閑話.秀吉の立身出世物語(4)「藤吉郎の上洛」

小一郎こいちろうは藤吉郎に運がいいと言った。

そう、藤吉郎に運がいいと。

本願寺を擁護していた甲斐の武田が負けた事で大坂御坊が崩れ出し、本願寺ほんがんじ第11世宗主-顕如けんにょは河内への退去に合意した。

長島で生き残った門徒から捕らえられて河原にさらされた僧侶たちの首の事が伝わり、また、中国地方から出陣した数万人の兵の遺品が運ばれている事も伝わった。

織田家は皆殺しにすると言えば、本当にする怖さを門徒達も知った。

顕如けんにょは幕府軍10万人を蹴散らす織田軍にとって、門徒10万人を恐れるだろうか。

否、怖れる訳がないと結論付けた。

幸いな事に朝廷の公家や尾張・三河の同門の高僧らが仲介を引き受けてくれた。

だが、嫡男の教如きょうにょは反発し、強行派と一緒に大坂御坊に立て籠もり、徹底抗戦を主張した。

顕如けんにょは息子を見限って大坂御坊に集まっていた門徒を解散させ、僧侶を連れて大坂を退去した。

居残った者は一万人弱しかおらず、対する織田方は摂津・河内・和泉・大和・丹波から三万人が動員された。

負け戦と察した雑賀衆さいかしゅう根来衆ねごろしゅうも撤退していた。


そもそも根来衆ねごろしゅうは門徒として参集していたが、始めから織田家と戦う気はなかった。

京の見回組の棟梁、近衛府このえふの正五位下のとう少将しょうしょうまで出世した中根なかね-忠貞たださだの副官が根来衆ねごろしゅう出身の津田-算長つだ-かずながだったからである。

その算長かずなが主典さかんである従七位下右近衛将曹うこんえのしょうそうとなっていた。

しかも朝廷の鉄砲隊の多くが元根来衆ねごろしゅうの者らであった。

織田方ではなく、朝廷に重きを置いた。

根来衆ねごろしゅうは朝廷をお守りする事に意義を見出していた。

大坂御坊に入った根来衆ねごろしゅうは旧幕府派の切り崩しに協力し、退去した顕如けんにょを護衛して河内へと移動した。


一方、雑賀衆さいかしゅうはそんな根来衆ねごろしゅうを妬んでおり、どちらかと言えば旧幕府寄りであったが、関ヶ原から戻ってきた者から新兵器の威力を聞けば、戦う気力もなくなっていた。

顕如けんにょが退去すると言えば、これ幸いに帰って行った。


大坂御坊に残った僧侶らがあたふたしている間に開戦となった。

織田方は一万人の兵を各所に配置して包囲すると、残り二万人で南に集め、織田家の帆船から大砲が本堂に向けて放たれて、本堂が崩壊するのを合図に南から攻め込んだ。

時間稼ぎに南の寺々に火を放って織田軍を足止めするが、火が消えれば進軍を再開するだけだった。

門をあっさりと爆破して、目の前の狂信者を排除していった。

特に先陣を指揮した明智-光秀あけち-みつひで荒木-村重あらき-むらしげの働きは目覚ましく、荒れ狂う狂信者を根切りして、最後にすべての寺に火を放って、ことごとく灰と化した。

逃げ出した者は助かったが、寺に残って命乞いした者は皆殺しにされた。

織田家の恐ろしさを見せつけた。

信照のぶてるが越後に入った頃にはすべての処理が終わり、信長のぶながは織田水軍を毛利家の援軍に送る事を提案した。

信照のぶてるは右筆筆頭の岡本-定季おかもと-さだすえと相談して欲しいと伝えた。

信照のぶてるは自らが判断するには越後は遠すぎると判断し、すべての決断を定季さだすえに一任していたのだ。


さて、毛利家の援軍に同意した定季さだすえだが、船の点検後と条件を付けた。

大坂湾は遠浅であり、かなり無理をして砲撃を行った。

大砲の点検は必須と考えたのだ。

水軍は半分ずつを知多の造船所ドックに戻し、整備と点検と弾薬等の補充を受けた後に、再度大輪田泊おおわだのとまりで再結集させて出陣する事が決まった。

援軍の総大将は森-可成もり-よしなりに決まり、可成よしなりに率いられた森家の兵1,000人と越前の武将が率いる2,000人、合わせて3,000人が毛利軍への援軍と決まった。

援軍が3,000人のみと少ないように思えるが、信照のぶてる自らが九州の処理を行うと定季さだすえに伝えていたので中国地方の防衛に限られる。

海岸より砲撃して沿岸部を再奪取するのみならば、3,000人も送れば十分であると信長のぶながも合意した。

乗員が減れば、代わりに物資が運べる。

兵よりも弾薬などの補充物資の方が毛利軍にとって喉から手が出るほど欲していると、定季さだすえ信長のぶながを説得したのだ。


尤も、それは全て建前である。

毛利救援を名目に信照のぶてるは上洛を見送り、尾張で船の整備と点検の為に足止めされて3ヶ月ほど尾張でのんびりと過ごし、それから九州に出陣する思惑が隠されているとは誰も思うまい。

大切なのは救援という大事を残し、上洛しないで済ませる口実を作る事だ。

前公方義昭よしあきを捕らえ、奥州平定をせずに済んだ場合の信照のぶてるの腹案を定季さだすえは着実に実行した。

報告を受け、思惑通りに進んでいる事に信照のぶてるは満足していた。

しかし、鎌倉の奥州仕置きと加賀平定から思惑がズレてゆく。


義輝よしてるの生存を九州の武将が思った以上に早く知ってしまったのだ。

鎌倉から九州まで1ヶ月半、早くとも1ヶ月は掛かると読んでいた。

そして、継ぎ接ぎだらけの情報が九州に錯綜さくそうし、九州の大名らが織田に降伏するのは早くとも3ヶ月後、九州男児の意地を見せてくれれば、半年くらいは抵抗が続くと予想していた。

だが、予想は裏切られる。

半月を待たずに正確な情報が伝わってしまった。

九州の大名らは動揺して、すぐに毛利家と和睦し、新幕府への帰順を言い出したのだ。

信照のぶてるは自身が作った商業路が仇になってしまった。

想定していなかった。

そもそも義輝よしてる復帰が予定外なので仕方ないとも言えた。


次の誤算だ。

加賀の一向宗が織田家の軍門に降ると、大人しかった越前の領主や寺院から不穏な空気が流れた。

越前で進められていた越前の改革は朝倉-宗滴あさくら-そうてきの死後に中途半端な所で終わっており、織田家の流儀に反発が起こったのだ。

もちろん、叛乱などという大掛かりな抵抗ではなく、奉行や代官や商人らを巻き込んだ抗議運動という感じであった。

現代風に言えば、『仕事放棄(ストライキ)』である。

通常であれば、仕事をしない者は罷免にして首をすげ替える所だが、その数が多すぎて単純な問題で無くなった。

信長のぶながに助けを求めて兵と人材を借りれば解決するが、それは森-可行もり-よしゆきが領国経営もできない無能を晒す事になる。

息子の可成よしなりに付ける兵も用意できない事態になった。

簡単には従わないという領主達の最後の意地を見せた。

だが、領主達は始めから叛乱を起こすつもりはない。

時間を掛けて説得すれば、可成よしなりの出陣には十分に間に合うと誰もが思った。


信照のぶてるが飛騨を平定した頃には、九州の動揺も落ち着いて堺には新幕府へ恭順の使者が来るという先触れが到着していた。

九州勢が毛利領から引き上げて、援軍そのものが必要なくなったのだ。

そうなるとわざわざ信照のぶてるが出て行く必要もない。

信照のぶてるは尾張に戻ると近衞-晴嗣このえ-はるつぐに掴まって上洛する事になった。

信照のぶてるは人生が思うようにならないと痛感させられた。


だが、信照のぶてるが京に入ると九州の大名らの使者は口で恭順と言いながら、新幕府の作法に従おうとしない。

再び、九州平定の必要性が浮上したのだ。

信照のぶてるは薄笑いを浮かべて、強く反論もせずに九州から来た大名の使者の言い訳を聞いていた。

春の終わりに堪忍袋の緒が切れて九州平定を立ち上げる。

そこから平伏してももう遅い。

夏には可成よしなりを先発隊として送り、信照のぶてるも秋には出発する。

そんな予定を立てた。

名護屋辺りに拠点を作り、2年か、3年ほど掛けて琉球平定まで京に戻らない。

次のごろごろ野望を構想し始める。


だかしかし、そんな下らない野望は島津-貴久しまづ-たかひさの嫡男である義久よしひさの切望で消える事になる。

島津家は関ヶ原が終わるまで土佐の一条家に従って中立を保っていた。

旧幕府方が惨敗すると朝廷派に擦り寄り、毛利家を援護する為に大友家の背後である大隅と肥後に兵を出して襲った。

嫡男の義久よしひさが上洛して朝廷に援軍を求め、織田家に物資の支援を要請した。

漁夫ぎょふを得ようとする小狡い策である。


その貴久たかひさの策は半ば成功し、大坂御坊が陥落する頃には南肥後と大隅を掌握した。

勢いの儘に中肥後と南日向に進出した。

そこで事態が一変した。

鎌倉で行われた奥州仕置きの報が入り、織田方が東国をすべて抑え、加えて前公方義昭よしあきが捕らえられ、元公方義輝よしてるが存命であり、義輝よしてるは織田方の者となっている事が伝わった。

九州が一丸と為れたのは『足利幕府への忠義』という大義名分にあったからだ。

だが、義輝よしてるの子が信照のぶてるの養子に入って、足利家の者が次期公方になると義輝よしてる自身が言った事で、九州の大名を繋げる大義名分が崩れた。

畿内・東国を平定した織田方が毛利に援軍を出し、九州平定に乗り出してくるのも明らかとなった。

朝廷に逆らった『朝敵』の汚名に加え、幕府に手向かう『逆賊』の汚名が加わる。

忠義に厚い者ほど、この屈辱は耐えられない。

大友-宗麟おおとも-そうりん龍造寺りゅうぞうじ-隆信たかのぶを支持していた大名やその家臣らが造反し、寝返られては元も子もない。

九州の大名達は我先にと手の平を返した。

毛利家に停戦の使者を送り、同時に幕府に恭順と停戦の仲介を願い出て、長門国や周防国から兵を引き上げ始めた。


これに焦ったのが京にいた義久よしひさである。

九州に戻った兵が大人しく自領に戻るだろうか?

否である。

毛利との戦いの最中に背後で寝返って騙し討ちをした島津を許す訳がない。

島津家は朝廷より朝廷側に与するようにとの綸旨を頂いたが、未だに自軍の中に朝廷の御旗はない。

自称の朝廷派を討つ事を躊躇ためら大友-宗麟おおとも-そうりん龍造寺りゅうぞうじ-隆信たかのぶではない。

義久よしひさは援軍を朝廷に懇願した。

その悲愴で切実な思いは公家方々を動かし、その声は帝に届いた。

帝が内々に信照のぶてるを呼び、島津家を助けて欲しいと頼む。

信照のぶてるの予定が狂った。

勝手に動いた島津家を助ける予定などなかった。

互いにすり潰して戦力を消耗する方がお得であり、越前が落ち着くまで待つつもりだった。

だが、帝に頼まれては動かない訳にも行かなくなった。

越前以上に統治が巧く進んでいる土地はない。

急に広がった領地に織田一門や家臣の目ぼしい者も誰もが忙しくしている。

しかも少ない人数で切り盛りをしており、人材を割く余裕がない。

信照のぶてるの家臣は元々少なく、持っていた黒鍬衆という手札カードもほとんどを東国に置いて来た。

領地に残っているのは、経験も実績もない新参者か、うだつの上がらない者くらいであった。

どちらも使えない。

信照のぶてるは仕方なく、奥州帰りで銭勘定ばかりしている者と身内で足の引っ張り合いをして遊んでいる二人を呼び出す事にした。

信照のぶてるへの忠誠はともかく、実力と実績で他を圧倒する二人である。

内輪揉めで遊ぶ暇があるならばと、加えて右筆助手の二人も付けさせられた。

酷いとばっちりだ。

どこも人手が足りないのは同じであり、やっと使えるようになった者を取り上げられたので、残された二人が倍の苦労をする事になる。


実力と実績を見れば、小一郎こいちろうより大饗おおあえ-正辰まさたつを呼びたかった信照のぶてるであったが、流石に三河が回らないと思って自重した。

正辰まさたつを気にいっている高島局も怒り出す。

面倒な事になると思った。

三河には二人の代わりに新しい右筆助手を送るので滞る事もない。

だが、始めから育て直しだ。

信照のぶてるの右筆で三河の相談役である山中-為俊やまなか-ためとしが少し不機嫌になるのも仕方なかった。

小一郎こいちろうを付けて貰えた藤吉郎は運が良かったのだ。


 ◇◇◇


(永禄3年 (1560年)12月27日~29日)

三河から馬に乗せられて、おら達は出発した。

おらも馬に乗れるようになったが、昼夜を分かたず走るとなると心許ない。

しっかり乗馬の名手に掴まっての移動だ。

元城主の姿としては情けない。

だが、小一郎こいちろうが譲ってくれない。

馬の速さは歩くより早いが駆け足と変わらない。

小さな川には橋が架かっているが、土岐(庄内)川と木曽川は舟で渡る。

清洲に到着した頃にはすっかり日も暮れていた。

だが、小一郎こいちろうは歩みを止めない。

那古野、清洲、大垣と馬を変え、街道の脇にある灯籠の灯を目印に馬を進ませただ。


早朝、関ヶ原で小一郎こいちろうが誰かと話し終わると妙に明るくなり、歩みも緩くなって休憩を何度も挟んで今浜に到着した。

日が暮れるには早かったが夜通し走って来て疲れていたのか、飯を食うと死んだように眠れた。

凍えるような寒さで目を覚まし、凍り付くかと思える湖に浮かべた舟に載り込んだ。

夜明けにはまだ遠く、辺りは真っ暗な中を舟が漕ぎ出でた。


「馬の上も寒かったが、舟の上も寒いだ」

「奥州の寒さはもっと酷かったと聞いておりますが?」

「あれは地獄じゃっだ。歩いている内に髪も眉も凍り付いた。足を止めて休憩などすれば、凍え死にだ」

「大変でしたね」

「よく生きて帰ってきたと思うだ」


小一郎こいちろうは宿場に着く度に誰かと会って何かを確認しているが、おらには余り話してくれない。

代わりに山中様のご子息の長俊ながとし殿が織田家の状況とおらの立場を教えてくれた。


「おらが可成よしなり殿の代わりに大将などできるだか?」

「いやいや、それはないでしょう」

可成よしなり殿の代わりだと言っただ。それは間違いか?」

「間違いではありません。ですが、一城主に過ぎなかった藤吉郎殿を大将に据えても誰も付いてきません。誰かを大将に据えて、その補佐を藤吉郎殿と丹羽殿に任せるのでしょう」

「奥州のように秀孝ひでたか様を大将にされるだか?」

秀孝ひでたか様は上総国の守護代になられたばかりです。手伝いに向かわされる事はあっても呼び出す事はないと思います」

「まさか、お市様を?」

「それこそあり得ません。お市様の武勇は聞き及んでおりますが、だからと言って信照のぶてる様がお市様を矢面に立たされるような事は致しません」

「そうだな。おらもそう思うだ」


誰が大将になったとしてもヤル事は変わらない。

心配する事はない。

舟は高島など、幾つかの湊に寄りながら日がとっぷりと暮れた真夜中に大津に入った。

ここで一泊して朝になってから京に入る。


兄者あにじゃ、急いで来たが間に合わなんだ」

「間に合わんかっただと」

「長浜城で手紙を受け取って、兄者あにじゃがすぐに来ないからだ」


手紙を受け取った時点ですべてをおねに任せて、おらのみで参上するべきだったそうだ。

あの手紙で察せよとは無茶を言う。

だが、小一郎こいちろうはおらが丹羽-長秀にわ-ながひで殿と連絡を取っていると思って静観していた。

おらが情勢を把握して動いていないと知って肝が冷えたと言う。


「では、藤吉郎殿は打ち首でございますか?」

「あぁ、信長のぶなが様はそうもおっしゃったそうだ」

「嘘じゃろう」

信照のぶてる様が止められた。首を落としてしまっては外に人が居らぬと。兄者あにじゃ、首が繋がって良かったな」

「ホントか、ホントの話か?」


三河に残れれば、於菊丸の傅役になって後は1万石の大名に為れたらしい。

しかし、おらは信照のぶてる様の配下に戻る事になった。

仕事を終えれば、最低でも1万貫の大名に為れ、巧くすると森様と同じ、小守護代にも為れると言う。

それなのに一日遅れただけで打ち首とはえらい落差じゃ。

助かって良かった。

信照のぶてる様も信長のぶなが様も明日の大晦日から忙しく、正月の参賀が終わるまで、おらと謁見する暇もないと言う。


兄者あにじゃには他の武将と同じく、正月の参賀に参内し、長浜城主として九州の武将らと面識を持たせておくようにと仰せつかった」

「おらに何も教えてくれんだか?」

「知らぬ方が良いらしい」

「本当に教えてくれんのか」

兄者あにじゃ、俺も詳しくは知らん。とにかく、奥州より持ち帰った証文の清算をお願いする為に上洛した事にしろとおっしゃられたそうだ」

「どうしてじゃ?」

「知らんと言った」


おらの質問に答えてくれない。

じゃが、先程の密会で小一郎こいちろうは「よくも咄嗟とっさにそんな悪戯いたずらを思い付かれる」と呟いていた。

おらの耳は地獄耳だ。

小一郎こいちろうが急に歩みを緩やかにしたのは、この大津で返事を聞く為だったらしい。

小一郎こいちろうも知らん事になっているようで答えてくれんのだろう。

仕方ない。

おらは初めて逢坂の関所を越えて京に入って行っただ。

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