第72話 信照の瀬戸内海遊覧。

(永禄5年 (1562年)2月中旬)

俺は船の上から瀬戸内海の美しい島々を見て楽しんだ。

摂津の大輪田泊おおわだのとまり(福原)を出ると明石海峡を抜け、小豆島を越えると島々が広がる。

この島々によって作られる複雑な潮流は地元の案内なしで通る事が難しい。


遣唐使は難波津から出航し、武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、那ノ津(筑紫館)、柏島(唐津)、平戸を経て海を渡った。

難波津から那ノ津 (筑紫館)まで152里 (600km)である。

天平年間 (729年~748年)、行基によってほぼ一日航程の間隔で室生泊、韓泊、魚住伯、大輪田泊、河尻泊………と湊が開かれて遣唐使船の基盤ができたと言う。

ホント、柏島(唐津)まで何日掛かったのだろうか?


室町幕府の日明貿易になると、300石から1,000石の船が上げ潮や下げ潮を待つための『潮待ち港』を含めて、門司、深溝、上関、厳島、富田、揚井(柳井)、院島(因島)、尾道、田島、とも塩飽えんほう、牛窓、室津、印南都麻、藤江浦、山田浦、福原などを利用した。

今でも船の『風待ちの港』として利用してされている。

航程は三日から四日である。

すべて風次第だ。

灯台を設置して夜中も走れるようになれば、二日から三日に短縮できるかもしれないが、潮の流れが複雑な海域での夜間走行は難しい。

それも自走できる水蒸気船が一般化するまでの間の話だ。

そう遠い話でもない。


因みに、北条家や北畠家が通る太平洋航路は星空を目印に夜間も走行できるので、風次第ではこちらより早く薩摩の坊津ぼうのつに到着できる。

だが、あり得ない。

一番遠い相模の小田原では、光通信でその日の夕方に伝わっているが、それから兵を集める。

兵を集めるのに2日、食糧の積み込みが必要ならば出航は5日後くらいだろうか?

熱田は臨戦態勢だったので翌日の夕方には出航できていた。

大輪田泊おおわだのとまりに移動した俺とほぼ同時に船団も到着した。

その間に定期船も到着して状況を知る。

手紙には輝ノ介とフランシスコ・カブラル司祭の面談の内容が伝わる。

馬鹿としか思えないが、龍造寺りゅうぞうじ-隆信たかのぶの会見に成功し、調子に乗った司祭が倭国王に戻してやると輝ノ介に降伏を勧告した。

確かに織田家に将軍職を奪われた元将軍だ。

息子に将軍職が戻ったが、執権を置いて傀儡かいらいにされている。

悲劇の元将軍様だ

俺は元将軍を顎で使い、虚栄心を満喫する悪党のようじゃないか。

戻って下さいと言っても嫌がったのは輝ノ介自身であり、そんな事情を知らない者にとっては、元家臣に従わされている悲劇の将軍なのだろう。

俺の悪名がどこまでも伸びてゆく。

フランシスコ・カブラル司祭はそんな輝ノ介を助ける救出者ホワイトナイトとなったつもりなのだろう。

怒った輝ノ介は目に止まらない速さで後ろの刀を取り、一瞬の間合いでフランシスコ・カブラル司祭の首にあったロザリオを切った。


「先の定期船でフランシスコ・カブラル司祭の馬鹿さ加減が判りましたが、状況が流動的過ぎます」

胤治たねはる官兵衛かんべえがあの馬鹿を使いたがるのは判る」

「手の平に転がし易そうです」


白井-胤治しらい-たねはる黒田-官兵衛くろだ-かんべえはフランシスコ・カブラル司祭を泳がす事で、龍造寺りゅうぞうじ-隆信たかのぶを蜂起させ、そのキリシタンを追い詰めて、困窮を伝えさせてイスパニアの艦隊に救援を求めさせる策を思い付いたのだろう。

九州王を約束された隆信たかのぶは謀反人だ。

約束したフランシスコ・カブラル司祭はインド管区長代理であり、インド管区長が不在の今、宣教師で事実上のアジア総司令である。

その総司令から救援を求められたイスパニアの艦隊は無下にはできない。

全軍か、少なくとも半数近い艦隊が平戸に来る。

寧波にんぽーなどの明国の湊に寄港できないイスパニアの艦隊は美麗島ふぉるもさ(台湾)か、琉球で水の補給をしてから平戸に向かう。

そうなると取るべき航路が限定できる。

巧くすれば、待ち伏せて有利な海域で戦う事もできる。

胤治たねはる官兵衛かんべえが好みそうな策だ。

小一郎こいちろうが考えたと言っても驚かない。


「ポルトガル商人の話を信じられるのですか」

「イスパニアで発せられた討伐の命令より、隣の国ポルトガルの港リスボンを出た船が追い抜いた事か?」

「はい、追い付くのですか? イスパニアよりポルトガル商人の方が遅れると思いますが、そこが不思議です」

「別に不思議ではない。どちらも風任せだ。西回りか、東回りかの違いがあるが、日ノ本に来るのに、どちらも4ヶ月から5ヶ月を要する。仮にイスパニアの船が先に呂宋に到着していても船団を出撃させる為に1ヶ月は掛かる。追い付くのは不思議ではない」

「なるほど、準備をしている間にポルトガル商人が追い抜いたのですね」

「その可能性は高い。ポルトガル商人は4月では間に合わないと思った。イスパニアと戦争が始まる前に買えるだけ買おうと急いで来たのだろう。事実がどうかまで判らんが、事実ならば遅れて倭寇のジャンク船も到着するかもしれんな」

「遅れてジャンク船がくれば、確定ですね」

「あぁ、確定だ。但し、それから動いても間に合わない可能性がある」


千代女も『はっ』としたようだ。

現地の思惑を無視して、本国の馬鹿殿が命令を出す事はよくある事だ。

前公方の義昭よしあきがいい例だ。

幕府と織田家が戦えば、どちらにしても権威が傷つく。

全国の諸大名を再び従わせ大戦が必要になり、経済性を考えると絶対にできない。

準備を始めれば、互いに気が付く。

義昭よしあきは準備もなく、織田家に戦いを仕掛けた。

諸大名はいい迷惑だっただろう。


イスパニアの艦隊が準備を始めれば、呂宋ルソンの様子からイスパニアの艦隊の動きが判ると楽観視していた。

馬鹿な王の存在を完全に失念していた。

澳門マカオにいる倭寇やポルトガル商人らの思惑を斜め上からすり抜ける可能性があった。

イスパニアの艦隊の動きが判ると高を括った俺は馬鹿だった。

未熟だった。

これで完全にイスパニアの艦隊の動きが読めないと知った。

ならば、こちらから罠を張るのは悪くない策だ。


「ですが、この策は明智-光秀あけち-みつひでが段取りし、それに賛同した形になっております」

「光秀か、切れ過ぎる奴だ」

「何か判りませんが引っ掛かります」

「気にするな。どうせ、牢の中だ。しかし…………」


あぁ、光秀の判断は俺より正しかった。

光秀は独断専行せずに輝ノ介に進言すればよかったのだ。

輝ノ介が秀吉を黙らせるに違いない。

傲慢なのは性格か?


これが名護屋にいたのが兄上(信長)でなくってよかった。

兄上(信長)は器が大きい人間だ。

家臣が独断で動いても咎めるとは限らない。

意に沿っていれば、家臣の成長を喜ぶ。

失敗しても厳しく罰すればいいと受け入れる肝要力も高い。


「信長様と光秀の相性は最悪です」

「そうだな。兄上(信長)の下ならば、光秀は水を得た魚のように活躍できただろう」

「ですが、いずれは信長様と対立するでしょう」

「兄上(信長)は廃仏主義ではないからな。だが、比叡山、興福寺、高野山、本願寺と敵がいる間は兄上(信長)に尽くしてくれるだろう」

「そうでございますね。光秀は若様を崇めるより、信長様に尽くすべきでした」


本気で光秀が兄上(信長)を支えたならば、長門守の代わりに知恵袋になっていた。

そうなると『永禄の変』で義昭よしあきを担ぎ上げ、その返す刀で義輝よしてるを討つ事を画策した細川-晴元ほそかわ-はるもとを討って、兄上(信長)に天下を取らせたかもしれない。

義昭よしあきと兄上(信長)の天下か?


「光秀が実権を持っては危険です」

「俺は隠居して寝るだけだ」

「両雄並び立たず、光秀がそれを許すでしょうか?」


千代女が嫌な事を言う。

俺に謀反の嫌疑を掛けて、俺と兄上(信長)を対立させるのか?

在り得るな。

俺は兄上(信長)を排除しないと安穏とした日々を作れないという最悪のシナリオになる。

光秀は廃仏主義だ。

神道の象徴として、俺を崇めてくれたので助かった。


「他に心配がございますか?」

「敵に孔明がいなければ、大丈夫だろうと思っている」

鍋島-直茂なべしま-なおしげ立花-道雪たちばな-どうせつ臼杵-鑑速うすき-あきすみ吉弘-鑑理よしひろ-あきまさ、軍師と言い難いですが、高橋-鑑種たかはし-あきたね辺りでしょうか」

「そうだな。その立花道雪の師匠と言われる角隈-石宗つのくま-せきそう、この人ありと呼ばれている田原-親賢たはら-ちかかた鍋島-直茂なべしま-なおしげ配下の木下-昌直きのした-まさなお、相良の勇将の深水-長智ふかみ-ながとも犬童-頼安いんどう-よりやす、肥後で知勇兼備の名将と呼ばれている甲斐-親直かい-ちかなおにも会ってみたいな」

「若様がそんな感じなので、物見遊山などと言われるのです」


考えてもどうにもならないならば、棚にしまうのを体得した。

開き直りとも言う。

俺には問題を持ってくる奴が多すぎる。


さて、光秀が独断専行した結果。

形式的な立場だった奉公衆が実権を握り、秀吉から輝ノ介に実権が移った。

この書状も輝ノ介の指示で小一郎が送っている。

見事だ。

誰も気づかせずに自然に指揮権が移っている。

この戦で指揮権を奪う事が狙いだったのだろうか?

そういう意味では成功だ。

これで輝ノ介を中心に奉公衆主導で軍議が進むのだろう。

だが、肝心の光秀は輝ノ介を怒らせて牢に放り込まれるというお粗末な結果だ。

輝ノ介が主導ならば、関東征伐の再現をして総大将が特攻するのだろう。

あの特攻馬鹿がしない訳がない。

次の報告が怖いな。


「安芸の厳島で戦勝祈願でもなされますか?」


千代女が毒舌を吐いた。

船で往復6日以上だ。

輝ノ介がそんな大人しいタマではない。


沈みゆく太陽が辺りを真っ赤に染めて、島々がさらに美しい景色を見せてくれた。

千代女が流される髪を後ろに縛り直していた。

その仕草を写真に留めたい。

俺は手を取って夕日を眺めた。

これが戦に向かうのでなければ、日ノ本ではじめての新婚旅行ではないか?


「甲斐・信濃攻めとは違うのですか?」

「あれは周りにむさ苦しい奴らがいたからな」

「若様、余り雰囲気を出すのは控えた方がいいと思います」

「誰も咎める者などいない」

「咎める者はいませんが聞き耳を立てる者はおります。晴嗣はるつぐなど、面白がって氷高ひだか様や早川殿はやかわどのに報告するに違いありません」


そうだった。

俺は朝廷で『付いて来られる者は付いて来い』と啖呵を切った。

そう言った手前、大輪田泊おおわだのとまり(福原)の乗船に間に合った者を乗せない訳に行かない。

身の軽い近衛このえ-晴嗣はるつぐは意気揚々としてやって来た。

少し遅れて慌ててやって来たのが、お栄と里に「一度はお兄様の戦いを見ておきない」と尻叩かれた伏見宮ふしみのみや-貞康さだやす親王と久我-通興こが-みちおきだ。


伏見宮ふしみのみや家は北朝第3代崇光すこう帝の第一皇子であった栄仁親王よしひとしんのうが起こされた皇族の名家である。

栄仁親王よしひとしんのうは持明院統の嫡流であったが、三代将軍の足利-義満あしかが-よしみつに嫌われて帝になれなかったが、第102代後花園ごはなぞの帝の時に60年ぶりに返り咲いた。

以来、伏見宮を名乗る。

皇統が断絶すれば、この伏見宮から帝が選出されるだろう。

お栄はこの貞康さだやす親王と義理父である邦輔くにすけ親王を尻に敷いていると噂される。

何故か、15歳の貞康さだやす親王はまだ元服していないので割と自由に動ける。

この貞康さだやす親王の母が西園寺さいおんじ-公朝きんともの妹であり、二人の祖母が久我-通言こが-みちのぶの娘らしく、伏見宮ふしみのみや西園寺さいおんじ久我こがの三家がタッグを組んで、俺を支援してくれている。

近衛家は入らないのかって?

近衛家と飛鳥井あすかい家は織田家に近すぎるのでライバル関係らしい。

お市とお栄と里は仲良しなんだけどね。


久我-通興こが-みちおきは俺が初めて京に来た時に知り合った正義感だけ強い公家のあの小僧だ。

あの出来事がなければ、近衛家に目を付けられる事もなかったのだろう。

後悔はしていないが縁とは不思議なモノだ。


そう言えば、中根家の (四男)正澄も初陣で乗り込んできている。

神学校でしっかり学んだが、妹らに比べるとふわふわしている。

源五郎(長益ながます、後の有楽如庵)と仲が良い。

武芸や戦略は得意ではなく、絵や建築物に興味を持っているが、俺の弟なので本人の希望は聞いて貰えない。

雰囲気的に公家と関わる仕事でもさせるか?


「武芸の才はございませんがお市様に鍛えられておりますので、若様よりお強いと思われます」

「俺はどれだけ弱いんだ」

「若様は十人並みですから」


筆まめな正澄は母上にも手紙を書くだろう。

恥ずかしい戦いはできない。

熱田に帰った時に母上ズら (故信秀の側室達)に取り囲まれる原因になる。

暇も持て余しているからな。

その暇を俺に分けてくれ。


船上はまだのんびりとした空気が漂い、美しい景色を楽しむ者も多い。

脇でげいげいと吐く者もいるが、敢えて目に入れない。

船団がゆっくりと旋回し始めた。

船は予定通りにともノ浦に入って行った。

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