3章11話 - 儚くも浅ましきイデア

 ほうじょうしんが冥界に送られたことで、花はれ、水は腐り、空気はよどみ、そらさいで満ちていく。うつ音すべてがせんたいばんじょうえんでありどうこく


 まったきざい。まったき地獄。

 すべての痛みと、悲しみと、苦しみの集積場。

 そんな悪夢のでいに、ひとりのしろき少女が倒れていた。


「ベアトリーチェ!」


 おぞましい地獄のなかだろうと、彼女を見間違えるはずもない。シャロンは足をつくことも躊躇ためらがいのなかを、それでもけんめいに走り、少女のもとに辿たどく。


 銀の少女はぴくりとも動かない。おそるおそるみゃくをとり、ついで外傷の有無を確認した。るいるいの地獄のなか、あやういとはいえ息をしている事実にあんする。


「ビーチェ……よかった……!」

「――本当に?」


 歓喜にうちふるえるシャロンのに、悲しげな声がそそがれた。一瞬そうだと気付けないほど変わりはてていたが、まぎれもなく〝みなもりひろ〟のもの。


 遅れてけつけたナオたちも目撃する。目がなく、耳をもたず、手足もそなえぬ無機物。天と地を繋ぐための魔力装置が、ヒロの声でなぜと問いかけ、どうしてとなげいていた。


「――夢のなかにいてほしかった」

「――誰にも傷付いてほしくなかった」

「――犠牲は僕だけであってほしかった」


 あの幸せな夢のなかに。死も痛みも、悲しみも苦しみもない場所に。



「――本当に、これでよかったの?」



 ああ、とシャロンはひとりとくしんする。

 ……彼はわかっていない。いや、わからないのだ。自分だけが不幸であれ。どうかみんなは幸せでいて。そう願うことがしたしい者たち――けいや親友にどれほど痛苦をあたえるのかを。


「私からも問うわ、皆守紘。……あなたは本当にそれでいいの?」

「そうだぜ。それじゃお前だけが救われないだろ」


 シャロンの言葉をナオが引き継ぐ。きゅうにあってなおいっかんしていた彼の余裕は、けれど今ばかりはなりをひそめていた。たそれ冷えつく声音は、そっくりそのまま、彼の抱いた悲しみの温度だ。


「俺とは全然関係ない場所でも、お前が楽しくやってたら嬉しいよ。お前が幸せなら俺が言うことなんてなにもない。……でもな、俺の知らない場所で、たったひとりで泣くのはやめとこうぜ」

「ハッ、救われねェのはオレ様たちのほうだろォが。はっきり迷惑だって言いやがれ」


 カインが尊大に吐き捨てる。立っているだけでもつらいはずだが、そんなりなどまるで見せず、神々の門と化したていなさようしゃのないりをいれた。


「奪うか、おかすか、殺すのがオトコの生き様だ! てめえの都合で! 勝手に! だんで! 他人様をきょせいしてんじゃねェよ、殺すぞ!」

「ちょっ……カイン!」

オンナは黙ってなァ。――いいか、アベル。たとえてめえをかくまわなかろうが、それこそ出会わなかろうが、オレ様はいつか淫売婦バビロンけんを売った。あいつだけじゃねえ。気に入らねェやつなら誰でもだ。……もしてめえがこういう〝オレ様〟を否定して世界ごと作りかえるなら、もうオレ様がオレ様として生きる意味なんざどこにもねえんだよ!」


 あまりに極端な言い分だ。下品で、きょうまんで、聞くにえない持論だ。

 ――けれど自分らしく生きたいという願いは、シャロンの胸に響く。


「……どうしてって言ったわよね」


 だからつむぐ。彼の胸をえぐるだろう言葉をむ。

 傷付けるだろう。苦しめるだろう。でも、これは傷付けるためだけの言葉じゃない。苦しませるためだけ、痛めつけるためだけに生まれた、悲しい言葉や想いなんかじゃない。


「ヒロ、あなたはわからないんじゃない。理解しようと思っていないだけ。だから、あなたは一生、私たちの気持ちがわからなくて当然なんだわ」


 どうか自分だけがせいであれ。どうかみんなよ、幸せであれ。

 彼がつくりあげたまんの原点が、ここだ。この地獄こそが彼の楽園なのだ。


 こんな悲しい場所でいつまでもうずくまっているから、あんなにはかない世界しか望めない。

 こんな苦しい世界をいつまでも引きずっているから、あれほどゆがんだ世界しか願えない。


「乗り越えようとしてこなかったから、わからない。苦しいけど頑張ろうって思えることも。悲しいからいたいって願えることも。……あなたはずっと嫌だって否定するだけで、それをかてにしようとしてこなかった」


 自分だけが犠牲であれと願うなら、いつか未来でめつする。そして彼によって精神を汚染された者たち――すなわち支配下にある者たちは巻き込まれる。ひきずられる。イシュタルがはいの悪魔をうしない、めいしょうを負ったように。

 繋がるとは、影響をおよぼしあうとは、そういうことだ。


 苦しみのばいよう。悲しみのちゅうどく。その延長線上につくられた未来に、……誰かからあたえられるだけの世界に、本当の意味での幸せなんて存在しない。


「ねえ、ヒロ。――私はあなたの理想になれない」


 傷付き、傷付けてでも、ほしいものがある。ひらきたい未来がある。

 こんすいするベアトリーチェを抱きしめて、シャロンはおもいのたけしゃした。


 彼女の髪をなで、手を繋ぎ、抱きしめるてのひらで、これからもはいけんつかをひきよせるだろう。ちぬらしたこうぼうさやにおさめ、次の戦闘にそなえるだろう。そのじゅんするざまをやめる気はない。


「あなたの理想に……お姫様になれない。だけど私は〝可哀想〟なんかじゃないのよ……!」


 どうか、あなたのあやつり人形にしないでほしい。

 傷ひとつない、ただの女の子に。

 綺麗なものだけ寄せ集めていろどられたお姫様にしないで。


「――私は騎士よ!」


 ……戦うことは怖かった。傷付くこと、傷付けられることも怖かった。学校に行きたかった。友達をつくって、放課後、一緒に買い食いしてみたかった。好きな人とおそろいで買った安っぽい指輪をつけてみたり、長く伸ばした爪を飾りたててみたかった。


 選ばなかった未来。つかめなかった可能性。そんなものは無数にある。

 でもだからこそ、今のシャロン・アシュレイを好きになりたい。これが私なのだとほこりたい。


「――私は、王城が誇る〈矜持〉の騎士シャロン・アシュレイよ!」


 過去をうけとめた。罪を背負った。そのうえで、シャロンは〝シャロン・アシュレイ〟として生きていくことを選んだ。


 どんな人間だったのか、ではなく。

 どんな人間なのか、でもなく。

 これから先、どう生きていきたいのか。どういう人間でありたいのか。

 そう自問してきたし、これからもしていくだろう。


 せっかく立ち向かうのなら、いどむ先は、過去ではなく〝未来〟がいい。


「私は名乗ったわ。あなたは? 私のまえにいるあなたは誰なの?」

「――……僕、……僕は、」


 パンドラを抱きしめたまま、もう一方の手をのばす。


 傷だらけの手だ。剣をふるいすぎて、女の子とはおもえないほどかたくなってしまった手だ。たくさんのしんを殺し、血まみれになった手だ。それでも誰かの手をつつみこむことはできる。手を繋いで、ぬくもりをわかちあうことはできる。そう伝えるために。



 この手をつかめば世界は変わる。

 誰もがそう確信した瞬間。



 ――運命が心変わりした。

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