1章4話 - コキュートス
「あなたの相手は、この私よ!」
「ハッ、まだ痛い目みねェとわかんねぇようだなァッ!」
重機関銃がいっせいに火を吹く。無数の兇弾は、
「parole gravi, avvegna ch'io mi senta
(もとより私は、たとい命運に激しく撃たれようとも)
ben tetragono ai colpi di ventura
(怯み、たじろぐ者ではありませぬが)
per che la voglia mia saria contenta
(それゆえ、いかなる災禍がせまるのを)
d'intender qual fortuna mi s'appressa
(聞くは我が本懐とするところ)」
何千何百からなる鉛玉すべてを裂き、貫き、たたきおとす。破砕物はみな彼女のまえに
「che saetta previsa vien piu lenta
(迫ると知った矢など、当たるに弱し)
――お馬鹿さん。何度もおなじ手が通用すると思わないことね!」
「はァ? てめえが尻軽なだけだろうがよ!」
違う、と少女は心のなかで呟いた。
ふたりは表裏一体、黄金こそを戦場の
彼のように飽きたわけでも、投げだしたわけでもない。これは戦術だ。
「〈
Guai a voi, anime prave!
(貴様ら悪党どもの亡霊に災いあれ!)
Non isperate mai veder lo cielo
(天を仰げるなど、ゆめゆめ望むなかれ)
i’ vegno per menarvi a l’altra riva
(私は貴様らを永劫の闇のなか)
ne le tenebre etterne, in caldo e ’n gelo.
(酷熱氷寒の岸辺へ連行するために来た)」
ふたたび
「〝酷熱氷寒の岸辺へ連行する〟?
クソだりぃこと言ってんじゃねェ。お望み通り、展開してやろうじゃねえか!」
こちらが
「S’io avessi le rime aspre e chiocce,
(ありとあらゆる
come si converrebbe al tristo buco
(この陰鬱なる
sovra ’l qual pontan tutte l’altre rocce,
(我が才とて語ること
ダンテの神曲、第三十二歌。地獄の最深淵が、いま、つまびらかとなる。
「Come noi fummo giu nel pozzo scuro
(我らは暗き
sotto i pie del gigante assai piu bassi,
(巨人の足元よりも遥かに深き
e io mirava ancora a l’alto muro, dicere udi’mi:
(高き城壁を見上げしとき、ひとつ声を得たり)
≪Guarda come passi:
(“汝ら心して進め)
va si, che tu non calchi con le piante
(汝の
le teste de’ fratei miseri lassi≫.
(踏みつけることなかれ”)」
悪鬼羅刹は共食いをはじめ、たちまち見上げるほどの巨躯へと変貌する。即席の巨人が大地を踏みつければ、シャロンたちの身体は
「Per ch’io mi volsi, e vidimi davante
(振りかえると、我が眼前、)
e sotto i piedi un lago che per gelo
(足下にひろがる湖は凍てつき、)
avea di vetro e non d’acqua sembiante.
(
Non fece al corso suo si grosso velo
(冬のオステルリッキのダノイアにせよ)
di verno la Danoia in Osterlicchi,
(遥か彼方、寒天のしたを流れるタナイスにせよ)
ne Tanai la sotto ’l freddo cielo,
(かくも厚き氷紗を張ったためしはあらず)」
彼の足元から
「地獄界、第九圏、氷寒地獄〈コキュートス〉。
――シャロン。てめえの餌としての価値は終わったんだよ。さあ、とっとと退場してもらおうかァッ!」
〈
回避はしない。いや、できない。こちらが逃げまわるほど、少年が流れ弾の危機にさらされる。
だからシャロンは駆けた。
全力で、敵までの最短距離を。
「――おおおッ!」
すべての攻撃をひきつけながら、勝利の道を
神速の
「シャ、シャロン……っ」
「パンドラ!?」
シャロンは全身を
少年を巻き添えにしないよう、あえて真正面から突貫する。その結果がこれだ。地獄の飛雨をかいくぐり、得意の近接戦闘に持ちこんだところで、今度はパンドラを盾にされる。
では、どうすればいい。一対一では奇襲もむずかしい。他にどんな手段が残されて……。
「棒立ちとは余裕だなァ? 獲物の自覚がたりてねェ」
「あっ……!?」
足をとめて、ほんの数秒。だがそのわずかな時間にも、凍てついた石畳から這いよる冷気が、シャロンの足首まで凍りつかせていた。
「動かねえ獲物なんぞ格好の的――クソ
「ぐ、ッ、あ、ぁっ!」
猟矢が飛ぶ。避けきれなかった銃弾が、身体のそこかしこに喰い込んでいく。
いまだ処女の身、
「これで終わりだァ!」
特大の光剣が、
動こうにも痛みが勝り、逃げようにも氷が阻む。
避けられない。
――死ぬ。
「いやあああああ!」
カインの腕に囚われたパンドラが、ありったけの悲鳴をあげる。
目を
大気が震える。肉を切り裂く、おぞましい音。熱き血のほとばしり。腹の底からこぼれおちる呻き声。むせかえるような血の臭い。それから――それから?
「…………?」
おそるおそる目を見開き、……
あの少年が。背後でおびえているはずの少年が、シャロンの眼前で盾となっていた。
彼をつらぬいていた大剣が、光の粒子となって消えていく。シャロンは
「どうして、あなた、なんで……!?」
「……きみが、ぶじで、よかった」
そんな真っ青な顔で、ぜんぜん平気じゃないくせに笑うのか。痛いとうめくより、許してと敵に乞うより、こちらの安否を真っ先に確認して、無事を喜ぶのか。
絶句するシャロンをよそに、彼はてのひらを氷上につける。
「立ちあがるんだ。もし魂が肉体の重みに耐えるなら、あらゆる戦いに打ち克つことができるはず――……」
緑の閃光が走った。植物というシンボル、ほとばしる光の色、紡がれる言葉。たちまち植物が
「そんなっ!? ……まさかカイン、あなたの狙いはこれだったのね!?」
神曲をとなえたのは慢心でも、敵に塩を送るためでもない。少年の異能を封じこめることにあったのだとしたら。
激する感情のまま睨みつけて、我が目を疑う。
カインはじっと少年を見つめていた。
「……カインさん、お願いがあります。僕の命とひきかえに、彼女たちを見逃してください」
ひくりと
流れ落ちる血液をつたって、傷口が、さらには無事な肌すら氷におおわれていくのに、少年はそれを
「あなたは一度おふたりを殺した。さっきもシャロンさんに、餌としての価値は終わったと言った。これ以上彼女たちにかかずらう理由はないはずです。……あなたの狙いは僕だ」
「その理屈で言やァ、てめえはなにをされても文句を言えねえ。それこそ殺されてもなァ。そういうことになるが?」
「構いません。彼女たちを逃がしてくれるなら、僕は死んだっていい」
「だめっ!」
カインの腕から身を乗りだし、パンドラが叫ぶ。
「あたし、そんなつもりじゃ……!」
「うるせェぞ、ガキ」
「きゃあっ!」
カインは片腕の
「取引成立だ」
途端に、シャロンを取りかこむ銃火器群が消失した。迷彩させたのではなく、完全に存在を放棄してしまったのだ。
刹那のうちに消失できるなら、刹那のうちに出現させることもたやすい。ゆえに、続けてカインが取った行動にこそ、シャロンの
「そォら、受け取りな」
軽々と、やすやすと、カインは手にしていた少女を放り投げた。
罠だろうか。だが、そんなことはどうでもいい。全身の筋肉がさけぶのもかまわず、少年をささえるのも忘れて、地を蹴り手をのばす。
「パンドラ! ああっ、よかった……!」
「シャロン……! あたし、ごめ、ごめんなさいっ」
「いいの、あなたが無事ならそれでいいの……!」
あたたかい。生きている。これといった負傷の気配もない。
「友達ごっこは結構なことだが、オレ様の気は長くねェぜ。さあ、シャロン。裏切者の地獄にふさわしく、ムシケラみてえに惨めったらしく逃げるんだな」
圧倒的な
学園がみえる。あそこは東京における〈
「……彼を見殺しにすれば、私たちは見逃してやる?」
逃げたなら。彼を見捨てたなら。
たったひとりの生を代償に、億万からなる人命が救われる。
迷う暇はない。悩む価値はない。パンドラが死ねば世界は滅びる。人類は死滅する。
でも、だけれど。
「冗談、ふざけないで! 一体この私を誰だと思っているの!」
麗しい春に背をむけ、振り向きざまに剣を
ありったけの魂で、ありのままの想いを口上する。
「我が名はシャロン・アシュレイ! 王城が誇る〈
アベル・ファタール。
シャロンが騎士のなかの騎士と
答えは、
ではシャロンは。現実はどうなっている。
貫かれた腹部、強張る指先について考える。痛みに
そんな自問など意味がないことを知っていた。なぜなら彼は、……シャロンを守ろうと犠牲を願いでたあの少年は、カインに勝てるはずがないことを承知のうえで行動したのだから。できるできないではなく、そうしたいかどうかで動いたのだから。
「はああああッ!」
地を蹴り、一撃を放った。
カインの左頬をかすめた
「……オイオイ。この
「勘違いしないで。私は殺されに来たんじゃない、勝ちに来たのよ! あなたに勝って、絶対に三人でここから脱出するんだから!」
一度は
もはや空間の裂け目は残光あるのみ。退路は断たれた。
だが、この選択に悔いはない。
なにかを諦めねばならないというのなら、見殺しにする選択を捨て去ろう。なにかを殺さねばならないというのなら、誰かを見殺しにせねば現状を打破できない自身の弱さに剣先をむけよう。
なによりこの選択が間違いだとしても構わない。
今からでも光り輝くものに――正解に変えてみせる。
「ハッ! 言葉だけならなんとでも言えんだよ!」
「私たちはその〈言葉〉であなたに勝つ! そうよねパンドラ、いいえ――〈ベアトリーチェ〉!」
「……うんっ!」
「Quan chai la fuelha
(
dels aussors entressims
(葉が落ちて)
el freg s'erguelha
(ひどい寒さに)
don seca 'l vais e'l vims,
(ハシバミや柳が凍るころ)
del dous refrims
(小鳥のあまい調べが
vei sordezir la bruelha:
(誰もいなくなったこの森で)
mais ieu sui prims
(でも、あたしは寄り添おう)
d'Amor qui que s'en tuelha.
(他の誰が見捨てようとも)」
「しゃらくせぇッ!」
カインの指先が、
再誕したのは、黒鉄色をした死神の
もはや銃火の
「――これ以上、誰も傷付けさせないっ!」
しかし攻勢の手は緩まない。氷の世界に、一度は枯れ落ちたはずの植物がふたたび息吹く。あろうことか彼自身を土壌にすることによって成し遂げたのだ。
生まれた
三人の姿が消え、カインの判断が
その一瞬の
「光よ!」
剣に想いを、魂をのせる。
はやく、速く、――光よりも
神速に迫る技に、殺戮者カインも迎撃態勢をととのえる。すかさず極大の魔剣を
「――なにィッ!?」
創造するそばから大剣が壊れていく。
原因は、少年の植物。飛び散った少年の血や肉片を
すかさずカインは
〈特異領域〉とは信念がものをいう世界。この氷や剣は、魔力と精神を基盤につくられた。つまりカインの殺意が、たとえ彼にとっては小動物を狩るような
「〝動かない獲物は格好の的〟――あなたの言葉を! 今! あなた自身で味わうがいい!」
「……ッ!」
カインは見た。相手もまた氷の
だが彼女の発する黄金の輝きが、氷を融かして、否、焼き尽くしている。その身をつつむ緑風は、あらゆる酷寒や凍傷から少女を守っている。
なにより、この場で神威を発揮しているのは――……
「Tot quan es gela,
(みんな凍った)
mas ieu no puesc frezir
(でもあたしは凍えない)
qu'amors novela
(愛が)
mi fa'l cor reverdir;
(あたしを強くする)
non dei fremir
(寒さにかじかんだりしない)
qu'Amors mi cuebr'em cela
(愛につつまれ、愛に守られて)
em fai tenir
(あたしはここにいる)
ma valor em capdela
(導きのままに)」
パンドラの異能〈
ここはコキュートス。かつて裏切りを働いた、すべての罪人の
何度地べたを
「――憶えてやがれ、クソ女」
負け惜しみごと、
「王城傘下、第一席〈矜持〉の騎士シャロン・アシュレイが、
威風堂々たるさまを
「人類最古の殺戮者よ。いま一度、夢深き場所へと
足下にひろがる氷食深部の
快晴の空。ひろがる公園の春景色。
「シャロン!」
「……っ、パ、パンドラ! 嬉しいけど、ちょっと待って!」
いつもの調子でパンドラが抱きつく。
軽やかな生の躍動を受けとめきれず、二、三歩、
「あっ、ごっ、ごめん! 痛かったよね?」
「ううん、そうじゃなくて。喜ぶなら、全員で。……ね?」
痛みはある。全身を襲う
不安だってある。カインを殺したのではなく、一時的に弱体化させ、領域外に追放しただけだ。騎士として生き続けるかぎり、またいつか、そう遠くない未来で刃をまじえることになるだろう。
でも今だけは笑顔をうかべよう。三人一緒に、勝利をわかちあおう。
シャロンは
「ありがとう。そして、初めまして。あとはそれから……ようこそ、かしら。騎士さま」
呆然しきりの少年に手をさしだす。
その手は、もう血にまみれてはいなかった。
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