二日目 カブトムシ

 顔を洗い終えると、姉がすでに風呂から上がっていた。地獄に仏だ。とても助かる。


「姉貴――いや、姉ちゃん……。これ、取ってくれない?」

「これ? これって何よ?」


 姉はダイエットするとかで朝はほとんどヨーグルトだ。いまだって椅子に腰掛けながら白い流動物を頬張っている。暑いのかタンクトップにショートパンツで、へそ出しの太もも出しのオンパレードだ。自分の姉なのに、なんていうか、その――そう! グラマラスだ!

 だけど目のやり場にはとても困る。


 まだ少し眠いのか、これ、それ、あれ、どれで説明されるのを嫌がっている。言われたものを目で追うのすら億劫らしい。


「いや、その……」


 嫌すぎて名前を出すのも憚れるので、俺はもごもごと口を動かすばかり。シャツを引っ張って昆虫を誇張し指を差したが、勢いあまって昆虫娘の頬を突(つつ)いてしまった。


「ひゃあ!」


 その変な柔らかさに少女のような声を上げてしまう。触ってしまったことにとてつもない後悔を感じ、俺は打ちひしがれた。


「何よ、ただのカブトムシじゃない」

「ふぇっ!?」


 姉は軽々と、俺を救ってくれる。まるで服に付いた糸くずをつまむように何とも思っていない。俺が何度も何度も虫を連れてくるので、もう慣れたと言っていた。


「ほら、取れたよ」

「あ、ありが――」


 姉は上目づかいで俺の顔を覗き込む。髪がまだ濡れていて、水滴が朝日に照らされて輝いて見えた。あ、いけない。この角度では谷間が――、


「あら、お姉ちゃんに取ってもらったのね!」

「か、母さん! そうなんだよ! 本当に、お姉さま、さまさまでさ!」


 はっきりとは見えなかったが、正直俺は胸を撫で下ろした。家族のそんな姿は見てはいけない。朝から変な気にあてられて、思春期には刺激が強かったのだろう。

 横槍を入れた母に慌てて焦点を合わせ、ぎこちない笑顔を作る。


「まったく、アンタはほんとに虫が好きね」

「違います!」


 体を起こしてくれたので俺は姉に向き直ることができた。まじまじと手元にあるものを見ている。少女の形をしていたそれは、一匹の虫となって、姉の指の間で暴れているのだ。


 それが、家族が驚かないカラクリだった。どうしてか少女の姿に見えるのは、俺に触れているときのみ。それも俺にしか見えない。他の人、それは家族も同じように、一律で昆虫に見えている。

 オカシイのは、俺の頭なのだ。


「ちっちゃいねぇ。これじゃあ売っても大金にならないかも」

「あらー、なら虫かご出す?」


 夏の間、カラダに付いた虫は、近くのペットショップに売ることになっていた。放しても結局戻ってくるし、売ればお金にもなる。それがいつしか黒木家にできたルールだった。そして売れないほど小さいときは、育ててみることもあった。


 あー、確かに小さかったなぁ。俺はくっついていた少女のある部分を思い出し、納得する。そう、俺はつるぺたには興味ない。


「また、飼うの?」


 だけど飼うのは勘弁だ。恐る恐る訊いてみる。毎年毎年、リビングに置いてある虫かごにげんなりしているんだ。しかし、姉には逆らえない。


「か、ね、の、た、め」


 そう、虫けらを見るような目でにらみつけられる。ついでにその手に持つカブトムシを、ずいと目の前に押し付けてきた。止めろ、昆虫の裏側は見たくない。……気持ち悪いから。

 この家では俺は、虫より下なのだ。とほほと肩を落としたとき、母が声を上げた。


「まぁ! もうこんな時間! 幹くん、朝練!」

「いっけね!」


 急いで朝食を掻き込むと、高校指定のジャージを羽織って出て行く。時間はギリギリでも、その言葉は渡りに船だ。これ以上気持ち悪い生き物に関わりたくない。


「行ってきます!」


 欲を言えばもう少し味わいたかった。捨てきれなかった魚の骨を口から取り出して、律儀にティッシュに包む。しかしポケットにしまってしまえば、それきり忘れることが多く、いつも母に小言を言われていた。最終的にはキレイになるんだから、それでいいじゃないか。


 指を舐め、細かい息を吐いて学校への道を駆け出す。ちょうどいい準備運動だ。汗を掻くことは、本当言うと好きじゃない。虫たちが余計集まって来てしまうから。そんな俺が陸上を続けているのには理由があった。


 逃げ足を鍛えるためだ。虫の羽根には勝てたことはないが、いつか人類が追い付かれないことを夢見ている。こちらへ向かってくる場合、いつも怯んじゃって足が出せないのは内緒だ。だから鍛えているのもあるんだけど。

 専門はトラック競技の短距離走。100メートルの自己ベストは11秒40。自慢じゃないが、……いややっぱり自慢なんだけど速いほうだ。


 スポーツ特化の高校だから設備も整ってるし、俺の望むようにタイムを縮めてくれる。何たって高校二年生。脂が乗ってぴちぴちだ。あー、ちょっと古かったか?



「ミッキー、遅かったな!」

「おう高矢(たかや)! まぁ、ちょっと、色々な……」

「夜更かしでもしてたんじゃねーの? ハッスルしすぎー」


 違うよ、高矢。むしろ朝は早かったんだよ。でも俺の寝覚めは最悪なんだ。何たって虫に集(たか)られてたからな!


 しかしそれを言ったところで軽く流されるんだ。知っている。女の子に見えるなんて誰も信じてくれやしない。ただ単純に、昆虫くらい、で済まされる。

 校庭に着くと、部活仲間が入念に柔軟と筋トレをしていた。同学年の高矢 翔(しょう)は変な勘を働かせ遅刻の理由を探りながら、にやにや笑っている。いやぁ、思春期だから分からないでもない。だけど夜更かしは筋肉の敵だ。どれだけ俺がヒラメ筋を大事にしていると思っている。


「夏休み初日なのに朝練とかキチー。アチー」


 ある程度柔軟が終わったのか、高矢は半そでシャツの生地を引っ張ってはためかせている。それを羨ましく思い、横目でちらちら見た。基本、俺は夏場でも肌を見せられない。でも銭湯は行けるぞ? 変な模様とかは入ってない。

 カラダから蜜が出ているせいで、露出ができないのだ。


「みんなー! 体をほぐすのは終わったかー!?」


 ホイッスルの音を響かせながら、赤いジャージに身を包んだ先生が姿を現した。左胸には『虻川(あぶかわ)』の文字が見える。その名札に付随する、ふくよかなでっぱりが眩しかった。


「葉子(ようこ)せんせー! ミッキーが遅刻したので、まだでーす!」

「バカ! 言うな!」

「よーし、黒木は居残りダッシュな!」


 だけど厳しい。抗議しようものなら、本数を増やされるだけだ。遅刻したから、居残りすれば時間的にはイーブンだと、彼女は口酸っぱく言っている。今日はゆっくりしたかったんだけど。

 そうも言っていられないので、俺は柔軟から始めることにした。いいんだ、帰りが遅くなればあの嫌いな昆虫もほとんど見なくて済む。



 そう、思っていたんだけど。


 夕方から夜になる間の時間になってようやく、俺は虻川先生から解放された。高矢は個人指導を羨ましがっていたようだけど、決して冗談でそんなこと言ってはいけない。あの女(ひと)は、鬼だ。だけど虫より全然良い。

 いや、いまはそれどころではなかった。姉から鬼のように着信がある。スマホの画面をスワイプしながら、件数を数えることざっと20件。何だろう。心優しいお姉さまは、弟の帰りが遅いのを心配して電話してくれたのだろうか。


「まぁ、違うよね……」


 苦笑しながら、片手では汗拭きシートをカラダの隅々まで動かしていた。すぐさま折り返しの電話をし、スマートフォンを耳に当てる。一回目の呼び出し音が鳴り終わる前に、プチと音がして姉の怒号が聞こえた。


『アンタ、いままでどこほつき歩いてたのよ!?』

「いやぁ、その、居残り練習しててさぁ――」

『あっそ! ちょっと買い物してきてくれない!?』


 質問したのに聞いてはくれないのね。疲れ果てているのに人使いが荒い姉である。買い物くらい自分で行けばいいのに。


『近くのペットショップで、カブトムシの餌買ってきて!』

「あー……」


 やっぱり飼うことに決めたんですね。俺の許可はなしですか、そうですか。カブトムシなんかスイカの皮でも突っ込んどきゃあいいじゃん。

 でもそれだと栄養がないんだって。立派なカブトムシになってお金にするためには、ちゃんとした餌が必要なんだって。俺のお小遣いの心配はしてくれないんだね。別にそんなに高いもんじゃないけどさ。それを知ってしまった辺り、俺もこの生活に順応してきたんだな、って思う。


 そして、逆らうと後が怖いのもあった。餌がないと姉は俺のカラダを差し出してでも、虫を優先させるのだ。……栄養があるのかは知らないけど。


「はい、分かりました」


 仕方なく承諾し、俺は閉店間際の店に駆け込むのだった。

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