閑話.お市からの手紙。

中奥州の斯波大崎家の者に蹴鞠を伝授する大任を任されたお市は、そこに寄らずの奥州中を好き勝手に漫遊まんゆうしている。

お市には『100人斬りの鬼姫』の異名があったので、宗哲そうてつが興味深く聞いてきた。


「どんな事が書かれておるのですか。よければ、聞かせて頂けませんか?」


信照のぶてるは手紙に目を通すと頭が痛くなったが、隠す事ではないとして宗哲そうてつに見せた。

宗哲そうてつが面白そうな顔をして読んでゆく。


拝啓。

魯兄者、お市は奥州で楽しくやっております。

何が楽しくだ?

俺は色々と問い質したい事だらけだ。


斯波大崎家に蹴鞠を伝授に行ったハズが、信勝に会いたくない為に陸奥中部の葛西領に入ると村の水紛争に関わり、葛西家の家臣対立に巻き込まれた。

第16代当主葛西-親信かさい-ちかのぶは大崎家と戦い続けている因縁があった為に未だに和解できずに争っていた。

しかし、すでに織田家の時代になっている事を気づかない当主をうれう家臣団は養子(16代目の弟)の葛西-晴信かさい-はるのぶを担ぎ出して対立した。

晴信はるのぶに付いた家臣らは、第15代当主晴胤はるたねの代で晴宗の実弟で養子として入っていた葛西-晴清かさい-はるたね(牛猿丸)を押していた家臣らと同じ顔触れであった。

織田家の時代とか言っている連中も古い因縁を持ち出したのだ。

最早、衝突するしかない。

そんな所まで疑惑は深まり合っていた。

どこをどう動けば、村同士の水争いから晴信はるのぶのお家騒動に辿り着くのかが判らん。

お市は晴信はるのぶの依頼を受けて、第16代当主親信ちかのぶと面談する。

第16代当主親信ちかのぶは織田家の姫を誅殺ちゅうさつする勇気もなく、会談に応じた。

葛西領に入っていた藤吉郎が葛西を内紛に陥れ、漁夫の利を得ようと考えていた最上-義守もがみ-よしもりの謀略を説明する。

唖然とする親信ちかのぶは目を丸くした。

味方と思っていた者が首謀者だったのだ。

晴信はるのぶ方にも最上-義守もがみ-よしもりが支援を約束する書状があり、その代償として土地の引き渡しを承諾する書状も渡していた。

晴信はるのぶを討つ対価として安い代償であったが、騙されていたとなると話が代わってくる。

親信ちかのぶ義守よしもりの援軍を拒絶しても最上家と全面対決になる。

かと言って、援軍の代償に土地を無償で与えたのでは、葛西家当主としての面目が立たない。


最上-義守もがみ-よしもりとの密談ならば、わらわが何とかするのじゃ。晴信はるのぶとの諍いを止めて斯波大崎家とも和解すると約束させたのじゃ”


義守よしもりと手切れさせて、織田家と同盟を結び直す。

悪くない政略であった。

藤吉郎とうきちろうが証拠を突き付けて暴露した時に親信ちかのぶが慌てたのが目に浮かぶようであった。

だがしかし?


「俺は確か報告で村の水騒動と聞いていたぞ」

「それに間違いありません」

「水騒動からどうすれば、家臣騒動の仲裁になるのだ?」

「存じません。ただ、雨が降って水道が変わったので紛争そのものが無くなりました」

「ははは、お市様は大器でございますな。葛西家の問題をすべて解決させた訳ですな」


宗哲そうてつが納得顔で言うが俺は釈然としない。

あの時の季節は冬だ。

内紛が本格化するのは雪解けを待つ事になり、導火線に火が付いた所で消されたようなモノだ。

(永禄2年の旧暦10月は新暦11月で初雪は降り終わった頃であり、50~100cmの雪が積もっても可笑しくない頃になっていた)


お市はその足で羽州の山形城に潜入し、義守よしもりと対面する。

先触れを立てて、寺かどこかで面談を行うモノではないか?

何故、山形城に潜入するのだ。


山形城やまがたじょうの備えは駄目々々だめだめじゃ。主の義守よしもりも抜けておるので、わらわは葛西の事を含めて義守よしもりに『めぇ!』と叱ってやったのじゃ、褒めてたもれ”


織田家の姫が最上家の居城の寝所に侵入だと?

褒める要素がまったくない。

殺されても文句が言えん。


「若様、落ち着いて下さい。帰りは堂々と正面から帰ったみたいです」

「帰りの話ではない。誰か止めなかったのか?」

「お市様を止められる者がいますか」

「猿、藤吉郎はどうした?」


俺は千代女の後ろに控えていたお市に付けた忍びを見た。

慌てて頭を下げて、詳細を報告する。

藤吉郎はお市を帰国させようと説得したので、警戒したお市は小一郎と連絡している所で藤吉郎を振り切って逃げた。

喜六郎(秀孝ひでたか)らを馬に乗せて羽州へ一直線に進む。

城の付近で犬千代らを待機させると、お市は単身で山形城へ乗り込む。

警護の者は慌てて、「お市様をお一人で行かせた訳ではございません」と訂正を加える。

お市に付いて行けたのは俺が付けた上忍の6人のみだったらしい。


「千代、お市はどうなっている?」

「若様、お市様は末森城にお住まいだったのです」

「それがどうした?」

「那古野、清洲、末森は織田家の最重要拠点です。少なくとも信勝様が三河に行かれるまでは、大殿をお守りする為の警備体制を変えておりません」

「そうだな、変えたという報告は聞いていない」

「お市様はその警備網を抜けて中根南城に遊びに来ていたのです」

「…………」(普通に遊びに来ていたな)

「大殿(故信秀)が亡くなってから土田御前どたごぜんの手前もあり、警備でお目溢しするような事はございません」

「…………」(ちょっと待て)

「お市様に鍛えられた末森の忍び衆の警備力は那古野、清洲と比べると群を抜いて優秀に育っておりました」

「…………」(まさか)

「お察しの通り、末森に比べれば、どんな城も大した事ないと思われます」


俺は頭を抱えたくなった。

宗哲そうてつがいるのでそんな恥ずかしい事はしないが、破天荒ぶりに磨きが掛かっている事を知った。


「お市様は豪胆だな。小太郎と手合せさせてみるか?」


などと、宗哲そうてつが呟いている。

風魔の棟梁と手合せとか、お市が喜びそうで俺は黙っておくことにした。

お市は義守よしもりに『葛西から手を引くのじゃ。さもなければ、どうなるか判っておるな』と大見得を切ったらしい。

誰もいないハズの最奥の寝所で待たれて、大見得を切られた義守よしもりが憐れに思えた。

山形城を警備する者の首が飛んだ気がした。


因みに、これで義守よしもりが諦めた訳ではないと思う。

年を越して、親信ちかのぶが伏せるようになり、家督を義弟の晴信はるのぶに譲っている。

意趣返しか、将又、脅しか?

今更だが調べさせた方が良いみたいだ。


その晴信はるのぶは幕府と織田家の対立が深まった後にお市への恩も忘れて、伊達・最上連合に葛西家も加わった。

奥州の民は我慢強く義理堅いので、貰った恩を忘れないと言われる。

だから、幕府への恩も忘れない。

幕府と織田家が対立すれば、幕府に付くのが当然と思っていた。

お市の話を聞くと、話が変わってくる。


山形城を去ったお市は出羽三山でわさんざんを漫遊し、奥羽黒おくはぐろ衆と力比べを楽しんだと書かれている。


「喜六郎(織田-秀孝おだ-ひでたか)様が何度も死にそうになりましたが、何とか事なきを得ました」

「あぁ、何となく目に浮かぶ」

出羽三山でわさんざんは修験者が入る場所なので、本当に難所も多いのです」

「喜六郎には辛かっただろうな」


喜六郎は一度死んだ身であり、肝が据わったと報告があった。

そんな喜六郎でも何度も弱音を吐いたらしい。

出羽三山で羽黒はぐろの修験者と天然の魔遊道アスレチックな修行を楽しんだ。


「他にもお市様は信照のぶてる様から伝授された『かまくら』を作って楽しまれました」


雪山の中で『かまくら』を作るのは合理的だ。

『かまくら』は遭難を避けるサバイバル技術ではなかったかと思う。

奥州の冬は厳しく、晴れる間がほとんどない。

吹雪くと方向感覚を狂わせる。

道中でさくさくと『かまくら』を作って避難するお市が凄すぎる。

お市は雪が降る中で修験者と出羽三山を駆け回り、正月を迎えると庄内中の村を回ったらしい。


「摩利支天様の御祈祷入りの護符ですか」

宗哲そうてつ殿、俺に聞かないで下さい」

「聞いた訳ではございません。そんなモノを配った日には、庄内の民はお市様に逆らえぬのではないかと思っただけです」


確かに、神や仏を信じる者が多い。

自然が厳しい奥州の民ならば、猶更ではないか?

これは利用できるかもしれん。

詳しく調べさせておこう。


“魯兄者、わらわはいろいろなモノを見て来たのじゃ。帰ったら詳しく話すのじゃ”


春になるとお市は行く先々で問題を起こしながら出羽をさらに北に上ったらしい。

問題は雪深く、周りの者と連絡が付かない。

出羽三山を回っている間に連絡の忍びを使い切り、戻ってくるハズの者と合流できずに北へ北へと上がって行った。


「我らの誰か信勝様の所に行って増援を頼もうかと言う話もしたのですが、一度別れると再び会える当てがなかったので、そのままでお市様の警護を続けました」

「その判断は間違っておらん」

「連絡が遅くなり、申し訳ございません」


奥州の雪解けは2月(新暦3月)では微妙らしく、3月になってからだ。

しかも山奥になると、連絡手段がほとんどない。

物流も少なく、商人らに手紙を託すような事もできない。

敵か、味方か、どちらとも知れない領主に助けを求めるのも愚策だ。

天体観測の公家奉公人(忍び衆)との連絡方法を教えておけばよかった。

失敗だ。

連絡が取れるようになったのは雪解けが完全に終わった4月になっていた。


4月中旬、関ヶ原の戦いの準備に忙しい時期にお市が津軽にいる事が判った。

関東の戦いを手伝っていた筑波山の飯母呂いぼろ一族がお市の為に人を送りたいと言ったらしく、小田原の代官の判断で50人を送ったと報告が上がってきた。

陸路で伊達家や最上家を抜けるのは手間だ。

相模の小田原から船で直接に津軽の十三湊に向かう方が早いからだ。


“津軽では当主が病弱で弟の悪代官が悪政を引いていたのじゃ。わらわはその悪代官を成敗してやったのじゃ”


悪代官ではない。

弟の大浦-守信おおうら-もりのぶとは取引をした商人の話では、御政道が正しく、民からも慕われている。

海産物も問題なく回してくれており、中々の人物と聞いていた。


「私は詳しくは存じませんが、御当主が病弱な事から御自分の息子を次期当主に据えるつもりで画策されておりました。偶然に御当主の息子が襲われている所に、お市様が出くわしたのです」


当主、大浦-為則おおうら-ためのりの5男と6男をお市が拾い、何としても5男と6男を仕留めないと悪事がバレる焦った守信もりのぶが兵を使った事でお市が切れた。

大浦の兵を山に引き込んで逆襲すると、お市は兵に混ざって守信もりのぶの屋敷の乗り込み、当主を呼び出して守信もりのぶを討った。


『これにて一件落着なのじゃ』


お市は得意げに自慢しているみたいだが、当主は病弱、跡取りは年端もいかない子供のみとなった。

大浦氏をまとめる大黒柱を失った。

当主の為則ためのりはお市を頼るしかなくなり、大浦氏が織田家の傘下に入ると、出し抜かれた南部-晴政なんぶ-はるまさが津軽の大浦家の奪還に兵を上げた。


“市は信勝兄者を助けに行くのじゃ”


ちょっと待て!

南部-晴政なんぶ-はるまさとの戦はどうなった?

俺はお市の護衛をしていた者に問い質す。


「よく判りません。丹羽-長秀にわ-ながひで様の手紙を受け取ったお市様は城を出て、晴政はるまさ殿の本陣に目掛けて突撃をしたのです」

「何人でだ?」

「お市様の速さに付いて行けたのは我ら6名のみでございますが、本陣手前で敵の兵に足止めされました。われらが本陣に入った時にはお市様と晴政はるまさ殿が合意されて和睦されておりました」

「意味が判らん」

「我らもまったく判りません」


ともかく、斯波大崎家は伊達・最上連合に襲われて瓦解寸前に追い詰められていた。

晴政はるまさはそのまま南下して北葛西領から侵入して行く。

お市は大浦家を改め、津軽家の兵と八戸家の援軍のみで安東家、戸沢家などを打ち破って、山形城の手前で合流する事が決まったらしい。


「巧く合流できれば、津軽家はそのまま織田家にくれるそうです」


中奥州牡鹿おしか(石巻)湊を伊達家に奪われてから、奥州の情報が遅くなって仕方ない。

忍び衆は伊達や最上の監視網を掻い潜って伝えてくれるが、北奥州鮫浦さめうら湊(後に八戸湊)経由で仕入れる情報の方が早いのだ。


“鉄砲3,000丁、ありがとうなのじゃ”


もう一度、俺は聞く。


「鉄砲3,000丁とは何の事だ?」

「信勝様に送られました鉄砲の事です。兵500人と鉄砲を牡鹿おしか湊で荷卸しできなかったので、丹羽様が鮫浦さめうら湊(後に八戸湊)に移動させました。その内に1,000丁は南部-晴政なんぶ-はるまさ殿に貸し与え、残る2,000丁を八戸-政栄はちのへ-まさよしが引き攣れる八戸の援軍に貸し出されました」


前装式ライフル火縄銃がすべて南部家に貸し出された!?

その内の2,000丁を持った八戸の兵がお市の援軍として参戦するらしい。

お市に合流したのは、木之下きのした-藤吉郎とうきちろうが用意した兵1,000人と信勝兄ぃに送った兵500人が丹羽-長秀にわ-ながひでの手にあり、津軽の兵2,000人を加えて、安東家を攻める準備をしていたらしい。

戦の真っ最中だろうと言う。


「若様、私もすぐにお市様の元に戻りたいと思います。少しばかりの手勢をお貸し下さい」


俺は愚連隊から有志を募って10人、元締めが選んでくれた熱田衆から50人、連絡員として忍び衆100人を貸し与えて戻って貰う事にする。

尾張と三河から海軍を編成し直して、牡鹿おしか湊の奪還の指示書と帰蝶義姉上に手紙を書いた。

だがしかし、俺は少しばかり見くびっていたようだ。


馬鹿でどうしようもない犬千代(前田-利家まえだ-としいえ)だが、お市が褒めれば、有頂天となってどこまでも突撃を繰り返して行き、

器用な猿(木之下きのした-藤吉郎とうきちろう)は暴走する犬千代で乱れた敵を仕留めて行き、

とんでもない行軍速度に雉(丹羽-長秀にわ-ながひで)は兵站を間に合わせる手腕を持っていた。


「どけどけ、摩利支天のご加護がある俺様に矢も弾も当たるモノか」

「犬千代殿、無茶でござるぞ。さすがにそれは無茶でござる」

「やれやれ、骨の折れる奴らだ」


犬が突っ走り、猿か搔き回し、雉が整える。


人徳ならぬ女神徳めがみどくを持ったお市が出羽の民を引き連れて神速で進み、あっと言う間に南出羽でお市の津軽軍が晴政はるまさの南部軍と信勝の大崎軍に合流を果たしているなど知る由のない俺であった。


晴政はるまさ、約束は果たしたのじゃ』


俺の耳にお市のそら声が聞こえたような気がした。


【いままでの奥州から見た流れ】

弘治3年(1556年)8月 足利-義輝あしかが-よしてるの関東遠征。


弘治4年(1557年)4月 〔お市の帰国〕賀茂祭かもまつりなどで楽しんでいたお市は、飛鳥井-雅綱あすかい-まさつなより蹴鞠の免許皆伝を授けられ、奥州の斯波大崎家に伝授する命を受ける。


弘治4年(1557年)9月 〔君に扇を贈る〕後奈良院が亡くなる。


弘治4年(1557年)10月〔天下統一? 〕方仁みちひと親王が三種の神器を継承して践祚せんそす。


弘治5年/永禄元年(1558年)2月22日 〔天下統一? 〕 『即位の礼』が執り行われる。


永禄元年(1558年)5月 〔義輝と世界地図〕喜六郎(織田-秀孝おだ-ひでたか)の奥州入り。名生みょうじょう城に到着するも大雨で大崎領、留守領、葛西領、伊達領の一部の凶作が決定。


永禄2年(1559年)2月 〔おうちに帰りたい〕勘解由小路かでのこうじ-在富あきとみが倒れる。魯坊丸の京で仕事が増えた。


永禄2年(1559年)2月 〔おうちに帰りたい〕正月参賀後、魯坊丸も倒れ、憔悴しょうすいぶりを心配して帝から帰国に許しを貰う。療養の為に尾張へ帰国が決まる。


永禄2年(1559年)春 斯波大崎家の状況も改善し、お市の奥州行きの許可が下りた。が、まずは鎌倉に向けて出発する。鎌倉で蹴鞠を伝授する間に、大崎領は昨年の凶作から領内が荒れている事で奥州への出発は延期される。

お市は師匠の師匠である塚原-卜伝つかはら-ぼくでんの常陸国鹿島の塚原城に向かう。


永禄2年(1559年)7月 〔笄事件〕犬千代は織田領追放となり、お市の従僕として贈られた。

(同年) 〃     お市は塚原-卜伝つかはら-ぼくでんの常陸国鹿島の塚原城で刀の修行と蹴鞠の伝授を行っていた。

盗賊に困っている村を助けて『100人斬りの鬼姫』の異名を得る。


永禄2年(1559年)秋 奥州で稲刈りがはじまり、奥州が安定化し始める。


永禄2年(1559年)8月 〔坂井孫八郎の錯乱〕織田-信光おだ-のぶみつの殺人未遂、重症患者化

(同年) 〃     お市は信長からやっと許しが貰えて大崎-義直おおさき-よしなお名生みょうじょう城に向けて出発する。

(筑波山で飯母呂いぼろ一族の忍び衆を傘下に治め、蘆名領に入って叛徒の頭を討つ)


永禄2年(1559年)9月 〔洲賀才蔵の誤射〕『秀孝ひでたか暗殺未遂事件』、織田-信次おだ-のぶつぐの家臣である洲賀-才蔵すが-さいぞうが放った鉄砲の弾が喜六郎(織田-秀孝おだ-ひでたか)に当たり、そのまま川に落ちて行方不明になる。

(同年) 〃     織田-信勝おだ-のぶかつは『洲賀才蔵の事件』を探るべく、奥州に旅立った。(信勝の追放)

(同年) 〃     三河で謹慎中の藤吉郎とうきちろうにお市支援、尾張の丹羽-長秀にわ-ながひでに船奉行の奥州支援(監視)が言い付けられる。


永禄2年(1559年)10月 〔北に気を取られていると? 〕魯坊丸が鎌倉に入る。

(鎌倉公方への拝謁を建前に奥州征伐の下準備中)

<熱田や西遠江では距離的に遠過ぎて、連絡に時間が掛かるので鎌倉へあいさつを名目に視察に訪れていた>


永禄2年(1559年)10月 〔北に気を取られていると? 〕相馬に入って小高城の相馬-盛胤そうま-もりたねの子の義胤よしたねを子分にする。

(お市は『100人斬りの鬼姫』、筑波山の飯母呂いぼろ一族の傘下に治め、蘆名領に入って叛徒の頭を討った後に相馬領に入って、騒動に巻き込まれる)

<なぜ、2ヶ月も立つのに、お市は名生みょうじょう城に到着していないのか? 魯坊丸は首を捻りつつ、帰国命令が発せられたがお市は喜六郎(織田-秀孝おだ-ひでたか)を心配して邁進する>

(犬千代、相馬領でお市と合流を果たす)


永禄2年(1559年)10月 〔北に気を取られていると? 〕お市、とある村で喜六郎(秀孝ひでたか)と再会し、名生みょうじょう城に信勝が来ている事を知って逃げ出し、葛西領へ目的地を勝手に変更する。

(巡見使喜六郎(秀孝ひでたか)御一行の(お市)奥州漫遊記がはじまる)


永禄2年(1559年)10月 〔永禄の変〕義輝の死。

(同年) 〃      お市は葛西領のとある村を水騒動に巻き込まれ、助っ人として北葛西で留まる。

<お市がいた北部は葛西-晴信かさい-はるのぶを支持する土地、南の第16代当主葛西-親信かさい-ちかのぶの家老と争っておりました>

(藤吉郎はお市と合流を画策しながら葛西領の南部で情報の収集をする。丹羽長秀は牡鹿おしか(石巻)湊から藤吉郎や信勝の支援をする)


永禄2年(1559年)10月 〔永禄の変〕義昭よしあきの将軍就任。

織田家は新公方に臣従する振りをする。

(奥州の話などしている暇もなく、奥州は信勝に一任される)


永禄2年(1559年)11月 お市、第16代当主葛西-親信かさい-ちかのぶと会見する。

(葛西家の内紛が終結し、葛西家は斯波大崎家に臣従するが…………)


永禄2年(1559年)12月 お市、最上-義守もがみ-よしもりの山形城に潜入し、恫喝する。その後、羽黒山に籠る。

(藤吉郎、お市を追い駆けて出羽に入国するも、お市が奥出羽に移動して姿を見失しなう。雪が奥深い出羽を避けて、東側を船で先回りして南部領に入る)

(羽黒山では修験者が9月24日から山上参籠をはじめ、50日後に満願日の『冬の峰』の松例祭を迎え、大晦日まで100日間に及ぶ籠り行を行う。明けて正月3日から稲魂のついた稲もみを一俵の稲もみに入れて、別当や所司、三先達が祈り、一俵全体に稲魂を移すのが『春の峰』である)

<女人禁制の山に入山しようとして争い、阿弥陀如来の妹で摩利支天を宿すという理由で入山が許可される>


永禄3年(1560年)正月 〔永禄の変〕管領の細川-晴元ほそかわ-はるもとの暗殺。

(同年) 〃       お市、奥出羽の奥羽黒衆と交流し、冬籠りを終えると『春の峰』を手伝う。

(お市は星野や松聖の山伏達と一緒に稲魂を庄内中に稲もみを広める。〔ネコヤナギの枝に付けた状態で各農家らに頒布する厄よけの護符「牛玉宝印〕」)

<雪深い中を移動して庄内の村を回る修行>


永禄3年(1560年)2月 白山島で後光が差して『妙理姫きくりひめみこと』と崇められる。

(八乙女伝説)


永禄3年 (1560年)3月 〔永禄争乱の前哨戦、小笠原長時の天竜川の戦い〕織田家と幕府の対立が遂に如実となった。

(同年) 〃      手紙将軍の義昭よしあきが各地に『檄文』を発布す。<打倒、織田。織田包囲網への協力>

(同年) 〃      伊達-晴宗だて-はるむねが態度を硬化し、織田家を問い詰める。伊達と斯波大崎と亀裂が走る<交渉中の信次と慶次が一転してピンチに立たされる>

(同年) 〃      お市、仙北山本郡せんぼくさんほんぐん仙北郡せんぼくぐん)に入る。

本堂ほんどう-伊勢守いせのかみ-朝親ともちか八柏-道為やがしわ-みちために縁を持つ

・本堂頼親は金沢城主(戸沢家の家臣)と戦い野口で戦死し、朝親も波岡で戦死しそうな所を助ける。

(波岡がどこかまったく判らない)

・小野寺領の制圧が難しいと考えた最上義光は道為が最上家に内通しているという偽の書状を小野寺義道の目にふれるよう工作し、義道が道為を斬ってしまう所をお市が助けた。

<雪の為もあり、山奥なので情報がまったく入らなくなる>


永禄3年 (1560年)4月 伊達が斯波大崎包囲網を構築する。斯波大崎領が削られてゆく。

<織田信勝、松平元康、浅井長政が各地に援軍に赴いて戦線が膠着する>

(火力の織田・大崎連合に対して、数の暴力で訴える伊達の奥州連合。奥州連合と言いながら協調性がなく、各自が斯波大崎を攻めていた)

(同年) 〃      お市、津軽に入るが神社を参拝している所で子供(熊五郎は肩に怪我を受けるが命に別状なし)を助けるが、大浦家から執拗に攻撃を受ける。

<幕府と織田家が戦っていると聞くが、お市は信照への絶大なる信頼感で気にしない>


永禄3年 (1560年)5月 〔天下分け目の関ヶ原?〕織田家と幕府が対決する。

(同年) 〃      伊達-晴宗だて-はるむね、幕府軍の総勢を聞いて幕府軍の勝利を確信する。<総攻撃の時だ>

(同年) 〃      丹羽長秀が守る牡鹿おしか(石巻)湊を奪取される。(長秀は牡鹿おしか(石巻)湊にあった物資をすべて、信勝の送った為に一時的な戦力不足から湊を奪取される)

<到着したばかりの船団が荷(鉄砲3000丁など)を降ろせず、長秀と共に八戸へ向かう>

(北奥州鮫浦さめうら湊(後に八戸湊)で藤吉郎と長秀が再開する)

〔(※):熱田で南部家の家臣が屋敷を拝領しているように、鮫浦さめうらで織田家の家臣が屋敷を拝領している〕

・藤吉郎は自らの捕鯨船を使って三河から物資を輸送している。(鮫浦さめうら湊を利用中)

・長秀は信長から奥州の物資を一手に引き受けている。(鮫浦さめうら湊に避難して来た)


(同年) 〃      お市は津軽大浦-為則おおうら-ためのりの5男(熊五郎)と6男(勝千代)の兄弟を助けて、大浦家の家督相続に介入する。


永禄3年 (1560年)5月末 〔一乗谷炎上〕朝倉滅亡。

(同年) 〃      お市は当主(大浦-為則おおうら-ためのり)が病弱の為、政務を取り仕切っていた弟の大浦-守信おおうら-もりのぶを成敗し、次期当主のおうぎ(津軽-為信つがる-ためのぶ)を廃して、為則ためのりの5男である熊五郎に変えさせる。津軽家を立ち上げる〔お市の城取りの大立ち回りだ〕

(同年) 〃      南部-晴政なんぶ-はるまさは大浦家を織田に乗っ取られたと聞いて出撃、お市と意気投合して織田方を表明する。

(信勝に送られた鉄砲3000丁が手に入るかもしれないと、八戸根城主八戸-勝義はちのへ-かつよしの養子である八戸-政栄はちのへ-まさよしからとも言われる)


永禄3年 (1560年)7月 〔駿河侵攻〕武田家討伐。

(同年) 〃      南部-晴政なんぶ-はるまさは安東、戸沢、小野寺、由利、葛西を蹴散らして、斯波大崎家と合流し、伊達・最上・蘆名・武藤・砂越連合で対峙するが、伊達-晴宗だて-はるむね最上-義守もがみ-よしもりら北奥州の諸将があっさり降伏して勝利する。

(同年) 〃      お市は奥州大合戦を大無しにされた信勝に叱られ、縄に括られて中奥州牡鹿おしか(石巻)湊から本国に送還される。


「わらわは無罪なのじゃ」


栄光なき英雄の帰還となった。


(注)奥州地方は地域によって情報に時差が生じます。

奥州南部:関東に近く、相模の北条や越後の上杉に比べて、10日ほど遅れて情報が届きます。(蘆名、伊達、佐竹、相馬)

奥州中部:海岸部は船の都合で7日から10日前後で伝わりますが、海が時化ると伝達速度が極端に遅くなります。また、内陸部になると、物流が盛んでない為にさらに遅くなり、街道沿いで1ヶ月も掛かり、主な街道を外れると2ヶ月くらいは掛かります。また、冬場の日本海から内陸までは雪で覆われて、まったく外の情報が入らない場合もあります。

(最上、大崎、葛西)

奥州北部:1ヶ月程度ですが海の都合で早くもなり、さらに遅くなります。一般の情報も陸路で2ヶ月ほど掛かり、詳しい情報になると半年以上も遅れます。

基本、京に在住の家臣が月毎、事ある毎に手紙を送っておりますが、冬場などは海が時化ており、余程、足の達者な者(忍び)などを抱えていないと情報が途切れます。

なお、小説内では、尾張熱田、相模小田原、常陸小名浜湊おなはま、中奥州牡鹿おしか(石巻)湊、北奥州鮫浦さめうら湊(後に八戸湊)、津軽十三湊とさみなとで定期船が運航し、3ヶ月の1度の割で交易を行っている。

南部-晴政なんぶ-はるまさは天文8年(1539年)に上洛し、室町幕府12代将軍・足利義晴より「晴」の一字を拝領されたが、弘治3年(1556年)に関東遠征の鎌倉で、永禄元年に(改元を)京に上洛して義輝に拝謁した。どちらも定期船を利用していた。


(江戸時代、あるいは、明治時代になって開かれた湊もあるが、北の海産物を直接に取引したい魯坊丸が率先して開港させた。江戸時代に発達する北前船はまだできておらず、北奥州は織田や北条経由の情報が多く入る環境になっていた。なお、伊那で幕府と開戦すると、信勝や信次やお市の為に何度も臨時船が走り、南部家は家臣を京と熱田(堺や土佐一条の商人がやって来る)と小田原に常駐させて新しい情報を次々と手に入れていた)

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