閑話.輝ノ介の鎌倉仕置きとその後。

(永禄3年9月3日(1560年10月2日))北信濃 善光寺

信照のぶてるは善光寺の寺を接収し、仮の本陣として諸将に褒美として領地安堵と役職を与え、今後の発展を約束した。

信玄しんげんも甲斐守護に一条-信龍いちじょう-のぶたつが選ばれた事で安堵していた。

もちろん、信照のぶてるは甲斐を捨てた者らの罰として帰国を許さない。

信勝の配下となって蝦夷地の開拓に従事させると言い切った。

負けた謙信けんしん率いる越後勢、蘆名一族も信玄しんげんらと同罪である。

仮百姓となって帰農する者はその限りではなく、土地を持たない水呑み百姓となる。

それで良ければ、帰参を許すと言った。

但し、出陣していない子息らはその限りではない。

一族に類を及ぼしたくなければ、信照のぶてるに従うしかないと思わせた。

また、勝った駿河・甲斐・信野の諸将からも息子や一族の者を農民と共に派遣するように命令を下した。

待遇の違いは手柄を立てて埋めよとも言う。


『蝦夷地は日の本の防衛の要となる。これより東国武将の役儀と心得よ』


信照のぶてるがそう言うと一同が従った。

関東武士も例外ではない。

負けた宇都宮氏、小田氏、長尾氏、芳賀氏、長野氏、結城氏、三宅氏、真壁氏、水谷氏などの方々も同罪だ。

当然、復帰して古河公方こがくぼうを名乗った足利-晴氏あしかが-はるうじなども連れて行かれる。

すべて信勝の配下として蝦夷地に送られる。

勝った北条氏は織田家から船を借りて、彼らの運搬と巡回する船団を指揮する事に決まった。

北条-宗哲ほうじょう-そうてつは終始上機嫌だ。

伊豆、相模、武蔵の三国に加え、下総、下野と常陸の半国を北条家の管理下とした。

支配地ではなく、朝廷より預かった土地だ。

上野に織田おだ-造酒丞みきのじょうを入れ、安房と上総に織田家の者を派遣する事で、辛うじて関東が北条家一色になる事を防いでいるが、事実上、関東は北条家のモノとなった。


宗哲そうてつ殿、これ以上はないとお心得下され』


信照のぶてるが釘を刺したが、宗哲そうてつもよく判っている。

これ以上の欲を搔けば、織田が北条を潰す必要が出てくる。

さて、関東の裁きはおおよそ決まったが、奥州をどうするかは決まっていなかった。


 ◇◇◇

(永禄3年9月4日(1560年10月3日))北信濃 善光寺

あははは、輝ノ介はやって来た奥州の使者の話を聞いて大いに笑った。

これが笑わずにいられようか。

お市ならば何かやってくれると思っていたが、これ以上の愉快な事はなかった。


信照のぶてるとお市は似てないと思っておったが、やはり兄妹だ。似ていないようで似ている」

「どこがですか?」

「無茶な所だ」

「俺は少数で敵の中央に飛び込みません」

「イザぁ、決戦と思って京に上がると因縁の三好-長慶みよし-ながよしが降伏していたではないか。あの時ほど腹の立った事はなかったぞ」

「俺は殺されかけたがな」

「余は軽く蹴っただけだ。お主がひ弱過ぎるのだ」


信照のぶてるは当代きっての軍略家であり、お市は天真爛漫てんしんらんまんな武闘家であった。

思考がまったく異なる。

三河を一夜で取った事もあり、何を仕出かすのか判らない娘だ。

やはり奥州の決戦でも仕出かした。

両者合わせて10万人を超える大合戦の前日に調略した出羽三山の忍び衆と共に伊達・最上連合の中枢に堂々と最上の味方として忍び込んだ。

明日は決戦という大事な日だ。

川を挟んでの野戦という事もあって軍議が白熱していた。

そこに突然の大爆音と共に爆風が吹いて陣幕が飛んだ。


「500人足らずで5万人を超える大軍のど真ん中でやる所業ではない」

「あははは、度肝を抜かれたであろうな」

「正気ではできません」

「だが、勝算はあったようだな」


信照のぶてるが使者に向かって、『馬鹿ぁ、ヒーロー戦隊の登場のつもりか!?』と呟いた。

ヒーロー戦隊が何を差すのかは判らないが、爆発音で登場すると松明を灯して、お市は好き勝手な口上を述べた。


『悪の栄えたためしなしなのじゃ』


そう言い切ると、お市の背中で爆発音が2度鳴ったらしい。

お市の正面には軍議を守る200人兵が身構えた。

その先に諸将が連れてきた各々の護衛が合わせて2,000人以上が待機していた。

お市の命は風前の灯に見えた。

しかし、爆薬を使った演出には意味があった。

軍議を守っていた凄腕の兵らと諸将らがしびれ薬でその場で倒れた。

しびれ薬を飛ばす為の演出だった。

お市の部下は動きの鈍った兵を鎮圧し、動けない諸将を縛り上げた。


「一歩でも近づけば、大将らの首は全部斬り落とすのじゃ。武器を捨てよ。然すれば、命は保障するのじゃ」


お市が後方の護衛らにそう叫んだそうだ。

数万の敵の部隊が集まる中を諸将らの首に太刀を向けて、悠々と味方の陣まで連行した。

南部-晴政なんぶ-はるまさらはその勇猛さに只々呆れた。

信勝は鬼のように激昂した。


何故ならば、この奥州での戦の勝利は始めから決まっていたのも同然だったのだ。

関ヶ原に続き、武田家も滅んだ事が伝わって来て、伊達・最上連合からも離反者が現れていた。

斯波大崎家の人脈を使って信勝が調略を駆使して、戦が始まると寝返るという武将が多くいたからだ。

奥州に来て以来、信勝は小さな反乱の鎮圧や調停しかやって来なかった。

伊達家が幕府方に付いてからは敗色が濃厚になった。

四方から襲われて城や砦を幾つも奪われた。

劣勢に継ぐ、劣勢だ。

退却と言わず、転進と言って誤魔化していたが、名生城みょううじょうの物資や弾薬が尽きれば、城を枕に討死まで覚悟させられた。

つまり、信勝には大きな手柄がないのだ。

この戦で手柄を立てて、面目を施そうと思っていた矢先に、お市が敵の大将首を捕えて戻ってきた。

手柄をすべてお市に掻っ攫われた。


「あははは、一滴の血も流さずに勝利するとは、正に信照のぶてるの妹だ」


信照のぶてるはそんな空気を読まない事はしないと言っているが、果たしてそうだろうか?

少なくとも輝ノ介は三好-長慶みよし-ながよしとの戦いで腰を折られた事を鮮明に思い出していた。

この焦燥感を共有できる者が増えた事が楽しかった。


 ◇◇◇


(永禄3年10月10日(1560年11月7日)) 鎌倉

越後で義昭よしあきの折檻をし、その後に輝ノ介は鎌倉に入った。

新公方信照のぶてるの命令で奥州の諸将は鎌倉に集められており、輝ノ介が信照のぶてるの名代としてその処分を言い渡す為であった。

輝ノ介は一段高い所で椅子に腰かけて、前に義昭よしあきを置いて諸将の前で謝罪させた。


「私が至らないばかりに皆には迷惑を掛けた。この通り謝罪致す」


義昭よしあきが頭を上げた所で輝ノ介がその頭を蹴り飛ばす。

事の経緯を説明させた。

最後に輝ノ介は足田-輝ノ介あしだ-てるのすけと名を改めて信照のぶてるに仕えており、輝ノ介の子が信照のぶてるの養子になっている事を告げた。


「余が助け出された時にはすでにこの馬鹿が公方となっておった。世を騒がせない為に身を引いたというのに逆に騒がしくなってしまった。申し訳なく思う」

義輝よしてる様におかれましては、公方様にお戻り頂けないのでしょうか」

「今更、戻れるモノか。だが、余の子が次の公方だ。この意味は判るな」


苗字が変わるが、平家の棟梁から源氏の棟梁に戻る事を示唆した。

これで一先ずの安心を与えた。


さて、その後は奥州仕置だ。

勝った南部家には出羽一国と中奥州(葛西領)までを与える。

葛西-晴信かさい-はるのぶは伊達・最上の誘いに乗って、斯波大崎家を攻めた事を咎められた。

南部-晴政なんぶ-はるまさが織田方に付くと転向して織田方に付いた。

蝙蝠こうもりのような所業を罵り、領地を召し上げて伊達領の半分へ改易となった。

残り半分は相馬家に渡される。

滅び掛けた相馬家であったが、十分な褒美に歓喜する。


常陸の佐竹-義昭さたけ-よしあきは可もなく不可もなく、影から織田方を貫き相馬家を支援し、表では反北条に加担した。

褒める言葉もなく、領土安堵のみとした。


伊達-晴宗だて-はるむねの伊達家、最上-義守もがみ-よしもりの最上家は共に御家取り潰し、味方した者も同罪とされた。

但し、5年間の移行期を設け、信勝の家臣となって蝦夷地を開拓すれば、改易に変更すると述べる。


「蝦夷地には原住民がおり、その者らと争わず、友好的に領地とせよ」


無理難題もいい所だ。

切り取り次第の改易など聞いた事もない。

反対の声が上がるが輝ノ介が一蹴する。


「嫌ならば、余と戦うか。今度は一族ごと命がないと思え」


越後勢は素直に従ったが、奥州の伊達や最上の家臣らは納得できないようであった。

決戦も出来ずに腐って降った連中である。

納得できる訳もないと思えたので、この場では放置された。


信勝は征東大将軍せいとうたいしょうぐんに任命され、京を往復して戻ってきた晴嗣はるつぐから帝の声を賜った。

三河に戻りたそうにする信勝に輝ノ介が声を掛ける。


征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任じられた信照のぶてるは九州を平定した後に、南海の南蛮人と戦うと言うのに、征東大将軍せいとうたいしょうぐんとなった信勝はそれを放棄するつもりか?」

「決して、そのような事はございません。ただ、帝にお礼を申し上げたいのみでございます」

「そのような気遣いは無用。北の防御を固めた後に上洛してご報告して下さい」

「近衛様、それでは某の気がすみません」

「麿が代わって伝えておく」

「信勝、役儀を終えるまで戻る事は相ならんぞ」


信勝は配下に謙信けんしん信玄しんげん、伊達、最上などの諸将が加わる。

元々の家臣である松平-元康まつだいら-もとやす浅井-長政あざい-ながまさなどもおり、天下も望める錚々そうそうたる顔ぶれと言うのに、北の果てを目指す事になった。


謙信けんしん信玄しんげん、信勝の支えとなって北の要を築く事を命ずる」

「必ず、成功させてみせます」

「お任せ下さい」


蝦夷地の中央、石炭が出る辺りまでが信勝の領地、そこから大陸の北回り航路となる北半分が松平-元康まつだいら-もとやすとその配下の最上家等、富良野、釧路などが含まれる南半分が浅井-長政あざい-ながまさとその配下の伊達家等が担当する。

大陸の北回り航路のシベリア方面を武田家が担当し、北太平洋航路の沿岸を上杉家が受け持つ。


 ◇◇◇


(永禄3年11月1日(1560年11月28日)) 小田原

輝ノ介は兵に休息を与え、一度小田原に入った。

小田原は熱田との定期便があり、尾張と連絡を取り易いからだ。

雪解けから準備を始めねばならなかった。

宗哲そうてつがその取次ぎ役に任命されていた。


「お家取り潰しと言っても当主以外は新しい守護代が認めれば、存続できるので本当の取り潰しかどうか」

宗哲そうてつ信照のぶてるの狙いはそこではない」

「判っております。武家と農民の分離ですな」

「しかも農民の3割を蝦夷に連れてゆく」

「それだけの人が減れば、土地の者は生きてゆくだけで精一杯になりますな」

「少ない土地を争って、無駄な戦をしている暇も無くなる」

「奥州の開拓は奥州の子らを鎌倉に集めて、学校で学ばせて自分達でさせると言っておりましたな」

「鎌倉は学校の建設で大忙しだな」

「復興に比べれば、大した事ではありません」

「関東も奥州もうるさい奴らを追い出せば、しばらくは静かになるであろう」


信照のぶてるは蝦夷地に兵を送り、奥州の力を削ぐつもりだ。

輝ノ介にもそれが理解できた。

奥州から人が減る。

当然、奥州の発展も後回しだ。

下手をすると蝦夷地の方が先に発展するかもしれん。


鎌倉から諸将が帰国すると、予想通りに各所で叛乱が起こったと報告が来る。

春になると、輝ノ介は謙信けんしん信玄しんげんを伴って鎮圧に向かった。

圧倒的な火力と武力で蹂躙する。

一方、尾張から黒鍬衆50人と帰蝶黒鍬衆(スコップマン)1万人が函館に到着し、開拓がはじまり、その他の屋敷の建築が始まった。


夏には奥州の鎮圧を完了した。

仮の居城にしていた津軽屋敷から信勝を追い出すと、輝ノ介は謙信けんしん信玄しんげんを信勝に付けて函館に送り出した後に尾張に帰国した。

輝ノ介は責任を取ったのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る