閑話.秀吉の立身出世物語(6)「藤吉郎の九州平定」

輝ノ介、元公方義輝よしてるが鎌倉で奥州仕置を行ったのが、永禄3年 (1560年)10月10日であり、その10日後には大友-宗麟おおとも-そうりん毛利-元就もうり-もとなりの耳に伝わった。

ほぼ同時に大隅の肝付-兼演きもつき-かねひろが島津家に寝返った事が伝わった。

宗麟そうりんは激怒したが、それ所でなかった。

大隅では、城を落とされて妻子を人質にされていた入来院いりきいん-重朝しげとも蒲生-茂清かもう-しげきよ祁答院けどういん-良重よししげ東郷-重尚とうごう-じげなおらと共に反抗を続け、禰寝-重長ねじめ-しげたけを頼った。

島津家の誤算は、禰寝-重長ねじめ-しげたけが敵対した事だ。

禰寝ねじめ家は屋久島やくしま種子島たねがしま家を支配下において、琉球との交易で力を蓄えていた。

島津伊作いざく家との関係も良好であり、帰国した重長しげたけが抵抗するとは思っていなかった。

島津-義弘しまづ-よしひろと和睦するまで1ヶ月ほどの時間を潰し、本格的に日向の豊州家ほうしゅうけ島津-忠親しまづ-ただちかと戦うのは12月となってしまった。


永禄3年 (1560年)11月5日、宗麟そうりん毛利-元就もとなりの間で秘密裡に停戦が為された。

それから一ヶ月後に幕府より伊勢-貞就いせ-さだなり蜷川-親世にながわ-ちかよが呼ばれて、賠償金の支払いと人質交換が為されて、九州連合は本格的な撤退を始めた。


幕府政所執事は一時的に親世ちかよが引き受けていたが、蜷川にながわ家は伊勢家の家臣筋であったので、幕府政所執事を伊勢家から迎える事を望んだ。

そこで白羽の矢が立ったのが、前幕府政所執事伊勢-貞孝いせ-さだたかの実兄である貞就さだなりであった。

貞就さだなりの父は室町幕府奉公衆から北条-氏綱ほうじょう-うじつなの家臣になった者であり、氏綱うじつな氏康うじやすの二代に渡って仕えていた。

当時の幕府政所執事伊勢-貞忠いせ-さだただに子がなかった事から弟の貞孝さだたかが養子となったのだ。

貞就さだなり自身も父の後を継いで、北条家と幕府の取次ぎ役を行っていたので幕府政所に詳しく、織田家の同盟国である北条家の同意を得やすいと言う理由から選ばれた。

貞就さだなりは子の貞運さだかずに北条家の取次ぎ役を譲って幕府政所執事に就任した。


さて、毛利家に居た島津-家久しまづ-いえひさができた事はダダを捏ねて毛利領を撤退する九州勢の出口を関門海峡かんもんかいきょうに限定し、撤退に時間を掛けさせるくらいであり、元就もとなりの島津家への義理立てであった。

また、幕府政所執事伊勢-貞就いせ-さだなりが『天下静謐』を乱さないように訴えたが、そんな声を聞き入れる大友-宗麟おおとも-そうりんではない。

肥後は大友家に平定され、日向の伊東家も大友家に臣従しており、『天下静謐』を乱しているのは島津家で、九州探題として正当な行為と主張した。

京に使者を送り、その正当性を新公方信照のぶてるに認めて貰うと言う。


最後の部隊が関門海峡かんもんかいきょうを渡ったのは12月20日であった。

海峡を渡った九州連合の兵は筑前から日向と肥後に分かれ、大友家の兵は豊前ぶぜんを縦に走る中津街道を下って府内を目指した。

中津街道は周防灘沿岸に走って小倉と中津を結び、宇佐、日出を通って府内に至る街道である。

府内では大友家の居城である府内城で武将達を大友-宗麟おおとも-そうりが自ら出迎えて労った。


筑前の大宰府から日向の西都まで80里 (314km)もあり、昔から『水行十日陸行一月』とも言われる。

(※ あくまで一部の説です)

船で十日は大袈裟な表現ではなく、日向灘の周辺は太平洋の黒潮の影響で南西から北東へ海流が流れており、小早を漕いでも潮の流れに押し戻されて前に進まない。

湊と湊を渡って十日以上も掛かっても不思議ではなかった。

もちろん、300石船ならば、そんな海流を他所に風を切って遡ってくれる。

水行十日も今は昔の話だ。


だが、豊後から日向に300人程度の兵を乗せるならばともかく、一万人を超える大軍を乗せる300石船を大量に保有できる訳もなかった。

宗麟そうりんは兵に一時的な休息を与えていたが、島津軍が大隅国を制圧して日向に侵入したと聞いて、再び大友軍に出陣を命じた。

伊東氏の援軍を受けていた豊州家ほうしゅうけ島津-忠親しまづ-ただちかが敗れ、島津-義弘しまづ-よしひろの軍門に下ったのだ。

これで庄内(都城)への侵攻が明らかになった。

丁度、正月元日の事であった。


最後の部隊が関門海峡かんもんかいきょうを渡っている頃、最初に撤退した大友軍はすでに府内に入っており、最後に府内に入った伊東家の兵はほとんど休む間もなく、出発する事になった。

直参の家臣とはまったく扱いが違った。

しかし、行軍は停滞し、中々進まず、伊東家の者は焦りを覚えた。


豊後ぶんご日向ひゅうがの間には、中央構造線ちゅうおうこうぞうせんに沿って九州山地が横たわっており、狭い道に勾配の険しい街道が続く。

況して、畿内から関東まで幕府が推奨した道幅は三間半(約6.4メートル)の街道に、主な川には橋を架けているなどの方が珍しかった。

確かに街道を広げると物資の輸送が楽にできる。

だがしかし、敵に攻められ易い。

大名は敢えて街道を整備せずに敵に備えるのが常である。

甲斐の武田家も越後と鎌倉を結ぶ『善光寺街道』と甲斐と諏訪と塩尻を結ぶ『鎌倉街道 (甲州街道)』を除くと、敵に通じる街道の整備をワザと怠っていた。

当時の信玄しんげんは幕府の命令でなければ、『善光寺街道』の整備もしたくなかったのだ。

戦国の世において、通り難い街道が普通であった。

府内から出発した大友軍は戸次、野津を越えると本格的な山道となり、三重を越えると心臓潰しの急こう配が待っており、旗返峠を越えると小野まで下っても、再び大原越えが待っていた。

そこを越えれば、北川、延岡、土々呂、細島と比較的に平坦な道が続くが、九頭の蛇が這う様に広がる五ヶ瀬川を正月の冷たい水に堪えて渡河するのが一苦労であった。

大友軍が都於郡城とのこおりじょうに近づいたのは1月20日であり、最後の部隊が海峡を渡った日から陸行一月であった。


 ◇◇◇


(永禄4年 (1561年)1月11日~1月24日)

信長のぶなが様の高笑いを聞いて背筋を寒くしたおら (藤吉郎)は、その翌日に公家様の使者が訪れて本当に官位を頂いた。

そして、13日の朝廷に帝との拝謁が叶った。

おらや丹羽-長秀にわ-ながひで殿は返事をするだけであり、しゃべる事は許されていない。

おら達の奥州の武勇伝は、右近衛大将久我-通堅こが-みちかた様が語って下さって、帝も楽しんで頂いた。

おら達は帝の勅命を頂いて信照のぶてる様の先遣隊として九州平定に赴く。

島津家は帝の命に唯一従った家であり、「島津を頼む」と言われた時は目頭が熱くなって涙を堪えるのに苦労しただ。

雲の上のお方がおらに『頼む』とおっしゃった。

何としても約束をお守りすると心に誓っただ。


それから帰って来てもおらはうわの空だ。

織田屋敷の隅にある家臣の館で箸からごはんをぼろぼろと落としながら飯を食べていると信照のぶてる様に呼ばれた。

部屋には主だった随行員がずらりと並んでおった。

まず、信照のぶてる様が最上段に座り、その横に武勇伝を語ってくれた右近衛大将久我-通堅こが-みちかた様の父君であられる左大臣久我-晴通こが-はるみち様が座っておられた。

信長のぶなが様はその下だった。

何と左大臣様は九州に随行されて大友-宗麟おおとも-そうりんとの交渉に参加される。

びっくり扱いただ。

何でも大友-宗麟おおとも-そうりんが九州探題補任で大友家と室町幕府の間の取次を務めた縁があるらしい。


晴通はるみち殿が横に座って貰うだけで、宗麟そうりんは何も言えなくなるぞ」

藤吉郎とうきちろう、よろしく頼むでおじゃる」

「道中の安全はお任せ下さい」

「頼むぞ」


信照のぶてる様は恩義のある左大臣様が居れば、左大臣様が困るような返事を宗麟そうりんができないとおっしゃった。

おらの側で控えている小一郎こいちろうが小声で説明してくれる。


「大友家の使者は兄者を侮っておりました」

「そんな感じじゃった」

「それは宗麟そうりんも同じ事なのです。左大臣様の面目を潰すのは朝廷との繋がりを絶つに等しいのです」

「だが、朝廷の命を聞かなかっただにか?」

「九州探題として公方様の命令に逆らえなかったという建前がございました。建前と本音を巧く使い分けるのが名家と呼ばれる者らの手口なのです」

「覚えておくだ」


織田家の流儀で各領主に代官を置き年貢などを管理させ、国毎に奉公衆代官とその兵を常駐させる。

これは織田家に逆らったから特別に厳しい事を要求する訳ではない。

すべての大名にさせている。

だが、慣れぬ習慣は九州の大名にとって受け入れ難い事も多い。

宗麟そうりんを説得するならば、左大臣様を同行させて、おらが言っている事が嘘でないと言わせるのが一番とおっしゃった。

新幕府に逆らった罰として九州探題職を罷免し、前九州探題であった渋川-義基しぶかわ-よしもとに戻る事を認めさせる。

左大臣様の手で引導を渡すのだ。

これが駆け引きか。

勉強になるだ。


信照のぶてる様は名護屋浦に拠点を作ります。直接に命令しても良いのですが、常に居られる訳ではございません。そこで長きに渡って九州探題を務め、肥前、備前、備中、安芸、豊前、摂津などの守護職に任ぜられていた渋川家しぶかわけに戻す事で、九州の大名との間を和らげるのです」

「面倒だな」

「家柄に拘る方が多いのです」


渋川-義基しぶかわ-よしもとは領地を持たず、俸禄で召し抱えられる九州探題となる。

織田政権では、探題も守護も実権を失う。

領地を治めるのは守護代の仕事であり、治安を守るのは奉公衆代官の仕事になる。

法を取り締まる権限を有するが、実際は奉行が執り行うので傀儡くぐつ(人形)と変わらないだ。

しばらくは守護に残れて幸せだと思わせると言う話だ。


「念の為に言っておくが、晴通はるみち殿が交渉に参加されるのは大友家のみだ。それが終われば、京に戻って頂く」

「承知しました (だ、痛ぃ)」


おらは舌を噛んだ。

緊張した。

信長のぶなが様からおらの監督官として、松井-友閑まつい-ゆうかん様と楠木-正虎くすのき-まさとらが付けられ、その眼光にビビっていた。

二人とも信長のぶなが様の右筆だ。

信照のぶてる様と信長のぶなが様では右筆の意味が違うらしく、信照のぶてる様の右筆は名代、代理、果ては分身とまで言い切る。

信照のぶてる様の代わりに采配する権限を有しているが、信長のぶなが様の右筆は信用ある家臣に過ぎない。

だが、友閑ゆうかん様は代々の幕臣の家柄であり、将軍家の右筆を務めてきた。

幕府における信長のぶなが様の教育係らしい。

一方、正虎まさとら様はおらが尊敬する大饗おおあえ-正辰まさたつ様の父君だ。

この度、朝廷へ楠木-正成くすのき-まさしげの朝敵の赦免を嘆願して赦された。

大饗おおあえの姓から楠木くすのきの姓に戻したらしい。

世尊寺流の当代一流の書家だそうだ。

おらは信長のぶなが様の信用がなく、監視する為に付けられる事になっただ。

二人の報告次第で首が飛ぶだ。


信長のぶなが様の右筆は武井-夕庵たけい-せきあん様が残る。

武井-夕庵たけい-せきあん様は斎藤-利政さいとう-としまさ様の家臣だったが、討ち取られて以降は信長のぶなが様に仕えていた。

京都所司代(天下所司代)の村井-貞勝むらい-さだかつ様と山城守護代に為られた塙-直政ばん-なおまさ様の三人で京を切り盛りしているそうだ。


「この場に呼んでおらぬが、仲介役に図書ずしょ高山たかやま-友照ともてる)を就ける。がしかし、信用はするな」

「信用のない者を交渉役に付けるのですか?」

「交渉役ではない。ただの仲介役だ」


何でも宣教師ガスパル・ヴィレラが堺を訪問しており、図書ずしょ殿とその息子の彦五郎 (後の高山右近)が洗礼を受けたそうだ。

図書ずしょ殿はロレンソ了斎りょうさいと共に松永-久秀まつなが-ひさひで様を通して、信照のぶてる様への謁見を申し出ている。


久秀ひさひで曰く、キリスト教は胡散臭いと言っておった」

「敢えてお聞き致します。そんな輩を連れて行くのはどうしてでございますか」

長秀ながひで、南蛮人は大量に銭を落としてくれる客なのだ。気に入らないからと追い出す訳に行かん。適当に遊ばせておけ」


小一郎こいちろうが呟いた。

名護屋浦に造る湊の費用を南蛮人から搾り上げた銭で成し遂げる。

それを聞いて長秀ながひで殿も納得された。

図書ずしょ殿を連れて行くのはキリスト教を粗末に扱わないという配慮だ。

政治は面倒臭いだ。


久秀ひさひでに誘われた能会で紹介された時は顔が引き攣り掛けたぞ」

信照のぶてる様は能がお好きと聞いております」

「それは嘘だ。俺は能に左程興味もない」


信照のぶてる様は10日に一度ほど能会に誘われていると伺っている。


「兄者、信照のぶてる様はそれほど能が好きではありません。能会は親しいというのを見せ付ける為に誘いを受けられているだけです」

藤吉郎とうきちろう、他言無用だ。偉くなっても俺を誘うような真似はするな」

「承知しました」


久秀ひさひでに誘われたのは、初めて上洛した時に能に誘った返礼らしい。

だが、一度誘いを受けると他の大名も次々と能会に誘うようになった。

面目の為に北条家や山名家も誘って来る。

その他にも良好な関係を見せ付ける為に断れないと信照のぶてる様が「能の良し悪しなど判らんわ」とふて腐れた顔で言われただ。


信長のぶなが様は気が短く、すぐに出発だ。

そして、翌日の14日には大輪田泊おおわだのとまりに到着した。

左大臣様は翌日の早朝に出発されて、16日に到着される。

17日には出航できるように命じられた。

そこで思わぬ顔を見た。

「何故、藤吉郎とうきちろうがここにおるのだ」


そう叫んだのは佐久間-盛次さくま-もりつぐ柴田-勝忠しばた-かつただであった。

思わず、顔を叛けただ。

てっきり三河から遣わされる武将は家老の松平-家次まつだいら-いえつぐ様、松平-忠吉まつだいら-ただよし様、松井-忠次まつい-ただつぐ様、牧野-保成まきの-やすしげ様の家臣か、「お市様と一緒に戦えて羨ましい。次はお声を掛けて下さい」と共感してくれた岡崎松平家の本多家から来ると思っていた。

だがしかし、信照のぶてる様が出陣するのに、織田家の家臣筋である柴田家と佐久間家が付いて行かないのは恥と言って名乗り出たそうだ。

だが、おらが先遣隊の指揮官とは知っていなかっただ。

それも当然であり、信照のぶてる様が発表させていない事を公言される馬鹿はいない。

おらが正式に命じられたのは10日であって、その10日は熱田の兵が参集しており、尾張にその報が届いた頃には出航していた。

そして、先遣隊の隊長が今日到着する以外は知らされていなかっただ。


なお、ずっと先になって正辰まさたつ様から邪魔な佐久間-盛次さくま-もりつぐ様が自分から名乗り出たので行かせる事にしたと聞かされた。

信勝のぶかつ様からも大学様が来るなら盛次もりつぐ様はいらんと言われるほどの凡将だ。

三河で年配の家老がいなくなると盛次もりつぐ様が最長老となる。

正辰まさたつ様も若い家老が盛次もりつぐ様を気づかうとやり難いと考えていたそうだ。

そこに信照のぶてる様の出陣に三河の兵1,000人を用意しろと命令が来た。

自ら名乗り出たのが盛次もりつぐ様だ。

これを幸いにと、正辰まさたつ様はおらに押し付けただ。

正辰まさたつ様に「それは酷いだ」と言うのは、本当に先の話だ。


大輪田泊おおわだのとまりを17日に出航すると20日には安芸に到着し、元就もとなり様と会談を行い、翌21日には豊後ぶんごの府内に向かった。

22日に到着し、すぐに宗麟そうりんに使者を送ると、信照のぶてる様の言われた通りに適当な大岩に向けて大砲の一斉砲撃を敢行する。

その後ろの山の一部を崩し、山の上にあった砦らしいモノを崩すと言う大顰蹙だいひんしゅくモノの失態しったいをしただ。

小一郎こいちろうに「兄者、宣戦布告でもするつもりか」と怒鳴られた。

まさか、勢いで山が崩れるとは思わなかっただ。

だが、大友家にはこれが織田家の怒りと映ったらしい。

23日の交渉では、大友家はほぼ無条件で織田家の言い分を了承した。

瓢箪から駒とはこの事だ。


藤吉郎とうきちろうの手柄でおじゃりますな。麿は要らなかったみたいです」


左大臣様はそう褒めて下さったが、恥ずかしさで赤面しそうになった。

顔が赤いのは寒いからだ。

こうして、24日には各方面へ停戦命令の使者を走らせた。

本当の砲艦外交はこれから始まる。

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