2章5話 - バベルの塔崩落事件
ひかえめな
彼はなにも言わない。理事長室をでて窓ひとつない長い廊下を歩いても、突きあたりの扉が
色々なことがありすぎて、様々なことを知りすぎて、心が追いついていないのかもしれない。シャロンも最愛の少女のことをまだ受けとめきれず、どんな景色も
だから、なのだろうか。気の
「……ねえ、未来は可能性に満ちているって思う?」
「シャロン?」
「神魔との戦いに
シャロンには学園を目指す理由があった。
一方で、彼にも学園を目指す理由があった。登校という、ごくありふれたものではあるけれど。
「過去が現在をつくって、現在が未来に繋がるなら、私たちはずっと過去に操られているのかしら。最初の一歩が間違っているなら、未来は無限の可能性があるように期待できるだけで、本当は選択肢なんてないんじゃないかしら」
学園はパンドラや騎士の候補となりえる者を保護し、収容するための施設だ。しかし生徒全員がそのために集められたわけではない。
けれど
「――
音もなく風が吹いた。
夜の校庭に埋もれていた風は、
「……ああ。なにかと思えば、そのことか」
彼の声音は、いましがた風に吹かれて転がる
「うん、そうだよ。僕はあの事故の生き残りだ。……僕の親は不法就労外国人らしくて身元がはっきりしなかったから、ナオと一緒に養護施設に入れられたんだ。でも、それがどうかしたの?」
バブル期に構想された、東京バベルタワー。完成すれば、いや完成途中でさえ世界一の高さを誇るその超高層ビルは、今から約十五年前に倒壊した。
もともとバベルタワーは東京二十三区全域を敷地に、何十年もの歳月を
そのため死傷者数も
最も被害のおおきかった爆心地の生き残りが、当時赤ん坊だった
「あれはただの事故じゃなかった。どこかの国が起こしたテロ事件でもなかった。……神魔と騎士が激突してうまれた悲劇だったの」
「ちょっと待って。君たちは特異領域をつくって、そのなかで戦うんだよね? だから現実世界まで影響はでないんじゃ……」
「基本的にはあなたの言う通り。特異領域は、神魔や騎士が超常的な現象をおこすために用意する、
だから黒妖犬はシャロンに何者かと問いかける一方で、神魔としての
「よくあることなの? ……その、人間が洗脳されたり憑依されたりするっていうのは」
「それを説明するには、まず特異領域について話さなければならない。あの世界の色は、どのような世界を望むのか――どんな信念なのかによって変わるって言ったわよね?」
「うん。君が〈
「信念はいわゆる〈七つの
正義心がすぎれば
希望が叶わなければ
「十五年前の事件もそう。騎士のひとりが裏切ったと言われているけれど、実際のところ本当に裏切ったのか、洗脳をうけたのか、憑依されたのかまではわからない。とにかく核となった人物が次々に仲間を神魔に
「……その騎士たちはどうなったの?」
「
「……ううん、なんでもない」
寿命が残りすくないのだろう。ふたたび
「……事件当時の記憶はなくても、あなたは何千何万の死傷者がでた事実だけでつらいのね」
「そういうわけじゃ……、……ううん、そうなのかもしれない。すこしだけ考えてみたんだ、十五年前のことを。なにも憶えていないけれど、……そのつもりだったけれど、でも今の話を聞いたら、僕が地面を歩くのも怖いのはバベルタワーが崩壊した記憶があるせいなのかなって」
遅れてシャロンも玄関口をでる。
「報告書によれば
「アスファルトやコンクリートなら大丈夫。校庭みたいに砂と
校舎という箱をでてみれば、一面の夜が広がっていた。
夜間照明は白いひかりを地面に投げかけ、遠方ではぽつぽつと地上の星がきらめく。
とはいえ空が広いことに変わりなく、夜の深さにも
「でも、完全になんとも思わないわけじゃないんだ。アスファルトの下には地面があって、本当なら花や木が育つはずだった。こっちの都合で勝手に埋め立てたのに、僕は平然と踏みなじって生きている。それを息苦しく思うよ」
「……埋め立て地ってお
なんとなく引っかかる。彼からわずかに
いや、違う。彼は自身の異常性を理解している。そこに
ではなんだろう。一体どこに戦士としての
疑問は、少女の内心を知るよしもない少年本人が教えてくれた。
「ああ、えっとね。江戸って知ってる? 昔の東京の呼び名なんだけど。その江戸時代がはじまってすぐの頃は、関東平野は巨大な
「そう……そうなの」
かつてこの地は巨大な湿地帯だった。その事実に
カインだからグレンデル。グレンデルだから沼地に
ローズは
考えすぎだろうか。だがもしも東京がかつて湿地帯であったことすら
「――お前、なにしてんの?」
シャロンが
声は、いまだふたりの
「ナオ! どうしてここに?」
「おいおい、それはこっちの
「あっ……。そうだったね、ごめん。ちょっとシャロンのお
「――自己紹介くらい自分でできるわ。私はシャロン・アシュレイ。この学園の生徒よ」
あわてふためく彼を
「いや、だからさ。お前、ヒロになにしてんの?」
「なにか勘違いしてないかしら。私は道ばたで倒れていた彼を見つけて、保健室に連れて行った。放課後、様子を見に行ってみたら、ちょうど目を覚ましたところだった。聞けば新入生だって言うじゃない。保健の先生に頼まれて、男子寮へ案内している。ただそれだけよ」
日高直紀の視線は揺らがない。当然、謝罪の言葉ひとつ現れない。
なるほど、今までの事態や会話のせいで、ヒロの顔色はお
「無理に付き合わせていたわけじゃない。嫌がる彼にせまっていたわけでも、ましてや
……もしも今、ヒロが
「じゃあ私は〝女子寮〟にもどるわ。またね、ヒロ」
「え、ああ、あの、…………うん。……おやすみ、シャロン」
「ええ。おやすみなさい」
当然、女子寮にむかうためには、日高直紀の隣を通らねばならない。必然、
「……こいつが所有物とか、一度も思ったことねえよ」
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