楽園追放Ⅰ 僕の儚くも浅ましきイデア

3章7話 - 灰被りの姫2

　はっとして振り返ると、暗がりのなかに少年がいた。昼間の教室だというのに、まるで彼だけは夜闇に佇（たたず）むかのような翳（かげ）りをおびている。

　彼。誰だろう。名前が思い出せない。笑えばいいのに、とか、末っ子っぽいな、とか。そのくせ過保護で世話焼き体質だろうな、とか。先入観なのかもよくわからない印象が、いくつも泡のように浮かんでは消えていく。

　だからなのだろうか。この少年から目が離せない。頭のどこかで警戒音が鳴り響く。

「過去を忘れて騎士様やってるときのお前より、今のお嬢様ぶってるお前のほうが、よっぽどみっともなく見えるぜ」

「き、し？」

　きし。騎士とはなんだろう。

　魔法使いの王子様はいた。小人たちもいた。シャロンの役どころはどう考えたってお姫様だ。

「どっちもみっともない、どれならどっちを選んだっていいだろう。……なかにはそんなこと考えるやつだっているだろうよ。だけどな、お前は片方の未来で、よりにもよって〈矜持〉を名乗ることにしたんじゃねえのかよ！」

　蒼（そう）茫（ぼう）の少年が襲いかかる。一瞬で間合（まあ）いをつめ、シャロンの首を絞（し）めあげにかかった。

　シャロンとて言われっぱなし、やられっぱなしは性に合わない。必死になって彼の手に爪をたてる。養（よう）父（ふ）が綺麗にととのえ、女友達によって愛らしく飾（かざ）られたそれが、割れそうになるほど。

「そんな手だから振りほどけないんだ！　――そんな手で、一体どんな未来をつかむ気でいるんだよ！」

　呼吸が遮（さえぎ）られ、意識が遠のく。視界がかすむ。

　こんなにも、この幸福な世界は壊れやすかったのか。こんなにも、この愛（いと）しい世界を守るための術（すべ）を持ちあわせていなかったのか。

　……あたえられてばかりだったから。自分自身の努力でつかみとったものではないから。

「目を開け、息を吸え、歯を食いしばれ！　あきらめてんじゃねえよ！　もう無理だ、敵（かな）いっこない、誰か助けてなんて似合いもしない猫をかぶってんじゃねえ！」

「ぁ、ぐッ」

「そんな可愛い性格してねえだろうが！　現実みろよ現実を！」

　ぐう、とみぞおちが熱くなった。絞（し）まる咽喉（のど）よりも、なぜか胸の奥がずっと熱い。

　この感覚を知っていた。ずっと昔から、当たり前のように。

　そう、これは――怒りだ。

「お嬢様なんか役者不足にも程があるぜ！」

「――……る、さっ……！」

　手の甲（こう）に、青筋が浮いた。爪が割れそうになるくらい、ではなく、文字通り爪を割りながら押しのける。歯を食いしばるあまり歯（は）茎（ぐき）から血がでたが、そんなものまるで些（さ）末（まつ）だ。

「――さ、いッ……うるさいッ！　黙って聞いていれば言いたい放題、ふざけてんじゃないわよ！」

　暴（ぼう）虐（ぎゃく）者（しゃ）をひきはがしたシャロンは、その勢（いきお）いを殺すことなく一撃をいれた。臍（せい）下（か）丹（たん）田（でん）のすわった一撃が、何台もの机をまきこみながら少年を吹き飛ばす。

「私がお姫様なんて柄（がら）じゃないのはとっくに知ってる！　そういうのはパンドラの役目なんだってこともね！」

　肩で荒く息をつきながら。

　乱れた髪も、割れた爪も、顎（あご）をつたう鮮（せん）血（けつ）もそのままに、ただ叫ぶ。

「でも後悔なんてしてない！　私が選んだのよ！　お姫様なんかじゃない、矜持の騎士シャロン・アシュレイとして生きることを――他でもない私自身が望んだのよ！」

　ナオは倒（とう）臥（が）したまま、ひらりと手を振った。

　なにを――など、訊（き）くも語（かた）るも無（ぶ）粋（すい）だ。

「……あ、」

　罪（ざい）業（ごう）、蹉（さ）跌（てつ）、後悔。そのすべてを思いだす。

　そして唐（とう）突（とつ）に理解する。今この瞬間が、未来をわかつ分（ぶん）岐（き）点（てん）なのだと。

　天（てん）秤（びん）には〝お姫様（メルヘン）〟と〝騎士（ファンタジー）〟、ふたつの夢物語がのっている。

　かたや幸せな悪夢。かたや凄（せい）惨（さん）な地獄。

　重さは均等。ならば心をより傾（かたむ）けたものが手（しゅ）中（ちゅう）にくだる。

　ナオが言ったように、どちらを選んでも情（なさ）けない。みっともない。どうしようもない。

「……。……私、きっと戦うことが怖かった」

　なにを言っているんだ。多くの神魔を屠（ほふ）ってきただろう。そう嘲笑されるかもしれない。でも本心だった。

　戦うことが怖かった。傷付けられたら痛かった。大義名分があろうとも、相手が神魔だろうとも、人のかたちをした誰かに剣を揮（ふる）うためには、自分で自分を奮（ふる）い立（た）たせなければやっていけなかった。

「……あなたの言った通りよ、ナオ。〈矜持〉も〈傲慢〉も呼び名が異なるだけで、本質はなにも変わらない。〝私〟は鍍金（めっき）で飾（かざ）っただけの騎士で……本当の〝あたし〟は卑（ひ）怯（きょう）な人殺しでしかなくて。だからあんな綺麗事とご都合主義まみれの世界に魅（み）せられた」

「でも記憶を捨てたことは憶（おぼ）えてたよな？」

　殴られたことなどまるで意（い）に介（かい）した素振（そぶ）りもみせず、ナオが笑う。

「記憶を失ったことすら忘れられる程度には、俺の血は有能なんだぜ。お前は本当の意味で、都合の悪い自分（もの）すべてを消し去ることができた」

「それは……変われるんだって思ったから。みじめな人生、やりなおせる。新しい自分になれるんだって」

　いつか自分に言い聞かせた言葉がよみがえる。

　そうだ。あの子たちを忘（ぼう）却（きゃく）の彼方（かなた）に追いやろうと、泥（どろ）を食べてなんとか飢（き）餓（が）をしのいだ日々を憶えている。自分も両親を知らなかったから、おなじような境（きょう）遇（ぐう）にあって生きづらそうなヒロを、ほんのすこしだけ自分に重（かさ）ねていた。

　ナオは言う。霊液を嚥（えん）下（か）した記憶すら失うことができたのだと。

　かつてシャロンはこう考えた。人生をやりなおしたい。新しい自分になりたい。――騎士のように誇（ほこ）り高くありたい。初めての友達ベアトリーチェを守りたい。

　あのときの決意や気持ちは。自分が鍍金の騎士（にせもの）だと知ってなお、作り物やまがいものではないと断言できる。

　だって、今もこうして胸のなかにあるから。

「……あたしは、――私は」

　みぞおちが熱い。泣きぬれた頬（ほお）が熱い。心が、熱い。……全身が、熱い。

　こぼれた涙は、暗闇のなかでさえ煌（こう）々（こう）とひかりかがやいた。

「私は、騎士だもの。敵と戦うことで味方を守りぬく者だもの。どんな敵（かこ）が相手だって、どんな味方（かのうせい）を選べたって、それは変わらない」

〈特異領域〉としての〈矜持〉は〈傲慢〉に等しいのかもしれない。

　掲（かか）げた信条としての〈矜持〉も〈傲慢〉同然だったかもしれない。

　それらはシャロンの足を凝（こご）らせ、膝（ひざ）をつかせ、落（らく）涙（るい）させ、地獄に堕（お）とすものだったかもしれない。

　でも立ちあがり、足を踏みだし、ふたたび走りだすことはできる。たとえ過去は変えようがなくて、一度は捨てて逃げたのだとしても、これからその意味を変えていくことはできる。

　あのままだと罪悪にのまれ、きっと潰（つぶ）れてしまっていたから。いつか罪とむきあい、地獄を乗り越えるために、……そうできるだけの強さを得るために、かつてのシャロンは記憶に鍵（かぎ）をかけたのだと思いたい。

　恥（はじ）知（し）らずの意見だ。結局はどこまでも自分に都合のいい解（かい）釈（しゃく）だ。

　でも、変えていくから。過去は変えられなくても、意味を変えることはできる。未来を変えていける。そう信じる。――信じたい。

『過去が現在をつくって、現在が未来に繋がるなら、私たちはずっと過去に操（あやつ）られているのかしら。最初の一歩が間違っているなら、未来は無限の可能性があるように期待できるだけで、本当は選択肢なんてないんじゃないかしら』

　過去、ヒロに問いかけた答えを。

　今、シャロン・アシュレイがつかむ。

「――私は、シャロン・アシュレイは、パンドラを守る王城の騎士よ！」

　宣言と同時、雪（ゆき）解（げ）の雫（しずく）からうまれたように美しい純白のドレスは、たちまち血泥（けつでい）で薄汚れた戦闘服にすげかわった。桜色の爪は無（む）残（ざん）にも割れ、すらりとした指先はたちまち剣（けん）胼（だ）胝（こ）によって醜（みにく）い凹（おう）凸（とつ）をなした。全身は無数の裂（れっ）傷（しょう）でかざられ、度重（たびかさ）なる疲（ひ）弊（へい）が精（せい）彩（さい）を奪う。

　教室は消えさり、悪夢が還（かえ）る。

　泥まみれの雨が降り、孤児たちの死体が散らばり、曇（どん）天（てん）があまねく空を覆い尽くす、過去という名の地獄がまいもどる。

　それでも彼女の双眸に、もう迷いはなかった。たとえ太陽が暗雲によって遮（さえぎ）られようと、心のなか、勝（まさ）るとも劣（おと）らぬ〈矜持〉の輝きがあったから。

「行かなきゃ……。私、もう行かなきゃ……！」

　シャロン・アシュレイは走りだす。

　シャロン・アシュレイとして走りだす。

　美しく優しい養（よう）父（ふ）に背をむけて。愛（いと）しい孤児たちに別れを告げることもなく。

　女友達も、恋人も、楽しい学校生活も。おいしい料理も、あたたかい布（ふ）団（とん）も、すべて、――すべて足（あし）枷（かせ）にはなれない。おびただしい悪夢すら、もう彼女の心を支配できない。犯（おか）せない。

　進むべき道が、切（き）り拓（ひら）くべき未来があるから。等身大の……ただの一般人でしかない〝あたし〟では、誰ひとり守れないのだから。

「……あーあ。あいつ、もう俺たちのことなんてすっかり忘れてやがる」

　ナオにつられて幼（おさな）い亡（ぼう）霊（れい）たちが笑う。不器用に、――愛（いと）おしげに。それでこそ君だよと、誰もが頷（うなず）き、祝福する。

　本当はずっとそうだった。

　この地獄がはじまった瞬間から、彼らは彼女を愛していた。

　ここはシャロンの地獄（かこ）。シャロンの世界（こころ）。心という、一番やわらかくて嘘（うそ）のつけない場所で、彼らがとても優しかったことのあらわれ。

　声が聞こえる。谺（こだま）する。彼らがどれほど彼女を愛していたのか。彼女がどれだけ彼らを慈（いつく）しんでいたのか。その気持ちの強さこそがシャロン・アシュレイの黄金だと本人が気付くのは、もうすこしばかり未来の話。

　……誰かを傷付けるためではなく、誰かを守りぬくための強さが、愛（いと）しい子供たちの姿で笑っていた。