第74話 天山麓の戦い(1)
(永禄5年 (1562年)2月中旬)
北九州は輝ノ介 (義輝)の命令で混乱した。
輝ノ介の『洗礼を受けた武将の首を差し出せ』と言う命令は
この三家は上へ下への大騒ぎである。
養子縁組で結ばれた両家は、幕府に従うという
大友家の属国である豊前、筑前、筑後の諸大名は幕府への恭順を示すが、キリシタンの隔離が始まると坊主共が教会を襲い出し、坊主に賛同する領主とキリシタンを守ろうとする領主と大友家の命令に従う領主に分かれて争い始めた。
各地に配置された大友家の代官は巧く兵を集める事ができず、折角集めた兵を領内の鎮圧に使う有様で『肥前
さらに肥後では大友家の手綱が緩んだのを知って、鎮静化した叛乱が再燃し、日向の伊東家はキリシタンが少ない事で隔離に成功して軍を編成したが、安全に通れる道が確保できずに日向に留まって大友家の指示を待った。
さて、逃げ出した
主家の北松浦党が幕府の船に乗せて貰えるほど良好な関係を築いていると聞いたからだ。
その家臣の黒川家も幕府に付くと
この城番
◇◇◇
(時間は少し戻って)
輝ノ介 (義輝)が命令を発した直後、唐津湾と伊万里湾に挟まれた東松浦半島の根元にある
しかし、義昭と織田がイザコザを起こすと、義昭を嗜めて勘気を受けて出仕を取り止めた。
実家の高倉家が参議を務める公家の名家でなければ、姉の
等々、名家の出や機転が利くが一癖も二癖もある者ばかりが左遷されたのである。
さて、半島の先端は幕府が接収して名護屋城を建築していたが、それだけでは防御として手緩い。
そこで奉公衆は当事者を呼ばすに、
こう言った交渉は
しかし、
荒地を接収したのと訳が違い、今度は『城を明け渡せ』と言ってきたのだ。
にこにこと「はい、そうですか」と行かない。
城主に断られて恥を搔いた事を恨んだ三人は三城主を謀反人に仕立て上げた。
『三城に謀反の気配あり』
輝ノ介や秀吉、長秀は首を捻った。
領民は少なく、集まる兵も知れている三城の領主に幕府と対抗する気概などあるハズもない。
良好な関係を保っていた幕府がいきなり豹変したのだから戸惑うのも当たり前であった。
三城主も弁解の使者でも送ってくればよかったのだが、頭に血が上った領主達は使者の申し出を蹴って塩を撒いて、そのまま城に留まってしまった。
この機会を逃す輝ノ介ではない。
「三城の城主をここに連れて参れ」
決して『討伐』とは言わない。
奉公衆らが立ち上がり、さらに謀反の嫌疑が掛かっている九州の諸大名の名代も同行を願い出ると、土ばかり弄って活躍の機会がなかった三好三人衆や
輝ノ介は『好きにせよ』と同行を許した。
三城は名護屋御殿から南に一里 (4km)ほどしか離れていない。
皆、手勢のみで出陣したが、それでも5,000人近い兵数が手柄を求めて襲い掛かられては一溜りもない。
守りの砦があっさりと陥落する。
「此度は申し訳ございません」
まだ、城も陥落していない内に騒ぎを聞き付けた
日高城の日高家、高江城の有浦家は波多家の重臣であった。
支城が襲われて援軍に向わねば武門の恥であり、波多親は頼りなしと領主達から見限られてしまう。
だが、幕府に逆らうなどと馬鹿な事はできない。
三城を救う為に急いで登城して頭を下げたのだ。
「すべての城を差し出します。どうかお怒りをお鎮め下さい」
「幕府に従うと言うのだな」
「
「よくぞ申した。城攻めは中止だ」
輝ノ介はすぐに早馬を走らせた。
唐津から東松浦半島一帯を支配していた波多親を半ば強引な形で
それでは遅いと輝ノ介は考え、三城が抵抗したのを利用した。
断固とした姿勢を見せる事で波多親と上松浦党の者らを脅したのである。
思惑通りに波多親は幕府方に降った。
もちろん、波多親もこの思惑を悟った。
幕府に命じられたと言って素直に従えば、波多親は家臣から“頼り無し”と烙印を押されるかもしれない。
家臣一同を集めて評定を開き、煮詰まった所で『幕府の命に従う』と言わねばならない。
だが、家臣の領主達が“キリシタンの一時隔離か、改宗か”と言う命令に素直に従うだろうか?
また、洗礼を受けた武将も同じく、改宗か、隠居を迫る必要がある。
領主をまだ降りたくない馬鹿者が出ている。
領内が揉める事は必定だった。
そこに三城が攻められると言う話が名代から知らせてきたので波多親は腹を括った。
秀吉から織田水軍に誘われているくらいだ。
上松浦党を切るつもりはないと読んで、幕府に臣従する為に名護屋の御殿に赴く事を決めた。
輝ノ介も臣従を認めてくれた。
用事を済ませて
家臣らも幕府の本気を知れば、肝を冷やす。
抵抗すれば、幕府軍と上松浦党が襲い掛かってくると、波多親はその場で何度も「容赦しない」と言った。
こうして、幕府は東松浦半島を完全に掌握したのだ。
「我が領主、
波多親が
少弐冬尚に認められて背振山地の山内二十六ヶ山(山内を治める26の豪族)を束ねる総領に抜擢された。
背振山地に誘い込んでゲリラ戦で
毛利攻めの時も山内二十六衆が居る為に全軍を率いて行けなかったのだ。
幕府の命で停戦となっていたが、小さなイザコザはずっと続いていた。
上々の滑り出しだと思っていると、今度は博多から救援を求める使者がやって来た。
「筑前から火の手が上がるとは
「恐れながら申し上げます」
「
大友家家老
意に沿わなければ、その場で斬られても文句が言えない相手だ。
「我が殿に送った書状は府内に届いた頃でございます。筑前で火の手が上がったなど、まだ知る由もございません。もし宜しければ、主君になり代わって鎮圧の許可を頂きたとうございます」
「豊後500で鎮圧できるか?」
「九州勢の兵も出せれば、問題ございません」
しかし、豊前・筑前・筑後・肥後・日向からも土方を監視する為に1,500人ほどの兵が送られており、キリシタンを除いても1,200人ほどが残っていた。
さらに、薩摩と大隅から
薩摩・大隅にキリシタンはいないので土方をそのまま兵に使える。
合わせれば、3,400人になる。
「大友家の下などに付きたかなかトッ」
兵数がほぼ同じで下に付くなどあり得ない上に、肩を並べて仲良く戦うなど「絶対に嫌だ」と拒絶した。
「少しは仲良くしようという気はないのか?」
「まったくございません。この
「好きな事を言う奴だな」
「お気に召しませんか?」
「余は気にしておらん」
足りない兵は三城の戦いを途中で切り上げさせられて手柄を取りそこなった三好三人衆や
大友勢に加え、畿内・中国・四国勢に付いて行くように命じられ、総勢1万5,000人の連合軍が結成された。
大友勢の総大将は
連合軍は筑前、筑後を回って肥前の東から侵攻する。
その目付に
名護屋にはその他の奉公衆の手勢、秀吉・長秀の織田幕府勢、毛利勢が居残りと決まった。
尚、居残り半数と北松浦党や山内二十六衆を糾合すれば、ほぼ同数の兵で唐津から松浦川を遡って侵攻する事ができ、東西から挟撃する事も決められた。
筑前、筑後の鎮圧を待って名護屋を立つ。
翌日、軍が編成されて
「
連合軍が出立した翌日に
肥前が落ち着く前に
動揺する奉公衆に後ろで大人しく座っていたお市が立ち上がった。
「兵は数ではないのじゃ」
「よく言うた」
「唐津と佐賀を結ぶ街道は狭く、大軍が通り難いのじゃ」
「ならば、こちらからも討って出るか」
「討って出るのじゃ」
秀吉は顎に手を当てて「またあれをやるだか」と顔に皺を寄せて首を捻り、長秀は髪を乱して「仕方ないのぉ」と頭を搔いた。
二万人の捕虜がいる為に名護屋の兵を多くは裂けず、領内の調整に入った北松浦党は間に合わない。
山内二十六衆は背振山地の反対側である。
攻めてくる
さらに、
どうやら
今の名護屋に両面作戦を取るような余裕はない。
半ば承知の秀吉らは渋い顔をするだけだが、何も知らされていない奉公衆らは大いに慌てた。
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