三日目 カブトムシ
「今年もご贔屓にしていますよ、黒木さん」
「は、はは……。どうも」
取りあえず50個入りのやつでいいか、とカブトムシの餌を律儀に購入してやった。ペットショップのおじさんは人の良さそうな笑顔を向けながら、丁寧に袋に詰めてくれる。ご贔屓、と言ったが、餌を買うだけの意味ではない。夏の間迷い込んだ昆虫を、ここに売っているのだ。
「黒木さんトコの昆虫は質がいいですからねー。同じ餌なのにどうしてなんだろうなぁ?」
「どうして、なんでしょうねぇ?」
俺は顔を引きつらせながら返事をした。明確な理由はないものの、もしや俺のカラダのせいかもと何となく思っている。一番安いものを買っているにも関わらず、俺ん家(ち)の虫はおじさんに喜ばれていた。ペットショップの親父は黒木家を、夏の間だけ昆虫を育てる家か何かだと勘違いしているようで、何かと仲良くしようと努めてくれる。姉も姉で、高値で売れるからと愛想よく接していた。普段からは考えられない。
小学六年生の頃、一度勘違いをして姉におじさんのことが好きなのかと訊いたことがあった。飛んできたのは鉄のようなげんこつだ。いくら女性とはいえ、さすがに痛かった……、痛かったぞぉ! それからというもの、俺は姉に恐怖しか感じていない。
「はい、おつり。おまけも入れといたから! また売るときが来たら言ってね、よろしく!」
「はーい……、ありがとうございます」
商品を受け取って、薄暗い店を出た。とぼとぼと家路に着く。すでに星が瞬いているが、できれば帰りたくない。でも遅いとまた姉にどやされるし、どうしたって帰らねばならなかった。餌だけ渡してあとは姉に任せよう。虫に対しては意外と面倒見が良くて、その愛情を少しでもこちらに向けて欲しいと思う。
「ただいまぁー」
へろへろになりながら玄関に尻を置いた。でかいため息をつき、うなだれる。せっかく汗拭きシートでカラダを拭いたのに、これでは台無しだった。夜でも蒸し暑く、額からはまた汗が噴き出している。
「幹くん、お帰りなさい。晩ごはんの準備できてるわよぉ」
奥から優しい母が顔を出す。母親だけど、母さんが居てくれるだけでけっこうな癒しだ。別にマザコンとか、そういうのではない。身近に優しい女性がいなくて、母性は母に頼るしかないのだ。
「あー、その前に風呂入ってくる」
このまま晩飯でもいいが、服が張り付くのが気になって味に集中できないだろう。烏の行水になるかもしれないが、まずは汗を流したかった。
「そうそう! だったらお風呂の前に、カブちゃんにもごはん食べさせてあげてね」
「――は?」
前傾姿勢から一転、仰向けに寝転がっていた俺は、その言葉にカラダを回し起こす。リビングに向き直り次の言葉を待った。姉貴はどうした? カブちゃんって、もしかしなくてもカブトムシのことだよな……?
「お姉ちゃんから電話あったでしょう? 今日はバイトで遅くなるらしいから、お風呂入る前にお願いできる?」
あの姉貴(おんな)はぁ! 重要なときにいつも姿がない。いや、でも今朝は助かった。餌やりくらいなら虫に触れなくてもできるし、これくらいは、これだけくらいはやってやろう。
……しかしやっぱり決意はいる。リビングの虫かごに対峙して、俺はごくりと、唾を呑み込んだ。いつの間にか土が敷かれたその中には、朝張り付いていた虫がうごめいている。おそらく姉が拵えたのだろう。こいつは何を思っているのか、カサカサと脚を動かして、透明なかごを登ろうとしているようだった。だから、こちらに腹を見せるな。
ペットショップがおまけしてくれた木には、いくつか穴が開いている。そこに餌のゼリーを詰め込んで蓋に手を置いた。お願いだから、飛んでくれるなよ。片方だけ留め具を外し、素早くのぼり木を放り込んだ。
「うっしゃあ!」
内心ビビりながらも、忌まわしい虫を出さなかったことに達成感を覚える。ガッツポーズをして小さく飛び跳ねた。ちなみにガッツポーズってのは、有名な元ボクサーから取られたんだ。スポーツをする者として、尊敬を捧げるひとりである。
しかし餌とはいえ虫を感じさせるものに手を触れてしまったので、俺は急いで風呂場に駆け込むことにする。
晩飯後、消化のために日課の腹筋と背筋を行っていた。今日は散々だ。窓だって勝手に開いてるし。しかしどうしてもクーラーはつけられない。筋肉は冷えやすいので、俺は夏場でもよく寝冷えして風邪をひく。
「ふわぁ」
疲れたのか、筋トレ後はすぐベッドに沈み込んだ。いけない、汗、拭かないと……。
けれど瞼は重く、指一本動かせない。世界が暗くなり、現実のような夢を見る。そこでの俺は起き上がってカラダを拭いていた。良かった。それに謎の安心感を覚え、有り得ない世界に引っ張られる。
駄目だ、起きてプロテインも飲まないと。タンパク質は大事だから。でもリビングに行くのかぁ。虫は見たくないなぁ。確かに可愛い女の子のほうが見ていてマシだけど、でもやっぱりあいつらはただの虫なんだよ。
「ね、いいよね……?」
誰だ? 小声で誰かが語りかけてくる。それは可憐な少女の声をして、俺に許可を取ってきた。ああ、俺も男だからな。そういった夢も、見ないではない。
「――って、駄目に決まってんだろ!!」
危なかった。俺の純潔が失われるところだった。少女は俺の腹の上に乗りながら、唇を尖らせている。
「何でよっ!? 減るもんじゃないし、ちょっとくらい良いでしょ!?」
「駄目ったら駄目! ていうか、どうやって出てきた!?」
胸の上だけ起こし、俺は抗議する。起き上がらなければどうなっていたか。血の気がさっと引いていた。
「どうやってって、幹也クンが開けてくれたんじゃない!」
「えっ……? もしかして、閉まってなかった?」
「今夜は良いよって合図かと思って……、来ちゃった」
来ちゃった、じゃねぇよ。照れるな照れるな。それ以上恥じらう様子を見せるんじゃない。
しかしあのとき、きちんと閉めなかった自分を呪った。眠気で頭が重い。呻きながら俺は再び倒れ込む。
「ふぎゅっ!?」
それでも分かるぞ。こいつらは目を光らせていないと直ちに吸いに来るんだ。だから俺はカブトムシ少女の頬をつまんで制止している。本当はあまり触りたくないが、虫の硬い表皮よりかはいい。
「餌、あるだろ? 帰れ」
「ここにね」
「違う! ゼリーのこと!」
こいつは……! ふざけるのも大概にしろ。俺のカラダは食べ物じゃない。ちぇ、と少女は残念そうに頬を膨らませた。空気が、指を少し押し戻す。
「だって、こっちの方が美味しそうなんだもん」
「あっちの方が栄養あるぞ、たぶん」
「栄養なんて必要ありませーん!」
「お前は一人暮らしの男か!」
せっかく家族が栄養バランスを考えてごはんを作ってくれていたのに、一人暮らしをした瞬間にカップ麺ばかりをむさぼるヤツがいる。いや、俺も好きな時間に間食とかしたいとは思うけど、いまはカラダ作りに励んでいるし、そういう暇はない。
何の話だっけ? そうそう、メニューを考えてくれる母には感謝しないといけないって常々思って――いや、違った。
「取りあえず、かごに戻ってほしいんだけど?」
「えー!?」
何を驚いている。当然のことだろう。人間と昆虫は相容れない存在なのだ。しかしこいつはじっと耐えて、動こうとしない。しばらくにらみ合って静かな火花を散らしていたが、そのときに玄関で鍵を開ける音がした。救世主が帰ってきたのだ。
「きゃっ……!?」
俺は急いで飛び起きて、カブトムシ娘をくっつけたまま階段を駆け下りるのだった。
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