閑話.信玄の逃走。
(永禄3年 (1560年)7月24日~26日)
富士宮台地に布陣した武田軍に
そして、最後の軍議が開かれた。
ここではじめて
敵を欺く為に自らの身を削り、駿河駐留軍と戦って兵を多く死に追いやり、甲斐河内では武田軍も反撃で身内を失っても味方を欺いた。
だが、そこまでしても
そう確信していると言うと同時に、
「あの者の軍略(戦略)は天より授かったモノとしか思えぬ。あの
「誘われてノコノコと出てきた所を討つのですな」
「
「御屋形様、何故でございますか?」
腕自慢の武将達が次々と声を荒げる。
奥近習の
「自ら死地に入るつもりか。関ヶ原を見よ。進む先に爆薬を仕掛けておった。同じモノがないと言えるのか。儂ならば用意するぞ」
「死を恐れて武田の武将を名乗れません」
「生きて帰れんぞ」
「承知の上です」
「ならば、策を1つやろう。東遠江と駿河の兵を追い込みなから、突撃の部隊を三つに分けよ。先陣が道を開き、後続が道を伸ばし、最後に本陣まで駆ける。だが、忘れるな。道を進む時に三方から鉄砲が襲ってくる。無事に辿り着けんぞ。それでも挑むのか?」
「当然でございます」
「武田武士の意地を見せましょう」
「誰から行く」
「早い者からでよいかではないか」
「見事に散ってやろうぞ」
「武田武士の恐ろしさを見せてくれる」
「首を斬り落としてくれる」
武田の諸将は火の玉となって織田本陣に斬り掛かる覚悟が見せた。
そこで伊那郡を任されて何もせずに逃げ帰って来た
「幕府20万人を軽くいなした
「
「20万をいなしたのだ。1万5,000の武田軍などは恐れてもおらんだろうな」
「我らを愚弄するか?」
「
伊那郡の目付役だった
使われた新兵器の威力は鉄砲の比ではない。
「その為に東遠江と駿河の兵を肉の壁として使うのであろう」
「その肉の壁ごと吹き飛ばしてきたら、どういたします?」
「当たらねば、どうという事はない」
「本陣に突撃すれば、おのずと密集します。敵の餌食となります。御屋形様の策だけでは突破できません」
「まさか?」
「御屋形様はそれも承知でございます」
だが、まだ武田の諸将は納得しない。
「
「ですが…………」
「そうだ、御屋形様の言う通りだ。控えよ」
「だが、
織田家は大軍を動かし、それでいて年に何度でも大戦ができる。
対する武田家は兵糧が枯渇して満足に戦う事ができない。
織田家と正面から戦うと武田家のみが疲弊する。
仮に運よく
そして、木曽が裏切った。
美濃方面から別動隊が動いたとも木曽に送っていた間者から報告が上がった。
伊那の織田方は動いていないが、いつ動いても不思議ではない。
武田は三方から囲まれつつある。
北条が睨みを利かせているので、駿河で勝っても武田軍の本隊を向こうに回す事もできない。
「真に武田家が生き残るには和議しかあるまい」
「御屋形様!?」
「悔しいのは判る。だが、それほど力の差があるのだ」
「御屋形様の言われる通りだ。武田の強さを見せて和議を結べば、武田家は生き残れる」
「明日、勝つ事が重要だと申すのだな」
「
まず、和議を結ぶ以外に勝ち目がないと判らせた。
そうしないと、すべてが終わった後に国力を失った武田家は北条や上野の諸国の食い物にされる。
祖父の
「本陣に突入するのは
「お任せあれ」
「東遠江・駿河衆を
「御屋形様、味方ごと武田の兵を吹き飛ばしたならば、如何なさいますか?
「特に問題はない。
「安心しろ。簡単に死にはせぬ。必ずや我らが槍を突き付けて和議を取ってくる」
「頼むぞ」
「お任せを。武田武士の意地を見せてくれます」
「皆の者よいか、意地を見せた上で
皆の意見を聞き入れつつも、自らが望んだ結果に近づけて納得させた。
そして、軍略(戦略)で劣っても、経験豊富で老齢な軍才(戦術)でそれを覆せると、
翌日、戦が始まった。
こちらも予想通りに疑っている
読まれていた事が丸判りだ。
だが、一度逃げ始めると統率が付いていかない。
「やはり若い、兵は将棋の駒とは違うぞ。進める兵を自在に動かせても、引く兵を自在に動かす事などできん」
引く兵を統率できる武将など多くない。
東遠江・駿河の兵が統率を失って、
勝った。
一見、全軍で追い立てているように見えて、武田軍は追う勢いを弱めた。
その間を抜けるように
部隊は小さな部隊に分け、縦に細長い編成をしていた。
速度を落とす部隊と速める部隊が縦の縞模様のように浮き上がった。
武田軍は織田方に気付かれないように、密集しないように、敵を追い詰めて行った。
どうする、肉の盾ごと吹き飛ばすか?
諦めて突撃を受け入れるか?
いずれにしろ、武田軍の被害は限定的に済む。
味方ごと吹き飛ばすか、武田の突撃を正面から受けるか?
どちらを選ぶ?
ずごごごごごん!
巨大な火の柱が立ち上がり、ずだだだだん、ずだだだだん、ずだだだだん、ずだだだだん…………あり得ないほどの鉄砲の連射音が聞こえる。
見た事もない恐怖が通り過ぎた。
なぁ、何をした?
逃げる織田方の前で巨大な爆発が起こった。
鉄砲の音が絶え間なく続く、今まで経験した事のない背筋が寒くなるほどの悪寒を覚えた。
「父上、どうかされましたか?」
「
「恐ろしい音です。やはり織田家は恐ろしいと思いました」
「違う。違うぞ。
彼らは
そんな民の前に恐ろしい火の柱が立ち上がればどうなるか?
恐怖に顔が引き攣っているに違いない。
儂の負けだ。
人心まで自在に掌握するほどの男であったか。
完全に
まっすぐに逃げてくる兵をちょっと脅した。
これで命じた通りに左右に分かれると思っていた。
だがしかし、民には違うモノが見えた。
荒神様がお怒りだ。
あの
味方に向けて、「次はお前たちも
爆発の煙を見た東遠江と駿河の兵が恐怖に怯えて反転した。
ただ殺されたくない。
否、死んでも地獄に送られて永遠の
対していた武田の兵も
腰が引けた所に巨大なウェーブとなって東遠江と駿河の兵が反転してくる。
いくら武田軍が強いと言っても、死を恐れない死兵は厄介だ。
「撤退だ」
そこに織田方から援護する砲撃が始まる。
織田方を飛び越して、直接に武田方を襲ってくる。
実に厭らしい。
素早い徹底を決めたにも関わらず、混乱した多くの武田の兵が討ち取られる。
狂気に満ちた敵は獣のようだ。
首など取らない。
ただ、武田の兵を狩る事しか考えていない。
「兄上、お逃げ下され」
「ここは我らにお任せ下され」
「死ぬな」
「まだ、死ぬつもりはございません」
多くの武将が
右左口峠を越え、右左口峠砦に入った頃には、武田家の兵は3,000人まで減っていた。
むしろ、よく残っていた方であった。
だが、右左口峠砦にいたはずの兵がいない。
死体が10体ほど残っているだけであった。
もう一度、状況を確認する。
逃げの弾正こと、
「
そこに穴山親子の名は無かった。
生き残った者の話では兵を置き去りにして、
こちらに居ない事を見ると、大宮から富士川沿いの河内路を上がって逃げて行ったのであろう。
よく考えれば、
“あの臆病者め”
しばらくすると、甲斐方面から青い顔をした兵がやって来た。
陣馬奉行の
「御屋形様、申し訳ございません」
「どうした? 何があった?」
「甲斐を織田に奪われました」
「何だと?」
その為に狼煙を用意していたハズだ。
何故、上がらない。
見張りの
どういう事だ?
昨日の早朝に
この辺りの三枝土佐守屋敷や下曽根氏屋敷や多くの砦が落ちた。
さらに兵が集まっていた屋敷が襲われて炎上して燃えた。
この砦から援軍の兵が出されたが、悉く討ち取られたらしい。
死体が少ない訳が理解できた。
だが、右左口峠砦を織田方が放棄した理由が判らない。
いずれにしろ、駿河でのんびりと戦などしている場合ではなかった事だけは理解できた。
完敗であった。
後ろから織田軍が迫っており、
「最早これまで切腹致す。首を持って織田に降れ。命くらいは助けて貰えるだろう」
「お待ち下さい。父上」
「一緒に死ぬ事はならんぞ。お前は残った者を助けよ」
「まだです。まだ終わっておりません」
敗戦の責任を感じた
「まだ、あったか」
「負けた訳ではございません」
「誰が見ても負けは明らかだ。軍略も軍才も見事に負けた。すべては儂が愚かだったのだ」
「武田家が負けたとしても、織田家が天下を取った事にはなりません。越後には上杉が残っております。奥州には伊達もおります」
「生き恥を晒せと申すか?」
「このままでは死んでいった
「だが、今から諏訪を目指しても、おそらくは間に合うまい」
「おそらくはそうでしょう。ならば、北に抜けて上野を目指し、直接に
その思いっきりの良さに驚いた。
同時に息子
そして、
「この老体で良ければ、好きに使え」
「皆も付き合ってくれるか」
「当然でございます。このままで引き下がれません」
「ならば、急ぐぞ。甲斐を完全に掌握される前に突き抜ける」
甲斐から上野に向かうならば、
道は狭く、山越えの勾配のキツい街道であった。
しかも敵に追い付かれる前に越えないと全滅しかない。
残兵は100人ほどの小集団に分かれて甲斐東部を通過する。
東の青梅街道を進めば北条領だ。
砦や城に織田家の旗を立てて義兵で数の水増しをしているが、総数はわずか1,500人足らずなのだ。
そのまさかだ!?
行商ですら避けて通らない街道で、北の
報せを聞いた
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