1章3話 - 邂逅

「――たすけて」


 かすかな悲鳴に足をとめる。駅をでてすぐのことだった。

 繁華街の通りをざっと見渡すものの、日曜の朝ということもあり人の姿はまばらで、声の主らしき人影は見当たらない。どうやら公園奥から聞こえてきたらしい。


「ヒロ、どうしたんだ?」

「こっちから助けてって声がしたんだけど……ごめん、やっぱり気のせいかも」

「ふーん。じゃあ行くか」


 言うが早いか、ナオは公園の入り口にむかって足を踏みだす。あまりに自然すぎて、逆にこちらが面食らってしまった。


「え、ええっ? ちょっと待って、学校に遅れるよ?」

「ここ突っ切ったほうが近いんだよ。誰か池で溺れてるかもしれねえし、ちょうどいいじゃん」


 ナオは入り口付近の掲示板を指さした。『がしら公園案内図』と書かれたプレートには、おおまかな見取り図が描かれている。確かにすぐそばには池があるし、園路を通ったほうが学園まで近道だ。


「あ、ありがとう!」

「別にいいって。今更だろ?」


 笑って受け流された。それくらい日常的に迷惑をかけているということなのだが、彼にとってはそれこそ「今更」なのだろう。


 好意にあまえて踏み入った園内は、けれどと言うべきかやはりと続けるべきか、しんと静まりかえっていた。すいべりまで来たものの、ひとりのなみもない。しんぺきいろをした鏡面がしずしずと広がっている。


「やっぱり気のせいだったね……って、ナオ?」


 振り返って、息をんだ。

 親友がいない。


 あわてて周囲を見渡す。いない。隠れているのかと思い、雑草を踏まないようにしながら大木の裏にまわってみる。やはり影もかたちも見当たらない。


 ならば先にひとりで行ってしまったのだろうか。違う。そんなはずはない。彼は誰よりもヒロをよく知っている。ヒロだって、誰よりも彼のことをよくわかっている。彼にかぎって、こんな冗談やおふざけをするはずがないのだ。


「ナオ、どこ? 返事をして!」


 不安に駆られ、走りだす。

 前方に、数名の人影がみえた。なにか知っているかもしれない。


「あのっ、すみません! こちらに僕と同い年くらいの――……」


 すぐそばまで駆け寄って、がくぜんとする。

 それは確かに人だった。人のかたちをしていた。初老の男性が三人。ひとりはキセルをくわえ、またひとりはこくたんのステッキを、あるいは小型犬を繋いだリードを片手にして、なごやかにだんしょうしている。そういうていだった。


 ……そういう、ていだった。

 動いていないのだ。彼ら全員、小さな犬をふくめて、石像のように固まっている。


「――そんな、」


 二、三歩、蹈鞴たたらを踏む。なにかやわらかいものが靴裏に触れた。足下を見遣れば、バッタをくわえたトカゲがいる。

 今にもまれようとしているバッタに逃げだす素振りはない。トカゲも同様に、えんはおろか、かくしたり逃げだす様子はまるでない。


「……ぅ、あ、」


 今来たばかりの方向にむかって後退あとじささった。早鐘をうつ心臓はうるさくて、でもこの世界はあまりに静かで。物音ひとつなくて。


「なに、なんで……? こんな、まるで時間が凍って――……!?」


 なぜ今の今まで気付かなかったのだろう。静かなのではない、静かすぎるのだ。誰もいないのではなく、どんな生き物も凍りついて動かないのだ。

 まるで、この世のすべてから隔絶されたかのように。


「……っ!」


 骨の髄まで悪寒が冴えわたる。無意識のうちに、親友に助けを求めようとした、そのときだ。



「――だれか、たすけて!」



 眼前の景色に、亀裂が走り。砕け。

 轟音を伴奏にして、光が、――銀色の少女が飛び込んできた。


「なっ……!?」


 衝突の惰力を殺しきれず、少女を抱きとめながら転倒する。


 アスファルトに打ちつけられてもだえるのも束の間。痛みにすがめた双眸は、万華鏡のごとき世界をうつしだした。光の破片が、少女の銀髪とともにきらめき、夢幻の美を織りなす。はしばみ色の双眸からあふれる涙が、淡い桜色にそまったいとけなくもまろい頬をつたい、流れ、ヒロの頬をはらはらと濡らしていく。


 忘れがたいほど美しく、なのに、なぜか懐かしい。

 そう、たとえば、生まれるまえに一度出逢であっているかのように。


「き、みは……」

「おねがい、あたしと一緒にきて! シャロンをたすけて!」


 銀の少女が、ヒロの手をつかむ。そうしたときにはもう、呆然しきりの自分を連れて、元いた場所へ駆けだしていた。


「ちょっと待っ……って、えっ?」


 勢いにのまれ惰性で走りだし、顔をあげて、――驚愕する。いまや世界は、数秒前の面影をまったくとどめていなかった。


 あるのは黄金。あまねくごうしやそうごんをかきあつめ、ごうがんそんすいをきわめた、きんおうけつあや

 さきほどまで広がっていた公園や住宅地、都内遠景にいたるまで、すべてがきらめく彩華さいかにぬりつぶされていた。


「……なに、これ。……またいつもの夢?」


 場所を問わず、昼夜を問わず、幾度となく夢をみてきた。闇の黒、血液の赤、髑髏の白で覆われて、濃厚な死穢しえをそこかしこに撒き散らす、ざんけつの大地獄。今回のこれも、あれと枝葉が異なりながら根土をおなじくする白昼夢なのではないだろうか。


 だって直前に生き物を踏んでしまった。普通の人にとっては「たったそれだけのこと」だが、ヒロは違う。精神を暴走させ、悪夢にひきずりこまれるには充分だ。

 しかし繋いだ少女の手のぬくもりが、駆けぬける石畳の硬さが、これは現実なのだと否定する。


 そして現実にも凄惨たる地獄はうまれいでる。銀の少女に「たすけて」と乞われたことを、今、まざまざと思い知らされた。


「シャロン! カイン!」

「まだ殺すな? そりゃァどういう了見――って、あァん?」


 カインと呼ばれた暴虐者がゆっくりと振り向く。


 おぞましいほど美しい青年だった。月光のような涼やかさと、月光を映しとるえいじんせいぜつさを、相矛盾することなく兼ね備えた金色こんじきしょう。そんな彼の足元で、金髪の少女が倒れ伏していた。遠目にもわかるほど血だらけのていだ。


 理屈をぬきに、理解する。

 彼こそ、このきらめく黄金世界の主人であり、彼女たちにとっての死神なのだと。


「なるほどなァ、コイツじゃ餌として役者不足だから保険をかけてたってワケか。てめえから持ちだした話とはいえ、しゅしょうな心がけじゃねぇの」


 よくわからない独り言をいいながら、青年は足元の少女を踏みなじる。瀕死の少女がうめき、身を震わせた。


「カイン、やめて! シャロンにひどいことしないで!」

「……う、ぁ、パン、ドラ……っ? どうして、もどって……!?」


 少女の双眸が、ヒロをとらえた。うつろにひらいた唇が、しかし舌を寸断する勢いで閉じられる。石畳をすべるだけだった五指は、血だまりのなかにあってなお、叛逆の意志を爪先にまで宿した。


「――あああッ、あッ、がはっ……!」


 獣のような咆哮と共にたちあがろうとした少女を、しかしカインはいちべつだにせず黄金の刃で貫き、ふたたび地に縫いとめる。血潮が花びらのように咲き誇った。


「うぜェ。てめえはもう用済みなんだよ。……さてと、そこのクソ餓鬼がきども、」


 だが金の少女はあきらめない。カインの足首を血まみれの手でつかみ、地面を穿うがつ極大の刃ごと身体を起こしにかかる。


「……せ、ない……行かせないわ……! あなたの相手は、この私よ!」

「ハッ、せっかくの増援だ。たぬきりでもしてやがりゃイイものを」

「冗談じゃない! ただの一般人を見殺しにするくらいなら死んだほうが百倍ましよ!」


 一般人という単語に、カインはまゆひそめた。しかし激情に駆られた少女は気付かないまま、再度ヒロたちにむかって決定的な言葉を叫ぶ。


「パンドラ、どうしてもどってきたの! そこのあなたも、その子を連れて早く逃げて! こいつはあなたみたいな普通の人間がどうにかできる奴じゃないんだから!」


 ――刹那、すさまじい殺気が燃えひろがった。


 彼の狂気に呼応し、黄昏色が眼界を覆いつくしていく。それでも、いな、それゆえに、彼のまとう黄金の輝きはひときわ深くえわたる。


「ふはっ、はは、はははは! なァるほど。そこのはただの迷子ってか。期待して損したじゃねぇか、よォッ!」


 カインはこうしょうするどく、シャロンの腹を穿せんしている剣をひきぬいた。彼女が蹈鞴たたらを踏むより先に、手にした白刃で銀蛇をえがき、ざんをなす。刃の軌道は、そっくりそのまま赤きほんりゅうとなった。


「シャロン!」


 パンドラが衝動のまま駆けだす。みずから捕まりにきたも同然のこうに、カインはただ舌なめずりするだけでよかった。


「あうっ!」

「まだるっこしい。最初からこうしておきゃァよかったぜ」


 あっという間に捕らえ、片手で首をつかみ、宙づりにして――


 ――ごきん。


 手首をひねると同時、聞きなれない音が響く。


 それだけだった。それですべてが終わった。

 静寂が満ちる。


「……」


 ヒロは、一連の出来事を呆然と見ていた。見ているだけだった。見ていることしかできなかった。

 シャロンと呼ばれた少女が必死にあらがうさまも、カインと呼ばれた青年が彼女たちにざんたる悲劇をもたらすあいだも、そして今、この場から悠々と立ち去ろうとしているところも。


「……あ、」


 死。死んだ。殺された。

 違う。殺した。見殺しにしたんだ、僕が。


「あ、ああッ……」


 膝をついた。

 遅すぎる自覚が、えつの波をつれてくる。


「……やだ、い、やだ、いやだ、こんなのは……絶対に嫌だッ……!」


 物心ついたときから、ずっと夢を見てきた。たくさんの人々が死んでいく。手足や目口を持たないヒロは、それを眺めることしかできない。自分が身代わりになれたらいいのにと祈ることしかできない。

 けれど、その祈りは、夢だから、現実には成りえないから望んだわけじゃない。吹けば飛ぶような軽い気持ちで願ったわけじゃない。


「誰かが死ぬのは――もう嫌だッ!」

「……なにィ!?」


 無念に爪をたてる地面から、幾筋もの緑光がほとばしった。石畳に亀裂が走り、その裂け目から命がく。石と金属が支配する世界に、緑がひろがっていく。


「オイオイ、マジかよ。よりにもよってオレ様の世界で〈植物〉だとォ……!?」


 終始、余裕をくずさなかった殺人鬼が、驚愕の声をあげた。なにが起きているのか自分でもよくわからない。ただ、てのひらが熱い。心が痛くて、苦しくて、どうしようもない。

 せりあがる衝動のまま、思いの丈を、ただ叫ぶ。


「――生きて、生きて、どうか生きてえええっ!」


 爆轟音が響き渡った。

 黄金のしょうもうが、石造りの建造物が、悪鬼羅刹たちが、りょくせんによって吹き飛ばされる。


 一体なにが爆発したのかわからない。世界はふたたびげきとして音をうしなった。しかしそれさえも公園のように時間がとまったのか、自分の耳がいて、一時的な難聴状態になっているだけなのか判然としない。


 粉塵が晴れていく。くずれた瓦礫の輪郭があらわとなり、爆発の凄まじさを物語る。彼らは一体どうなったのだろう。


 けほ、と音がした。

 男のものではなく、まだとしも行かない幼女のもの。

 カインの足下で、彼に殺されたはずのパンドラがせている。


「……驚いたぜ。息があるどころの話じゃねェ。首の骨すら完治してやがる」


 有り得るはずのない生者から、いるはずのない存在へ。興味の矛先は、一瞬にしてわった。

 さながら三日月のごときどうあくの笑みをうかべ、カインはゆっくりとヒロにむかう。


「――てめえ、まさか……」


 構えは空々、歩みは悠々。

 だがそんなカインの背後で、ゆらりと立ちあがる影があった。

 幾度となく地にたたきつけられ、なぶられ、それでも騎士としての誇りを見失わんとする者。カインが月ならば、彼女は太陽。黄金の騎士シャロン・アシュレイが剣をふるう。


「その少年から離れなさい!」

がえったのはてめえもか、シャロン!」


 なんなく剣技をかわしたカインは、腹をたわめてくつくつとわらう。


「あァ、イイぜ。オレ様はいま最ッ高にイイ気分だ! 誠心誠意、真心こめてってやんよォッ!」


 瞬間、カインの右手を核として空間がひずむ。黄金の濃霧がうねり、惑い、質量をともないながら殺戮の形状をとっていく。シャロンもおなじだ。彼女が孤剣をかまえると、そのほうぼうをそなえた兇器ごと、空間はゆがみ、きょうさくされ、さらなるのかたちとなる。


 かたや重機関銃ヘヴィ・マシンガン、かたや刺突剣スティレツト

 戦争がはじまろうとしていた。

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