第46話 織田VS上杉 川中島の戦い(1)

(永禄3年 (1560年)8月24日~25日)

24日、神代じんだいに到着していた謙信けんしんは越後勢を休ませて動かなかった。

謙信けんしんの思惑が俺には判らない。

加藤かとう-三郎左衛門さぶろうさえもんの報告によると、その日の夜にはすべて後続の部隊が神代じんだいに到着したそうだ。


信州の神代じんだいと言うと、素戔嗚尊すさのおのみことがこの地を訪れ、持っていた桜の杖を池の畔に挿したものが根づいた樹齢700年を越える大きな『神代桜じんだいざくら』が有名だ。

春には一面に桜の花が咲き誇るらしい。

素戔嗚尊すさのおのみことの桜だから『素ざくら』と呼ばれている。

尤も神代桜がある場所は神代じんだいではなく、善光寺の西山にある泉平いずみたいらの素桜神社の境内である。

謙信けんしんらが駐留している神代じんだいに『素ざくら』はない。

その神代じんだいから屋代やしろまで7里 (27km)である。


三郎左衛門さぶろうさえもん、夜中に移動を始めたので間違いないか?」

「最後の部隊の到着を待って軍議を行った模様です。その後、夜道を急がずに越後勢が動き始めました」

「千代、どこまで前進すると思うか?」

「行軍がゆっくりでしたら、善光寺辺りまで軍を進めるのではないでしょうか?」


三郎左衛門さぶろうさえもんが帰って来ると、まだ夜も明けない俺のテント内で信広兄ぃなども駆けつけて小さな身内だけの軍議が始まる。

この善光寺平ぜんこうじだいら(長野盆地)は、昔は湖だったようななだらか地形だ。

水量の多い千曲川ちくまがわ(信濃川)と犀川さいがわが合流して、さらに水量が増す。

善光寺の西から山々から出てくる裾花川すそばながわ鐘鋳川かないがわ八幡川やはたがわ七瀬川ななせがわ高田川たかだがわ千田川せんだがわなどと末広がりに川が分岐して、川の中に陸地が浮いているように見える。

確かに陣を敷くならば、少し小高い善光寺辺りが適している。


「若様、申し訳ありません。遠見の部隊の1つが潰されて遠見筒とおみづつ(望遠鏡)を奪われたと推測されます」

「全体に問題はないのだな」

「問題ありません。屋代より西には一歩たりとも入れておりません」

遠見筒とおみづつ(望遠鏡)の1つくらいは今更だ。気にするな」


山間の中では織田家の忍び衆と上杉家の軒猿のきざるが死闘を繰り広げている。

互いに諜報を優先しているので全面攻勢に至っていないが、俺の愚連隊の連中ならともかく、末端の忍びでは太刀打ちできない。

だが、数の暴力で織田家が圧倒しているのは間違いない。

望遠鏡は公方様にも献上した品であり、幕府軍に随行する織田家の先遣部隊が持ち歩いているので幕府軍でも珍しくない。

但し、織田家の軍事機密なので六角家、北条家、毛利家へ1つずつ差し上げた以外は売り出していない。

売り出していないが、織田家配下の忍び衆に渡してある。

部隊の1つの常備品だ。

北条家や毛利家に貸し出している忍び衆にも持たせ、望遠鏡を使った偵察が当たり前になっている。

完全な透明なガラスを作るのにかなり苦労したが、日ノ本のチートな職人の手に渡れば、他家でも模倣されていても可笑しくない。

1つくらい奪われても問題ない。

皆によくやっていると褒めておくようにと、三郎左衛門さぶろうさえもんに言い付けておいた。


さて、忍びらの努力の結晶である情報を元に善光寺平ぜんこうじだいら(長野盆地)の地図の上に碁石の黒石と白石を信広兄ぃが置いてゆく。

善光寺周辺に黒石を、犀川さいがわに沿って白石を並べた。


「殿、我らも犀川さいがわまで前進する方がよろしいのではないでしょうか?」

「確かに犀川さいがわに鉄砲隊を並べるのは悪くはない」

裾花川すそばながわが裾に開き、浅い池のように広がっております」

「いくつもの川を渡って攻めてくる幕府軍は鉄砲の餌食です」


皆がきに意見を述べる。

足場の悪い湿地帯を抜けた先に大量の鉄砲を並べれば、いくつもの川で足を取られて格好の的だ。

向こうも承知しているだろうから幕府軍は出て来られずに両軍が善光寺周辺で固まる。

それは俺が望む所ではない。

犀川さいがわに並ぶ白石を減らした。


「やる気になってもらった大文字一揆衆、まったく活躍の場がなかった安曇あづみ衆と木曽衆に鉄砲500丁を貸し与えて先陣を任せましょう」

おとりですか?」

「彼らの後ろの俺が兵2,000人と共に前に出ましょう」

「殿、ご自重下さい」

「俺で越前勢が釣り出せれば、安いモノだ」


前衛が突破された所で俺は下がり、後続を上げる。

左右から包囲するように篠ノ井辺りで完全包囲に持ち込む。

「俺の守りは信広兄ぃと輝ノ介に任せる」

「おう、任せろ」

「最後に北条-宗哲ほうじょう-そうてつ殿の北条軍に背後に回って蓋になって貰う」


これは越後勢がこちらの誘いに乗って来た場合の話だ。

日が出る直前に軍議を開いて指示を出した。

真田-幸隆さなだ-ゆきたかが大文字一揆衆と安曇あづみ衆と木曽衆を率いて前進し、犀川さいがわの手前で薄く広がった。

俺の本隊も前進して、自らをおとりとして謙信けんしんの前に姿をさらした。


日が昇ると謙信けんしんも少数の部隊を率いて400間 (720m)くらいまで近づいたが、そこで止まってこちらを眺めるだけで戻って行った。

昼過ぎた頃に後続の関東軍が到着すると、敵の数が幸隆ゆきたかに預けた3倍を超える。

こうなると越後勢の突破ではなく、大根おろしのように前衛がすり潰される。

敵の全面攻勢で敗走する危険性が出てきた。


「若様、ここまでと思います」

「そうだな」

「銅鑼を鳴らせ、後退させる」


俺は幸隆ゆきたかに後退を促し、昨日の屋代城と塩崎城を結んだ防衛線まで引く事にする。

当初の作戦に戻る。

まず、敵を『篠ノ井』付近から妻女山さいじょさん方面に押し込むように攻めて行き、幕府軍を妻女山さいじょさんで半包囲する作戦だ。


こちらの前衛が引くと幕府軍が前進して来た。

横田城があった辺りで関東軍が止まり、その後ろに中堅の武田軍、神保軍、蘆名軍が止まった。

後方に謙信けんしんの越後勢が陣取った。

三重陣だ。

このまま日が暮れて、早朝から総攻撃という流れになって来た。

謙信けんしんにしては手堅い。


「殿、どうかしましたか?」

「う~ん、このまま謙信けんしんが明日の早朝に総当たりの決戦を挑んでくるように思えない」

「ここまで来れば、もう動きようがないと思われます」


信広兄ぃの言う通りだ。

輝ノ介の重装騎馬隊と北条軍の騎馬隊も最左翼に配置し直した。

敵の最右翼を突破し、敵の背後が取れるかが勝敗を握る。

敢えて言うならば、『横陣よこじん』から『片鶴翼かたかくよくの陣』に変化させて半包囲戦に持って行く。


「囲んでしまえば、こちらのモノです」

「最後は敵の中央のありったけの砲弾を集中して殲滅する。そうすれば、妻女山さいじょさんの方へ逃げて行ってくれるだろう」

「殿、完璧です」


信広兄ぃは褒めてくれるが、作戦どおりに動かすのが至難の技なのだ。

妻女山さいじょさん方面を開けておくのは『窮鼠きゅうそ猫を噛む』の格言通りに敵の兵を死兵にさせない為だ。

逃げ道があれば、死ぬ気で戦わずに逃げる事を優先する。

山に囲まれた妻女山さいじょさんに追込み、千曲川ちくまがわを掘に見立てて包囲する。

謙信けんしんが降伏せねば、5万人の兵をすべて殺す。

そう覚悟していたのだが、日の入り前に関東軍が動いた。


「日が沈む前に攻撃を掛けるのか?」


闇夜の中で敵・味方の位置を知らせずに戦わせて混戦に持ち込むつもりか?

とにかく応戦だ。


「鉄砲隊、引き付けろ」


俺の声を伝連達が繋げて前線に伝える。

防衛線に配置した鉄砲隊が一斉に火縄銃を持った。

まだ、少し遠いか?

倒れた数が少ない気がするが、だが、篠ノ井を越えてくれば、300間 (545m)を切る。

そこで5,000丁の一斉発射だ。


『構え!』


指揮官が指揮棒を上げた。

鉄砲衆が火縄銃を敵に向けた。

緊張の瞬間だ。


(『曲がれ!』)


敵の武将が何かを叫ぶと、関東軍が左手の方へ曲がって行く。

それと同時に後方の越後勢が右手に進み始めた。

中堅を中心に風車のように兵を回すつもりか?


車懸くるまがかりの陣!?』


大将を中心に各部隊がくるくると回って敵に襲い掛かる恐ろしい陣形だ。

一番手、二番手、三番手…………数番手が終わると、再び一番手に戻って永遠に攻撃を継続する戦法だが現実的ではない。

もしかすると騎馬隊ならば有効かもしれないと俺も思っている。

騎馬でもかなり難しい。

足軽がそれをやると敵の前で背中を向けて逃げる兵が現れる。

後ろから刺されて終わりだ。

そもそも敵が密集していれば、突撃して突破するのも大変なのだ。

後ろから来る兵が交通渋滞を起こして兵の運用に問題がある。

そして、最後に敵を突破したのに後方に戻ってぐるっと一周を回ってくる意味が判らない。

仮想の陣形だ。


本当の『車懸くるまがかりの陣』は縦陣から後続の兵が迂回して横へ横へと広がって行く陣形なのではないかと思う。

つまり、一番手が正面の敵に当たると、二番手がその横槍を狙うように迂回する。

もちろん、敵も対応して横に広がってくるので、三番手…………と次々に横を迂回して行く、すると不思議な事に敵の中央部が手薄になる。

最後方の殿しんがりが中央突破に成功すると、敵の真ん中は伽藍堂がらんどうであり、敵の本陣まで一気に駆け抜ける事ができるのではないか?

本当の『車懸くるまがかりの陣』は縦陣から後続が次々と迂回する陣形の事だと思う。


つまり、2つの軍がぐるぐると回っても意味がない…………えっ?

左から出て来た越後勢が千曲川ちくまがわを渡河して、妻女山さいじょさんに進んで行く。

関東軍が中堅の後ろを通り過ぎると同じく千曲川ちくまがわを渡河し、中堅も関東軍の後ろを回るように渡河して行く。


「若様、どうしますか? 軍を前に出せば、若様が望んだ妻女山さいじょさんに追い詰めて蓋をする形になりますが…………」


千代女の声にも張りがない。

戸惑っているのが判る。

これでは自分から地獄の釜の中に飛び込んだようにしか見えない。

飛んで火に入る夏の虫だ。

謙信けんしんの行動とは思えない。


幸隆ゆきたかを先行させ、伏兵が隠れていないかを確認させろ」


真田の者が調べれば間違いないだろう。

大規模な伏兵を隠す場所もないと思うが、謙信けんしんが何を考えているのかがまったく読めない。

明日、妻女山さいじょさんに蓋をして殲滅戦で終わる。


ここに来て狂ったのか?

上杉-謙信うえすぎ-けんしん



【織田軍と幕府軍の主な兵力】

●元公方義昭よしあきの幕府軍の構成

総兵力4万8,000人(5万人)

総大将:上杉-謙信うえすぎ-けんしん


■越後勢1万3,000人

上杉-謙信うえすぎ-けんしん: 軍神、越後の龍、毘沙門天の守護

宇佐美-定満うさみ-さだみつ:上杉四天王、軍師

柿崎-景家かきざき-かげいえ:上杉四天王、越後の二天

斎藤-朝信さいとう-とものぶ:越後の鍾馗しょうき

色部-勝長いろべ-かつなが:七手組大将、揚北衆

北条-高広きたじょう-たかひろ:鬼弥五郎

直江-景綱なおえ-かげつな:上杉四天王、七手組大将

甘粕-景持あまかす-かげもち:上杉四天王、謙信秘蔵の侍大将

鬼小島-弥太郎おにこじま-やたろう:無双の豪傑「鬼小島」、「花も実もある勇士」

松本-景繁まつもと-かげしげ:沼田三人衆

河田-重親かわだ-しげちか:沼田三人衆

上野-家成うえの-いえなり:沼田三人衆

中条-藤資なかじょう-ふじすけ:先駆け(斬り込み隊長)

新発田-長敦しばた-ながあつ:七手組大将、揚北衆佐々木党

大熊-朝秀おおくま-ともひで:剣豪(上泉信綱と一騎討ち)

本庄-繁長ほんじょう-しげなが:本庄衆

吉江-景資よしえ-かげすけ:春日山城留守居役軍監

長尾-政景ながお-まさかげ:春日山城留守居役


■関東衆2万3,000人


■武田勢500人

武田-義信たけだ-よしのぶ: 武田家当主

飯富-昌景おぶ-まさかげ山県-昌景やまがた-まさかげ):赤備え衆


■越中衆3,000人

神保-長職じんぼう-ながもと:越中守護代・神保氏当主


■奥州蘆名衆7,000人

(伊達・最上連合と幕府の双方に援軍を送った)

蘆名-盛氏あしな-もりうじ:将軍直属の家臣

(蘆名分家の針生氏、金上氏、猪苗代氏、配下の白河結城家、(相馬家)、二階堂家、二本松家、田村家より出兵させる)

平田常範ひらた-きよのり:蘆名四天王

佐瀬-種常させ-たねつね:蘆名四天王

松本-氏輔まつもと-うじすけ:蘆名四天王

富田-氏実とみた-うじざね:蘆名四天王


■北信濃上杉方村上衆1,500人(残りは2,000人は参加せず)

(各城も守っており、数に入りません)



 ◇◇◇


〇朝廷方織田-信照おだ-のぶてるの織田軍

総兵力3万2,800人

総大将:織田-信照おだ-のぶてる

副将:織田-信広おだ-のぶひろ

護衛:足田-輝ノ介あしだ-てるのすけ

他:織田の忍び衆

※火力が違うので戦力比はまったく別の話になる。

鉄砲の総数は各部隊が(前装式)500丁ほど保有しており、鉄砲隊(後装式)4,000丁、予備の鉄砲を(前装式)4,000丁ほど保有するので1万丁以上の鉄砲で迎撃できる。

(4人に1人が鉄砲を持てる環境、撃ち手が足りないのでやらないけど)

また、迫撃砲も美濃から100門ほど戻って来たので、合計200門になる。

火薬玉は黒鍬・鍬衆は1人に付き、最低4個を携帯している。

大量の火薬玉や火薬筒、地雷等は補給部隊が保管している。


□狙撃衆100人(雨も何のそのの薬莢を使用して後装式鉄砲、火縄じゃない)

滝川-一益たきがわ-かずます

(10人が狙撃の名手)


□黒鍬・鍬衆2,500人(4,000人の内、1,500人は佐久に回す)

織田-信照おだ-のぶてる


□鉄砲衆4,000人


□花火(迫撃砲)衆100門700人(50門1,000人の内、1,500人は佐久に回す)


□西遠江・東三河衆5,000人

織田-信広おだ-のぶひろが率いる兵の内訳(親衛隊1,000人、西遠江衆2,000人、東三河衆2,000人)


□旧今川兵(国境の警護隊)2,000人

今川-氏真いまがわ-うじざね松井-宗信まつい-むねのぶ


□東遠江・駿河衆2,000人

朝比奈-泰朝あさひな-やすとも


□甲斐国人衆2,000人

武田-信虎たけだ-のぶとら一条-信龍いちじょう-のぶたつ


□諏訪衆

諏訪一族衆4,000人

旧奉公衆代官の兵2,000人

諏訪-勝頼すわ-かつより諏訪-頼忠すわ-よりただ内藤-昌豊ないとう-まさとよ

(名目上、諏訪-勝頼すわ-かつよりを大将としているが、実質は諏訪の長老である諏訪-満隣すわ-みつちかが指示を出し、降伏した内藤-昌豊ないとう-まさとよも客将扱いであり、実質は諏訪三兄弟、諏訪当主である諏訪-頼豊すわ-よりとよ、次男の諏訪-頼清すわ-よりきよ、3男で諏訪大社の大祝の諏訪-頼忠すわ-よりただが指揮を出した)


□佐久衆500人

(佐久の守りに3,000人を残している)


□小県衆1,000人


□大文字一揆衆1,000人

真田-幸隆さなだ-ゆきたか


□北条軍6,000人

北条-宗哲ほうじょう-そうてつ


〇朝廷方斎藤-利治さいとう-としはるの織田・美濃軍

総兵力1万6,500人

総大将:新吾(斎藤-利治さいとう-としはる

副将:明智-光忠あけち-みつただ


□織田・美濃軍8,000人

斎藤-利治さいとう-としはる明智-光忠あけち-みつただ


□木曽衆500人

木曾-義康きそ-よしやす木曾-義昌きそ-よしまさ

〔※木曽谷の石高は江戸時代でも木曽谷を実効支配した木曽代官の山村家(木曽氏の旧重臣)で7500石程度、当時は6,000石もあったかどうか? 1万石で250人としてもかなり苦しい〕


安曇あづみ衆6,000人

安曇あづみの内訳は領主の兵3,000人と元奉公衆代官の兵3,000人)


□(後詰)黒鍬・鍬衆1,500人

(美濃攻めで使っていた黒鍬・鍬衆を補給部隊の護衛として送った)


□(後詰)花火衆100門500人

(美濃攻めで借りていた花火(迫撃砲)衆を補給部隊の護衛として送った)


☆(後詰)荷駄隊の穴掘り衆(スコップマン1万人)

(兵士の数に入れていない土木専門の助っ人衆)


〇朝廷方織田-酒おだ-の織田軍

総兵力1万5,000人

総大将:織田おだ-造酒丞みきのじょう

副将:小瀬-清長おぜ-きよなが

軍監・戦奉行:織田おだ-長頼ながより


□西遠江衆1,200人

織田おだ-造酒丞みきのじょう小瀬-清長おぜ-きよなが


□黒鍬・鍬衆500人

黒鍬衆織田おだ-長頼ながより


□黒鍬・鍬衆1,500人


□花火(迫撃砲)衆(50門)300人


□南伊那衆2,000人

小笠原おがさわら-信定のぶさだ


□北・中伊那衆5,000人


□佐久衆3,000人


□諏訪衆1,500人

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