閑話.お市からの手紙。
中奥州の斯波大崎家の者に蹴鞠を伝授する大任を任されたお市は、そこに寄らずの奥州中を好き勝手に
お市には『100人斬りの鬼姫』の異名があったので、
「どんな事が書かれておるのですか。よければ、聞かせて頂けませんか?」
拝啓。
魯兄者、お市は奥州で楽しくやっております。
・
・
・
何が楽しくだ?
俺は色々と問い質したい事だらけだ。
斯波大崎家に蹴鞠を伝授に行ったハズが、信勝に会いたくない為に陸奥中部の葛西領に入ると村の水紛争に関わり、葛西家の家臣対立に巻き込まれた。
第16代当主
しかし、すでに織田家の時代になっている事を気づかない当主を
織田家の時代とか言っている連中も古い因縁を持ち出したのだ。
最早、衝突するしかない。
そんな所まで疑惑は深まり合っていた。
どこをどう動けば、村同士の水争いから
お市は
第16代当主
葛西領に入っていた藤吉郎が葛西を内紛に陥れ、漁夫の利を得ようと考えていた
唖然とする
味方と思っていた者が首謀者だったのだ。
かと言って、援軍の代償に土地を無償で与えたのでは、葛西家当主としての面目が立たない。
“
悪くない政略であった。
だがしかし?
「俺は確か報告で村の水騒動と聞いていたぞ」
「それに間違いありません」
「水騒動からどうすれば、家臣騒動の仲裁になるのだ?」
「存じません。ただ、雨が降って水道が変わったので紛争そのものが無くなりました」
「ははは、お市様は大器でございますな。葛西家の問題をすべて解決させた訳ですな」
あの時の季節は冬だ。
内紛が本格化するのは雪解けを待つ事になり、導火線に火が付いた所で消されたようなモノだ。
(永禄2年の旧暦10月は新暦11月で初雪は降り終わった頃であり、50~100cmの雪が積もっても可笑しくない頃になっていた)
お市はその足で羽州の山形城に潜入し、
先触れを立てて、寺かどこかで面談を行うモノではないか?
何故、山形城に潜入するのだ。
“
織田家の姫が最上家の居城の寝所に侵入だと?
褒める要素がまったくない。
殺されても文句が言えん。
「若様、落ち着いて下さい。帰りは堂々と正面から帰ったみたいです」
「帰りの話ではない。誰か止めなかったのか?」
「お市様を止められる者がいますか」
「猿、藤吉郎はどうした?」
俺は千代女の後ろに控えていたお市に付けた忍びを見た。
慌てて頭を下げて、詳細を報告する。
藤吉郎はお市を帰国させようと説得したので、警戒したお市は小一郎と連絡している所で藤吉郎を振り切って逃げた。
喜六郎(
城の付近で犬千代らを待機させると、お市は単身で山形城へ乗り込む。
警護の者は慌てて、「お市様をお一人で行かせた訳ではございません」と訂正を加える。
お市に付いて行けたのは俺が付けた上忍の6人のみだったらしい。
「千代、お市はどうなっている?」
「若様、お市様は末森城にお住まいだったのです」
「それがどうした?」
「那古野、清洲、末森は織田家の最重要拠点です。少なくとも信勝様が三河に行かれるまでは、大殿をお守りする為の警備体制を変えておりません」
「そうだな、変えたという報告は聞いていない」
「お市様はその警備網を抜けて中根南城に遊びに来ていたのです」
「…………」(普通に遊びに来ていたな)
「大殿(故信秀)が亡くなってから
「…………」(ちょっと待て)
「お市様に鍛えられた末森の忍び衆の警備力は那古野、清洲と比べると群を抜いて優秀に育っておりました」
「…………」(まさか)
「お察しの通り、末森に比べれば、どんな城も大した事ないと思われます」
俺は頭を抱えたくなった。
「お市様は豪胆だな。小太郎と手合せさせてみるか?」
などと、
風魔の棟梁と手合せとか、お市が喜びそうで俺は黙っておくことにした。
お市は
誰もいないハズの最奥の寝所で待たれて、大見得を切られた
山形城を警備する者の首が飛んだ気がした。
因みに、これで
年を越して、
意趣返しか、将又、脅しか?
今更だが調べさせた方が良いみたいだ。
その
奥州の民は我慢強く義理堅いので、貰った恩を忘れないと言われる。
だから、幕府への恩も忘れない。
幕府と織田家が対立すれば、幕府に付くのが当然と思っていた。
お市の話を聞くと、話が変わってくる。
山形城を去ったお市は
「喜六郎(
「あぁ、何となく目に浮かぶ」
「
「喜六郎には辛かっただろうな」
喜六郎は一度死んだ身であり、肝が据わったと報告があった。
そんな喜六郎でも何度も弱音を吐いたらしい。
出羽三山で
「他にもお市様は
雪山の中で『かまくら』を作るのは合理的だ。
『かまくら』は遭難を避けるサバイバル技術ではなかったかと思う。
奥州の冬は厳しく、晴れる間がほとんどない。
吹雪くと方向感覚を狂わせる。
道中でさくさくと『かまくら』を作って避難するお市が凄すぎる。
お市は雪が降る中で修験者と出羽三山を駆け回り、正月を迎えると庄内中の村を回ったらしい。
「摩利支天様の御祈祷入りの護符ですか」
「
「聞いた訳ではございません。そんなモノを配った日には、庄内の民はお市様に逆らえぬのではないかと思っただけです」
確かに、神や仏を信じる者が多い。
自然が厳しい奥州の民ならば、猶更ではないか?
これは利用できるかもしれん。
詳しく調べさせておこう。
“魯兄者、わらわはいろいろなモノを見て来たのじゃ。帰ったら詳しく話すのじゃ”
春になるとお市は行く先々で問題を起こしながら出羽をさらに北に上ったらしい。
問題は雪深く、周りの者と連絡が付かない。
出羽三山を回っている間に連絡の忍びを使い切り、戻ってくるハズの者と合流できずに北へ北へと上がって行った。
「我らの誰か信勝様の所に行って増援を頼もうかと言う話もしたのですが、一度別れると再び会える当てがなかったので、そのままでお市様の警護を続けました」
「その判断は間違っておらん」
「連絡が遅くなり、申し訳ございません」
奥州の雪解けは2月(新暦3月)では微妙らしく、3月になってからだ。
しかも山奥になると、連絡手段がほとんどない。
物流も少なく、商人らに手紙を託すような事もできない。
敵か、味方か、どちらとも知れない領主に助けを求めるのも愚策だ。
天体観測の公家奉公人(忍び衆)との連絡方法を教えておけばよかった。
失敗だ。
連絡が取れるようになったのは雪解けが完全に終わった4月になっていた。
4月中旬、関ヶ原の戦いの準備に忙しい時期にお市が津軽にいる事が判った。
関東の戦いを手伝っていた筑波山の
陸路で伊達家や最上家を抜けるのは手間だ。
相模の小田原から船で直接に津軽の十三湊に向かう方が早いからだ。
“津軽では当主が病弱で弟の悪代官が悪政を引いていたのじゃ。わらわはその悪代官を成敗してやったのじゃ”
悪代官ではない。
弟の
海産物も問題なく回してくれており、中々の人物と聞いていた。
「私は詳しくは存じませんが、御当主が病弱な事から御自分の息子を次期当主に据えるつもりで画策されておりました。偶然に御当主の息子が襲われている所に、お市様が出くわしたのです」
当主、
大浦の兵を山に引き込んで逆襲すると、お市は兵に混ざって
『これにて一件落着なのじゃ』
お市は得意げに自慢しているみたいだが、当主は病弱、跡取りは年端もいかない子供のみとなった。
大浦氏をまとめる大黒柱を失った。
当主の
“市は信勝兄者を助けに行くのじゃ”
ちょっと待て!
俺はお市の護衛をしていた者に問い質す。
「よく判りません。
「何人でだ?」
「お市様の速さに付いて行けたのは我ら6名のみでございますが、本陣手前で敵の兵に足止めされました。われらが本陣に入った時にはお市様と
「意味が判らん」
「我らもまったく判りません」
ともかく、斯波大崎家は伊達・最上連合に襲われて瓦解寸前に追い詰められていた。
お市は大浦家を改め、津軽家の兵と八戸家の援軍のみで安東家、戸沢家などを打ち破って、山形城の手前で合流する事が決まったらしい。
「巧く合流できれば、津軽家はそのまま織田家にくれるそうです」
中奥州
忍び衆は伊達や最上の監視網を掻い潜って伝えてくれるが、北奥州
“鉄砲3,000丁、ありがとうなのじゃ”
もう一度、俺は聞く。
「鉄砲3,000丁とは何の事だ?」
「信勝様に送られました鉄砲の事です。兵500人と鉄砲を
前装式ライフル火縄銃がすべて南部家に貸し出された!?
その内の2,000丁を持った八戸の兵がお市の援軍として参戦するらしい。
お市に合流したのは、
戦の真っ最中だろうと言う。
「若様、私もすぐにお市様の元に戻りたいと思います。少しばかりの手勢をお貸し下さい」
俺は愚連隊から有志を募って10人、元締めが選んでくれた熱田衆から50人、連絡員として忍び衆100人を貸し与えて戻って貰う事にする。
尾張と三河から海軍を編成し直して、
だがしかし、俺は少しばかり見くびっていたようだ。
馬鹿でどうしようもない犬千代(
器用な猿(
とんでもない行軍速度に雉(
「どけどけ、摩利支天のご加護がある俺様に矢も弾も当たるモノか」
「犬千代殿、無茶でござるぞ。さすがにそれは無茶でござる」
「やれやれ、骨の折れる奴らだ」
犬が突っ走り、猿か搔き回し、雉が整える。
人徳ならぬ
『
俺の耳にお市のそら声が聞こえたような気がした。
【いままでの奥州から見た流れ】
弘治3年(1556年)8月
弘治4年(1557年)4月 〔お市の帰国〕
弘治4年(1557年)9月 〔君に扇を贈る〕後奈良院が亡くなる。
弘治4年(1557年)10月〔天下統一? 〕
弘治5年/永禄元年(1558年)2月22日 〔天下統一? 〕 『即位の礼』が執り行われる。
永禄元年(1558年)5月 〔義輝と世界地図〕喜六郎(
永禄2年(1559年)2月 〔おうちに帰りたい〕
永禄2年(1559年)2月 〔おうちに帰りたい〕正月参賀後、魯坊丸も倒れ、
永禄2年(1559年)春 斯波大崎家の状況も改善し、お市の奥州行きの許可が下りた。が、まずは鎌倉に向けて出発する。鎌倉で蹴鞠を伝授する間に、大崎領は昨年の凶作から領内が荒れている事で奥州への出発は延期される。
お市は師匠の師匠である
永禄2年(1559年)7月 〔笄事件〕犬千代は織田領追放となり、お市の従僕として贈られた。
(同年) 〃 お市は
盗賊に困っている村を助けて『100人斬りの鬼姫』の異名を得る。
永禄2年(1559年)秋 奥州で稲刈りがはじまり、奥州が安定化し始める。
永禄2年(1559年)8月 〔坂井孫八郎の錯乱〕
(同年) 〃 お市は信長からやっと許しが貰えて
(筑波山で
永禄2年(1559年)9月 〔洲賀才蔵の誤射〕『
(同年) 〃
(同年) 〃 三河で謹慎中の
永禄2年(1559年)10月 〔北に気を取られていると? 〕魯坊丸が鎌倉に入る。
(鎌倉公方への拝謁を建前に奥州征伐の下準備中)
<熱田や西遠江では距離的に遠過ぎて、連絡に時間が掛かるので鎌倉へあいさつを名目に視察に訪れていた>
永禄2年(1559年)10月 〔北に気を取られていると? 〕相馬に入って小高城の
(お市は『100人斬りの鬼姫』、筑波山の
<なぜ、2ヶ月も立つのに、お市は
(犬千代、相馬領でお市と合流を果たす)
永禄2年(1559年)10月 〔北に気を取られていると? 〕お市、とある村で喜六郎(
(巡見使喜六郎(
永禄2年(1559年)10月 〔永禄の変〕義輝の死。
(同年) 〃 お市は葛西領のとある村を水騒動に巻き込まれ、助っ人として北葛西で留まる。
<お市がいた北部は
(藤吉郎はお市と合流を画策しながら葛西領の南部で情報の収集をする。丹羽長秀は
永禄2年(1559年)10月 〔永禄の変〕
織田家は新公方に臣従する振りをする。
(奥州の話などしている暇もなく、奥州は信勝に一任される)
永禄2年(1559年)11月 お市、第16代当主
(葛西家の内紛が終結し、葛西家は斯波大崎家に臣従するが…………)
永禄2年(1559年)12月 お市、
(藤吉郎、お市を追い駆けて出羽に入国するも、お市が奥出羽に移動して姿を見失しなう。雪が奥深い出羽を避けて、東側を船で先回りして南部領に入る)
(羽黒山では修験者が9月24日から山上参籠をはじめ、50日後に満願日の『冬の峰』の松例祭を迎え、大晦日まで100日間に及ぶ籠り行を行う。明けて正月3日から稲魂のついた稲もみを一俵の稲もみに入れて、別当や所司、三先達が祈り、一俵全体に稲魂を移すのが『春の峰』である)
<女人禁制の山に入山しようとして争い、阿弥陀如来の妹で摩利支天を宿すという理由で入山が許可される>
永禄3年(1560年)正月 〔永禄の変〕管領の
(同年) 〃 お市、奥出羽の奥羽黒衆と交流し、冬籠りを終えると『春の峰』を手伝う。
(お市は星野や松聖の山伏達と一緒に稲魂を庄内中に稲もみを広める。〔ネコヤナギの枝に付けた状態で各農家らに頒布する厄よけの護符「牛玉宝印〕」)
<雪深い中を移動して庄内の村を回る修行>
永禄3年(1560年)2月 白山島で後光が差して『
(八乙女伝説)
永禄3年 (1560年)3月 〔永禄争乱の前哨戦、小笠原長時の天竜川の戦い〕織田家と幕府の対立が遂に如実となった。
(同年) 〃 手紙将軍の
(同年) 〃
(同年) 〃 お市、
(
・本堂頼親は金沢城主(戸沢家の家臣)と戦い野口で戦死し、朝親も波岡で戦死しそうな所を助ける。
(波岡がどこかまったく判らない)
・小野寺領の制圧が難しいと考えた最上義光は道為が最上家に内通しているという偽の書状を小野寺義道の目にふれるよう工作し、義道が道為を斬ってしまう所をお市が助けた。
<雪の為もあり、山奥なので情報がまったく入らなくなる>
永禄3年 (1560年)4月 伊達が斯波大崎包囲網を構築する。斯波大崎領が削られてゆく。
<織田信勝、松平元康、浅井長政が各地に援軍に赴いて戦線が膠着する>
(火力の織田・大崎連合に対して、数の暴力で訴える伊達の奥州連合。奥州連合と言いながら協調性がなく、各自が斯波大崎を攻めていた)
(同年) 〃 お市、津軽に入るが神社を参拝している所で子供(熊五郎は肩に怪我を受けるが命に別状なし)を助けるが、大浦家から執拗に攻撃を受ける。
<幕府と織田家が戦っていると聞くが、お市は信照への絶大なる信頼感で気にしない>
永禄3年 (1560年)5月 〔天下分け目の関ヶ原?〕織田家と幕府が対決する。
(同年) 〃
(同年) 〃 丹羽長秀が守る
<到着したばかりの船団が荷(鉄砲3000丁など)を降ろせず、長秀と共に八戸へ向かう>
(北奥州
〔(※):熱田で南部家の家臣が屋敷を拝領しているように、
・藤吉郎は自らの捕鯨船を使って三河から物資を輸送している。(
・長秀は信長から奥州の物資を一手に引き受けている。(
(同年) 〃 お市は津軽
永禄3年 (1560年)5月末 〔一乗谷炎上〕朝倉滅亡。
(同年) 〃 お市は当主(
(同年) 〃
(信勝に送られた鉄砲3000丁が手に入るかもしれないと、八戸根城主
永禄3年 (1560年)7月 〔駿河侵攻〕武田家討伐。
(同年) 〃
(同年) 〃 お市は奥州大合戦を大無しにされた信勝に叱られ、縄に括られて中奥州
「わらわは無罪なのじゃ」
栄光なき英雄の帰還となった。
(注)奥州地方は地域によって情報に時差が生じます。
奥州南部:関東に近く、相模の北条や越後の上杉に比べて、10日ほど遅れて情報が届きます。(蘆名、伊達、佐竹、相馬)
奥州中部:海岸部は船の都合で7日から10日前後で伝わりますが、海が時化ると伝達速度が極端に遅くなります。また、内陸部になると、物流が盛んでない為にさらに遅くなり、街道沿いで1ヶ月も掛かり、主な街道を外れると2ヶ月くらいは掛かります。また、冬場の日本海から内陸までは雪で覆われて、まったく外の情報が入らない場合もあります。
(最上、大崎、葛西)
奥州北部:1ヶ月程度ですが海の都合で早くもなり、さらに遅くなります。一般の情報も陸路で2ヶ月ほど掛かり、詳しい情報になると半年以上も遅れます。
基本、京に在住の家臣が月毎、事ある毎に手紙を送っておりますが、冬場などは海が時化ており、余程、足の達者な者(忍び)などを抱えていないと情報が途切れます。
なお、小説内では、尾張熱田、相模小田原、常陸
(江戸時代、あるいは、明治時代になって開かれた湊もあるが、北の海産物を直接に取引したい魯坊丸が率先して開港させた。江戸時代に発達する北前船はまだできておらず、北奥州は織田や北条経由の情報が多く入る環境になっていた。なお、伊那で幕府と開戦すると、信勝や信次やお市の為に何度も臨時船が走り、南部家は家臣を京と熱田(堺や土佐一条の商人がやって来る)と小田原に常駐させて新しい情報を次々と手に入れていた)
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