閑話.秀吉の立身出世物語(5)「藤吉郎の正月参賀」

薩摩の島津家は鎌倉幕府御家人の惟宗-忠久これむね-ただひさ源-頼朝みなもと-よりともの推挙により摂関家領島津荘下司職に任命された事から始まる。

惟宗これむね家は代々近衛家の家司を務めた家であり、忠久も近衛家に仕えていた。

建久8年 (1197年)に大隅国・薩摩国の守護に任じられ、その後、日向国守護職を補任され、島津を名乗るようになった。

忠久ただひさより代々の島津家が大隅・薩摩・日向の三国を治めたのだ。

島津家が大隅・薩摩・日向の三国守護に拘るのはその為だ。


文明3年 (1471年)に桜島が大規模な噴火を起こし、文明8年 (1476年)頃まで5年近くも続き、日向・大隅方面に所領を持つ家臣やその領民は困窮し、島津家の支配に大きな影を落とす。

島津第14代当主の島津-勝久しまづ-かつひさの代になると、大隅・薩摩・日向守護とは名ばかりになっており、有力分家の薩州家さっしゅうけ第5代当主であった島津-実久しまづ-さねひさを頼った。

実権を握った実久さねひさ勝久かつひさを追放し、自ら守護を自称するようになる。

ここで島津伊作家いざくけ島津-忠良しまづ-ただよし勝久かつひさを救援し、嫡男だった虎寿丸(後の貴久たかひさ)を養嗣子として送り込み、薩州家さっしゅうけ実久さねひさを破り、勝久かつひさを守護に戻した。


ところが島津第14代当主の勝久かつひさ貴久たかひさが元服して、家督を脅かし始めると、再び実久さねひさを頼って勝久かつひさとの養子縁組を解消し、守護職の悔返くいかえし(譲渡の無効)を宣言した。

島津家の混乱は勝久かつひさの力の無さ、無配慮、無節操に起因するのではないだろうか?


伊作家いざくけ貴久たかひさ薩州家さっしゅうけ実久さねひさと決着を付けるべく戦いを挑み、実久さねひさを破って勝久かつひさを追い出した。

勝久かつひさは最終的に母方の大友家を頼って逃げた。

大友家は勝久かつひさを守護に戻し、南九州でも影響力を増したい。

貴久たかひさはそれを認める訳もなく、島津家と大友家の亀裂はここから来ている。


貴久たかひさの台頭に分家の豊州ほうしゅう家や家老の肝付-兼演きもつき-かねひろを始め、薩摩・大隅の国人衆13氏が従わなかった。

貴久たかひさの島津家当主として地位を得る為の戦いは続いた。

天文21年(1552年)に歴代の島津氏本宗家当主が任官されていた修理大夫に任じられ、公方義輝よしてるより嫡男が偏諱へんきを許されて『義辰』(後の義久)の名を頂いた。

貴久たかひさは守護職を譲られてから25年、ようやく朝廷と室町幕府に薩摩守護として認められたのである。

だが、その快進撃が天文23年 (1554年)に信照のぶてる(当時は魯坊丸)が今川-義元いまがわ-よしもとを討った直後に発せられた『天下静謐』と『惣無事令』によって止まっていた。


将軍の御世が変わり、公方義昭よしあきと織田家に亀裂が走った。

幕府と織田家の戦いにおいて南蛮人が幕府に従順な姿勢を取り、北九州において幕府方には安く武器を卸す。

南蛮人の武器を欲して、九州の大名はほとんどが幕府方に付いた。

ローマ教皇が邪教徒と認定している信照のぶてるに対して、堂々と反織田を掲げない南蛮 (ポルトガル)商人は実に強かである。

どちらが勝っても差し障りないようにしていた。

幕府は高槻城主であった高山図書 (高山右近の父)を遣わし、図書の奮闘もあって龍造寺りゅうぞうじ-隆信たかのぶを取り込んだのは鮮やかだった。

こうして、九州探題の大友-宗麟おおとも-そうりんを中心に反織田方が結成し、織田家と同盟関係の毛利家と争い始めた。


対する朝廷側は「織田に付く様に」と密かに帝の綸旨りんじを発行して織田方を支援した。

皇太子を伊勢に避難させるほど、朝廷と幕府の関係も危険な関係となっていた。

だが、帝に応えたのは九州では唯一島津のみである。

しかも当面は土佐の一条家に従って中立を保つ事を願い出ていた。

朝廷としては敵に回らないだけで良しとした。

その島津-貴久しまづ-たかひさが動いたのは、関ヶ原の戦いが終わった5月28日の事であった。


貴久たかひさ(46歳)の次男義弘よしひろ(25歳)は父に呼ばれて部屋に入った。

部屋の中には嫡男の義久よしひさ(27歳)、三男の歳久としひさ(23歳)、四男の家久いえひさ(13歳)もいた。


「皆も呼ばれていたのか」

「先程、急ぎの船が着いた。おそらく、それだろう」

「決着したのか? 早過ぎないか?」

「何かあったのは間違いない。義弘よしひろのお気に入りの幕府が勝ったのかもしれん」

「気に入っている訳ではない。織田家の怠慢が嫌いなだけだ」


義久よしひさは挑発するように義弘よしひろをカラかった。

幕府をいつでも乗っ取れる実力がありながら、朝廷と幕府の擁護者という立ち位置に甘んじる織田家を義弘よしひろは怠慢と言い切った。


「斯波家が幕府筆頭管領を拝命したならば、幕府の実権など奪ってしまえばよい。いい子ぶっているから幕府が20万人を動員できるほどの力を蓄える余地を与えるのだ」

「織田5万人に対して幕府20万人の戦いか、俺も一度は指揮を取ってみたい」

「それには同感する」


そんな下らない話をしている間に貴久たかひさが入って座った。

息子達の顔を見回すと意を決した覚悟で口を開いた。


「我が島津家は織田方に与する事にした」

「いよいよですか」

義久よしひさ、中立など甘い事を言っておれば、幕府方と同様に取り潰される」

「元より、大友に与する選択などございません」

「その通りだ。まず、脅してでも土佐の一条-兼定いちじょう-かねさだ様を説得して織田方に付かせろ。海路を確保した後に我が島津は大隅と肥後に攻め掛かる」

「畏まりました」

兼定かねさだ様を説得した後は、京に上がって朝廷の援軍を呼べ、数は少なくとも良い。帝の御旗が上がれば、島津の負けはなくなる」

「承知致しました」

「さらに、織田家に臣従して援助を求めよ。毛利のように鉄砲3,000丁を分捕って来い」

「お任せ下さい」


島津家は大友家とほぼ同数の鉄砲500丁を所持していた。

九州では、この二国に並ぶ国はない。

しかも、その内の200丁は自前で造らせた。

すべてを南蛮人から買った大友家と違った。


だが、そんな大友家をあざ笑うかのように毛利家は3,000丁の鉄砲を保有していた。

毛利家はその火力を背景にして九州連合を打ち負かしている。

九州連合は圧倒的な兵力で長門国や周防国の海岸を次々と占拠しているが、占領地では毛利軍が攻め掛かってくれば、大きな被害を出していた。

まるで『もぐら叩き』のような戦いを繰り返していたが、それでも圧倒的な兵力を有している九州連合に形勢は傾いていた。

だが、大友水軍は初手で安芸に侵攻して手痛い敗北を帰してから、再び安芸に水軍を送ろうとしない。

300石級の織田帆船一隻と村上水軍の連合相手に、南蛮人から買ったジャンク船三隻を保有する大友水軍が負けた事がトラウマとなっていた。

宗麟そうりんはジャンク船を失う事を恐れたのだ。


「三隻の『国崩し (大砲)』を積んだ船を持っていながら、一隻の織田の船を恐れるのか」

「安芸の海戦では毛利方が圧勝した」

「当然だ」

義弘よしひろは当然と思うのか」

「兄上、水夫の質が違う。だが、織田の帆船もだらしない。沈んだのは大友の小舟ばかりで大友も早々に引いたので被害は小さい。無理にでも追撃して、一隻でもジャンク船を沈めておれば、戦局も変わっていただろう」


義弘よしひろは同じ大砲を積んでいても水夫の練度が違うと考えていた。

何年も訓練を続けてきた織田家の水夫と、先日購入したばかりジャンク船に乗り込んだ水夫では力の差が出て当然と思った。

一隻の帆船に三隻のジャンク船を沈められては、完全に制海権を失う。

だが、織田家の帆船は小島の多い安芸から出ようとしないので、大友家が長門・周防国の海岸の制海権を握ったままであった。


制海権を持たない毛利-元就もうり-もとなりは九州連合を陸地に引き込んで、各個撃破に徹していた。

義弘よしひろは長い目で見れば九州連合は疲弊すると考えていた。

それが元就もとなりの思惑通りではないか?

疲弊を大きくしておき、織田家の援軍を待って毛利家が再び北九州に上陸し、北九州を分捕ってしまう。

そんな懸念が強くなっていた。

元就もとなりの巧妙さに対して、中立を表明して動かない父貴久たかひさに反抗心を持っていたのだ。


義弘よしひろ、お前は若過ぎる。失敗する事も学べ」

「弱腰に為れと言う意味でしょうか」

「織田家は温いのではない。手堅いのだ」

「手に入る時に手に入れねば、奪う機会を失います」

「無理をして高転びすれば、すべてを失う」

「どうも父上とは意見が合いませんな」

「まぁ~良い。これから学べば良い」


そう言うと、懐から書状を取り出して義弘よしひろの方に投げた。

中には関ヶ原の勝敗と京の奪還の手際が書かれていた。


「鮮やかな勝ちだ。織田家は牙を隠し、ずっと磨いて来たようだな。まだ、温いと思うか?」

「温いと思いませんが、それならば始めから幕府を乗っ取った方が早いと思います」

「もし、我が島津家が九州9ヶ国を手に入れて、任せられる家臣は足りると思うか。儂は足りんと思うぞ」


そう言われて義弘よしひろは『はっ』とした。


「織田家は一世代前まで奉行に過ぎなかった。一門衆も家臣も少ない。それでどうやって幕府を乗っ取れる。我が島津家も同じだ。九州統一などとまだ早い。無茶な夢はまだ見るな」

「では、どうされますか?」

「まずは肥後、大隅、日向の三ヶ国を奪う」

「九州連合に兵を出している隙を狙うのですな」

「だが、普通に攻めていては大隅を取るだけでも苦労する事になる」

「ならば、どうされますか?」

「儂が肥後に攻め入っておとりになり、そなたが大隅を掠め取り、その力を使って日向を奪って来い」

「お望みとあらば、やってみせましょう」

「気負うな。すでに策は仕込んである」


3男の歳久としひさには本城に留まって護らせ、4男の家久いえひさは毛利家に行かせ、毛利家と同盟を結ぶ。

九州連合が反転したならば、九州に上陸して背後を襲って貰う。

家久いえひさには毛利家に留まって、取次兼人質となるように命じた。


義久よしひさはすぐに土佐に出発し、貴久たかひさは戦の準備に掛かった。

各方面に調略の書状が行き交った。

内応を唆された家が畿内や東国の様子も確認している間に一ヶ月の時が過ぎた。

側らで見ていた義弘よしひろは朝廷側に内応を唆す、父の強かさを見直した。

機を見るに敏なりとはこの事だった。

貴久たかひさの予想通り、織田方の勝利が伝わると、次々と内応に応じる書状が戻ってくる。

この日の為にずっと準備して来ていたのだ。

長島一向宗の降伏、越前陥落と織田家の快進撃の報が入り、土佐の一条-兼定いちじょう-かねさだも重い腰を上げた。

義久よしひさは京に向かった。


6月30日、尾張にて信照のぶてる誠仁親王さねひとしんのうから征夷大将軍せいいたいしょうぐん鎮守府将軍ちんじゅふしょうぐんを拝命した日、義弘よしひろは大隅国の実質的な国主となっている元家老肝付-兼盛きもつき-かねもりの居城加治木城かじきじょうに宣戦布告に赴いていた。

当主の兼盛かねもりは九州連合に参加して留守にしており、嫡男の袈裟寿丸けさじゅまる(2歳)が代理を務めていた。

義弘よしひろを迎えたのは正室にしと家老達であった。

正室にしは貴久たかひさの姉である。


「宣戦布告とは貴久たかひさも遂に狂ったか?」

「にし伯母上、父は狂っておりません。幕府が敗退した事はお耳に入っておられるでしょう。この儘、幕府に義理立てすれば、肝付きもつき家は取り潰し、袈裟寿丸けさじゅまるも処分される事になりましょう」

「果たしてそうか?」


織田家が幕府を破った事に九州の大名も驚いたが、関東の武田家や上杉家、奥州の伊達家や最上家などが幕府支持で動いていた。

敵の多い織田家もどこかに和議を結ぶに違いないと言うのが大方の見方であった。


「織田家が天下を奪ってから寝返っても遅うございますぞ」

「そんな口車に乗るわらわではない」

「そんな事を言っていてよろしいのですか? 兼盛かねもり殿を無事に呼び戻す機会は今しかございませんぞ」


正室にしが口を閉ざす。

兼盛かねもりが討ち死などすれば、一大事である。


「大坂御坊の本願寺が落ちれば、織田家の水軍が大挙してやってくる事でしょう」


義弘よしひろの脅しに家老達が騒ぎ始めた。

さらに脅す。

織田家が東国で有利に進めば、大友-宗麟おおとも- そうりんは後々の禍の種である南九州の武将を始末する事を考える。

難しい事ではない。

毛利軍の前に兼盛かねもりらを残せば、毛利軍が始末してくれる。

それに気が付いて兵を引き上げようとすれば、敵前逃亡で大友水軍が兼盛かねもりらの舟を沈める。

南九州の武将が無事に帰ってくる可能性は低い。


「殿を無事に戻す方法があると言うのですか?」

「ございます。簡単に」


義弘よしひろは出来るだけ悪い顔をして言った。

それがこの宣戦布告だ。

大友家の尻に火が付けばどうだろうか?

兼盛かねもりらは大隅に戻す口実が生まれる。


兼盛かねもり様が無事に帰ってくると」

「こちらは本気で攻めさせて頂きます。そうでなければ、大友の目は誤魔化せません」

「何が望みじゃ」

「父貴久たかひさの大隅守護を認める事でございます」

「なるほど、妾からは答えられぬ。妾は貴久たかひさを大隅守護にする為に嫁がされた身だ。そなた達が決めよ」


正室にしは自ら答えず、返事を家老らに委ねた。

家老らにとって兼盛かねもりを無事に大隅に戻すのが必須と結論付けた。

そして、兵が反対する家老は義弘よしひろを捕える為に潜めていたハズの兵によってその場で捕えられる。

反島津派を捕える罠、正室にしを支持する家老らと仕組んだ猿芝居であった。

肝付きもつき家を守る為に大友家を謀って九州連合に参加したという口裏合わせに、家老の半数が応じていたのだ。

だが、戻って来た兼盛かねもりをもう一度説得せねばならない。

もちろん、義弘よしひろには勝算があった。


まず、正室にしとの関係は良好で兼盛かねもり自身は反島津ではない。

次に、大隅の家老安楽-兼清あんらく-かねきよの次男である安楽-兼治あんらく-かねはるや辺田七人衆 (石井、肥後、伊地知、池袋、廻、敷根、上井)などが義弘よしひろの傘下に入る。

大隅には貴久たかひさを嫌う家が幾つかあるが、それを排除しておく。

その1つが兼盛かねもりと同盟関係である島津勝久の家老職を務めた伊地知-重興いぢち-しげおきだ。

鬼の居ぬ間の侵攻であり、『空き巣泥棒』と呼ばれても仕方ない。

だが、簡単ではない。

大隅に侵攻して、兼盛かねもりが戻ってくるまでに落とさねばならない。

島津、頼りなし。

そう思われれば、すべてが霧消する。

敵対する城を落城させ、妻子を人質にできれば、貴久たかひさを大隅守護に迎える事に反対する者は居なくなる。

これが『貴久たかひさ大隅おおすみ取り』である。


義弘よしひろは兵を引き連れて、大隅を進攻した。

薩摩の兵を二分したと言っても、兵の八割を義弘よしひろが預かり、貴久たかひさはわずか二割の兵のみで調略を繰り返して肥後を北上した。

義弘よしひろは次々と城を落とし、最後の仕上げと大隅の加治木城かじきじょうを包囲すると兼盛かねもりの帰国を待った。

兼盛かねもりはまず長門に移動して北九州に渡り、大友領を南下して、豊後から大友の船を借りて日向に向かう。

船を調達するだけでも一苦労であった。

だが、大友水軍の協力で兼盛かねもりは日向から上陸すると大隅に戻った。

加治木城かじきじょうは包囲されているがまだ陥落していない。

加治木城かじきじょうを見て安堵の息を付いたが、近づくと包囲を解いて下がって行く島津軍の動きに首を傾げた。

そして、城に戻ると敵の大将である義弘よしひろが頭を下げて待っていた。

話を聞くと兼盛かねもりは乾いた笑いしかでない。

してヤラレタと言う感じだ。

義弘よしひろ兼盛かねもりを傘下に加えて南日向に侵攻した。


その話を聞いた大友-宗麟おおとも-そうりんは激怒したが、ほぼ同時に鎌倉から奥州仕置きの報が入り、密かに大友軍の兵を引き上げさせる事を決定した。

だが、その動きを見逃す元就もとなりではなく、村上水軍の協力で闇夜に出航する大友軍を装って湾に侵入すると、停泊中のジャンク船の脇に火薬の詰まった樽を幾つも浮かべて爆破したのだ。

二隻のジャンク船を失った宗麟そうりんの衝撃は大きく、密かに毛利家への和睦と織田家への恭順を決め、本格的な兵の撤退を始めた。

宗麟そうりん龍造寺りゅうぞうじ-隆信たかのぶは相談し、毛利家の侵攻を諦め、裏切った島津家への南九州への侵攻へと切り替えたのであった。


 ◇◇◇


(永禄3年 (1560年)12月30日~1月7日)

帝は元日の寅の刻 (午前4時)に清涼殿の東庭で夜が明けぬ間から『四方拝』を執り行う。

天地四方の神々と先祖代々のみたまを遥拝され、年災を祓い、国家の幸いを祈られる。

そして、辰の刻 (午前8時)に大極殿で群臣からの『朝賀』を受けられる。

『朝賀』は『四方拝』と同じく、群臣が国家の幸いを祈る行事だ。

これに信照のぶてる様も参加されただ。

元日の昼より豊楽院に帝がおでましになり、元日を祝う。

群臣に宴を賜う『元日節会』という儀式らしい。

織田屋敷では、信照のぶてる様の名代として信長のぶなが様が『参賀』を執り行った。


元日から三日まで帝の長寿を願って、鏡餅・大根・瓜・押鮎・猪肉・鹿肉などを献上する。

二日に公方様であられる信照のぶてる様の奥方が「菱喰二、雁五、雉十番、鯛廿、海老一折、南御方(頭首の正室)へ菱喰二、雁五、鳥十番、鯛廿、貝蚫(あわび)一折」を贈られたらしい。


二日は『御乗馬始ごじょうばはじめ』が執り行われた。

松の庭において、公方信照のぶてる様らがその年初めて乗馬する儀式だ。


三日は『朝覲行幸ちょうきんのぎょうこう』を行われた。

二日、または、三・四日に年の始めに太上帝 (上皇)や皇太后に威厳を整えて行幸し、年始の挨拶をする儀式らしい。

お迎えが終わると、おら達はまた宴会だ。

正月に飲みすぎ、昨日は唸っていたが、今日も宴会だ。


四日は『御うたひ始』だ。

公方信照のぶてる様の正月の祝宴で、呼ばれた観世大夫には管領から御扇や能装束が下賜されるなどした。

織田屋敷には次々と大名がやって来て挨拶に来る。

挨拶が終わると歓迎の宴を催す。

お忙しい信照のぶてる様に代わって信長のぶなが様が取り仕切られた。

中盤を過ぎた頃に信照のぶてる様がお戻りになられて席に付かれる。

酔っぱらって粗相をした者はどうなるのだか?


五日、六日は『叙位じょい』があった。

帝自らが五位以上の位階を授ける儀式だ。

ここで信照のぶてる様が関白になられ、武家と公家の両頂点となっただ。

また、お祝いだ。

酒が怖くなって来ただ。


七日は『七草』だ。

春の七草の粥を食って、無病・息災を祈る。

それが終わると『白馬節会あおうまのせちえ』と『御吉書始きっしょはじめ』が執り行われる。

白馬節会は白馬を紫宸殿の前庭にひき出して天覧のあとに宴を開く儀式で、 邪気を払うらしい。

次に織田屋敷に戻って御吉書始きっしょはじめの儀式を行う。

吉日を選んで総覧に供される儀礼的文書の事で、室町御所では正月七日に行われていたので、それに合わせたらしい。

それが終わると『初子はつねいわい』だ。

その月最初の子(ね)の日を初子はつねと言い、正月最初の子の日を祝って、子孫繁栄を祝う。

これで何回目の宴会だ。

その度に九州の大名や代理と顔を合わし、おらと丹羽-長秀にわ-ながひで殿が借金で首が回らない事で笑い話にされただ。

おらも長秀ながひで殿も愛想笑いを零した。


八日は『女叙位にょじょい』だ。

女王禄おうろくとも呼び、女王にょおうに禄を賜る儀式で、帝や皇后の出御をはじめ、尚侍しょうじ典侍ないしのすけなども参加し、紫宸殿ししんでんの庭にあく(天幕)を張り、女王たちに絹や綿などを賜った。

信照のぶてる様の奥方も参加されただ。

おら達は警護の供となって送り迎いに連れ添っただ。

もう振舞酒ふるまいざけはいらんだ。


十日は『御参内始ござんだいはじめ』だ。

やっとこれで仕事が始まる。

下級官は5日から仕事が始まっていたが、やっとこれで正月が締めくくられる。


だが、十一日から十三日には『県召除目あがためしのじもく』と言う諸国の国司など地方官を任命する儀式があり、十四日、十五日には、『踏歌節会とうかのせちえ』と言う年初めに田歌を謡い始める儀式があり、十七日には、『射礼じゃらい』と言う豊楽院ぶらくいん(または建礼門の前)で、帝が臨席のもとに親王以下五位以上および六衛府の官人が参加して射技を披露する儀式があり、十八日には『賭弓のりゆみ』と言う左右の近衛府このえふ・兵衛府の舎人とねりが行う射技を、帝が弓場殿ゆばどのに出御して観覧する儀式が残っていると言う。


「まだあるぞ。二十日に仁寿殿じじゅうでん出御しゅつぎょし、漢詩文に堪能な公卿や文人を召して行う内々の宴である『内宴ないえん』もある」

「本当にお忙しそうで恐縮でございます」


十日の今日だ。

朝から朝廷に赴き、昼から大名など集まって拝謁を受けた。

日が傾き出すと宴だ。

その宴の最中に信照のぶてる様は座を外し、おらと丹羽-長秀にわ-ながひで殿、そして、明日の朝廷で九州の国司や地方官に任命される者を呼び、見届け人として九州の大名や代理を集めた。


「長きに渡り返事を待って貰ったが、事態を収拾する為に余(俺)自ら九州に赴く事にした」


本気で喜んでいるかは怪しいだが、九州の大名と使者らは『ありがとうごいます』と頭を下げた。

国司や地方官も信照のぶてる様に付いて下向する事になる。

信照のぶてる様は一人一人に声を掛け、不誠実な対応を取れば、相応の処罰をすると忠告をする。

どうやら、国司や地方官に成られる方々は九州の大名と使者らから接待を受けていたらしい。

すべてお見通しと言う訳だ。


木ノ下きのした-藤吉郎とうきちろう、そなたは船奉行、及び、使者を命ずる。大砲で九州の大名らを接待してやれ」

「大砲でございますか?」

「逆らう者はすべて粉々にしても良い」

「畏まりました」

丹羽-長秀にわ-ながひで、俺の名代、兼、名護屋浦の作事奉行さくじぶぎょうを命じる」

「畏まりました」

「無官位では侮られるな。藤吉郎とうきちろうは従五位下玄蕃頭げんばのかみに任じる。長秀ながひでも同じく従五位下刑部少輔ぎょうぶしょうを与える。なお、二人には帝が直々にお命じになられる。これで唯の使者ではないぞ、『勅使ちょくし』だ。ありがたく拝命しろ」


まるで子供に飴を与えるような軽さだ。

それに慌てたのは、大友家取次役であった田原-親賢たわら-ちかかた様と城井-長房きい-ながふさ様であった。

散々、無位無官と侮り、おらなど百姓の出と知ると、侮辱するように「このような下賤の者でも城主と為れる織田家が羨ましい」と嘆いていた。

正月の間に散々罵ったおら達が九州に送られる使者となって慌てただ。

後ろの名代らは目を白黒し、口をあんぐりと床に落としそうなくらい口をぽっかりと開いている。

大友の両名の口車に乗った事を後悔しているのだろう。


「あははは、どうだおもしろかろう。おべっかを言う相手を間違ったな」


横に居た信長のぶなが様が嬉しそうに大笑いをする。

小一郎こいちろうに聞いたが、何でも帝に呼ばれているのにおら達がいつまで経っても到着しない。

年内の段取りが間に合わない事を知った信長のぶなが様は怒って、おら達の首を帝に差し出すと言い出したそうだ。

しかし、そこに九州の情勢が入って来て、急いで九州に行く必要がない事が判ると、信照のぶてる様は九州の使者をからかう事を思い付かれ、信長のぶなが様もそれに乗られた。

島津家が劣勢だったら、おら達の首は帝への謝罪に使われていた。

天と地の差だ。

信照のぶてる様の機転で助かっただ。

だが、信照のぶてる様は別におら達の命が欲しかった訳ではなく、代わりを探すのが面倒だという理由らしい。

次に失敗をすれば、詰め腹を切る覚悟がいると小一郎こいちろうに脅された。


「皆も笑え」


信長のぶなが様がそう言う。

使者が情けなく笑う。

おらも笑おうとするのだが、頬が引き付いて巧く笑えなかっただ。

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