閑話.秀吉の立身出世物語(4)「藤吉郎の上洛」
そう、藤吉郎に運がいいと。
本願寺を擁護していた甲斐の武田が負けた事で大坂御坊が崩れ出し、
長島で生き残った門徒から捕らえられて河原にさらされた僧侶たちの首の事が伝わり、また、中国地方から出陣した数万人の兵の遺品が運ばれている事も伝わった。
織田家は皆殺しにすると言えば、本当にする怖さを門徒達も知った。
否、怖れる訳がないと結論付けた。
幸いな事に朝廷の公家や尾張・三河の同門の高僧らが仲介を引き受けてくれた。
だが、嫡男の
居残った者は一万人弱しかおらず、対する織田方は摂津・河内・和泉・大和・丹波から三万人が動員された。
負け戦と察した
そもそも
京の見回組の棟梁、
その
しかも朝廷の鉄砲隊の多くが元
織田方ではなく、朝廷に重きを置いた。
大坂御坊に入った
一方、
大坂御坊に残った僧侶らがあたふたしている間に開戦となった。
織田方は一万人の兵を各所に配置して包囲すると、残り二万人で南に集め、織田家の帆船から大砲が本堂に向けて放たれて、本堂が崩壊するのを合図に南から攻め込んだ。
時間稼ぎに南の寺々に火を放って織田軍を足止めするが、火が消えれば進軍を再開するだけだった。
門をあっさりと爆破して、目の前の狂信者を排除していった。
特に先陣を指揮した
逃げ出した者は助かったが、寺に残って命乞いした者は皆殺しにされた。
織田家の恐ろしさを見せつけた。
さて、毛利家の援軍に同意した
大坂湾は遠浅であり、かなり無理をして砲撃を行った。
大砲の点検は必須と考えたのだ。
水軍は半分ずつを知多の
援軍の総大将は
援軍が3,000人のみと少ないように思えるが、
海岸より砲撃して沿岸部を再奪取するのみならば、3,000人も送れば十分であると
乗員が減れば、代わりに物資が運べる。
兵よりも弾薬などの補充物資の方が毛利軍にとって喉から手が出るほど欲していると、
尤も、それは全て建前である。
毛利救援を名目に
大切なのは救援という大事を残し、上洛しないで済ませる口実を作る事だ。
前公方
報告を受け、思惑通りに進んでいる事に
しかし、鎌倉の奥州仕置きと加賀平定から思惑がズレてゆく。
鎌倉から九州まで1ヶ月半、早くとも1ヶ月は掛かると読んでいた。
そして、継ぎ接ぎだらけの情報が九州に
だが、予想は裏切られる。
半月を待たずに正確な情報が伝わってしまった。
九州の大名らは動揺して、すぐに毛利家と和睦し、新幕府への帰順を言い出したのだ。
想定していなかった。
そもそも
次の誤算だ。
加賀の一向宗が織田家の軍門に降ると、大人しかった越前の領主や寺院から不穏な空気が流れた。
越前で進められていた越前の改革は
もちろん、叛乱などという大掛かりな抵抗ではなく、奉行や代官や商人らを巻き込んだ抗議運動という感じであった。
現代風に言えば、『仕事放棄(ストライキ)』である。
通常であれば、仕事をしない者は罷免にして首をすげ替える所だが、その数が多すぎて単純な問題で無くなった。
息子の
簡単には従わないという領主達の最後の意地を見せた。
だが、領主達は始めから叛乱を起こすつもりはない。
時間を掛けて説得すれば、
九州勢が毛利領から引き上げて、援軍そのものが必要なくなったのだ。
そうなるとわざわざ
だが、
再び、九州平定の必要性が浮上したのだ。
春の終わりに堪忍袋の緒が切れて九州平定を立ち上げる。
そこから平伏してももう遅い。
夏には
そんな予定を立てた。
名護屋辺りに拠点を作り、2年か、3年ほど掛けて琉球平定まで京に戻らない。
次のごろごろ野望を構想し始める。
だかしかし、そんな下らない野望は
島津家は関ヶ原が終わるまで土佐の一条家に従って中立を保っていた。
旧幕府方が惨敗すると朝廷派に擦り寄り、毛利家を援護する為に大友家の背後である大隅と肥後に兵を出して襲った。
嫡男の
その
勢いの儘に中肥後と南日向に進出した。
そこで事態が一変した。
鎌倉で行われた奥州仕置きの報が入り、織田方が東国をすべて抑え、加えて前公方
九州が一丸と為れたのは『足利幕府への忠義』という大義名分にあったからだ。
だが、
畿内・東国を平定した織田方が毛利に援軍を出し、九州平定に乗り出してくるのも明らかとなった。
朝廷に逆らった『朝敵』の汚名に加え、幕府に手向かう『逆賊』の汚名が加わる。
忠義に厚い者ほど、この屈辱は耐えられない。
九州の大名達は我先にと手の平を返した。
毛利家に停戦の使者を送り、同時に幕府に恭順と停戦の仲介を願い出て、長門国や周防国から兵を引き上げ始めた。
これに焦ったのが京にいた
九州に戻った兵が大人しく自領に戻るだろうか?
否である。
毛利との戦いの最中に背後で寝返って騙し討ちをした島津を許す訳がない。
島津家は朝廷より朝廷側に与するようにとの綸旨を頂いたが、未だに自軍の中に朝廷の御旗はない。
自称の朝廷派を討つ事を
その悲愴で切実な思いは公家方々を動かし、その声は帝に届いた。
帝が内々に
勝手に動いた島津家を助ける予定などなかった。
互いにすり潰して戦力を消耗する方がお得であり、越前が落ち着くまで待つつもりだった。
だが、帝に頼まれては動かない訳にも行かなくなった。
越前以上に統治が巧く進んでいる土地はない。
急に広がった領地に織田一門や家臣の目ぼしい者も誰もが忙しくしている。
しかも少ない人数で切り盛りをしており、人材を割く余裕がない。
領地に残っているのは、経験も実績もない新参者か、
どちらも使えない。
内輪揉めで遊ぶ暇があるならばと、加えて右筆助手の二人も付けさせられた。
酷いとばっちりだ。
どこも人手が足りないのは同じであり、やっと使えるようになった者を取り上げられたので、残された二人が倍の苦労をする事になる。
実力と実績を見れば、
面倒な事になると思った。
三河には二人の代わりに新しい右筆助手を送るので滞る事もない。
だが、始めから育て直しだ。
◇◇◇
(永禄3年 (1560年)12月27日~29日)
三河から馬に乗せられて、おら達は出発した。
おらも馬に乗れるようになったが、昼夜を分かたず走るとなると心許ない。
しっかり乗馬の名手に掴まっての移動だ。
元城主の姿としては情けない。
だが、
馬の速さは歩くより早いが駆け足と変わらない。
小さな川には橋が架かっているが、土岐(庄内)川と木曽川は舟で渡る。
清洲に到着した頃にはすっかり日も暮れていた。
だが、
那古野、清洲、大垣と馬を変え、街道の脇にある灯籠の灯を目印に馬を進ませただ。
早朝、関ヶ原で
日が暮れるには早かったが夜通し走って来て疲れていたのか、飯を食うと死んだように眠れた。
凍えるような寒さで目を覚まし、凍り付くかと思える湖に浮かべた舟に載り込んだ。
夜明けにはまだ遠く、辺りは真っ暗な中を舟が漕ぎ出でた。
「馬の上も寒かったが、舟の上も寒いだ」
「奥州の寒さはもっと酷かったと聞いておりますが?」
「あれは地獄じゃっだ。歩いている内に髪も眉も凍り付いた。足を止めて休憩などすれば、凍え死にだ」
「大変でしたね」
「よく生きて帰ってきたと思うだ」
代わりに山中様のご子息の
「おらが
「いやいや、それはないでしょう」
「
「間違いではありません。ですが、一城主に過ぎなかった藤吉郎殿を大将に据えても誰も付いてきません。誰かを大将に据えて、その補佐を藤吉郎殿と丹羽殿に任せるのでしょう」
「奥州のように
「
「まさか、お市様を?」
「それこそあり得ません。お市様の武勇は聞き及んでおりますが、だからと言って
「そうだな。おらもそう思うだ」
誰が大将になったとしてもヤル事は変わらない。
心配する事はない。
舟は高島など、幾つかの湊に寄りながら日がとっぷりと暮れた真夜中に大津に入った。
ここで一泊して朝になってから京に入る。
「
「間に合わんかっただと」
「長浜城で手紙を受け取って、
手紙を受け取った時点ですべてをおねに任せて、おらのみで参上するべきだったそうだ。
あの手紙で察せよとは無茶を言う。
だが、
おらが情勢を把握して動いていないと知って肝が冷えたと言う。
「では、藤吉郎殿は打ち首でございますか?」
「あぁ、
「嘘じゃろう」
「
「ホントか、ホントの話か?」
三河に残れれば、於菊丸の傅役になって後は1万石の大名に為れたらしい。
しかし、おらは
仕事を終えれば、最低でも1万貫の大名に為れ、巧くすると森様と同じ、小守護代にも為れると言う。
それなのに一日遅れただけで打ち首とは
助かって良かった。
「
「おらに何も教えてくれんだか?」
「知らぬ方が良いらしい」
「本当に教えてくれんのか」
「
「どうしてじゃ?」
「知らんと言った」
おらの質問に答えてくれない。
じゃが、先程の密会で
おらの耳は地獄耳だ。
仕方ない。
おらは初めて逢坂の関所を越えて京に入って行っただ。
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