閑話.後世の歴史家。

織田政権が長く続く理由は数多くあげられるども、必ず議論になる1つが『本能寺の変』であった。

明智-光秀あけち-みつひでが起こした事件は、五畿内に留まらず、中国・四国から奥州までの地方にも波及した。

特に東北では信照のぶてるの死を信じて、蜂起した領主が数十人もいた。

天上天下てんじょうてんげ唯我独尊ゆいがどくそん、男子に生まれたる者、一度は天下を望まなければ、生きている意味がない。

小鳥の上にいた名将らが消え、自分が大鳥になった気分で立ち上がった愚か者らは、調子に乗ってガタガタの主家を襲い、次に他国から来た小大名を攻めた。

すべての武将が織田家への忠誠心のふるいに掛けられている事も知らず。

小心者の小悪党にあぶり出されて、反織田派の浪人やおつむの足りない野心家が集った。

池の底が破れて、濁流となって流れ出したようだった。

だが、それも数日の事で終わった。

信照のぶてるの生存を知った領主らは、分裂を起こし、討伐軍に降伏し、抵抗する者は次々と討たれた。

反乱を起こした首謀者は、一族郎党最後まで抵抗して滅んでいった。

織田家を裏切り、再び寝返った者が許されるハズもなかった。

討伐後に処分された。

そこに温情という優しさはない。

手心を加えれば、次は自分が疑われると疑心暗鬼ぎしんあんきとなっていたからだ。

だが、親の罪を子に及ぼすのは織田法に触れた。

残虐な行為を行った者も罪に問われて、それもまた切腹を言い渡されたと言う。


三条河原で処刑された者は814名。

切腹を許された者は228名。

処分を受けた者は3,911名。

他に反乱を起こし討たれた者は35,873名。

法を犯して死刑を賜った者は11,122名。

同じく罰を受けた者は6,882名。

自主的に家督を譲って隠居した者は5,321名

中には、この事件を政争に利用して、敵対勢力を排除する為に動き誅殺された者も含まれている。


幕府の報告書には、反乱に与していたので処分したと書かれていた。

反乱が起こらなかったのは五畿内周辺のみだった。

光秀みつひでが放った小さな種火は、反織田派をすべて焼き尽くし、織田家の基礎を盤石なものとした。


幕府に逆らうとどうなるかと一罰百戒いちばつひゃっかい(一人の罪や過失を罰することで、他の多くの人々が同じような過失や罪を犯さないよう戒めとすること)で知らしめたのが大きい。

尤も一罰というには死者の数が凄まじく、どの大名も甘い誘惑は幕府の手の者の誘いではないかと警戒するようになった。


後に蝦夷国 (北海道、樺太、千島列島)、

南海国 (南琉球から東太平洋とオーストラリア)、

西北の外甲斐国 (大陸北部の武田国)、

北北の外奥州国 (西北米北部の伊達国)、

東北の外越後国 (西北米中部上杉国)、

小ハン国 (大陸中部の旧東北諸侯連合国)、

大アユタヤ国 (前田国)、

東南諸侯連合国 (三好、長宗我部、荒木、尼子、宇喜多等々)、

新南宋諸侯連合 (台湾を基板に置く主に旧九州大名)、

南海諸侯連邦国 (豊臣、丹羽、滝川、橋本、浅野、池田等々)

と分裂して行くが、様々な反乱に耐えたのも、日の本のみ突出した高度な技術と強固な幕藩体制が維持出来ていたからだ。


信照のぶてるを支えた忠臣に、望月-千代女もちづき-ちよじょ加藤かとう-三郎左衛門さぶろうさえもん前田-慶次まえだ-けいじ豊臣-秀吉とよとみ-ひでよしの名があがる。

(※.秀吉は美麗島ふぉるもさ(台湾)統一の褒美に豊臣の姓を頂く)

必ずと言って揉めるのが、明智-光秀あけち-みつひでは命を賭して仕えた忠義者か、稀代の大悪党かという議論であった。

本能寺の変の調書には、非公式の付録が付いていた。

囚獄司ひとやのつかさ使部しぶが書き残したモノだ。

そこには光秀みつひでの心情が残されていた。


 ◇◇◇◇


明智-光秀あけち-みつひでは西洞院の西にある左獄さごくに入れられた。

調書が終わると暇を持て余した光秀みつひでは自らの半生を語った。

それを使部しぶが書き残し、調書の付録として付けた。

非公式な文章である。


光秀みつひでは幼き頃に父を亡くした。

叔父は下剋上を成して明智家の当主となり、光秀みつひでは小さな領地を貰って、叔父に仕える事となった。

美濃の大名も下剋上を成した斎藤-利政さいとう-としまさ(斉藤道三)であった。

光秀みつひでは家臣が主君を裏切る下克上、戦国の世を憎んだと語る。

そして、すべてを覆す為に多くの書を読んで学んだ。


「そして、私は1つの結論に行き着いたのです」


聖徳太子の御代に仏教を受け入れたのは疫病などが蔓延し、その世を救う為に仏に帰依した。

そして、300年の時を掛けて桓武帝の御代で比叡山と高野山が完成して仏教国となった。

然れど、一向に疫病が衰える事はなった。

其れ処か、世は乱れ、人心は帝から離れた。

天下の大乱を起こした。

平-清盛たいらのきよもり源-頼朝みなもとのよりとも足利-尊氏あしかが-たかうじと変わって行き、遂に『応仁の乱』が起き、人心から帝が消え、秩序は乱れ、下剋上が当たり前となった。


『神々は唯一の存在であり、仏様の化身ではない』


神々への感謝を忘れ、邪教である仏教を国教とした事が招いた悲劇と結論づけた。

光秀みつひでは廃仏派となった。

仏教徒を根絶やしにする事がこの国を救う唯一の方法と考えた。

そこに神々の使いが熱田に降臨した。

熱田では土地が豊かになり、飢える者もなく、人々に笑顔が戻った。

熱田明神の生まれ変わりと言われる信照のぶてるを密かに信仰するようになった。

主君である斎藤-利政さいとう-としまさから『蝮土』の研究を申し渡された時は、渡りに船と喜んだ。

堂々と熱田に家臣を送って信照のぶてるを知る機会を得た。


韓子かんしは『倉廩そうりん実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱えいじょくを知る』と説くが、熱田ではそれが実践されていた」


熱田の武将らは隣の土地を奪おうと考えない。

其れ処か、大地にみ渡るように周りにも豊かさが波及している事を知った。

信照のぶてるの熱田に負けぬように領地を改革したが、熱田には遠く及ばなかった。

光秀みつひで信照のぶてるの英智には遠く及ばない事を知った。


「今川の侵略を追い払った時に確信した。信照のぶてる様は本当に神の御使いであると」


光秀みつひでの妄想は極まった。

信照のぶてるに天下を取らせる事が自らの使命と悟った。

この妄想はすぐに実行された。

浅井家と三好家は同盟を結んでおり、織田家と敵対していた。

また、愚かな斎藤-高政さいとう-たかまさ(後の斎藤-義龍さいとう-よしたつ)は同盟国の織田家を滅ぼそうと画策していた。

力の差すら判らぬ高政たかまさを見限った。

信照のぶてるの力を天下に知らしめる策を考えて実行したが、信照のぶてるの不評を買った。


「私は何故かと何度も自答した」


無理矢理に旅に同行し、信照のぶてるの人柄を確かめた。

信照のぶてる光秀みつひでの意見に1つも共感してくれなかった。

光秀みつひでは何がいけないのかが判らなかった。

信照のぶてるを守る者らから貰った『家庭医学書』にその答えが書かれていた。


「私は幼い頃に沢山の書物を読んだ。その1つに医学書『針薬方しんやくほう』があり、戦いの傷の手当を学び、お腹を壊した時の薬の成分などを知り、自ら薬草の調合もしておりました」


光秀みつひでは医学の知識を独学で学んだ。

腹の傷にはケシの殻などを煎じて飲ませるなどを諳んじて見せた。

出産や外科手術のような事もできると言った。

それ故に、『家庭医学書』は目からウロコが落ちるほどの感動を生んだと語る。


「正に神々の知恵が詰まっておりました。凡人には他の医学書と同列に見てしまうでしょうが、根幹がまったく違うのです。私はそれに気が付いたのです」


光秀みつひでは『医食同源いしょくどうげん』、『清潔を尊ぶ』という言葉に感銘を受けた。

祈祷で悪霊を払う事を否定していないが、それでは病魔が退散できない理由が書かれていた。

何故、悪霊が払えないか?

その根源は人であると説いていた。


「何故、悪霊が払えないのか? それは自らが持つ魂が弱っているからだ。魂を強くする為には、身体を鍛え、その身を清潔にして、十分で多様な食事を取る事で鍛えられるのだ。判るか、この感動を。これこそが真理なのだ」


光秀みつひで信照のぶてるが神である証拠を得た。

神でなければ、この知恵をどこで学んだというのか?

信照のぶてるは神であったが、転生する時に神としての記憶を消されて転生した。

しかし、神の知識を持った儘だった。

神々は高天原にあり、神々が人を統治する時代は終えている。

信照のぶてるは神として、直接に統治するのを無意識で嫌っているのではないかと思い、再検証すると間違いないと悟った。


「私は後悔した。信照のぶてる様を天下人にすれば、すべてが巧く行くという浅はかな思いで信照のぶてる様を苦しめてしまった。私はこれに報いねばならぬと思ったのだ」


光秀みつひでは密かに京に上り、義輝よしてる公を影から支える事で信照のぶてるを助けようと画策した。

まず、最大の敵対者である細川-晴元ほそかわ-はるもとの所在を知る為に敵に近づいた。

しかし、光秀みつひで晴元はるもとの所在を知るまでに至らなかった。

そして、『永禄の変』に至った。


隙を見て晴元はるもとを何度も殺そうとしたが阻まれた。

晴元はるもとは用心深く、光秀みつひでの腕ではどうにもならない。

だが、土竜は地に潜っているから捕まらない。

日の下に出た土竜など、信照のぶてるの敵でない事を知っていたので焦らなかった。

それよりも義昭の政権下で権力を得る事が重要だった。

義昭を義輝のように親信照派に導くのが役目とした。

その為にも力が要った。

光秀みつひでは反織田派と積極的に接触し、その情報を監視の忍びに『お壁様、お天井様』と言って渡すようになった。


「私は再び失敗してしまった。義昭を懐柔し、親織田派にできなかったのだ」


義昭は愚かな将軍であり、将軍が武家の棟梁で偉いと勘違いした。

偉いから将軍であり、将軍だから偉いのではない。

それが判らぬと嘆く。

義昭は成り上がり者の典型であった。

図に乗った。

晴元はるもとを無断で殺した事で織田家を憎むようになった。

恐れるべき存在と教えたが逆効果となり、光秀みつひでは政権の端に追いやられ、遂に兵を向けられて京を追われた。


「私の失敗で信照のぶてる様は将軍職に就く事になった。最初の夢が叶った訳だ。虚しかった。己の身を呪った。すべて私が始めた事が原因だ。この失態はこの身のすべてで償うしかないと悟った」


信長のぶながから京に呼ばれた光秀みつひでは敵を洗い出し始めた。

反織田派は当然として、信長に近づく者も敵とした。

さらに、信照のぶてるに臣従し、昔の光秀みつひでのように信照のぶてるを意のまま動かそうとする熱烈な親信照派も敵と見なした。

この敵をすべて駆逐する。

だが、その元凶はやはり信長であった。


「天に二つの太陽は要らぬ。信長のぶながは迂闊過ぎる。少し天下人と唆すだけで騙された。利休りきゅう如きに騙されるようでは天下人の器とは言えぬ。1つ間違えれば、信照のぶてる様と敵対しかねぬ」


光秀みつひで信長のぶながが居なくなっても帰蝶きちょうがいるので問題ないと考えた。

帰蝶きちょうの方が、信長のぶながより器が大きい。

しかも、女子おなご故に敵対者となり難い。

死ぬも生きるも信長のぶなが次第と思いながら、死んでくれと願った。

すべては信照のぶてるに償う為だ。

使部しぶが問い糺すと光秀みつひでは笑った。


「すべて夢でござる。嘘でございます。信照のぶてる様が死んだと聞いて、天下が取れると思った大悪党でございます。ですが、こう言っておけば、後世の歴史家が光秀みつひでは忠義者だったと語るかもしれません。愉快、愉快、あははは」


最後に笑ってごまかし、歌を詠んだ。


『心知らぬ人は 何とも言わば言え

身をも惜しまじ 名をも惜しまじ』

(永源師檀紀年録)


囚獄司ひとやのつかさはこの記録を読んで焦った。

こんなモノを天下に出せば、再び荒れてしまう。

見なかった事にして倉に仕舞わせた。

そして、3年後に囚獄司ひとやのつかさが交代すると、それが発見されて再び天下を騒がせた。

あの『本能寺の変』は信照のぶてるの謀略が定説であり、公式には光秀みつひでの謀反と残されていた。

そこに一石が投じられ、光秀みつひで独断説が巻き起こった訳だ。

そして、利休と光秀の仲違い説、義昭の謀略失敗説なども加わってしまった。

後世の歴史家は真実に辿り付けずに様々な説が生まれた。


光秀みつひでは野心にその身を燃え尽きさせたのか?

その身を信照のぶてるに捧げて従ったのか?

すべてを独断で行ったのか?


結局、光秀みつひでの心は誰にも判らない儘であった。

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