第43話 戦後処理と武田領の奪取。

(永禄3年 (1560年)7月26日)

追撃戦には本隊からの出撃も許した。

逃げる手柄首を見て、『そのまま待て』の合図は中々に難しい。

次々と出陣を求める使者がやって来たからだ。

戦ではなく、狐狩りに変わった。

血の絨毯を見て気分の悪くなった兵もいたらしい。

日が沈む頃には兵士も正気を取り戻したのか、首を狩って戻ってくる者が増えた。

俺は入山瀬城を仮の城として占領する。

久しぶりに床に布団を引いてゆっくりと寝させて貰った。


翌朝、戻ってきた武将を囲んで軍議を行う。

皆、鎧を外して集まっている。

朝餉あさげを出した後に少し時間を空けて軍議の部屋に入った。


“人はいさ心も知らず ふるさとは花ぞ昔の香ににほひける”


紀貫之が慣れ親しんだ土地をたずねたとき、宿屋の主人から「宿は昔のままずっとここにあります。それなのにあなたときたら、心が変わってしまったかのように訪れてこなくなりましたね」と皮肉を言われる春の歌だ。


懐かしい腐った梅の臭いが漂ってくる。

久しく忘れていた。

そのまま鼻を抓んで退出したい。

足袋たび(靴下の一種)がこんがりと蒸れて熟成している。

開発した『つらぬき(革靴のような物)』の弊害だ。

駿河から一度も履き替える事がなかった足袋たび(靴下の一種)は『つらぬき(革靴のような物)』の中でこんがりと煮込まれて、世にも恐ろしい臭いを醸成した。


訓練が終わった後の軍議も多少の臭いが充満するが、これほどの悪臭というではない。

これはあれだ。

つらぬきを安全靴の革ブーツに改造した弊害だ。

つらぬきの底に鉄の板を引き、足先を鉄のドームで覆い隠す。

また、膝近くまでブーツのように高くして紐で締めて括ってゆく。

外革と内布の間には楔帷子に使う鉄の網を仕込んだ。

これで槍が足元を狙っても大丈夫。

蹴り上げれば、鈍器と化す。

そんな特製の安全靴に仕立てた。

織田家の標準装備の1つだ。


プラス、汗も熟成して酷い体臭を放っている。

殺し疲れて興奮が冷めないので平気なのだろうか?

訓練の時のように足を洗ってから出直せとは言えない。

拙い、吐きそうだ。

そんな最低のテンションで軍議に入った。

俺はずっと難しい顔をしていたらしい。

ほとんど喋らなかったのは臭いが気になって頭が回らなかっただけだ。


信照のぶてる様は此度の死者が多い事に心を痛められておる』


敵将の首を討ったという報告でもしかめ面で聞いていた。

言葉では褒美を与えると言っているが嬉しそうでなかったからだ。

なので、そんな風に受け取られたみたいだ。

マジで吐くのを耐えていました。


 ◇◇◇


(永禄3年 (1560年)7月27日~28日)

絶対に負けられない戦いがあるんです。

そんな臭い言葉を思い出した。

俺は心の中で「ないよ!」と叫ぶ。


東遠江衆・藤枝衆・駿河衆の死者3,000人余り、重傷者約2,500人、中傷者約5,000人、軽傷者はほぼ全員であった。

武田の兵は即死が多かったのに対して、我が方が出血多量での死が多い。

大怪我をした儘で動き回れば、死んでしまう。

敵を突き刺した儘で逝ったなどという英雄談も生まれた。

追い駆けた儘で野垂のたれ死んだか、動けずになっているのか?

それを数に入れると何人だ?

武田の死者数も5,000人余りを越えていると思う。

このまま死体を放置すれば、餌を求めて狼もやって来るに違いない。

疫病の原因になってもいけない。

俺は遺体を集めさせた。

擦り減ってもよかったが、こんなに殺すつもりはなかったのだ。


こちらの判定負けでも武田軍は軍門に降った。

そうであったならば、武田軍団を取り込めたかも知れない。

それは甘いか。

ともかく、東遠江衆・藤枝衆・駿河衆は再編して戦える奴を残して、ほとんどの者を帰国させよう。

長くは持たない奴も多そうだ。

死体の処理と重傷患者の治療の為に足止め。

プラスマイナスで俺的に負け戦だ。


戦勝祝いに北条の使者がやって来て、織田方の兵力を温存して圧勝した事を殊更ことさらに褒めて帰っていった。

他から見れば、圧勝なのだろう。


気が重いのはそれだけではない。

重傷者の数が多過ぎた。

破傷風はしょうふうを防ぎ、医薬品を大量投入すれば助けられる者も多い。

…………が、それはできない。

戦いが続く事を想定すると薬品を無限に供出できる訳もない。

ペニシリンなどは武将のみ優先的に使わせている。

一般の兵士は消毒と薬草を擦り潰して包帯と一緒に巻き付けてやる程度に留める。

割り切っていたが、野戦病院を見ると心が揺らぐ。


「そなたらの忠義は見届けた。残された家族は信照のぶてるが面倒を見る。安心するがよい」

「ありがとうごぜいます」

「おらは地獄行きでしょうか」

「この護符を持っておけ、閻魔様が許してくれるであろう」

「ありがてい」


兵は渡した護符をギュウと握った。

皆が欲しがるので熱田神社の護符を取り寄せて配るように指示しておいた。

仏を集めて簡単な祝詞を詠んでから火葬するだけでも手間だった。

こんなハズではなかったのだが…………。


 ◇◇◇


(永禄3年 (1560年)7月26日~29日)

富士宮台地の戦いが終わって兵の半数を信広兄ぃに付けて甲斐に向かわせた。

信玄しんげんが逃亡するとは思わなかった。

一先ず、鎮静を保っているが、すべての国人衆が臣従した訳ではない。

抵抗するならば「殲滅せんめつせよ」と命じておいた。

こうなると1万人も10万人も変わらない。

山奥で唯我独尊ゆいがどくそんを気取って、時勢を読まない独立気風の部族は放置でよい。

だが、街道沿いの国人衆はそれを許さない。

こちらは雪が降る前に越後との決着をつけなければいけない。

統治に時間を掛ける余裕などない。

信広兄ぃには今川-氏真いまがわ-うじざねから武田-信虎たけだ-のぶとらを貸して貰った。


甲斐の国の石高は14万石だ。

その内、軍役を逃れる為に税を多めに払う者が九割くらいおり、これを農民や地侍や商人などを含めて百姓と呼ぶ。

残る一割は軍役をする代わりに税を軽減される軍役衆だ。

甲斐は巨麻郡(巨摩郡)、山梨郡、山代郡、豆留つる(都留)郡の四郡で出来ており、国人衆と呼ばれる地侍が1万人、武田の侍(兵)が1万人くらいで構成されている。

戦場が近ければ、地侍も動員される。

自領ならば農民も動員されるので、どれほどの兵が集めるかはやってみないと判らない。

戦に弱いが、領民に慕われる馬鹿領主もいる。


加藤かとう-三郎左衛門さぶろうさえもんの忍び衆に命じて、甲斐の国の砦や屋敷に集まっていた兵を強襲させた。

どんな殺し方をしたのか判らないように、すべてに火を放って隠ぺいさせた。

甲斐の民は織田の兵が何人いるかも知らされていない。

空の砦などに織田家の旗を立てて、沢山いるかのように見せかけている。

さて、沢山の兵を甲斐の国は失ったが、それでも百姓の数は足りないという事はない。

この軍役衆がいるので、貧しい甲斐の国でも年中を通して戦ができる。

否、戦をして他国から兵糧を奪う事で甲斐の国が富んだ。

もちろん、奪われた国は堪ったモノではない。

諏訪などの被害者が武田に降って加害者となり、佐久、伊那、安曇を襲った。

そして、次は北信濃という所で『惣無事令そうぶじれい』が発せられて、負の連鎖が止まった訳だ。

兵の数をもう少し深く考察する。


例えば、伊那郡には200村余りがあり、1村が200人から400人で構成される。

だから、伊那郡の人口は6万人である。

百姓をしながら村を守る農民を地侍、軍役された者を侍(兵士)と言う。

合わせて1万2,000人くらいの兵が調達できる。

伊那だけでこの数だ。

この内、地侍の方が戦死すると収穫に多少は影響する。

年寄りが2割、子供が2割と仮定して働き手が5割とすると、地侍が死んでも4割の労働力が残っている。

軍役衆の1割は始めから数に入れられない。

仮に地侍もすべて死に絶えても、まだ労働力が3割も残っているので農作業は何とかできる。


戦で兵が大量に死ぬと石高が落ちるのは嘘だ。

農耕期の田植えと稲刈りで兵が田畑に戻らないといけないのも嘘だ。

軍役衆のみを動員すれば、一年中戦えた。


傭兵だから尾張が一年中戦えたというのも嘘だ。

織田家が一年中戦えたのは銭を持っていたからだ。

武田家が戦い続けられたのは勝って、敵から奪い続けていたからだ。


軍役衆は傭兵より安いので使い勝手が良い上に猛者が揃う。

同数ならば、軍役衆の方が強いだろう。

だが、軍役には軍役の欠点がある。

死んだ者を簡単に補充できないという点だ。

畿内の三好や尾張の織田は補充がすぐにできる為に、負けてもすぐに建て直せるという点で優れていた。

どちらも一長一短いっちょういったんがあり、それを使う者の能力次第だった。


さて、甲斐には10万人を超える百姓が残っている。

それを信広兄ぃは6,000人の兵で従わせないといけない。

だが、百姓も馬鹿ではない。

従えば、生活の安全を保障すると言えば、色々の思惑や心情を乗り越えて妥協してくれる。

威信とか、意地とか、家格とかに拘る武士より余程扱い易い。

武田家から織田家にくら替えをすれば、平和に暮らせる事を知らしめる。

その為に信虎のぶとららを連れて行かせた。


 ◇◇◇


(永禄3年 (1560年)8月1日)

当初の予定通り、なんちゃって甲斐の国の平定だ。

武田-信虎たけだ-のぶとらを通じて、織田家に従順である事を条件に、一先ず国人衆の領地安堵を許す。

山手の奴らはしばらく放置する。

代官を配置する件や河川の改修に伴う移住などがある事も含めておく。

幕府でも一度やっているので抵抗もなかった。

その調整が終わったと聞いて、俺は8月1日に甲斐に入った。

躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたに向かうと先触れを出しておきながら、途中から眉間を深めて、巨麻郡(巨摩郡)、山梨郡、山代郡の境界に近い青沼に行き先を変えた。


『ここには酷い怨念が溜まっている』


それらしい顔で怨念が腹に溜まって膨れている者はいないかと聞く。

村人が恐れ戦いた顔をして教えてくれた。

事前に予習済みだ。

甲斐の民の中に腹がパンパンに膨らみ死に至る『水腫脹満すいしゅちょうまん住血吸虫症じゅうけつきゅうちゅうしょう)』を怨霊の類いだと思っていた。

村人らが俺に助けを求めた。

俺はもっとも怨霊の集まる場所に向かったフリをして、三郡の交わる場所に向かった。


「先祖代々の怨念が凝り固まっておる。この厭忌えんきを断ち切らねば、いずれはすべての甲斐の民が怨念に祟られて死に至るであろう」


そう告げると、甲斐の民が本気で青ざめて助けを求める。

俺は再び大祓いの祭壇を造らせると神官の姿になって祝詞を上げた。


「残念だが、怨念が凄まじく、すべてを取り祓う事はできなかった。呪いの原因は水妖すいようの怨霊の仕業だ。だが、その怨霊は『宮入貝みやいりがい』に封じた。見つけ次第、浄化の火にくべるがよい。放置しておれば、また怨霊の被害が広がるぞ」


甲斐の民が「ありがとうごぜいます」と涙を流して喜んでくれた。

後は当たり前の忠告をする。

生水を飲むな。

水辺に近づくな。

水田を廃して、すべて畑にする。

最新の水田を廃すると言うと少しの拒絶があったが、水妖すいようの怨霊が居辛くする為だと言えば、納得してくれた。

甲斐の開拓の為に医師と人の派遣を約束する事で信用を得る。

撲滅は無理でも被害が減れば、人心の掌握も難しくないだろうと思う。


 ◇◇◇


(永禄3年 (1560年)8月5日~6日)

隠れ里に身を隠していた穴山-信友あなやま-のぶとも信君のぶただ親子を呼び出した。

隠れ里を知られていた事にびっくりしたようだが、無駄な抵抗はしないだけ信用できると感じた。

裏切ったのだから死罪は免れないと思っていたのだろう。


「お主の見事な芝居のお蔭で、武田軍を滅ぼす事ができた。礼を言う」


穴山あなやま親子はぽかんとした顔で俺を見上げた。

許して貰えると思わなかったのだろう。

いいのだよ。

武田家の大敗はすべて穴山あなやま親子に画策された結果として、甲斐の憎悪ヘイトを二人に押し付ける。

親族や家族、愛しい人が亡くなったのは、すべて穴山あなやま親子の責任だ。

そういう事にする。

帰り際に小さい声で「二度目はないぞ」と告げておいた。

織田家の為に精々働いてくれ。

さて、信広兄ぃが街道沿いで反抗する者の成敗を終わると諏訪に向けて出発だ。


5日に甲斐を出発すると、その日の内に逸見筋へみすじ北杜ほくと市)に入った。

甲斐と逸見筋へみすじの間を逸見路へみみちと呼ぶ。

ここから諏訪湖に延びる棒路ぼうみちと佐久に延びる穂坂路ほさかみちに分かれる。

信広兄ぃが率いる西遠江・東三河衆5,000人と氏真うじざねが率いる旧今川兵(国境の警護隊)2,000人、再編した東遠江・駿河衆2,000人、甲斐国人衆2,000人が穂坂路ほさかみちを通って佐久に直接に入って行った。


東遠江・駿河衆で残ったのは1,000人のみで、減った分を河東かとうから徴兵したらしい。

また、甲斐国人衆は出陣を促した訳ではないが、信虎のぶとらが「ここで手柄を上げねば、信照のぶてる様への心証も忠誠も悪くなるぞ」と脅したので、何とかかき集めて同行させて欲しいと言ってきた。

2度断ったが、3度目に頷いた。

なんと、信虎のぶとらは自らの部下に加えて、2,000人の兵を手に入れたのだ。

手柄を立てて心証を良くしたいのは誰だよ。


さて、佐久郡の平定は必要ない。

何故か、8割が織田方だ。

佐久郡の領主達は余程信玄しんげんが嫌いだったのか、我先に使者を甲斐に送って来て臣従した。

残る2割は義理堅いのか、頑固なのか、俺にもよく判らない。

邪魔しないのならば、問題ない。


信濃で無血奪取を試みた果心-居士かしん-こじ番茶万ばんちゃまんは、最難関の幕府奉公衆代官が率いる兵3,000人に痺れ薬を飲ませた。

だが、その内の1,000人がお茶を呑んでいなかったのだ。

果心-居士かしん-こじの策を逆手に取って内藤-昌豊ないとう-まさとよが寝返りそうな危険な武将に痺れ薬入りのお茶を勧めたからだ。

策士、策に溺れたみたいだ。


内藤-昌豊ないとう-まさとよは先手を取って兵1,000人のみで勝頼かつよりのいる城を襲って、勝頼かつよりの身柄を確保しようとした。

夜半の諏訪湖から龍を立ち上がらせ、諏訪神社の宮司を夢枕で操り、多くの国人衆を見事に騙したのだが、最後の勝頼かつより奪取を許してしまう。

画竜点睛がりょうてんせいいた結果だ。

こうして肝心要の勝頼かつよりを奪われては、無血奪取は叶わない。


だが、これに怒ったのが諏訪衆だった。

その年の『御柱祭おんばしらまつり』の御柱迎えの『お舟』の神輿を担いで歩く白丁姿の山作り衆の先頭の宮司に勝頼かつよりを置いた。

武田家の戦意向上の策であったが、その象徴の勝頼かつよりを奪われる事を諏訪衆が黙認するだろうか?

しなかった。

武田方を辛うじて保っていた諏訪衆が牙を剥いて、内藤-昌豊ないとう-まさとよを襲って勝頼かつよりを取り戻し、内藤-昌豊ないとう-まさとよを佐久郡に追い払った。

その後に後ろ盾を求めて諏訪衆は織田家に臣従した。

結果、オーライだ。


結果オーライの原因だが、

幕府の義昭よしあきから伊那の織田を討てと命令を無視する諏訪衆に対して、織田おだ-造酒丞みきのじょうは「今の所、諏訪に攻める予定はない。仮に攻める事になっても『御柱祭おんばしらまつり』の間に攻める事はない」と公言させておいた。

好感度が上がっていたらしい。

どれだけ『御柱祭おんばしらまつり』に命を賭けているのか?


加えるならば、伊那の幕府奉公衆代官が『御柱祭おんばしらまつり』中に塩尻に攻めてきた小笠原おがさわら-長時ながときだったので、「流石、織田様は神事をよく判っておられる」と評価が高かったのかもしれない。

まぁ、いいか。


時間が少し前後するが、山本-勘助やまもと-かんすけ穴山-信友あなやま-のぶともが寝返ると同時に、木曽の木曾-義康きそ-よしやすも寝返ったという噂を諏訪に流した。

即座に反応したのが、安曇郡あづみぐんの目付を命じられていた真田-幸隆さなだ-ゆきたかだ。

織田おだ-造酒丞みきのじょうを通じて、事前に送っておいた直筆の命令書を送る。


真田-幸隆さなだ-ゆきたか安曇郡あづみぐんの援軍で諏訪に来ていたのだが、義康よしやすの寝返りを受けて、美濃から織田軍が善光寺ぜんこうじ西街道を通って安曇郡あづみぐんに侵攻するという情報を武田方に届けた。

その直後に甲斐経由で勘助かんすけ信友のぶともの寝返りが伝わる。

動揺する安曇郡あづみぐんの領主や奉公衆代官を説得して、安曇郡あづみぐんに引き返していった。

後は、新吾(斎藤-利治さいとう-としはる)が幸隆ゆきたかに調略の使者を堂々と送れば、幸隆ゆきたか安曇郡あづみぐんの領主を説得して完了する。


内藤-昌豊ないとう-まさとよ幸隆ゆきたかを疑っていたが、どうする事もできなかった。

疑いながら見送った後は諏訪湖で龍が立ち上がり、諏訪は大混乱になった。

混乱の中で内藤-昌豊ないとう-まさとよが決起するが、諏訪衆の逆鱗に触れて敢え無く再奪取される。

内藤-昌豊ないとう-まさとよは下諏訪から望月に抜ける街道(後の中山道)を通って佐久に逃げた。

しかし、駿河で武田軍が大敗を喫すると、佐久の国人・領主が反旗を翻して内藤-昌豊ないとう-まさとよを襲う。


内藤-昌豊ないとう-まさとよは佐久郡を放棄して小県郡ちいさがたぐんに引いた。

しかし、新吾(斎藤-利治さいとう-としはる)が塩尻に近づいた所で降伏の使者を出すと、幸隆ゆきたか安曇郡あづみぐんの領主を説得して降伏した。

その直後に真田旧領の小県郡ちいさがたぐんに戻って来て、あっと言う間に小県郡ちいさがたぐんを織田方に染め直したので、内藤-昌豊ないとう-まさとよは小さな城で孤立している。

わずか半月足らずで武田領を織田領に染め変えた。

最後の武田軍である内藤-昌豊ないとう-まさとよも風前の灯となった。

神速の詰めだ。

もう臭い軍議はお断りです。

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