第45話 北信濃への侵入。

捨ててだに この世のほかは なき物を

いづくかつひの すみかなりけむ


(この世にある、我が身の他のものは捨ててしまった。

何処になるのだろうか、私の終の棲家は)


斎藤-利政さいとう-としまさ(道三)の句らしい。

思えば、俺が外交デビューしたのは美濃の利政としまさ(道三)との会談であった。

丁度、武田-晴信たけだ-はるのぶ長尾-景虎ながお-かげとらがはじめて『川中島の戦い』を行った年だった。

利政としまさにどちらが勝つかと聞かれて、「北信濃に武田軍が侵入すると越後勢が本気で追い払いに来る」と答えた。


春日山城のある頸城平野くびきへいや(高田平野)は、玄関口が直江津の湊、裏口が善光寺だからだ。

北信濃の善光寺平ぜんこうじだいら(長野盆地)は美濃や関東から来る巡礼者の道が続いている。

長尾-景虎ながお-かげとら、改め、上杉-謙信うえすぎ-けんしんは『三国街道』を通って関東に出陣しているが、いくつもの山脈を越える「三国峠」越えと山脈の切れ間を通る碓氷峠うすいとうげ越えのどちらが楽かなどと聞く必要もない。

村上-義清むらかみ-よしきよが佐久地方まで支配していれば、上杉-謙信うえすぎ-けんしんは北国街道から東山道(中山道)を通って上野国に入っていただろう。


しかも春日山城と善光寺の距離は20里 (80km)でしかない。

強行軍で駆け抜ければ、2日で移動できる。

善光寺平ぜんこうじだいら(長野盆地)を武田軍に取られると、いつ春日山城を攻められるかと考えて、越後勢は身動きが取れなくなる。

だから、頸城平野くびきへいや(高田平野)の武将らは越後の武将らと婚姻を進め、互いに相互依存の関係を深めていった。

北信濃と越後勢は簡単に切れない。


真田-幸隆さなだ-ゆきたかがどんなに頑張っても織田方に付く領主は現れなかった。

親族は大切だ。

信用を失えば、こつこつと編んで来た繋がりが途切れる。

死ぬよりマシという考え方もあるが、この先も北信濃で生きて行く為に信用を失うのは得とは言えない。

寝返りは得られなかったが、攻められれば降伏も致し方ないと考える領主も多かったのが収穫であった。


「申し訳ございません」

「気にするな。おそらく、そうなるだろうと予測はしていた」


幸隆ゆきたかが歯を食い締める。

期待されていなかったと勘違いしたかもしれないな、訂正しておこう。


「悔しがる必要はない。幸隆ゆきたかにはくさびを打って貰うつもりで動いて貰った。俺の人となりが伝わっていれば良い。予想以上の働きであった」

「味方に付けられませんでしたが?」

「寝返らせる事だけが軍略ではあるまい。得難い家臣を得たと思っておる。これからも頼らせて貰うぞ」

「全身全霊を持ってお仕えさせて頂きます」


幸隆ゆきたかが大きな体を床に付ける位に低く下げて平伏する。

武田家が何度も襲って来て、両者に両属を余儀なくされていた後ならば、幸隆ゆきたかの誘いに乗ってくれただろうが、武田家は一度しか善光寺平ぜんこうじだいら(長野盆地)に侵攻していない。

村上家に対する結束が綻んでいないのも仕方ないのだ。


22日、葛尾城かつらおじょうの兵を完全に無視して兵3,000人ばかりを前進させた。

敵の撤退が早くなって手柄首が取れなくなって来た。

包囲戦ばかりでは兵も飽きてきてるようだ。

弛むのは良くない。

そこで葛尾城かつらおじょうの支城の1つである荒砥城あらとじょうを攻めさせた。

1,000丁の火縄銃で威嚇射撃し、正門の上で守る武将らを彦右衛門(滝川-一益たきがわ-かずます)の狙撃部隊が図星ずぼし(ピンホールショット)で次々と打ち倒すと、命知らずの工作兵が正門前に火薬筒の箱を運んで正門も爆破し、破壊された正門に退屈していた兵3,000人を突撃させた。


手慣れた連携で荒砥城あらとじょうの正門が開いた。

戦いの法螺がなってわずかな時間である。

今川衆、武田衆、諏訪衆、佐久衆、小県衆の武将や兵は何か釈然しゃくぜんとしないモノを感じていたが突撃を開始した。

門の先に手柄首が待っているのだ。


鉄砲で威嚇して正門も破壊するのは、織田家の攻城戦マニュアルの『その1』に乗っ取った正攻法だ。

織田家の兵ならば、最初に叩き込まれる戦術の1つであり、素早くできて当たり前だ。

できない指揮官に黒鍬衆の称号を与えない。

火薬筒の箱を運ぶ工作兵を守る護衛兵は抱っこ紐(吊り紐)で火薬玉を敵の砦(城)内に投げ入れて攪乱かくらんするのも常識だ。


『常識が違う?』


攻城戦とはもっと緻密で高度な駆け引きの先に死力を尽くして戦うとかほざいている武将もいるが、織田家にとって攻城戦は作業の1つだ。

まだ、何か騒いでいるが俺は知らない。


新マニュアルでは「迫撃砲で城を破壊してから攻城戦を始める」も増えた。

それを披露すれば、北信濃の武将や領主らが手の平を返して降伏してくるような気がする。

駄目だ。

それをすると謙信けんしんが北信濃に遠征して来なくなる。

公方義昭よしあき謙信けんしんを追って越後、奥州と追って行くのも面倒なので、この北信濃で謙信けんしんを呼び込むのを目的としているので自重している。

しかし、南部-晴政なんぶ-はるまさが織田方に付いた事で事情が少し変わって来た。

南部-晴政なんぶ-はるまさが織田方に付くのか?


奥州の民は義理堅く、源氏由来の幕府方が多いと思っていたので織田方への誘致は無駄に終わると思っていた。

少なくとも公家様の話を総合すると無理だと思えた。

管領の斯波-義銀しば-よしかねがこちらの味方だったら、斯波一門筋から攻略もできたのだが、斯波大崎家は没落して奥州での求心力を失っており、奥州の調略はその時点で諦めた。

信勝兄ぃが信頼できるならば、兵力と火力を与えて北から伊達家や最上家を抑えて貰う手もあったが、下手に大兵力を与えると公方義昭よしあき方に寝返る危険性もある。

とてもじゃないが、その手は使えない。

南部-晴政なんぶ-はるまさが織田方になるのを知っていたならば、北信濃をサクサクと攻略して越後を目指した方が早かったかもしれない。

などと思い悩んでいる間に荒砥城あらとじょうが降伏して落ちた。


鐘2つ(二刻、4時間)分だった。


降伏を決めた荒砥城あらとじょうの城代は屋代-正国やしろ-まさくにに仕える室賀-満正むろが-みつまさであった。

室賀氏は屋代氏の支族で北信濃小県郡の国衆だったが、小県郡を追われて正国まさくにに仕えていたそうだ。

荒砥城あらとじょうを落とした兵は止まらずに、その奥の荒砥小城、若宮入城、證城しょうじょうを攻めた。

城と言うより、ただの砦だ。

荒砥小城に近づくと威嚇射撃の鉄砲隊が後方から援護射撃を加え、城内の兵は上がってくる兵を止める事もできずに侵入を許し、そのまま乱戦になって陥落する。

以下、同文。

手柄立て放題で満足して戻ってきた。


翌23日、兵の配置を元に戻すべき準備を始める。

堪った鬱憤うっぷんを吐き出させて、皆が良い笑顔で軍議に出て来た。

昼の軍議で兵を前進する事を告げた。


「おぉ、遂に決戦ですな」

信照のぶてる様がやる気になってくれた」

それがしに先陣を」

軍議の前に謙信けんしんが動いたという報告が入ったのだ。

前進して船山郷を吸収する。

西の堂城山と呼ばれる小高い丘の頂上 (461m)にある堂城山砦を取り囲むと、昨日の惨事を知っていたのか敢え無く降伏した。

別部隊が東の屋代城やしろじょうに進んだ。

ここで昨日捕えた室賀-満正むろが-みつまさが降伏の使者に出たいと願ったので許可を出した。

屋代-正国やしろ-まさくには家臣の安全を条件に降伏すると、俺は室賀-満正むろが-みつまさとその兵も含めて縄を解き、織田方の将の列に加わる事を許した。

北信濃の国衆や領民への心証をよくする為でもある。


翌24日早朝から対岸の塩崎城、赤沢城、小坂城を攻略する準備をしていると、塩崎城の赤沢-経智あかざわ-つねともを中心に塩崎氏、赤沢氏、桑原氏が俺の陣屋を訪ねてきた。

なんと、大文字一揆衆〔中小国人領主の連合軍である犀川沿岸の栗田氏(長野市栗田)、小田切氏(長野市小田切)、落合氏(長野市安茂里)、小市氏(長野市安茂里)、窪寺氏(長野市安茂里)、香坂氏(長野市信州新町)、春日氏(長野市七二会)ら国人衆〕が味方すると言って来た。

塩崎城の経智つねとも屋代-正国やしろ-まさくには同盟関係であり、正国まさくにが織田方に与するならば、大文字一揆衆も織田方に与するのに異存がないそうだ。


幸隆ゆきたか、交渉した甲斐があったではないか」

それがしの、功ではございません。信照のぶてる様の御威光の賜物でございます」

「俺はそう思わん。そなたの誠心誠意の真心が通じたのだ」

「そう言って頂けると嬉しく思います」

「屋代衆、及び、大文字一揆衆を幸隆ゆきたかの配下とする。存分に働け」


幸隆ゆきたかと一緒に赤沢-経智あかざわ-つねともらも平伏した。

皆、嬉しそうな顔で喜んでいるが俺の内心は違った。

また、予定変更だ。


関東の戦いを放棄して、三国峠を越えて遠路はるばる関東から無理矢理に引き連れて戻って来た兵の士気は下がっていた。

英気を養う為に春日山城で兵を休める必要があった。

宴会で前公方義昭よしあきの空手形の恩賞も労いの言葉も武将達には空しかった。

果たして織田家に勝てるのか?

奥州での小競り合いが終わり、奥州10万の兵が関東にやってくる伝令が走り、関東の兵達にわずかな希望が湧いてきた。

もちろん、謙信けんしんが用意させた猿芝居だ。

上野国の準備が整ったとの報告を聞いて謙信けんしんが動いた。


22日に春日山城を出発した関東の兵は二本木で兵を休めた。

謙信けんしんが率いる越後勢は野尻まで進出し、翌23日に越後勢7,000人は神代(長野県水内郡豊野町とよのまち)に到着していた。

(屋代から神代まで、7里半 (30km))


24日、こちらは謙信けんしんの到着を知らぬ顔で塩崎城、赤沢城、小坂城に攻め掛かり、背後から越後勢に襲い掛かられる風を装うつもりだったのだ。

屋代に隠した兵を援軍に向わせる振りをして『迂回反転』の挟撃を加える。

そこから新吾(斎藤-利治さいとう-としはる)率いる美濃衆を援軍に迎え、和合城わごうじょうの包囲軍の一部も北上させる。

最終的に謙信けんしんの越後勢を塩崎城、赤沢城、小坂城に押し込んで半包囲で仕留めるつもりだった。


もちろん、俺はそれが巧く行くなどと思っていない。


謙信けんしんがどういった奇をてらった行動に出るかを見定めるのが目的だった。

塩崎城、赤沢城、小坂城の援軍に行かずに屋代を攻めてくるか?

攻撃を仕掛けてすぐに撤退するか?

少ない兵をさらに分散して、両岸に兵を散開させるか?

それとも俺が予想しない行動を取るのか?


普通に動けば、塩崎城、赤沢城、小坂城を攻撃した織田方が全滅しても半包囲が完成して、謙信けんしんが連れてきた越後勢は全滅する。

強引でも俺が殲滅せんめつさせる。


謙信けんしんがこちらの意図を察している想定で、謙信けんしんを観察するつもりだったのだが、その想定が根底から崩れた。

塩崎城、赤沢城、小坂城を含む大文字一揆衆がこちらに寝返るとは思っていなかった。

あぁ~、戦というのは思ったように進まないものだ。


俺は屋代城と塩崎城に防衛ラインを引いて、千曲川ちくまがわの両岸に横陣を組ませて越後勢の様子を伺う事に変更した。

結局、謙信けんしんは動かなかった。


「俺を無視して戦うのか?」


村上-義清むらかみ-よしきよがいる葛尾城かつらおじょうの北側で戦場が次々と展開される様を見て、義清よしきよが歯をぎしぎしと鳴らしていたそうだ。

もう義清よしきよは用無しなんだよね。

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