閑話.信玄の逃走。

(永禄3年 (1560年)7月24日~26日)

富士宮台地に布陣した武田軍に義信よしのぶが合流した。

そして、最後の軍議が開かれた。

ここではじめて義信よしのぶ穴山-信友あなやま-のぶとも信君のぶただ親子と山本-勘助やまもと-かんすけの寝返りが『苦肉くにくの策』であった事が信玄しんげんから語られた。

敵を欺く為に自らの身を削り、駿河駐留軍と戦って兵を多く死に追いやり、甲斐河内では武田軍も反撃で身内を失っても味方を欺いた。

だが、そこまでしても信玄しんげん信照のぶてるを騙せていない。

そう確信していると言うと同時に、信照のぶてるは敢えて罠に飛び込んでくるとも言う。


「あの者の軍略(戦略)は天より授かったモノとしか思えぬ。あの義元よしもと公でも欺く事ができなかった。だが、あの天才も完璧ではない。策を仕掛ければ、必ず乗ってくる。そういう男なのだ」

「誘われてノコノコと出てきた所を討つのですな」

いくさに勝つのは当然だが信照のぶてるを討ってはならん。我らが相手をするのは織田方に与した東遠江と駿河の兵のみを狙う」

「御屋形様、何故でございますか?」


信玄しんげんの命に軍議が騒然となった。

腕自慢の武将達が次々と声を荒げる。

甘利-信忠あまり-のぶただ春日-虎綱かすが-とらつならが穴山あなやま隊と山本やまもと隊が寝返った所で反撃を加え、そのまま織田本陣に突っ込むと意気込んだ。

奥近習の金丸かねまる-平三郎 へいざぶろうも鼻息を荒くする。


「自ら死地に入るつもりか。関ヶ原を見よ。進む先に爆薬を仕掛けておった。同じモノがないと言えるのか。儂ならば用意するぞ」

「死を恐れて武田の武将を名乗れません」

「生きて帰れんぞ」

「承知の上です」

「ならば、策を1つやろう。東遠江と駿河の兵を追い込みなから、突撃の部隊を三つに分けよ。先陣が道を開き、後続が道を伸ばし、最後に本陣まで駆ける。だが、忘れるな。道を進む時に三方から鉄砲が襲ってくる。無事に辿り着けんぞ。それでも挑むのか?」

「当然でございます」

「武田武士の意地を見せましょう」

「誰から行く」

「早い者からでよいかではないか」

「見事に散ってやろうぞ」

「武田武士の恐ろしさを見せてくれる」

「首を斬り落としてくれる」


武田の諸将は火の玉となって織田本陣に斬り掛かる覚悟が見せた。

そこで伊那郡を任されて何もせずに逃げ帰って来た秋山-虎繁あきやま-とらしげが呟いた。


「幕府20万人を軽くいなした信照のぶてるに勝てると本気で思っているのか?」

虎繁とらしげ、何を弱気な事を言うか。逃げ帰ってケツの毛まで織田に抜かれたか」

「20万をいなしたのだ。1万5,000の武田軍などは恐れてもおらんだろうな」

「我らを愚弄するか?」

正俊まさとし、説明してやれ」


伊那郡の目付役だった保科-正俊ほしな-まさとし正直まさなお親子が小笠原-信貴おがさわら-のぶたかの坂牧城が一夜にして無くなった事を詳しく説明する。

使われた新兵器の威力は鉄砲の比ではない。


「その為に東遠江と駿河の兵を肉の壁として使うのであろう」

「その肉の壁ごと吹き飛ばしてきたら、どういたします?」

「当たらねば、どうという事はない」

「本陣に突撃すれば、おのずと密集します。敵の餌食となります。御屋形様の策だけでは突破できません」

「まさか?」

「御屋形様はそれも承知でございます」


保科ほしな親子の弁が立った。

だが、まだ武田の諸将は納得しない。

信玄しんげんが口を開いた。


正俊まさとし、無闇に敵を怖がるモノではない」

「ですが…………」

「そうだ、御屋形様の言う通りだ。控えよ」

「だが、正俊まさとしの言い分にも聞く所がある。敵は織田家だけではない。北条も動くかもしれん。そして、北条を打ち倒せたとしても、次に織田家の本隊である信長のぶながが出て来る。皆はどう思う」


織田家は大軍を動かし、それでいて年に何度でも大戦ができる。

対する武田家は兵糧が枯渇して満足に戦う事ができない。

織田家と正面から戦うと武田家のみが疲弊する。

仮に運よく信照のぶてるを倒しても、次は北条-氏康ほうじょう-うじやす、さらに信長のぶながが控えている。

上杉-政虎うえすぎ-まさとらの兵も無傷だが、北条-氏康ほうじょう-うじやすの兵もほぼ無傷であり、特に相模・伊豆の兵はまったく動いていない。

そして、木曽が裏切った。

美濃方面から別動隊が動いたとも木曽に送っていた間者から報告が上がった。

伊那の織田方は動いていないが、いつ動いても不思議ではない。

武田は三方から囲まれつつある。

北条が睨みを利かせているので、駿河で勝っても武田軍の本隊を向こうに回す事もできない。


「真に武田家が生き残るには和議しかあるまい」

「御屋形様!?」

「悔しいのは判る。だが、それほど力の差があるのだ」

「御屋形様の言われる通りだ。武田の強さを見せて和議を結べば、武田家は生き残れる」

「明日、勝つ事が重要だと申すのだな」

信照のぶてるを和議の場まで引きり出す。簡単ではないぞ」


まず、和議を結ぶ以外に勝ち目がないと判らせた。

そうしないと、すべてが終わった後に国力を失った武田家は北条や上野の諸国の食い物にされる。

祖父の武田-信縄たけだ-のぶつな以前がそうであったように…………。

信玄しんげんは敵が織田家だけでない事を理解させた。


「本陣に突入するのは馬場-信春ばば-のぶはる飯富-虎昌おぶ-とらまさの両名に任せる」

「お任せあれ」

「東遠江・駿河衆を信照のぶてるの本陣に向かうように仕向けよ。他の者は近づくことは相ならん。武田家の兵を温存する。東遠江・駿河衆の掃討で満足せよ」

「御屋形様、味方ごと武田の兵を吹き飛ばしたならば、如何なさいますか?

「特に問題はない。馬場-信春ばば-のぶはる飯富-虎昌おぶ-とらまさの両名の命が危ないやもしれんが、織田方も追い詰められたと承知するであろう。本隊を残しておけば、間違いなく和議がなる」

「安心しろ。簡単に死にはせぬ。必ずや我らが槍を突き付けて和議を取ってくる」

「頼むぞ」

「お任せを。武田武士の意地を見せてくれます」

「皆の者よいか、意地を見せた上で信照のぶてると和議を結ぶ。武田家を残す為だ。皆の者も耐えよ」


皆の意見を聞き入れつつも、自らが望んだ結果に近づけて納得させた。

信玄しんげんの秘密はその統率力の凄さだ。

そして、軍略(戦略)で劣っても、経験豊富で老齢な軍才(戦術)でそれを覆せると、信玄しんげんはそう考えていた。


翌日、戦が始まった。

信玄しんげんの思った通りに敵も味方も動いた。

穴山-信友あなやま-のぶとも信君のぶただ親子と山本-勘助やまもと-かんすけが寝返った。

こちらも予想通りに疑っている信照のぶてるの命を受けた東遠江・駿河の兵が素早く撤退を開始する。

読まれていた事が丸判りだ。

だが、一度逃げ始めると統率が付いていかない。


「やはり若い、兵は将棋の駒とは違うぞ。進める兵を自在に動かせても、引く兵を自在に動かす事などできん」


信玄しんげんがそう呟いた。

引く兵を統率できる武将など多くない。

東遠江・駿河の兵が統率を失って、信照のぶてるの本陣に向って行った。

勝った。

信玄しんげんの手にある軍配ぐんぱいを握る手に力が入った。

一見、全軍で追い立てているように見えて、武田軍は追う勢いを弱めた。

その間を抜けるように馬場-信春ばば-のぶはる飯富-虎昌おぶ-とらまさの部隊が前に出て行く。

部隊は小さな部隊に分け、縦に細長い編成をしていた。

速度を落とす部隊と速める部隊が縦の縞模様のように浮き上がった。

武田軍は織田方に気付かれないように、密集しないように、敵を追い詰めて行った。


どうする、肉の盾ごと吹き飛ばすか?

諦めて突撃を受け入れるか?

いずれにしろ、武田軍の被害は限定的に済む。

味方ごと吹き飛ばすか、武田の突撃を正面から受けるか?

どちらを選ぶ?

信玄しんげんの目が見開いて、信照のぶてるの采配を見つめた。


ずごごごごごん!

巨大な火の柱が立ち上がり、ずだだだだん、ずだだだだん、ずだだだだん、ずだだだだん…………あり得ないほどの鉄砲の連射音が聞こえる。

見た事もない恐怖が通り過ぎた。


なぁ、何をした?

逃げる織田方の前で巨大な爆発が起こった。

鉄砲の音が絶え間なく続く、今まで経験した事のない背筋が寒くなるほどの悪寒を覚えた。

信玄しんげんが思わず立ち上がる。


「父上、どうかされましたか?」

義信よしのぶ、この意味が判らんのか?」

「恐ろしい音です。やはり織田家は恐ろしいと思いました」

「違う。違うぞ。信照のぶてるは儂が考えていたより、恐ろしい男だ。彼奴あやつは人の恐怖すら自在に操る男だったのか。この手があったのか、見誤った」


信玄しんげんは東遠江や駿河の民の恐怖を理解していた。

彼らは信照のぶてるを本気で荒神のように恐れている。

そんな民の前に恐ろしい火の柱が立ち上がればどうなるか?

義元よしもと公の最後を知っている者ならば、驚愕するハズである。

恐怖に顔が引き攣っているに違いない。

儂の負けだ。

人心まで自在に掌握するほどの男であったか。


完全に信玄しんげんの勘違いである。

信照のぶてるは軽い脅しのつもりだった。

まっすぐに逃げてくる兵をちょっと脅した。

これで命じた通りに左右に分かれると思っていた。


だがしかし、民には違うモノが見えた。

荒神様がお怒りだ。

あの義元よしもとを葬った火の柱にしか見えない。

味方に向けて、「次はお前たちも業火ごうかで焼いてやるぞ」という脅しでしかない。

爆発の煙を見た東遠江と駿河の兵が恐怖に怯えて反転した。

ただ殺されたくない。

否、死んでも地獄に送られて永遠の業火ごうかに焼き続けられる事を恐れた。

対していた武田の兵もおそおののいた。

腰が引けた所に巨大なウェーブとなって東遠江と駿河の兵が反転してくる。

いくら武田軍が強いと言っても、死を恐れない死兵は厄介だ。


「撤退だ」


信玄しんげんの判断は早かった。

そこに織田方から援護する砲撃が始まる。

織田方を飛び越して、直接に武田方を襲ってくる。

実に厭らしい。

素早い徹底を決めたにも関わらず、混乱した多くの武田の兵が討ち取られる。

狂気に満ちた敵は獣のようだ。

首など取らない。

ただ、武田の兵を狩る事しか考えていない。


「兄上、お逃げ下され」

「ここは我らにお任せ下され」

「死ぬな」

「まだ、死ぬつもりはございません」


多くの武将が信玄しんげん義信よしのぶを逃がす為に盾となった。

信玄しんげんはが大宮、上出を抜けて中道往還の路を駆けた。

右左口峠を越え、右左口峠砦に入った頃には、武田家の兵は3,000人まで減っていた。

むしろ、よく残っていた方であった。

だが、右左口峠砦にいたはずの兵がいない。

死体が10体ほど残っているだけであった。

信玄しんげんは首を捻った。

もう一度、状況を確認する。

逃げの弾正こと、殿しんがりに付いた春日-虎綱かすが-とらつなも戻ってきた。


典厩てんきゅう(武田信繁)殿討ち死に、諸角もろずみ豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死…………」


そこに穴山親子の名は無かった。

生き残った者の話では兵を置き去りにして、信君のぶただと側近を連れて逃げて行ったという証言があった。

こちらに居ない事を見ると、大宮から富士川沿いの河内路を上がって逃げて行ったのであろう。

よく考えれば、信友のぶとも義元よしもとの死に付き合っており、義元よしもとの二の舞はごめんと逃げたに違いない。


“あの臆病者め”


信玄しんげんは心の中で罵るが、もう会う事はないと思えた。

しばらくすると、甲斐方面から青い顔をした兵がやって来た。

陣馬奉行の原-昌胤はら-まさたねが膝を付いて謝った。


「御屋形様、申し訳ございません」

「どうした? 何があった?」

「甲斐を織田に奪われました」

「何だと?」


その為に狼煙を用意していたハズだ。

何故、上がらない。

見張りの富田とみた-郷左衛門ごうざえもんは何をやっておる?

どういう事だ?

昨日の早朝に躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたが奇襲されて陥落し、奥方以下、若君も人質に取られた。

この辺りの三枝土佐守屋敷や下曽根氏屋敷や多くの砦が落ちた。

さらに兵が集まっていた屋敷が襲われて炎上して燃えた。

この砦から援軍の兵が出されたが、悉く討ち取られたらしい。

死体が少ない訳が理解できた。

だが、右左口峠砦を織田方が放棄した理由が判らない。

信玄しんげんを守る忍びの一人に調査を命じる。


いずれにしろ、駿河でのんびりと戦などしている場合ではなかった事だけは理解できた。

完敗であった。

後ろから織田軍が迫っており、躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたを取り戻す余裕ない。


「最早これまで切腹致す。首を持って織田に降れ。命くらいは助けて貰えるだろう」

「お待ち下さい。父上」

「一緒に死ぬ事はならんぞ。お前は残った者を助けよ」

「まだです。まだ終わっておりません」


敗戦の責任を感じた信玄しんげんがそっと脇差しに手を当てると、義信よしのぶがそれを押さえる。


「まだ、あったか」

「負けた訳ではございません」

「誰が見ても負けは明らかだ。軍略も軍才も見事に負けた。すべては儂が愚かだったのだ」

「武田家が負けたとしても、織田家が天下を取った事にはなりません。越後には上杉が残っております。奥州には伊達もおります」

「生き恥を晒せと申すか?」

「このままでは死んでいった馬場-信春ばば-のぶはる飯富-虎昌おぶ-とらまさに申し訳が立ちません。もう一戦して華々しく散りましょう」

「だが、今から諏訪を目指しても、おそらくは間に合うまい」

「おそらくはそうでしょう。ならば、北に抜けて上野を目指し、直接に上杉-政虎うえすぎ-まさとら殿に合流致しましょう。織田家ならば人質を無闇に殺す事もありますまい」


その思いっきりの良さに驚いた。

同時に息子義信よしのぶが若いとも思った。

そして、信玄しんげんは老いた身を義信よしのぶに預ける事にした。


「この老体で良ければ、好きに使え」

「皆も付き合ってくれるか」

「当然でございます。このままで引き下がれません」

「ならば、急ぐぞ。甲斐を完全に掌握される前に突き抜ける」


甲斐から上野に向かうならば、雁坂峠かりさかとうげ越えの彩甲斐さいかい街道しかない。

道は狭く、山越えの勾配のキツい街道であった。

しかも敵に追い付かれる前に越えないと全滅しかない。

原-昌胤はら-まさたねが何とか食糧だけでも用意すると先行した。

残兵は100人ほどの小集団に分かれて甲斐東部を通過する。

東の青梅街道を進めば北条領だ。

信照のぶてる信玄しんげんが諏訪方面に逃げると読んでいたので、甲斐の西を固めていたのが仇となった。

砦や城に織田家の旗を立てて義兵で数の水増しをしているが、総数はわずか1,500人足らずなのだ。


そのまさかだ!?

行商ですら避けて通らない街道で、北の奥秩父山地おくちちぶさんち(2,000m級の山々が連なる)越えの難行に挑むなどとは思っていなかった。

信玄しんげんが命を惜しむなど思っていなかった。

報せを聞いた信照のぶてるは追っ手を差し向けたが、すでに信玄しんげん達は峠を越えていた。


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