第44話 村上義清の葛尾城の攻防と謙信の出陣。

(永禄3年8月21日(1560年9月20日))

夏の暑さが過ぎると、早足で秋風の季節がやって来た。

寒ぅ、朝夕の寒さが厳しく思える。

足元が寒く感じて夜中に目を覚まし、寒さを逃れて布団にくるまっているのに輝ノ介に剥ぎ取られて、朝の調練に付き合されている。


「俺は夜が遅いのだ。遠慮してくれ」

「知らん。その体操が終わったら一本付き合え」

「死ぬわ」

「当てんから大丈夫だ」


俺は木偶の坊のように立つ。

俺の課題は高速の刀の避ける努力をする事だ。

だが、まったく剣先が見えん。

どうしろというのだ?

目の前に刀の先が現れて腰が引けて、一瞬だけ瞼が閉じる。

木刀が一部だけ付けている防具の上から叩き付けられた。

マジで痛い。


「目を閉じては訓練にならんだろう」


朝から100回は殺された気分を味わって朝練が終わる。

輝ノ介の剣筋を見るなんて無理だ。

最初の一撃だけでも自分で避けられるようになれとか言う。

無理です。無理です。無理です。

大切な事だから三度言いました。


まったく、最前線の城を借りて、朝からヤル事ではない。

旧武田領と村上領の境目は武田家が占領していた狐楽城こらくじょうを廃城として、千曲川の坂木(坂城町)辺りとした。

北は村上-義清むらかみ-よしきよの居城である葛尾城かつらおじょうがあり、坂木(坂城町)を挟んで和合城わごうじょうが武田家の最前線だ。

城主の小泉五郎左衛門は村上-義清むらかみ-よしきよの通行を許可しなかったので、小県郡の争いはすぐに鎮静化した。


小泉家も村上一族であったが、越後に逃亡した村上-義清むらかみ-よしきよと違って武田家に臣従し、武田家から領地安堵と共に上田の地に1000貫文の領地が与えられた。

皆が欲しがるこの辺りの土地を直接に与えずに貫高で分割して与えるとは、小憎い策を弄している。

最初から武田家に付いていた真田-幸隆さなだ-ゆきたかには少しだけ納得いかない差配だったのかもしれない。


さて、北信濃は越後の要請で兵を出しており、武田家から援軍を求められていない。

にも かかわらず、村上-義清むらかみ-よしきよは関東に行かずに残った。

小泉五郎左衛門は何か胡散臭いと思ったようだ。

武田家の存続が怪しい時に内藤-昌豊ないとう-まさとよの援軍?

援軍を理由に通過を求めて来た。

ドサクサに紛れて武田領を奪うとしか考えられない。

旧領奪取を目論む村上-義清むらかみ-よしきよが戻ってくれば、上田領を取り上げられるのは必至である。


「武田家の事に口出し無用」


そう言って跳ね除けた。

小競り合いがあったが、すぐに真田-幸隆さなだ-ゆきたかの援軍が到着して事なきを得た。

こうして小県郡は三者が入り混じった混乱を避けられたのだ。

俺は領地安堵状を書き、一時的に和合城わごうじょうを貸して貰った。


虚空蔵山こくぞうさんの山系の尾根伝い。

川に近い土手に和合城わごうじょう、高津屋山に高津屋城たかつやじょう(標高920m)、虚空蔵山に虚空蔵山城こくぞうさんじょう(標高1,097m)が並り、さらに東の峰に積城つみじょう(標高1,064m)、その隣に亀井城かめいじょう(標高1,074m)がある。

誰がこんな山頂の山城を落としに行くのか、首を捻りたくなる。

兵糧を運ぶのも大変だろう。

街道を保持して包囲すれば、勝手に落ちないか?


因みに、和合城わごうじょうの東に2里 (8km)ほど行った所に、『砥石崩といしくずれ』で有名な砥石城といしじょうがある。

真田家の旧領はその砥石城から一里 (3.9km)ほど東北の所にあり、この一帯は真田家の庭と言っても過言ではない。

信玄しんげんは真田家の旧領を安堵すると、千曲川の西側を新領地として与え、安曇郡あづみぐんの目付に任命して、安曇郡あづみぐんの領主達を監視させた。


この和合城わごうじょうに脇に善光寺ぜんこうじ、果ては直江なおえの津まで続く北国街道が通っている。

つまり、前公方の義昭よしあきが入城した上杉-政虎うえすぎ-まさとら春日山城かすがやまじょうまで続いている。


なぜ、こんな所でのんびりしているかと言えば、北の一里半 (6km)先にある葛尾城かつらおじょうを囲んで、信広兄ぃを中心に、東遠江・駿河衆、佐久衆、諏訪衆、甲斐衆など、降伏した内藤-昌豊ないとう-まさとよらも信虎のぶとらの配下となって攻めていた。


『放て!』


スダダダダァー、貸した鉄砲2,000丁が火を噴くと、立地で有利なハズの村上-義清むらかみ-よしきよの兵が倒れ、我慢しきれずに村上側から討って出てくる。

葛尾山の山頂に葛尾城かつらおじょう(817m)、南に伸びた尾根伝いに支城の姫城ひめじょう(646m)、西に同じく支城の岩崎城いわさきじょう(610m)があり、尾根と尾根を結んで巨大な城としている。

尾根以外は急斜面になっており、攻め上がってくる者を拒んでおり、上ってくる者を弓や鉄砲で狙い撃ち、尾根部から石や煮詰めた油を垂らす事で敵兵を退けられるハズであった。

例え、一万人の大軍であっても大丈夫な難航不落の山城のハズ…………だった。

そう過去形だ。

尾根から鉄砲の弾も弓の矢も撃って来るが、織田家の盾に防がれた。

対する織田家はライフリングありの前装式火縄銃が四方に配置された。

飛距離と命中精度が倍ほど違う。

木々が生える林から尾根にいる兵を狙い撃てた。

尾根に籠城している方が追い詰められた。


痺れを切らした村上方が自分から討って出てくるが、1つ1つの道が狭かった。

多数の利が生かせない。

尾根で少数同士がぶつかった。

織田方では部隊を順番に回して交代で攻め上がる。


「兵の首は要らん。武将のみ狙え」


各部隊がどれだけ手柄首を狩って来られるかを競っている。

こういう遊び感覚で戦をやって欲しくないのだが、城を落とすなと言ったのは俺だから強く言えない。

山の麓で大軍が取り囲み、見た目は兵糧攻めだ。

だが、実際は春日山城かすがやまじょうに戻った上杉-政虎うえすぎ-まさとらが援軍に来るのを待つ、おとりでしかない。


城取りの開始直後は輝ノ介も部隊率いて活躍したが、今ではやる気を無くしていた。

もう日課として討って出ているだけだからだ。

どうやら上杉-政虎うえすぎ-まさとらを待っているのが、向こうにも伝わったらしい。

同盟国の危機に上杉-政虎うえすぎ-まさとらは援軍を出さねばならない。

さもなければ、何もせずに北信濃がすべて降伏する。

織田方は北信濃の領主達が降伏したくなる匙加減を考えながら緩い攻撃を繰り返し、上杉-政虎うえすぎ-まさとらは北信濃の領主が降伏しないギリギリまで準備を整える時間を稼いだ。

互いに冬を見据えた神経戦を場外で戦っていた。


1つ目の曲輪を占領した時点で織田方は撤退する。

あるいは、尾根から広い所まで押し出されれば、村上方が戻ってゆく。

敵が引くと味方も引く。

朝、昼の二回の攻撃を耐えると人質交換をする。

マンネリ化していた。

葛尾城かつらおじょうの兵から見ると生殺し状態だ。

輝ノ介は飽きたらしく、城に戻って来た。


「それにしても彦右衛門(滝川-一益たきがわ-かずます)の狙撃銃は卑怯だな」

「いずれは全てアレに変えるぞ」

「余の獲物を何匹も食われた」

「俺は適当に攻めろと命じたハズだ」

「その気ならば、初日に義清よしきよの首を取ってやったわ」

「遣り合ったのか?」

「猛将で戦巧者を思わせたが、腕は噂ほどでなかった。数手合わせるとすっと引いた」

「中々の武将だな」

「卑怯者だ。二度と出て来ない。士気を保つ為に付き合っている感じだな」


一先ず、敵を追い返せば、士気が維持できると考えているのか。

輝ノ介は楽しくないようだが、鬼ほど強い武者より戦巧者の方が厄介だぞ。

引き際まで弁えているなら挑発して終わりとならない。

少し頭を使わないと勝てない相手だ。

迫撃砲が無ければね。

麓から狙い撃つだけで逃げる暇もなく終わらせる迫撃砲は卑怯だね。

いつでも撃てる位置に陣取らせている。

今日も葛尾城かつらおじょうから援軍の要請が走る。

だが、上杉-政虎うえすぎ-まさとらが動いたという報告は来ていない。


政虎まさとら、あいつはおそらく…………」

「若様、関東の失態を恥じ、政虎まさとらは頭を剃って謙信けんしんと名を改めました」

「そうか、謙信けんしんを名乗ったか。やはりというか、義昭よしあきに苦労しているみたいだな」

「関東から10万人の兵を引き連れて戻って来いと命じていたそうです」

「あはは、そんな兵がどこにおる。北条家が寝返らなければ調達できん」

「北条家は堅実な家だ。寝返らん」

「判っておる。余ならば信照のぶてると戦いたいという理由で寝返ってもよいが、余が寝返ると信照のぶてるはふて腐れて籠城するからな」

「当然だ。輝ノ介の矜恃きょうじに付き合う気はない。畿内と東海を固めて守る」

「引き籠った信照のぶてるはどうやっても倒せる気がせん」


戦に出てくれば、倒せる余地があるとでも言うのか?

言ってくれる。

だが、もう義元の時のような博打は打たない。

輝ノ介という裏技が使えなくなった時点で穴熊だ。

畿内を抑えてじっと待つ。

時間が経てば、誰もが織田幕府を認めるようになってゆく。

朝廷に認められない公方も前公方も意味がなく、いつか誰からも相手されなくなる。

織田家はじっと待つだけでいい。


「案ずるな、余はすべて承知しておる。余計な事はせん」

「それで頼む」

「余の望みは戦いに身を置く事のみだ」

「考慮はする…………が絶対は確約できない」

「よろしく頼むぞ。一度は本気の謙信けんしんり合いたい」


このバトルジャンキーめ、そんな楽しそうな目で語るな。

俺は頭が痛い。

謙信けんしんはおそらく俺の首を取る事のみに全力を挙げてくるハズだ。

それしか勝ち目がない。

だから、決戦で迫撃砲を積極的に使うと上杉軍が早々と引き上げてしまう。

俺を殺せる機会が消えるからだ。

殺せないと判った時点で次の機会に変える。

引き上げられては面倒だ。

こちらはギリギリまで力を温存して、見せない必要がある。

色々面倒な戦いになるが、輝ノ介が望む力と力の戦いを演じて化かし合う。

俺の目的は謙信けんしんを殺すか、越後の主力を二度と抵抗できない程度に削る事だ。


謙信けんしん信玄しんげんより面倒だ。


信玄しんげんは武田家の存続を望むが、謙信けんしんは純粋に義昭よしあきの希望を叶える為に動く。

俺を倒した後に、再び北条家との戦いが続き、後に兄上(信長)との戦いが控えていても怖気づかない。

さらに謙信けんしんは勘で動くからな、予測が付かない。

戦狂いいくさぐるいの酔っ払いだ。

知略はあるが、足利幕府に従うという所から逸脱できない。

腹黒い信玄しんげんより信用できるが、今回はそれが仇となる。


さて、新吾(斎藤-利治さいとう-としはる)にも善光寺西街道から進んで貰っている。

間違っても謙信けんしんと戦わないようにゆっくりとだ。

決戦に勝った勢いで、新吾と信広兄ぃに越後に侵攻して貰う。

俺はそのお膳立ての調略で忙しい。

面倒な公家の交流で培った情報を使って微妙な人間関係に楔を打ち、時期を見計らって調略を仕掛ける。

あるいは、調略したと噂を流して対立関係を作る。

必ずしも調略が成功する必要はない。

互いが牽制する敵対関係であれば、燃料を投下するだけで火の手が上がる。

短気たんき迂闊うかつねたみと仕掛ける要素は沢山ある。

北越後の揚北衆あがきたしゅうなど、ネタが多すぎてどれを使おうかと悩むくらいだ。

謙信けんしんはそんな問題児ばかり抱えて苦労している。

バラバラになった所を各個撃破でいくつか落とせば越後統一だ。

戦を始める前に終わらせる。


信照のぶてるは楽しそうだな」

「忙しいだけだ。誰か代わってくれ、俺はゴロゴロしたい」

「そうか、目が活き活きとしておるぞ」

「目が悪いのではないか。目の下に隈ができているだろう」

「見た目の話ではない」


ともかく、関東は風魔に任せる。

北信濃では真田をフル活動だ。

今度は越後の『軒猿のきざる(上杉の忍び名)』を出し抜いて、越後の国人衆を崩壊に持ってゆく。

越後勢を騙す為に上杉寄りの公家の手紙も預かっている。

銭を出せば、公家は簡単に引き受けてくれる。

公家の方々は勝っている限りは裏切らないのがいい所だ。


「そう言えば、北信濃で怪しい奴はすべて斬首にしているらしいな」

果心-居士かしん-こじらを旧斎藤家の家臣の従者を装わせて潜入させた事で疑っていたからな」

「そう言えば、美濃から逃げて来た旧斎藤の家臣の中に潜入させたらしいな」

「違う。本人以外はすべて俺の手の者だ」

「本人以外のすべてか!?」

「短期間で疑われずに送るには悪くない手だろ」

「相変わらず、悪どい手を考えるな」


美濃から命からがら逃げて来た武将はすべて織田家に寝返った者だ。

連れていったのは偽の妻、偽の子供、偽の従者だった。

諏訪の知り合いに助けを求めた。

こうして織田家の間者が堂々と短時間に諏訪に入った。


酒に誘惑剤や自白に使う誘導剤を混ぜて秘密をばらさせれば、こっちのモノだ。

秘密を共有する者として信用を得て、色々と画策できる。

短時間で諏訪に造反者を作った。

最後に斎藤家の武将が率先して動けば、織田の間者だった事が他家に知れたハズだ。

労せずに北信濃や越後の者が疑心暗鬼に落ちる。

上杉家にもその話が伝わり、北信濃では疑わしい者を取り締まっている。

捕まっているのは無関係の者か、北信濃の領主達の間者達だ。

真田一族を除くと北信濃に織田家は間者を入れていない。


「真田家を試しているのか?」

「そんなつもりはないぞ。真田家を信用しているだけだ」

「信用ね」

「後々、補給路の邪魔をされたくない。戦の片手間に他国の間者も一網打尽にする」

「越後の先を見越してか」

「紛らわしい奴は上杉が片づけてくれる。残る奴は優秀な間者か、上杉方の間者だ。どちらも邪魔な存在だ」


上杉家や村上家は織田の忍びを片づけているつもりだが、織田家の忍びは始めから北信濃に入っていない。

織田家の手を汚さずに不要な忍びを始末できる。

真田家は北信濃に親族や親しい領主も多く、身分を保証する木札を発行して貰える。

忍び同士ならば、力量次第だ。

真田-幸隆さなだ-ゆきたかは今度こそ上田の地を取り戻すと鼻息を荒くする。

俺は幸隆ゆきたかの野心に期待している。


「あははは、信照のぶてるを敵に回すと怖いな」

「千代、今日の昼からの予定はどうなっている」

北条-宗哲ほうじょう-そうてつ様の援軍が到着致します」

「関東では、また活躍したようだな」

「この戦が終われば、隠居して『幻庵げんあん』を名乗ると宣言されております」

「もう隠居か、年の割に若いと思っていたが?」

「次男の綱重つなしげにすべてを譲って、若様の側で茶坊主をしたいと申しておるとか」

「全力で遠慮する」

「一先ずは、早川殿はやかわどのの元に身を寄せるのでありませんか」

「その手で来るか」


娘同然とか言って居座わりそうだ。

謙信けんしんの居なくなった関東の調略を北条-氏康ほうじょう-うじやすに任せて、宗哲そうてつは北条軍6,000人を連れてやって来た。

武田家を騎馬軍団とか言う奴がいるが、武田家は良い馬を揃えているが特段に馬の数が多い訳ではない。

騎馬隊を編成できる北条家の方が騎馬軍団だ。

もっとも北条家は移動に馬を使うが、戦場では兵は馬を降りて戦う。

だから、騎馬軍団と言われないのだろう。

今回も馬2,000頭を連れている。

馬上での銃撃や火薬筒の詰まった箱を正門の前で爆破するなど過激な攻撃で翻弄し、その機動力で関東の諸大名をあざ笑ったのだ。

普通に過ごしていると、北条軍が到着した。


「やっと一緒に肩を並べて戦えますな。待ち遠しかったですぞ。これでやっと望みの1つが叶いましたわい」

「1つと言う事はまだあるのですか?」

「そうですな。まずは早川はやかわの子を見たいですな。生まれた子は孫同然でございます。その子が成人する姿を見てから逝きたいモノです」


おい、何歳まで生きるつもりだ。

数か月前、謙信けんしんとの対決を避けて欲しいと頼んだ時は顔が歪んだだろう。

戦っても火力差で負けるとも思わないが間違って負ければ、北条軍はじりじりと後退する事になる。

北条が窮地に立つと厄介だった。

こちらの要望に従ってくれた北条家は上杉の幕府軍を翻弄した。

関ヶ原で義昭よしあきを捕まえて終わるハズだった。

だったハズなのに、延長戦となって北条家には多大な迷惑を掛けた。

今回の功績はデカすぎる。


「そうでした。お市様の手紙を預かっております」


どうしてお市の手紙を?

俺が少し驚くと、宗哲そうてつがにやりと笑った。

ネタを明かされれば、単純だった。

相模の小田原に到着した船からお市の手紙を預かった織田家の者が降りてきて、そこから馬で信濃の小県ちいさがたに向かう事になる。

その者に北条家の情けで風魔の護衛を付けて貰える事になったのだ。

今朝、和合城わごうじょうの手前で北条軍に追い付き、宗哲そうてつが代わって届けたいと我儘を言われたのだ。

護衛を付けて貰った手前、断り辛かったのだろう。

但し、中身を見られる訳にいかないので宗哲そうてつの家臣の振りをして俺に差し出す事になった。

奥羽から一緒に戻った忍びが同行しており、千代女にも報告が行っていたハズだが、宗哲そうてつの悪戯に付き合ったようだ。

北条家の家紋の入った服まで着替えてご苦労様。

はい、はい、驚きましたよ。


 ◇◇◇


(永禄3年 (1560年)8月22日)

春日山城に葛尾城から援軍を求める使者が来た。

それを聞くと、義昭よしあき謙信けんしんを呼び出して叱った。


「いつまで余を待たせるつもりだ」

「準備を万全にせねば、勝てる戦も勝てません」

「北信濃を取られてからでは遅すぎる」

「承知しております」

「関東の兵はどうなった?」

「準備させておりますが、まだもう少し掛かるようです」

「遅い、遅過ぎるぞ」

「申し訳ございません」


そこに慌てて斎藤-朝信さいとう-とものぶが来て、謙信けんしんの瞳孔がわずかに鋭くなった。

そして、軽く首を振る。

諦めと思える柔らかい笑みを浮かべると、優しい表情で義昭よしあきの方を見直した。


「只今、奥州から朗報が届きました。伊達家と最上家がこちらに兵を寄越してくれると言ってくれました」

「そうか、ついに奥州も動いたか」

「邪魔者を片づけ次第に駆け付けるとの事です。上野の兵も北信濃へ向かっております。某も出陣して合流するつもりでございます」

「動くか」

「はい、動きます」


義昭よしあきにあいさつを終えると出陣準備だ。

前々から用意をさせていたので号令だけで終わる。


『馬を立てよ』


春日山城から出陣を促す早馬が飛び出してゆく。

俄かに慌ただしくなる。

人、武器、兵糧も抜かりない。

謙信けんしんに気力が漲ってきた。


朝信とものぶ、奥州は勝つと思うか?」

「判りません。ですが、南部が織田家に付くとは思っておりませんでした」

「電撃的な南下だ」

「何かやって来ると思っておりましたが、南部を使いましたか」

「どうすれば動かせるのか、想像も付かん」

「勝てば、伊達の奥州統一。負ければ、南部が奥州王ですな」

「伊達が勝てば、援軍を送ってくれるだろうな」

「思った通りに進みませんな」

「当然であろう。相手はあの信照のぶてるだ」

「大崎斯波家の小競り合いを制して、援軍を出して貰うハズでしたが、今度は規模が大き過ぎて、何が起こっておるのか判りません」

「自らは動かずに着々と追い詰めてくるな」

「嬉しそうですな」

「あの不動明王ふどうみょうおうと戦うのだ。相手に取って不足なし」

「また、そのような噂を。まったく、妙な噂を立てた神余-親綱かなまり-ちかつな山吉 豊守やまよし-とよもりを叱っておかねばなりませんな」


毘沙門天びしゃもんてん不動明王ふどうみょうおうの戦いが始まる。

壮絶な戦いを予感して、越後の武将達が血湧ちわき肉躍にくおどらせていた。

だが、謙信けんしんの脳裏には、そんな互角の戦いの構想はない。

兵数、火力、勢いのすべてで劣る。

勝利は乾坤一擲けんこんいってきの一撃しかない。

戦の天才はゆっくりと馬の首を撫でた。

そこで差し出された尾張の清酒をぐびっと呑み干すと、その勢いで謙信けんしんは一句読んだ。


『極楽も地獄もさきは有明の月の心にかかる雲なし』 

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