1章1話 - 礼拝堂

じろぎひとつしないから、敬虔なようにも、ひと眠りしているようにも見えますね」


 背後からの声に、ヒロはゆっくりと双眸をひらいた。

 ステンドグラスから降りそそぐ朝陽が、まろみをおびて礼拝堂を満たしている。血と肉と骨でうまれた地獄など、もうどこにも見つけることができなかった。


「おはようございます、シスター」

「おはよう、ヒロ。なかなか戻らないから心配しましたよ」

「……すみません。また白昼夢を見ていたみたいです」


 つい今し方のことなのに、夢の内容はもう曖昧だ。けれど物心ついたときから、ずっとおなじ夢を見続けている。


 人々が死ぬ。死んでいく。積み重なった屍は、やがて塔のごとくそびえたつ。手足はおろかもくこうすら持たないヒロは、なにもなせず、誰も救えないまま、墓標となって佇む。――そんな地獄あくむを。


「時々、思います。今こそが幸せな夢なんじゃないかって。本当の僕は、とっくに死んでいるか……」


 ――幸せな夢さえ見ることも望めないような極悪人ではないか。


 続く悲鳴を、えんすることで殺した。

 言ったところでなにも変わらない。どんな答えが返ろうとも、未熟さゆえに、きっと受け取り損ねてしまうだろう。老い先短いシスターの憂いを増やすだけだ。


 ヒロを我が子と言ってはばからない優しい彼女に、希死きし念慮ねんりょという名の刃を振りかざして傷付けたくはない。たとえ腹におさめた、音として生まれ得なかった言葉たちを、もうとっくの昔にすくいあげられていようとも。


「……いいえ、なんでもありません」

「ねえ、ヒロ。あなたは生きている。ここに存在している。それは罪ではありませんよ」


 助けてと言えなければすがりつくこともできない子供に、ほんのすこしだけさとす響きを織りまぜて、彼女は続く言葉を舌にのせた。


「どうしておまえが生きているんだ、生き延びたんだ。……そんなことをナオに言えますか」

「言えません、シスター! それだけは絶対に……!」


 今度こそヒロは振り返った。

 真正面から彼女を見据みすえ、強く、確かな響きで即答する。


 ふたりが養護施設に身を置くことになった事件から、もう十五年ちかくが経とうとしていた。それだけの年月、ヒロをむしばんできたものが罪悪感であるならば、救い続けてきたものこそが彼だ。たとえ冗談でも「死ねばよかったのに」なんて言えるはずがない。


「ナオは、僕の……!」

「俺がなんだって?」


 底抜けに明るい声が響く。

 驚いて入り口を見遣れば、まさに話題の渦中にある人物がいた。


「ナ、ナオ……!? どうしてここに……」

「なんでって、そりゃお前を呼びにきたんだよ。もう出発しねえと学校に遅刻するぞ?」


 だかなお。その名から受ける印象通り、空の広さや雲の自由気ままさ、水の柔軟さを体現した幼馴染みは、思春期にありがちな気難しさとはまるで無縁で。けれど唯一しゃに構えるものが宗教だった。

 普段、彼は礼拝堂に近付きもしない。なのに今だけは躊躇なく上がりこむところを見ると、どうやら思っている以上に時間が押しているようだ。携帯電話を持っていないから気付かなかった。


「おはようございます、ナオ」

「はよ、シスター。ハッピー・イースター」


 歌うようにささやき、流れるような動作で渡したのは、昨夜、施設のみんなで用意したイースター・エッグだ。ここに来るまえ、食堂から拝借したのだろう。


「ありがとう、ナオ。復活祭という良き日、あなたに神の祝福がありますように」

「あー、そういうのどうでもいいから。シスターも飛行機でぎっくり腰になりませんよーに」


 生返事もそこそこに、ヒロには学生鞄を投げて寄越した。受けとめたのを確認するや否や、あっさりきびすをかえしてしまう。まるでおくびにもださないけれど、やはりここに長居したくないのだろう。けれど。


「ナオ、待って。今日が最後だから」

「……しょうがねえなあ」


 言わんとすることを察して、彼の歩みがとまる。これ幸いと隣にならび、一緒になってお辞儀した。


「シスター。今までお世話になりました」

「ありがとーっした」

「どういたしまして。……今日でお別れなんて、寂しくなりますね」

「はい、本当に……。今でも信じられません。これこそ悪い夢なんじゃないかと思います」


 涙腺が緩みそうになるのを、ぐっとこらえる。


 今日、ヒロは養護施設をでて、ナオと共に全寮制の高校へ進学する。シスターは明日の復活祭を見届けたあと、生まれ故郷ヴァチカンへ帰郷する予定だ。彼女の年齢を考えると、もう生きて会うことはないだろう。


 彼女と出会ってから――この養護施設に身を置いてから、もうすぐ十五年目になる。ここは様々な事情の子供たちが来るけれど、とりわけ自分は厄介者で、いつも周囲を困らせてきた。施設の仲間も、同級生も、教師ですらも、離れることができて清々するだろう。……ナオとシスターを除いては。

 ここにいるふたりだけが理解者といっても過言ではない。寂しくないわけがなかった。


「ヒロ、泣かないで。どうか別れを悲しまないで。別れは出会いと表裏一体。死がなければ生もないわ」


 だから、と、彼女の声音に想いが灯った。


「あなたたちも生まれ変わってください。過去に囚われるのではなく、今を生き、未来にむかって進んでください」


 ステンドグラスから透けたやわらかな陽光が、キリストの磔刑像たっけいぞうとシスターに降りそそぐ。イースター・エッグを抱えた彼女は聖母マリアにみえた。


 復活祭イースター


 キリスト教系列の養護施設育ちで、毎日のように祈りを捧げるとはいえ、基本的にヒロは無宗教者だ。地獄と天国。審判と復活。それらの概念を知ってはいても、実感をおぼえたことはない。


 ……いや。ただひとつ例外がある。

 あの悪夢を地獄とよんでいいのならば。


 物心ついてから、幾度となく地獄をみてきた。目の前で、たくさんの人々が死んでいく。痛い、苦しいとうめく者がいた。ヒロにむかって死ねと叫ぶ者や、いっそ殺してくれと縋りつく者さえ。


 キリストが磔刑たっけいしょせられ、原罪があがなわれたように、ヒロの死であの地獄にしゅうえんがおとずれるのだろうか。命を捨てることで、誰かを救えるだろうか。


 生まれ変わるには、一度死ななければならないのだ。


「相変わらず説教くせえな。俺は俺のやるべきことをするだけさ」

「ありがとうございます、シスター。そうれるよう努力します」


 かくあれかしアーメン

 十字をきって背をむけた。新しい世界にむけて、今、歩きだす。

 夢からめるときが来たのかもしれない。

 けれど夢から醒めたあとの世界に拡がっているものを、いまだなにひとつ知りはしないのだ。

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