1章5話 - 学園
「……あれ?」
ぼんやりとした意識でもわかる、見慣れない天井とソファの背もたれ。
ヒロは目を細め、ゆらゆらと
「ここは……」
「おはようっ!」
不意に少女がのしかかってきた。
まだ小学校低学年ほどの年齢だ。白髪に近い銀髪に、
「ええと……君は、たしか……」
「あたしパンドラ! ねっ、あなたはなんていうの?」
「……僕は、
「ヒロっていうのね! おぼえるわ!」
銀の子供はどこからともなくスケッチブックをとりだすと、ひろ、ひろ、と歌うように
じわり、と胸の奥が熱くなった。
どうしてだろう。泣きだしたいほど嬉しくて、でも胸が潰れるほどせつない。どうしようもないもどかしさが募っていく。
あの悪夢とおなじくらい、ヒロを規定するような。ヒロという存在の根底に触れるような。
――無意識のうちに伸ばそうとした手は、ひかえめな
「パンドラ、毛布かけてくれた? ……って、だめよ。彼が起きるでしょう」
「シャロンおかえり! ヒロ、もう起きてるよっ!」
「えっ? うそ、本当に?」
何度血にまみれても不屈の闘志で立ちあがる姿。そんな彼女を
「っ! 君、怪我はっ! ……って、あれ、なんで、」
起きあがろうとしたのに、うまく力が入らない。指先がわなないたが、それだけだ。背中は一ミリだって離れていないだろう。いくら柔らかいソファに寝そべり、幼い少女が乗りあげていようと、身を起こせないほど体力に乏しいわけではないのに。
「ヒロ、だいじょうぶ。こわくないよ」
「特異領域に入った代償として、まだ身体が
ろくに動けず、その動く気力さえ
どれほど白銀の子供が幼く、軽かったとしても、彼女もまたヒロと変わらない年齢の女の子だ。しかもあのわけもわからぬ世界で何度も傷を負っていた。なのに今、パンドラを抱きあげる腕は優しく、
「…………君の、傷は……?」
「……ああ、そうね。そうだったわ。あなた、自分のことより他人を優先するのよね」
なぜヒロが起きあがろうとしたのか。その理由を思いだし、シャロンは
「おかげさまで私は無事よ。ううん、私だけじゃない。パンドラも。……ね?」
「うんっ、ヒロ、ありがとうっ!」
ぱあっと、まるで花が咲くように少女ふたりが笑う。生気と幸せに満ちた空気に、知らず張りつめていたヒロの心がほどけた。
君たちが無事ならそれでいい。
自分の身体が動かないことなど、まるで
ほっと
「アシュレイ
「構わないわ。……パンドラ、彼女を手伝ってあげて?」
「はあい! ローズ、今いくね!」
嬉々として駆けだす少女を見送ったあと、シャロンは思いついたように手を伸ばす。ヒロのみだれた前髪をすくいとるように払いのけ、そうしてあらわになった
「――身体が動くおまじないをかけたわ。一緒にお茶でもどうかしら」
やわらかいものが触れたのは一瞬。
シャロンはすぐに身を
ひとり取り残されたヒロは、二、三度、目をまたたかせ。
「……あれ、本当だ」
額に触れながら、もう一度だけまじろいだ。
身体を起こすと、そこは応接室のようだった。
書類棚、ローテーブル、ソファ、
「えっと、ここは……」
「はい、ここは学園。
視界がぱっと華やいだ。
慣れた手つきで
「申し遅れました、
「ローズに
「あたしはパンドラ! ヒロっ、よろしくね!」
「パンドラ様は騎士でこそありませんが、〈王城〉が
「――ま、待ってください! 王城で、騎士で、……ええと、ここが学校……?」
まるで理解が追いつかない。百歩譲って気絶しているあいだに場所を移したのだとしても、学園が城や騎士とどう結びつくのか。騎士なるものを
「ああ、ごめんなさい。順を追って説明するわね。ここは学園とよばれる教育施設であると同時に、機関の日本支局でもある。――進学先の学園が〝異常〟であることを、あなたはとっくに知っていたはずよ」
異常。
そうだ。彼女の言う通り、ずっと前から知っていた。知っていて選んだ。
世界最古の教育機関――通称〝学園〟。ほぼすべての国家に設置されており、入学試験に合格さえすれば、年齢や国籍すらも
学園というかたちをした、ひとつの奇形。異常。独立国家。
あるのはただひとつ。――許可なく敷地外にでることを禁ず。それだけだ。
「王城とは、人ならざる悪しき者たちから人類を守るための機関。秘密結社だとご理解ください。この学園にしても、関係者全員が王城の存在を知っているわけではありません。……いえ、正確に言うならば、教えたところで信じていただけないのです」
「よろしくと言ったのを憶えているかしら。あなたには騎士としての適性がある。常人であれば、あの特異領域に存在することはできない」
シャロンは一歩を踏みだし、手をさしだす。
「仲間になってもらうわ。世界のため、人類のために」
「…………、」
……彼女の言葉はきっと真実だ。
実際に戦うところを見た。
「……僕は、……僕が、騎士……」
彼女たちのちからになりたい。本気でそう思う。
物心ついたときから誰かが傷付くのは嫌だった。死ぬなんてもってのほかだ。もし自分が矢面にたつことで、誰かが傷付くのをふせぐことができるなら。そんな仮定を、彼女たちに出逢う以前から、幾度となく脳裏にえがいてきた。
でも、だけれど。
「……騎士って……つまり僕にもあんなふうに戦ってほしいということですか」
自身の異常性。ヒロという人間の根幹にして原点。妥協できないものが、こちらにもある。
もう絶対に誰かを傷付けたくない。死んでほしくない。
ヒロにとって、彼女たちに傷付いてほしくない気持ちと、カインと呼ばれた青年にも傷付いてほしくない気持ちは、まったくおなじ強さで共存しているのだ。
「属性や戦闘形式によって
だから、とシャロンは決定的な言葉をつきつけた。
「ごめんなさい。あなたに拒否権はないの」
「……っ!」
でまかせとは到底思えなかった。彼女は本気で騎士として迎えようとしている。
「……ヒロ? どうしたの? なんで泣いてるの?」
うろたえたパンドラが、助けをもとめるように周囲を見回した。だがシャロンたちは動かない。幼い子供は
「ひ、ヒロ、やだ、泣かないで。あたしのケーキあげるから。おいしいから。すぐ涙なんてとまっちゃうから、ね?」
彼女にとってはそうだった。怖いと泣きわめくパンドラに、たびたびシャロンはお菓子をくれた。
だがヒロにとって、それは。
「――……う、えっ……」
あまい匂いに。命あるものの成れの果てに。たまらずヒロは
「パンドラ、駄目よ! ローズ、ナプキンをお願い!」
「ごめ、なさ……、ぼく、本当に、だめで……、」
背を
「喧嘩とか、暴力だけじゃなくて……、食べるのも……、昔から、ほんとうに、だめで……」
命あるものを害することを、極端に
それが皆守紘という人間の異常性だった。
暴力を振るいたくないとか、殺したくないとか、そういうレベルの話に留まらない。まともに飲食できない。鉛筆でノートをとることも
「……ごめ、……なさっ……ほん、とうに、ごめんなさい……」
彼女たちは悪くない。
ヒロに愛想をつかした施設の子供や同級生、教師だって悪くない。
異常なのはヒロのほうだ。ガンジーのように、非暴力、無抵抗主義を掲げる人はいるだろう。ヴィーガンのように、肉をとらず野菜や果物を主食にする人もいるだろう。けれど雑草を踏むことも、授業でノートを書き綴ることも、食事をしたり……呼吸をすることさえ不当だという強迫観念は尋常ではない。
「アシュレイ卿、ここはわたくしにおまかせ願えませんか?」
場が騒然とするなか、ひとりの声が、
「どうかパンドラ様を別室へ。いえ、万が一の有事にそなえて構内を見てまわるのもよいかと。もうホームルームが始まっていますから、他の生徒に見咎められることはありませんわ」
「……そうね。こういうことは、あなたの方がずっと適任だものね」
このなかで
「それじゃあローズ、後のことはあなたに一任するわ」
退室するふたりを、ヒロはまともに見送ることさえできなかった。
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