閑話.新吾の三国平定。

(永禄3年9月12日(1560年10月11日))越後 春日山城

新吾(斎藤-利治さいとう-としはる)は越後で大評定が行われた後に信照のぶてるに呼ばれた。


利治としはる、お呼びにより参上致しました」

「顔を上げよ。もっとちこうよれ」


新吾は2歩3歩と近づくと信照のぶてるはちょっと怒った感じで扇子を取り出すと、『ここだ』とすぐ前を差した。

信照のぶてるの前にはこの辺りの地図が置かれており、どうやらそれを見て話すつもりらしい。

副将の明智-光忠あけち-みつただも寄って来て一緒に覗き込んだ。


「帰蝶義姉上と相談の結果、新吾には越中、能登、加賀の三国を平定して貰う。武威を示すだけだ。難しい話ではない。楽な仕事だ」

「お待ち下さい。それがしが三国平定ですか!?」

「うむ、箔が付く」


信照のぶてるは姉上(帰蝶)に頼まれたのだろうか?

新吾は戸惑いながら様子を伺った。

しかし、信照のぶてるの表情から思惑を読み取る事などできない。

試されているのだろうか?

などとも考えてしまう。


「そう固くなるな。尾張に戻れば、従兄弟から義兄弟になる。晴れて織田一門衆だ。帰蝶義姉上を助けて貰わねば困る」


新吾は元々桑原くわはら-右近衛門尉うえもんのじょうの娘と婚約していたが、右近衛門尉うえもんのじょう斎藤-義龍さいとう-よしたつに与したので解消された。

その後、|妹らの誰かを嫁にする話が上がったが、信長と信照のぶてるの双方が反対して宙に浮いていた。


「別に反対していた訳ではないぞ。武家の習わしは判っているが、どうも俺の妹らは我儘わがままに育ってしまった。気が合わねば苦労するだろうと、本人が決められるまで待って貰っただけだ」


信照のぶてるは言い訳っぽく長々と理由を語る。

因みに、信長は妹らをどこにも嫁にやらんと訳の判らない事を最初は言って、帰蝶に叱られたらしい。

単に政略結婚に使いたくなかっただけのようだ。

信長もそんな事を言わなくなった。


信照のぶてるは幸せになって欲しいと願っているだけである。

だが、最近は願っていた事とは勝手が変わって来た。

どうしてそうなったか判らないが、お市やお栄などは信照のぶてるにも手が負えないじゃじゃ馬に育ってしまったと愚痴を零す。

こんなハズではなかったと何度も言う。

他の姫もこれからどんな風に育つのか判らない。

姫の心配より、その嫁ぎ先の方が心配になって来たらしい。


新吾は信光のぶみつの計らいで何度も従兄弟の茶会に誘われ、その妹達ともその都度に会っていた。

その中から信秀13女のお色が新吾の婚約者に選ばれた。

来年は9歳となり、裳着もぎを執り行う。

その半年後に嫁ぐ事が決まった。

まだ、床に臥せっているが、信光のぶみつに仲人をお願いしていた。


信照のぶてるは地図を差しながら越中、能登、加賀の情勢を伝える。

守護代であった神保-長職じんぼう-ながもとが幕府軍は敗れた。

対抗していた椎名-康胤しいな-やすたねがこの時ばかりと越中に戻って暴れているらしい。

椎名しいな家は元々分郡守護代を継いでいたが、神保-慶宗じんぼう-よしむねの乱に加担したため守護代職を越後長尾氏に奪われた。

それでも椎名しいな家は長尾家に従属しながら新川郡の支配権を維持した。

しかし、加賀国の一向一揆が越中まで波及し、それを契機に神保家と椎名家の対立も深刻化して行った。

椎名-康胤しいな-やすたね謙信けんしんの従弟に当たる長尾-景直ながお-かげなおを養子に迎えて後ろ盾にし、神保-長職じんぼう-ながもとは武田家と同盟を結び対抗した。

武田と上杉の代理戦争になるハズであった。

だがしかし、急展開で武田と上杉が和議を結び、謙信けんしんによって椎名-康胤しいな-やすたね神保-長職じんぼう-ながもとも和議を結ばされたのだ。

今年 (永禄3年、1560年)3月に神保-長職じんぼう-ながもと謙信けんしんが関東に出掛けた隙に椎名-康胤しいな-やすたねの松倉城に侵攻し、越中から追い出してしまった。


椎名-康胤しいな-やすたねは能登に逃げたが、協力を得られなかった。

そもそも能登守護の能登畠山家第9代当主畠山-義綱はたけやま-よしつなはまだ幼く、その後見人は父である元8代当主義続よしつぐが実権を握っていた。

その義続よしつぐが隠居せざる事態に陥ったのは、度重なる造反で加賀一向一揆が後ろ盾となり、河内畠山家を支えて抗争を続けた為であった。

争いに疲れた能登畠山家が力を失い、畠山七人衆と呼ばれる年寄衆組織に実権を奪われ、義続よしつぐは隠居する事になった。

その後に謀略を持って畠山七人衆の実権を握る温井-総貞ぬくい-ふささだを誅殺する事で実権を取り戻したが、そもそも加賀一向宗が造反者に協力した事が原因である。

椎名-康胤しいな-やすたねと共に戦うならば織田方に属する事になる。

織田方の加賀一向宗に味方して、一向宗の代わりに越中を攻めるなどあり得なかった。

結局、椎名-康胤しいな-やすたねを支援する武将らの努力は無に帰した。


椎名-康胤しいな-やすたねは続けて加賀に入って援軍を頼んだが、加賀一向宗は一歩たりとも動くなと信照のぶてるから命じられていると言われて断られた。

加賀は加賀で複雑であった。

加賀一向宗は織田方であったが、大坂御坊は幕府方である。

加賀の門徒も二つに割れていた。

大恩ある信照のぶてるに逆らうなどあり得ないが、下手に動くと大坂御坊の法王から破門を言い渡される。

悩み所である。

その信照のぶてるが『動くな』と言ってくれているのだから動かない事で忠義を示していた。


見捨てられた椎名-康胤しいな-やすたねは途方に暮れていたが、北信濃で幕府方が大敗を喫した。

これを聞いた越中の領主達が旗色を変えて、椎名-康胤しいな-やすたねに乗り換えて暴れ始めたのである。

織田方を自称する椎名-康胤しいな-やすたねは新吾を攻める事はない。


「新吾は余計な事はせず、織田家に降りたい者を受け入れよ。所領安堵の約束もしてはならん」

「畏まりました」

椎名-康胤しいな-やすたねが停戦に従わぬならば、朝敵となる事を知らせよ。それでも戦いを止めねば、神保-長職じんぼう-ながもとを朝廷軍として差し向けよ」

「同行せずともよろしいのでしょうか?」

「必要ない。神保-長職じんぼう-ながもとが負けるようならば、改めて出陣せよ」

「畏まりました」


椎名-康胤しいな-やすたねは『とらきつね』であり、朝廷の旗を攻める事はできないと信照のぶてるは断言した。

神保-長職じんぼう-ながもとの富山城を接収して拠点にせよと言う。

能登の畠山-義綱はたけやま-よしつなが従わないならば、畠山七人衆に調略を掛けつつ、2、3城を落とせば降ってくると言い付けられた。


加賀では一向宗が推薦する僧を領主に認めるだけで良いと言われた。

守護と守護代は京に僧を上洛させて正式に与えるらしい。

それでは加賀が一向宗の国になってしまうと新吾は心配する。


「百姓の持ちたる国をお認めになられるのですか?」

「長島や大坂御坊では酷い目に遭わせておる。然れど、尾張や三河の一向宗は忠義を尽くしておる。1つくらいは恩義に報いねばならん」

「しかし、秩序が保たれるのでしょうか?」

「問題ない。仮と言っても守護、守護代、領主を置かせる。その次期領主候補は尾張の学校を卒業しないと継げない。織田家の流儀を知る者が就く」


駿河、信濃、越中より東は尾張の学校に次期領主候補を送る事が義務付けられる。

人質に近い制度だが、人質のような制約はない。

休学届けを出せば、いつでも帰国できる。

卒業できないと領主を継げないだけだ。

卒業者が居ない領地は代官を派遣するので新幕府 (織田家)も問題ない。


「実はな新吾。寺の住職も学校制度を作り、卒業しないと住職になれないようにしようかと思っておる」

「そんな事ができるのですか?」

「何も我らが教えるのではない。僧侶を派遣して貰って各宗派の者が教える。一箇所で教えさせるだけだ。但し、その学校の入学する準備段階として、初等科の学校を卒業している者とする」

「すべての僧侶となる者に織田の流儀を教えておくのですね」

「そういう事だ。荷物のついでに僧侶も運んでやると言えば、手間も要らん。一箇所に集めて教えた方が合理的であり、質も向上する。悪い話ではないであろう」


信照のぶてるの大胆さに新吾は驚いた。

常識を覆す提案である。

それぞれの寺が教えていた事を1つの学校で教える。

各宗派の結束力が上がる。

移動手段を織田家が提供すれば、不可能ではないと思える所が絶妙ぜつみょうと思えた。


話が終わると新吾は部屋を出た。

余りに多くの情報量に頭がくらくらとした。


 ◇◇◇


(永禄3年9月14日(1560年10月13日))越後 糸魚川いといがわ

新吾らは春日山城を出発し、翌々日には糸魚川付近にやって来た。

この糸魚川いといがわは至徳4年 (1387年)に糸井造の一族が川を見下ろす所に館を構えた事で糸魚いといと呼ばれるようになる。

何でもよく氾濫を起こす厭川いといがわでは縁起が悪い、多くの良い魚が棲んでいる川なのだから、糸魚イトヨを『いとい』と呼ぶ事にしたと言われる。

信照のぶてるが教えてくれていた。

その川に付けられた仮浮き橋を渡りながら、明智-光忠あけち-みつただと話していた。


光忠みつただは信じるか?」

「何をでございますか」

「この川の上流に至宝と呼ばれる翡翠ひすいが眠っている話だ」

「商人がこの浜辺で小さな翡翠ひすいを持ち帰ったそうです。古代の文献に物部氏が翡翠ひすいを他国に送っていたと言われて、この辺りも物部氏の支配地だったと言われておりました」

「今は取り尽くして見る影もない。誰も覚えている者もいない。土地の武士まで驚いておった」

「新発田から出る燃える水も買い上げると言っておられましたな」

「我らとは見えているモノがまるで違う」


そう言うと新吾は難しい顔をした。

信照のぶてるはまだ14歳だ。

同じような歳で父である斎藤-利政さいとう-としまさが暗殺されて、その時は何もできなかった自分とはまるで違う。

格の違いを見せ付けられた思いであった。


「越後の石高を二倍にできると思うか?」

信照のぶてる様がそう言われたのですから、そうなのでございましょう」

「そうだな」

千曲川ちくまがわの下流域は湿地帯が広がりに誰も住んでおらないそうです」

「雨が降る度に浸水する所には川鳥でもなければ棲めぬ」

「河の流れを変えれば、広大の農地が生まれます。そこに大崎-義隆おおさき-よしたか様の居城を造らせると言っておられました」


謙信けんしんでも手を焼いた越後勢を四つの小守護代に割った程度で治まるとも思えない。

その謙信けんしんは元公方の義輝よしてると共に鎌倉に向かった。

歯止めなしで治まるのかと新吾は思った。


謙信けんしん殿と一緒にその荒くれ共も鎌倉に旅立ちました。残っているはその倅達のみです。さらに三割の村人を供出するので叛乱を起こす余裕もないでしょう」

「蝦夷地の開拓は越後の叛乱を防ぐ事になるのか。待て、それでは河川の改修は誰にさせるつもりなのか?」

「そこが信照のぶてる様の巧妙な所です。土地を与えると言って、関東の民を誘致するのです。民が入れ替わります。その民は大崎-義隆おおさき-よしたか様を支持する者ばかり、武力を持つ奉公衆代官も大崎-義隆おおさき-よしたか様の味方です」

「なるほど、分かれた四つの守護代が1つに結託せねば、対抗できないな」

「そうなるかと。さらに佐渡に織田家の軍港を造るとおっしゃりました。北周り航路の拠点にするそうです。ならば、織田家の帆船に積まれた大砲が越後の海岸を睨み付ける事になります」

「それは怖いな」


信照のぶてるは家督を継いだ新領主に石高の安堵を言い渡した。

領地安堵ではない。

河川の改修に伴って、領地の移動や交換があると言った。

村同士が憎しみ合い、常に問題を起こす村は村ごと移動を命ずる事もあるらしい。

逆らう者は根切りすると脅していた。


「5年後には石高二割増しを約束させておりました。厳しいだけではありません」

「飴と鞭と言う奴だな」

「この越後と蘆名領に子飼いの黒鍬衆50人と兵2,500人を残されます」

「甲斐や信濃には5人ずつしか残しておらん。それに比べると本気なのだろうな」

「今栄えている直江湊にも、これから造る新潟湊に負けぬようにと発破も掛けておりました」

「冗談に聞こえない。翡翠や燃える水や新田開発といい、話が大きすぎて何が何やら良く判らん」

「それが信照のぶてる様の狙いでございましょう」


新吾と光忠みつただは道中でそんな話を繰り返した。

まだ、のほほんとしていた。


 ◇◇◇


(永禄3年9月18日(1560年10月17日))越中 富山城

新吾率いる織田・美濃軍は富山城を拠点に活動する。

先行していた信照のぶてるの忍び衆と合流すると三国の情勢を詳しく得た。

加藤かとう-三郎左衛門さぶろうさえもんが現れて、そこで睨まれるだけで、蛙のように新吾はちぢこまってしまう。


「…………以上でございます」

「大義であった」

「急ぎ、暴れている者に書状をお配り下さい」

「直ちにさせる」

「某は一足先に飛騨に向かいます」

「急ぐ理由があるのか?」

利治としはる様にとっても仇討ちともなりますな」

「仇討ちだと?」

「ははは、三国を治めた後にゆっくりと説明させて頂きましょう」


言うだけ言って三郎左衛門さぶろうさえもんは去って行った。

新吾は置いて行かれた書類の山を見て溜息を付いた。

これを全部読めと言うのか?


「急ぎましょう」

光忠みつただ、この量は無理だ」

「何も一人で見る必要はありません。我らも手分けして確認してさせてゆきます」


新吾が連れてきた側近5人が三国の詳細な情報を確認する。

守護、守護代は言うに及ばず、領主やその家臣までの情報が列記されている。

まず、国ごとに分け、領地ごとに分けてゆく。

新吾は書類を確認しながら、右筆に停戦命令と富山城へ登城する手紙を書かせ、飛び込んで来る家臣にも対応する。

忙しい。

とにかく、忙しい。


光忠みつただ、少し休ませてくれ」

「そんな事を言っている暇はございません」

信照のぶてる様はいつもこんな事をされているのか?」

「知りません」

「私も無理だと思うのだ」

「いいえ、知りませんが信照のぶてる様は全国に睨みを利かせております。この程度の量では済まないでしょう。しかし、これは一人が捌ける量ではありません。早急に側近らを鍛えねば、新吾様が倒れてしまいますな」

光忠みつただは助けてくれんのか?」

「某も連れてきた諸将の対応に加え、能登と加賀への先遣隊の選別もせねばなりません。手伝う余裕などありません」

「出陣したいと願い出てくる者だけでも何とかしてくれ」

「判りました。キツく言い聞かせておきます」

「そうだ、一緒に来た黒鍬衆の者に手伝わせよう。武に限らず、内政もできると聞いた」

「無理でございます。黒鍬衆は信照のぶてる様の直属であり、我らの指揮下にはありません。そもそも信照のぶてる様が来られるまでに簡単な地図を作製すると、散らばっております。こちらの手伝いなどする暇もありません」

「良いと思ったのだが、無理か」

「この忙しさを見ていますと、織田の者が優秀な者が多い理由が判ってきました」

「何故だ?」

「新吾様も側近の者も初日とは比べられないほど、仕事ができるようになっているではありませんか」

「そんな事を聞きたいのではない」


新吾は次々と登城してくる者の情報を側近から聞くと、あいさつを終えると次々と出される要求に対応する。

一方的に話を聞けば、筋の通っているように聞こえる。

事前に集められた情報を頭に入れてなければ、騙されたかもしれない。

こんな事もあった。


石黒-将監いしぐろ-しょうげん、加賀の僧に襲われて災難であったな」

「まったくでございます。どうか斎藤様のお力で土地の返還をお願い致します」

「それはできん」

「何故でございますか?」

「そもそも、その土地はそなたが横領した土地であろう。取り戻されたからと言って、こちらを頼って貰っては困る」


石黒-将監いしぐろ-しょうげんの木舟館は西礪波郡にしとなみぐんにあり、加賀と接する場所にあった。

神保-長職じんぼう-ながもとに従属していたが、三国が入り混じった所だったのでとても兵を出す余裕がなかった。

三郎左衛門さぶろうさえもんから渡された資料がなければ、無駄に加賀の僧と争う事になった。

そんな案件を新吾は処理して行き、最後まで粘っていた椎名-康胤しいな-やすたねがやっと登城して越中の平定を終えた。

槍1つも使わない平定であったが、新吾は疲れ切った。

終わったと寝転がった。


「新吾様、まだ能登と加賀が残っております」

光忠みつただ、もう疲れた。少し休ませてくれ」

信照のぶてる様が越後の視察を終えて合流するまでに終わらせねば、叱責を受けるのは新吾様でございますぞ」

「叱責だと?」


うげぇ、内ノ臓にあるモノをすべて吐き出したくなるような感覚に襲われるのに耐えた。

叱責は拙い。

信照のぶてるは楽な仕事と言った。

それができないのは無能者だ。

その烙印は致命的だ。

姉上(帰蝶)に顔向けができなる。

新吾は力なく立ち上がると能登に向けて出立する。


「内心はともかく、畠山-義綱はたけやま-よしつなは臣従を誓っております。手間ではございません」

「そうであって欲しい」


能登の畠山家は面従腹背めんじゅうふくはいの者ばかりでウンザリさせられた。

佞臣らは謀り事が好きらしく、話を聞くのも苦痛であった。

何の訴えがあっても他家の事に口出しはしない。

代官を置く事と守護、守護代、領主の次世代の者を尾張に派遣させる事を承諾させた。


さて、加賀では大歓迎を受けた。

あちらこちらの寺から接待を断るのに苦労した。

領主に任じるに当たって、他宗派への弾圧や横領の禁止を盟約させた。

その際に1つ1つの事例を上げると効果的であった。

織田方はすべて承知しているという姿勢を貫く。

情報の有難みが身に染む。

だが、それを丸暗記するのが辛い。


毎日、毎日、新吾は予習と反省の繰り返しだ。

これほど勤勉に学んだ事は記憶になく、寝る暇もないと嘆く。

だが、これが信照のぶてるが言う「武威を示す」だけの楽な仕事らしい。

これのどこが楽な仕事だ。

一ヶ月半、新吾は苦悩な日々を続けた。


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