第59話 新公方の上洛と御太閤様、万歳。

永禄3年 (1560年)12月20日。

春に桜が舞い散るように小さな白い花が天空より降り注ぎ、凍えるような冷たい風が首裾を走って行った。

これはこれで歓迎してくれているのだろうか?

行列も止まる冬将軍でなかった事を喜んでおこう。

五山も御所も白い薄化粧をして出迎えてくれた。

すべてが白く染まる静謐せいひつの世界が広がっていた。

それとは対照的に二万近い武将が顔を高揚し、道端の民衆も沸きに沸いて煮立った鍋のようにぐつぐつと熱気の音を立てていた。


「きゃ~あ、信照のぶてる様」

信長のぶなが様、信長のぶなが様、信長のぶなが様」

信照のぶてる様、可愛い!」

「こっち見て、信長のぶなが様」

新公方の上洛を熱狂的な声で出迎えてくれる。

こっちが少し引くくらいだ。

京の都では、『源氏物語』の光源氏と頭中将とうのちゅうじょうが流行っているらしい。

紫式部むらさきしきぶも本望だろう。


「あははは、本望どころか、今光源氏の信照のぶてる様を見られないのを悔しがっている事でしょう」

「まさか、誰が光源氏だ?」

「殿しかいません。信長のぶなが様はその引き立て役の頭中将とうのちゅうじょうでございます」

「埒もない」

「通りの女共もご覧下さい。皆、うっとりと見て狂気の目になっているではありませんか」

「下らん。それよりも慶次、今日も一段と派手な服を着ているな」

信照のぶてる様と信長のぶなが様に負けぬように張り切ってみました」


俺と兄上(信長)の後ろで警護の一人として付いているのに、頭は茶筅髷ちゃせんまげ、衣服は湯帷子ゆかたびらと左右が違う半袴はんばかま、縄を腰に巻き、瓢箪ひょうたんを幾つも吊り下げ、派手な朱鞘に太刀を納めていた。

どう見ても昔の兄上(信長)のファッションだ。


さらに、慶次は部下に兄上(信長)が昔着ていた他の出で立ちをさせている。

さながら、信長ファッションショーのようにも見えなくもない。

昨日まで普通の出で立ちだったので驚いた。

兄上(信長)は苦虫を噛み潰したような顔で「本気で、京の都をそれで進むつもりか?」と問うた。

これが慶次の望む褒美だそうだ。


兄上(信長)は慶次に織田-信次おだ-のぶつぐ叔父上を命懸けで守った褒美を与えると言ったが、慶次はその褒美を保留していた。

もう忘れ去られているかもしれないが、洲賀-才蔵すが-さいぞうが放った鉄砲の弾が喜六郎(秀孝ひでたか)に当たったと冤罪を被せられ、信勝兄ぃに殺され掛け、伊達家に身を寄せていたが、その伊達家が寝返って殺されそうになった所を慶次が助けた。

慶次が連れて行った兵は300騎のみである。

伊達領内から相馬領、蘆名領と奥州中を撤退に次ぐ撤退で逃げ回り、何度も死線を越えて守り切った。

常に殿しんがりを務め、負け戦を10度楽しんだと豪語する。

兄上(信長)は様々な出で立ちをやって来た。

それがカッコいいと思っていた。

中には西洋のビロードのマントなどもあり、確かに時代の最先端を進んでいた。

また、小恥ずかしいモノも残っている。

兄上(信長)の黒歴史だ。

これが褒美とは、慶次も人が悪い。


だが、民衆はそれを恥ずかしい黒歴史とは見ていないようであった。

楽しみの少ないこの時代だ。

兄上(信長)がやったとなれば、別の意味が生まれるのだろう。

皆、楽しそうに見ている。


また、武将達が思い思いの出で立ちで馬に乗っており、上洛の行列は馬揃えのようになっていた。

そもそも護衛の兵は二千人しか連れて来ていない。

だが、栄えある新公方の初上洛に付き従いたい者が後を絶たない。

一領主に付き、付き人は6名までとのお達しを出したと言うのに、尾張、美濃、三河、西遠江から続々とやって来て、近江に入る頃には越前や伊勢からも駆け付けて来て二万人近い大軍となってしまった。

借りている泊まり城も寺もギュウギュウ詰めだ。

毛布が足りたのか、おしくらまんじゅうの効果か、ともかく凍え死ぬ事はなかったようだ。

俺は上洛の熱気で雪が溶けてしまうのではないかと心配した。


「雪はない方がよいのではないか?」

「水浸しになるでしょう」

「それが何か?」

「明日の朝には氷に変わってしまいます」

「なるほど、朝には凍り付いて危ないか」

「桜が咲くまで待って頂ければ、よかったのですが…………」

「それはできん」


俺がごろごろしている間に晴嗣はるつぐは俺には迷惑が掛からないように兄上(信長)主体の上洛を唆したのだ。

兄上(信長)が大号令して上洛するのは中々に魅力的だったらしい。

計画は以前からあったので、正月の参賀に間に合うように上洛の段取りが決まった。

兄上(信長)は九州から来る使者を京で迎えると決めていたのだ。

内政は兄上(信長)に任せると決めた。

ならば、反論する必要もない。

九州から来た使者殿らには一ヶ月ほど京に留まって貰おう。


 ◇◇◇


永禄3年 (1560年)12月24日。

上洛してすぐに拝謁とは行かない。

公家はいろいろと手続が面倒なのだ。

俺一人ならば内大臣として宮中に上がれるが兄上(信長)主体で戦勝報告となると、そうはいかない。

よい吉日を選んで日取りが決まった。

それが今日だ。


勿論、今日までごろごろさせて貰えた訳ではない。

上洛した翌日、同行した武将と先に上洛した武将を前に新公方としての顔を見せる。

新幕府御所は織田屋敷となった。

豪華絢爛な西院小泉城を再建しているので、西院幕府、あるいは、小泉時代と呼ばれるのかも知れない。

兄上(信長)は俺に織田屋敷を譲って、武衛屋敷を三十郎兄ぃに使わせ、自分は知恩院で部屋を借りている。

実に義理堅い。

旧室町邸の半分を再建して幕府の行政方をそこに戻し、残りの半分に兄上(信長)の邸宅を造る予定だ。


再び、俺は大広間にひな壇が並べられて、その最上段に登る。

その横に赤子の輝若丸てるわかまるを抱いた元俺の侍女が座る。

その侍女は千代女に呼ばれた望月家の忍びの一人だが、いつもの血統ロンダリングで近衛一族の娘となり、晴嗣はるつぐの養女となって輝ノ介(足利-義輝あしかが-よしてる)の侍女となってお手付きとなった。

母は近衛の姫、見事にやんごとなき姫に変わっていた。

生まれた輝若丸てるわかまるは俺の養子となり、俺(信照のぶてる)の嫡男織田おだ-輝若丸てるわかまるとなる。

俺は平氏の棟梁となったが、息子は源氏の棟梁だ。

輝若丸てるわかまるが織田姓を足利姓に戻すかどうかは、俺の知る所ではない。


一段下に執権しっけんとなった兄上(信長)、その下に管領が並ぶ。

筆頭管領に斯波家に養子に入った三十郎兄ぃ、影で織田家に忠義を尽くした山名-祐豊やまな-すけとよ、三好家の顔を立てて細川-真之ほそかわ-さねゆきが就任した。

幕府に反旗を翻した細川-氏綱ほそかわ-うじつなは管領・守護職を解任し、高野山に出家させた。

そして、摂津と和泉の守護に細川家ではなく、兄上(信長)は三好-長逸みよし-ながやす三好-実休みよし-じっきゅうの次男の十河-存保そごう-まさやすを大抜擢した。

これで三好家の面目としては保たれる。

しかし、今後の守護に実権のない事を知っている実休じっきゅうにとって面白くない。

そこで阿波守護であった細川-真之ほそかわ-さねゆきを讃岐と備中の守護に任命し、さらに、管領職を追加したのである。


「それでよく三好家が納得しましたね」

「そこは武力よ。兵を連れて海を渡る事を禁じた。さらに働き次第で九州に2国を与えると約束した」

「無責任な」

「働き次第である。嘘は言っておらん」


仮約束から正式な文書では九州の二ヶ国を南海の二ヶ国に変更だ。

俺は琉球と台湾は併合するつもりだ。

琉球王は明国と日ノ本に両属して、『二元外交』をしている。

各国に矛盾した内容を語る『二元外交』など許すつもりなどない。

日ノ本に恭順して承認された王になるか、抵抗して諸大名と同じ守護代となるかのどちらだ。

序に本島以外はすべて没収する。


次に台湾は九州に近い広さがある。

九つか、八つの国に分ける事ができる。

その1つを三好家に任せよう。

南海の島には所有者不在の島や土地も多く、与える領地に困る事はないだろう。

原住民とは仲良くしたいが、どうなるかは判らない。

仲良くしてくれるといいな。


俺は九州の諸大名を許す代わりに南海平定に協力する事を条件とした。

勿論、各国に代官を置くのも認めさせる。

さらに、何もない肥前国松浦郡名護屋の名護屋浦に3,000石級の帆船が停泊できる軍港を造るので協力するように命じた。

名護屋浦には奥深い入江であり、波が静かな上に岸壁が際まで来ているので水深も取れると考えた。

ここは朝鮮や明国に睨みを利かせる軍港であり、南海へ出る日本海ルートの中継基地になる。

巨大な城を建てるつもりはないが、辺りに巨大な町を併設する。


「儂よりお主の方が悪どいではないか」

「どこがですか?」

「土地を勝手に奪う辺りだ」

「何もない所を有効活用してやる。感謝されても恨みを買う覚えはない」

「何も無くとも、そこに町ができれば、奪われたと思うのよ」

「その銭を出すのは俺だ。文句は言わせん」

「やはり、悪どいではないか」


価値のない間は見向きをしないが、価値が生まれた瞬間に惜しくなる。

この時代の武将らは強欲過ぎる。

惜しいと思えば、先に銭を使って開発すればいい。

先に造ったモノを奪うほど、俺は悪党ではない。

そんな事を兄上(信長)と話しながら宮中に上がり、戦勝の報告を帝にした。

褒美として左大臣に任命された。

あぁ、遂に左大臣か。


残るのは関白と太政大臣のみと…………しかも数か月後に公方職を輝若丸てるわかまるに譲ると大御所となる。

そして、鷹司たかつかさ-忠冬ただふゆ嗣子しし(跡取り)が無かった為に断絶した鷹司たかつかさを再興して関白になる予定だ。

鷹司たかつかさ家ならば、関白に就任するのも当然って、何?

俺は大御所で関白、武家と公家の両頂点。

どうしてこうなった?


因みに、南海平定に出る前に関白職を降りて、一時的に関白職から身を引いてくれた西園寺さいおんじ-公朝きんともに返す。

恨まれているかと言えば、むしろ喜ばれている。

本来、西園寺さいおんじ家は太政大臣までしかなれない家柄であり、左大臣を譲る代わりに関白職に就任できた。

関白職に返り咲かせて頂けるなど、感謝しかないそうだ。

今風に言えば、『靴にキスをしても足りない』と言う。


さて、俺の子は誠仁さねひと親王と同腹の氷高皇女ひだかのひめみこであり、その子が関白になるのは決まっている。

ならば、『いずれは太閤、もう太閤で良いのでは』とか、今から言われて…………。

大御所で太閤、略して『御太閤様』って何だ?

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