閑話.秀吉の立身出世物語(6)「藤吉郎の九州平定」
輝ノ介、元公方
ほぼ同時に大隅の
大隅では、城を落とされて妻子を人質にされていた
島津家の誤算は、
島津
永禄3年 (1560年)11月5日、
それから一ヶ月後に幕府より
幕府政所執事は一時的に
そこで白羽の矢が立ったのが、前幕府政所執事
当時の幕府政所執事
さて、毛利家に居た
また、幕府政所執事
肥後は大友家に平定され、日向の伊東家も大友家に臣従しており、『天下静謐』を乱しているのは島津家で、九州探題として正当な行為と主張した。
京に使者を送り、その正当性を新公方
最後の部隊が
海峡を渡った九州連合の兵は筑前から日向と肥後に分かれ、大友家の兵は
中津街道は周防灘沿岸に走って小倉と中津を結び、宇佐、日出を通って府内に至る街道である。
府内では大友家の居城である府内城で武将達を
筑前の大宰府から日向の西都まで80里 (314km)もあり、昔から『水行十日陸行一月』とも言われる。
(※ あくまで一部の説です)
船で十日は大袈裟な表現ではなく、日向灘の周辺は太平洋の黒潮の影響で南西から北東へ海流が流れており、小早を漕いでも潮の流れに押し戻されて前に進まない。
湊と湊を渡って十日以上も掛かっても不思議ではなかった。
もちろん、300石船ならば、そんな海流を他所に風を切って遡ってくれる。
水行十日も今は昔の話だ。
だが、豊後から日向に300人程度の兵を乗せるならばともかく、一万人を超える大軍を乗せる300石船を大量に保有できる訳もなかった。
伊東氏の援軍を受けていた
これで庄内(都城)への侵攻が明らかになった。
丁度、正月元日の事であった。
最後の部隊が
直参の家臣とはまったく扱いが違った。
しかし、行軍は停滞し、中々進まず、伊東家の者は焦りを覚えた。
況して、畿内から関東まで幕府が推奨した道幅は三間半(約6.4メートル)の街道に、主な川には橋を架けているなどの方が珍しかった。
確かに街道を広げると物資の輸送が楽にできる。
だがしかし、敵に攻められ易い。
大名は敢えて街道を整備せずに敵に備えるのが常である。
甲斐の武田家も越後と鎌倉を結ぶ『善光寺街道』と甲斐と諏訪と塩尻を結ぶ『鎌倉街道 (甲州街道)』を除くと、敵に通じる街道の整備をワザと怠っていた。
当時の
戦国の世において、通り難い街道が普通であった。
府内から出発した大友軍は戸次、野津を越えると本格的な山道となり、三重を越えると心臓潰しの急こう配が待っており、旗返峠を越えると小野まで下っても、再び大原越えが待っていた。
そこを越えれば、北川、延岡、土々呂、細島と比較的に平坦な道が続くが、九頭の蛇が這う様に広がる五ヶ瀬川を正月の冷たい水に堪えて渡河するのが一苦労であった。
大友軍が
◇◇◇
(永禄4年 (1561年)1月11日~1月24日)
そして、13日の朝廷に帝との拝謁が叶った。
おらや
おら達の奥州の武勇伝は、右近衛大将
おら達は帝の勅命を頂いて
島津家は帝の命に唯一従った家であり、「島津を頼む」と言われた時は目頭が熱くなって涙を堪えるのに苦労しただ。
雲の上のお方がおらに『頼む』とおっしゃった。
何としても約束をお守りすると心に誓っただ。
それから帰って来てもおらはうわの空だ。
織田屋敷の隅にある家臣の館で箸からごはんをぼろぼろと落としながら飯を食べていると
部屋には主だった随行員がずらりと並んでおった。
まず、
何と左大臣様は九州に随行されて
びっくり扱いただ。
何でも
「
「
「道中の安全はお任せ下さい」
「頼むぞ」
おらの側で控えている
「大友家の使者は兄者を侮っておりました」
「そんな感じじゃった」
「それは
「だが、朝廷の命を聞かなかっただにか?」
「九州探題として公方様の命令に逆らえなかったという建前がございました。建前と本音を巧く使い分けるのが名家と呼ばれる者らの手口なのです」
「覚えておくだ」
織田家の流儀で各領主に代官を置き年貢などを管理させ、国毎に奉公衆代官とその兵を常駐させる。
これは織田家に逆らったから特別に厳しい事を要求する訳ではない。
すべての大名にさせている。
だが、慣れぬ習慣は九州の大名にとって受け入れ難い事も多い。
新幕府に逆らった罰として九州探題職を罷免し、前九州探題であった
左大臣様の手で引導を渡すのだ。
これが駆け引きか。
勉強になるだ。
「
「面倒だな」
「家柄に拘る方が多いのです」
織田政権では、探題も守護も実権を失う。
領地を治めるのは守護代の仕事であり、治安を守るのは奉公衆代官の仕事になる。
法を取り締まる権限を有するが、実際は奉行が執り行うので
しばらくは守護に残れて幸せだと思わせると言う話だ。
「念の為に言っておくが、
「承知しました (だ、痛ぃ)」
おらは舌を噛んだ。
緊張した。
二人とも
だが、
幕府における
一方、
この度、朝廷へ
世尊寺流の当代一流の書家だそうだ。
おらは
二人の報告次第で首が飛ぶだ。
京都所司代(天下所司代)の
「この場に呼んでおらぬが、仲介役に
「信用のない者を交渉役に付けるのですか?」
「交渉役ではない。ただの仲介役だ」
何でも宣教師ガスパル・ヴィレラが堺を訪問しており、
「
「敢えてお聞き致します。そんな輩を連れて行くのはどうしてでございますか」
「
名護屋浦に造る湊の費用を南蛮人から搾り上げた銭で成し遂げる。
それを聞いて
政治は面倒臭いだ。
「
「
「それは嘘だ。俺は能に左程興味もない」
「兄者、
「
「承知しました」
だが、一度誘いを受けると他の大名も次々と能会に誘うようになった。
面目の為に北条家や山名家も誘って来る。
その他にも良好な関係を見せ付ける為に断れないと
そして、翌日の14日には
左大臣様は翌日の早朝に出発されて、16日に到着される。
17日には出航できるように命じられた。
そこで思わぬ顔を見た。
「何故、
そう叫んだのは
思わず、顔を叛けただ。
てっきり三河から遣わされる武将は家老の
だがしかし、
だが、おらが先遣隊の指揮官とは知っていなかっただ。
それも当然であり、
おらが正式に命じられたのは10日であって、その10日は熱田の兵が参集しており、尾張にその報が届いた頃には出航していた。
そして、先遣隊の隊長が今日到着する以外は知らされていなかっただ。
なお、ずっと先になって
三河で年配の家老がいなくなると
そこに
自ら名乗り出たのが
これを幸いにと、
22日に到着し、すぐに
その後ろの山の一部を崩し、山の上にあった砦らしいモノを崩すと言う
まさか、勢いで山が崩れるとは思わなかっただ。
だが、大友家にはこれが織田家の怒りと映ったらしい。
23日の交渉では、大友家はほぼ無条件で織田家の言い分を了承した。
瓢箪から駒とはこの事だ。
「
左大臣様はそう褒めて下さったが、恥ずかしさで赤面しそうになった。
顔が赤いのは寒いからだ。
こうして、24日には各方面へ停戦命令の使者を走らせた。
本当の砲艦外交はこれから始まる。
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