姉ちゃん、バイトって聞いたから」

「逃げ出すかと思った」


 何だって? この俺が? 見くびらないでほしい。もちろん逃げ出したいに決まっている。だけど後で半殺しにするだろう?


「だって、あげないと死んじゃうし……」


 俺がな。だけどそんなこと口が裂けても言えるはずはなく、適当な体裁を取り繕って答える。確かに虫が死ぬのも、できれば避けたいけど。だって処理したくないじゃん?


「幹は、優しいね」

「は……?」


 空耳だと思った。小さい音だったし、それにいつも勝ち気で不機嫌な姉の口からそんな言葉が聞けると思っていなかった。背中越しだったのもあって、口が動くのも見ていない。

 不意に振り向かれて、俺は目線を逸らしてしまった。


「……何よ、その態度? まぁいいわ、もう夜も遅いし。さて、あたしもシャワー浴びて寝よ。アンタ明日も早いんでしょ? そろそろ寝なさいな」

「う、うん。……ありがとう」


 やっぱり勘違いだったのかもしれない。今日は疲れたのか、姉はソファに向かってぶっきらぼうにカバンを放る。


 そうか、分かったぞ! きっと守護霊だな!

 原因が分かってウキウキ気分で部屋に戻った。これで安心して寝られる。やっと電気を消してベッドに横たわると、すぐに夢の世界へ旅立っていった。




 遠くに鳥の声。朝だ。新しい朝が来た。希望の朝だ。でも視界は暗かった。ほのかに良い匂いがする。


「げふっ!」


 髪の毛じゃないか!? 誰だ、こんなイタズラをするのは!?

 顔に掛かった細かい髪の毛をどけてみると、胸の上には女性が横たわっていた。そうか、そうか、つまり君はそんなヤツなんだな?


 だって翅(はね)生えてるもん。見りゃあ分かるって。ふと窓を見ると、やはり開け放たれていた。このときばかりは、体質と筋肉を憎む。

 髪の毛に咳込んだ拍子で目を覚ましたのか、しなやかな女性の声がした。


「お目覚めでありんすか? 勝手に申し訳ありません。その、あまりにも魅力的で、……美味しそうでありんしたので」


 うん、分かってる。分かってるよ、お姉さん。でも、どいてくれないかなー。


 恥じらうように、年上に見える彼女は唇に白く細い指を当てた。切れ長だが決して細すぎない目に、長い睫毛の影を落とす。控えめに言っても美人だ。それに、その、覆い被さられているからなんでしょうが、胸筋に柔らかいものが当たって……。いや待て! 相手は虫だ! 虫なんだ!!


「そのぉ、早くどいてもらえませんか……?」

「いけない! わたくしとしたことが……、はしたなかったでありんすね」


 はしたない、とかそういう問題ではないんだけど。それでもすぐ体を離してくれる辺り、一号とは違って聞き分けが良かった。年の功ってやつ?


 俺から離れた彼女は黒い蝶になって、あちこちを飛び回っている。そのまま外に出て帰ってくれるかと思ったが、そこはそう簡単には行かないらしかった。耳元でバタバタうるさい。蝶、超怖い。


「お帰りは、あちらですが?」


 なおも目の前を右往左往する蝶は、よく見ると翅の外側が白、内側が黒だった。蝶、蝶ね。昆虫の中でも人気は高い部類だろう。収集されるくらいだし。カブトムシに比べればまだ――違う、そうじゃない。


「その、いつまで側に――うっ!?」


 訊いた瞬間、その蝶がまたこちらに向かってきたので、思わず俺は身構える。何もできず、ただ彼女に抱きつかれる形となった。


「主様(ぬしさま)! やはりこのオオムラサキ、主様と離れることなどできませぬ! どうか、どうかお側に置いてやってくださいまし!」


 ……これは、面倒なことになってきたぞ?

 日本髪が似合う着物の女性は、国蝶オオムラサキであった。でかい。別にイヤらしい意味じゃないぞ!? 身長が高いって意味だ!


 しかし彼女の恰好は男子高校生には刺激が強かった。白い着物の胸元はがっつり開いており、そこから魅惑の山と谷が少し顔を出している。なるほど、こういうのも……。


「主様? どうされました?」

「ひぃえ!? ナ、ナンでもないですヨ!?」


 だから虫なんだって! 騙されてはいけない。だって胸元が開いているのだって、背中にある肩甲骨を出すためなんでしょ!? そこから蝶の翅が生えてるから、折れないようにするためなんでしょ!?


 谷間なんて、虫にとってはただの飾りなんだ……。


「あの、離れてください! 俺は今日も朝早いの!」

「そ、そんな……。ではせめて、最後にお願いしたいことがありんす」


 よよよ、と打ちひしがれるオオムラサキは、国蝶だけあって日本人らしい奥ゆかしさがある。そんな彼女の最後の頼みなら、と俺は次の言葉を待った。


「そのおカラダ、吸わせていただいてもいいでありんすか?」


 前言撤回だ。蕩けたように舌なめずりをして、奥ゆかしさのかけらもない。待って、蝶の口ってどうなってた?

 丸まったストロー状であることを思い出し、吸われることは断固として拒否した。そんなものでちゅうちゅう吸われたら堪ったもんじゃない。


「駄目駄目駄目! 絶対に駄目!」

「そんな殺生な……! でしたらわたくし、主様のおカラダを吸い申し上げるまで、お側を離れません!」


 吸い申し上げるって何だ、吸い申し上げるって。吸われるのも側にいられるのも勘弁だ!


 カラダを振ると払うことには成功したが、こいつはひらひらと優雅に舞って離れない。蝶って捕まえにくいよね。しかも軌道が分かりにくい。いつの間にか前に回り込まれることも何度か経験した。

 ひー! だから気付かないうちに近付いてくるな!


 堪らず俺は階段を駆け下りると、今日は珍しく食卓にいる姉を見つけて、昨日の今日で懇願する。食事は相変わらずヨーグルトだ。


「幹くん、おはよう。まぁ、蝶々じゃない!」


 隣で朝食の準備をする母は、申し訳ないけどいったんスルーする。


「姉ちゃん! こいつ、捕まえられる!?」


 唇に付いたヨーグルトをピンクの舌で舐め取って、半目でじとりと睨まれる。しかし蝶に気付いた瞬間、眼球はその昆虫を追った。


「オオムラサキね、国蝶じゃない。大きいし、標本にしても売れるかしら」


 標本……!? 姉はたまに恐ろしいことを言う。いやだって、巨乳のお姉さんだったよ? ……俺の目には。


 蝶は危険を感じ取ったのか、俺から少しずつ離れていく。姉の鬼気は偉大だ。本当にお姉さま、さまさまである。


「でも、捕まえてほしいなら捕まえてあげるわ。ちゃんと面倒見るのよ?」

「え? いまなんて――?」

「よっ、と」


 いや確かに捕まえてとは言ったけど、その後のことは姉貴がどうにかしてくれるのだと思っていた。なんと蝶を素手で捕まえた超人的な姉は、俺に向かって言い放つ。


「かごも自分で取ってきなさいよ? 網々(あみあみ)のヤツ」


 姉の指の間で静かに固定され、やっと蝶は大人しくなった。その姿に胸を撫で下ろしたけれども、今度は姉にどうにかされそうなので、俺も大人しくかごを取ってくることにする。おずおずと二つ返事をして、玄関を出て納屋に急いだ。ガラガラと扉を開けて見ると、何個もの虫かごが転がっている。その中の格子状になっているものをひとつ、ひったくってまたリビングへと戻っていく。


 あぁ、良いように飼うように仕向けられているのかな?


 そういう疑問も捨て切れないけれど、どうしたって姉には逆らえなかった。

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