閑話.秀吉の立身出世物語(5)「藤吉郎の正月参賀」
薩摩の島津家は鎌倉幕府御家人の
建久8年 (1197年)に大隅国・薩摩国の守護に任じられ、その後、日向国守護職を補任され、島津を名乗るようになった。
島津家が大隅・薩摩・日向の三国守護に拘るのはその為だ。
文明3年 (1471年)に桜島が大規模な噴火を起こし、文明8年 (1476年)頃まで5年近くも続き、日向・大隅方面に所領を持つ家臣やその領民は困窮し、島津家の支配に大きな影を落とす。
島津第14代当主の
実権を握った
ここで島津
ところが島津第14代当主の
島津家の混乱は
大友家は
天文21年(1552年)に歴代の島津氏本宗家当主が任官されていた修理大夫に任じられ、公方
だが、その快進撃が天文23年 (1554年)に
将軍の御世が変わり、公方
幕府と織田家の戦いにおいて南蛮人が幕府に従順な姿勢を取り、北九州において幕府方には安く武器を卸す。
南蛮人の武器を欲して、九州の大名はほとんどが幕府方に付いた。
ローマ教皇が邪教徒と認定している
どちらが勝っても差し障りないようにしていた。
幕府は高槻城主であった高山図書 (高山右近の父)を遣わし、図書の奮闘もあって
こうして、九州探題の
対する朝廷側は「織田に付く様に」と密かに帝の
皇太子を伊勢に避難させるほど、朝廷と幕府の関係も危険な関係となっていた。
だが、帝に応えたのは九州では唯一島津のみである。
しかも当面は土佐の一条家に従って中立を保つ事を願い出ていた。
朝廷としては敵に回らないだけで良しとした。
その
部屋の中には嫡男の
「皆も呼ばれていたのか」
「先程、急ぎの船が着いた。おそらく、それだろう」
「決着したのか? 早過ぎないか?」
「何かあったのは間違いない。
「気に入っている訳ではない。織田家の怠慢が嫌いなだけだ」
幕府をいつでも乗っ取れる実力がありながら、朝廷と幕府の擁護者という立ち位置に甘んじる織田家を
「斯波家が幕府筆頭管領を拝命したならば、幕府の実権など奪ってしまえばよい。いい子ぶっているから幕府が20万人を動員できるほどの力を蓄える余地を与えるのだ」
「織田5万人に対して幕府20万人の戦いか、俺も一度は指揮を取ってみたい」
「それには同感する」
そんな下らない話をしている間に
息子達の顔を見回すと意を決した覚悟で口を開いた。
「我が島津家は織田方に与する事にした」
「いよいよですか」
「
「元より、大友に与する選択などございません」
「その通りだ。まず、脅してでも土佐の
「畏まりました」
「
「承知致しました」
「さらに、織田家に臣従して援助を求めよ。毛利のように鉄砲3,000丁を分捕って来い」
「お任せ下さい」
島津家は大友家とほぼ同数の鉄砲500丁を所持していた。
九州では、この二国に並ぶ国はない。
しかも、その内の200丁は自前で造らせた。
すべてを南蛮人から買った大友家と違った。
だが、そんな大友家をあざ笑うかのように毛利家は3,000丁の鉄砲を保有していた。
毛利家はその火力を背景にして九州連合を打ち負かしている。
九州連合は圧倒的な兵力で長門国や周防国の海岸を次々と占拠しているが、占領地では毛利軍が攻め掛かってくれば、大きな被害を出していた。
まるで『もぐら叩き』のような戦いを繰り返していたが、それでも圧倒的な兵力を有している九州連合に形勢は傾いていた。
だが、大友水軍は初手で安芸に侵攻して手痛い敗北を帰してから、再び安芸に水軍を送ろうとしない。
300石級の織田帆船一隻と村上水軍の連合相手に、南蛮人から買ったジャンク船三隻を保有する大友水軍が負けた事がトラウマとなっていた。
「三隻の『国崩し (大砲)』を積んだ船を持っていながら、一隻の織田の船を恐れるのか」
「安芸の海戦では毛利方が圧勝した」
「当然だ」
「
「兄上、水夫の質が違う。だが、織田の帆船もだらしない。沈んだのは大友の小舟ばかりで大友も早々に引いたので被害は小さい。無理にでも追撃して、一隻でもジャンク船を沈めておれば、戦局も変わっていただろう」
何年も訓練を続けてきた織田家の水夫と、先日購入したばかりジャンク船に乗り込んだ水夫では力の差が出て当然と思った。
一隻の帆船に三隻のジャンク船を沈められては、完全に制海権を失う。
だが、織田家の帆船は小島の多い安芸から出ようとしないので、大友家が長門・周防国の海岸の制海権を握ったままであった。
制海権を持たない
それが
疲弊を大きくしておき、織田家の援軍を待って毛利家が再び北九州に上陸し、北九州を分捕ってしまう。
そんな懸念が強くなっていた。
「
「弱腰に為れと言う意味でしょうか」
「織田家は温いのではない。手堅いのだ」
「手に入る時に手に入れねば、奪う機会を失います」
「無理をして高転びすれば、すべてを失う」
「どうも父上とは意見が合いませんな」
「まぁ~良い。これから学べば良い」
そう言うと、懐から書状を取り出して
中には関ヶ原の勝敗と京の奪還の手際が書かれていた。
「鮮やかな勝ちだ。織田家は牙を隠し、ずっと磨いて来たようだな。まだ、温いと思うか?」
「温いと思いませんが、それならば始めから幕府を乗っ取った方が早いと思います」
「もし、我が島津家が九州9ヶ国を手に入れて、任せられる家臣は足りると思うか。儂は足りんと思うぞ」
そう言われて
「織田家は一世代前まで奉行に過ぎなかった。一門衆も家臣も少ない。それでどうやって幕府を乗っ取れる。我が島津家も同じだ。九州統一などとまだ早い。無茶な夢はまだ見るな」
「では、どうされますか?」
「まずは肥後、大隅、日向の三ヶ国を奪う」
「九州連合に兵を出している隙を狙うのですな」
「だが、普通に攻めていては大隅を取るだけでも苦労する事になる」
「ならば、どうされますか?」
「儂が肥後に攻め入って
「お望みとあらば、やってみせましょう」
「気負うな。すでに策は仕込んである」
3男の
九州連合が反転したならば、九州に上陸して背後を襲って貰う。
各方面に調略の書状が行き交った。
内応を唆された家が畿内や東国の様子も確認している間に一ヶ月の時が過ぎた。
側らで見ていた
機を見るに敏なりとはこの事だった。
この日の為にずっと準備して来ていたのだ。
長島一向宗の降伏、越前陥落と織田家の快進撃の報が入り、土佐の
6月30日、尾張にて
当主の
正室にしは
「宣戦布告とは
「にし伯母上、父は狂っておりません。幕府が敗退した事はお耳に入っておられるでしょう。この儘、幕府に義理立てすれば、
「果たしてそうか?」
織田家が幕府を破った事に九州の大名も驚いたが、関東の武田家や上杉家、奥州の伊達家や最上家などが幕府支持で動いていた。
敵の多い織田家もどこかに和議を結ぶに違いないと言うのが大方の見方であった。
「織田家が天下を奪ってから寝返っても遅うございますぞ」
「そんな口車に乗る
「そんな事を言っていてよろしいのですか?
正室にしが口を閉ざす。
「大坂御坊の本願寺が落ちれば、織田家の水軍が大挙してやってくる事でしょう」
さらに脅す。
織田家が東国で有利に進めば、
難しい事ではない。
毛利軍の前に
それに気が付いて兵を引き上げようとすれば、敵前逃亡で大友水軍が
南九州の武将が無事に帰ってくる可能性は低い。
「殿を無事に戻す方法があると言うのですか?」
「ございます。簡単に」
それがこの宣戦布告だ。
大友家の尻に火が付けばどうだろうか?
「
「こちらは本気で攻めさせて頂きます。そうでなければ、大友の目は誤魔化せません」
「何が望みじゃ」
「父
「なるほど、妾からは答えられぬ。妾は
正室にしは自ら答えず、返事を家老らに委ねた。
家老らにとって
そして、兵が反対する家老は
反島津派を捕える罠、正室にしを支持する家老らと仕組んだ猿芝居であった。
だが、戻って来た
もちろん、
まず、正室にしとの関係は良好で
次に、大隅の家老
大隅には
その1つが
鬼の居ぬ間の侵攻であり、『空き巣泥棒』と呼ばれても仕方ない。
だが、簡単ではない。
大隅に侵攻して、
島津、頼りなし。
そう思われれば、すべてが霧消する。
敵対する城を落城させ、妻子を人質にできれば、
これが『
薩摩の兵を二分したと言っても、兵の八割を
船を調達するだけでも一苦労であった。
だが、大友水軍の協力で
そして、城に戻ると敵の大将である
話を聞くと
してヤラレタと言う感じだ。
その話を聞いた
だが、その動きを見逃す
二隻のジャンク船を失った
◇◇◇
(永禄3年 (1560年)12月30日~1月7日)
帝は元日の寅の刻 (午前4時)に清涼殿の東庭で夜が明けぬ間から『四方拝』を執り行う。
天地四方の神々と先祖代々のみたまを遥拝され、年災を祓い、国家の幸いを祈られる。
そして、辰の刻 (午前8時)に大極殿で群臣からの『朝賀』を受けられる。
『朝賀』は『四方拝』と同じく、群臣が国家の幸いを祈る行事だ。
これに
元日の昼より豊楽院に帝がおでましになり、元日を祝う。
群臣に宴を賜う『元日節会』という儀式らしい。
織田屋敷では、
元日から三日まで帝の長寿を願って、鏡餅・大根・瓜・押鮎・猪肉・鹿肉などを献上する。
二日に公方様であられる
二日は『
松の庭において、公方
三日は『
二日、または、三・四日に年の始めに太上帝 (上皇)や皇太后に威厳を整えて行幸し、年始の挨拶をする儀式らしい。
お迎えが終わると、おら達はまた宴会だ。
正月に飲みすぎ、昨日は唸っていたが、今日も宴会だ。
四日は『御うたひ始』だ。
公方
織田屋敷には次々と大名がやって来て挨拶に来る。
挨拶が終わると歓迎の宴を催す。
お忙しい
中盤を過ぎた頃に
酔っぱらって粗相をした者はどうなるのだか?
五日、六日は『
帝自らが五位以上の位階を授ける儀式だ。
ここで
また、お祝いだ。
酒が怖くなって来ただ。
七日は『七草』だ。
春の七草の粥を食って、無病・息災を祈る。
それが終わると『
白馬節会は白馬を紫宸殿の前庭にひき出して天覧のあとに宴を開く儀式で、 邪気を払うらしい。
次に織田屋敷に戻って
吉日を選んで総覧に供される儀礼的文書の事で、室町御所では正月七日に行われていたので、それに合わせたらしい。
それが終わると『
その月最初の子(ね)の日を
これで何回目の宴会だ。
その度に九州の大名や代理と顔を合わし、おらと
おらも
八日は『
おら達は警護の供となって送り迎いに連れ添っただ。
もう
十日は『
やっとこれで仕事が始まる。
下級官は5日から仕事が始まっていたが、やっとこれで正月が締めくくられる。
だが、十一日から十三日には『
「まだあるぞ。二十日に
「本当にお忙しそうで恐縮でございます」
十日の今日だ。
朝から朝廷に赴き、昼から大名など集まって拝謁を受けた。
日が傾き出すと宴だ。
その宴の最中に
「長きに渡り返事を待って貰ったが、事態を収拾する為に余(俺)自ら九州に赴く事にした」
本気で喜んでいるかは怪しいだが、九州の大名と使者らは『ありがとうごいます』と頭を下げた。
国司や地方官も
どうやら、国司や地方官に成られる方々は九州の大名と使者らから接待を受けていたらしい。
すべてお見通しと言う訳だ。
「
「大砲でございますか?」
「逆らう者はすべて粉々にしても良い」
「畏まりました」
「
「畏まりました」
「無官位では侮られるな。
まるで子供に飴を与えるような軽さだ。
それに慌てたのは、大友家取次役であった
散々、無位無官と侮り、おらなど百姓の出と知ると、侮辱するように「このような下賤の者でも城主と為れる織田家が羨ましい」と嘆いていた。
正月の間に散々罵ったおら達が九州に送られる使者となって慌てただ。
後ろの名代らは目を白黒し、口をあんぐりと床に落としそうなくらい口をぽっかりと開いている。
大友の両名の口車に乗った事を後悔しているのだろう。
「あははは、どうだおもしろかろう。おべっかを言う相手を間違ったな」
横に居た
年内の段取りが間に合わない事を知った
しかし、そこに九州の情勢が入って来て、急いで九州に行く必要がない事が判ると、
島津家が劣勢だったら、おら達の首は帝への謝罪に使われていた。
天と地の差だ。
だが、
次に失敗をすれば、詰め腹を切る覚悟がいると
「皆も笑え」
使者が情けなく笑う。
おらも笑おうとするのだが、頬が引き付いて巧く笑えなかっただ。
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