第41話 駿河侵攻(4)

(永禄3年 (1560年)7月20日~24日)

かっ、かっ、かっ、馬が一歩進む毎に皆の心が躍った。

見慣れた山々の懐かしい光景に一同が感涙を流し、苦悩の7年を思い出しながら旧今川家臣の行列が駿河に入った。

見る影もなく…………というほど変わった訳ではなかったが、あの美しかった町並みが消えていた。

一度焼け落ちたのか、新しく建てられた板屋の家も多い。

美しかった庭付きの屋敷が立ち並ぶ通りが、安普請の板葺屋根の長屋と化していた。

煌びやかさが消えて、鄙びた町になっていた。

その凋落ぶりに悔しさが籠る。

やっと懐かしい今川館が見えてきた。

この辺りは燃えなかったのか、昔の屋敷が残っていた。

だっと馬を飛び降りて、今川-氏真いまがわ-うじざねは走って今川館に入ると、祖母の寿桂尼じゅけいにに抱きつく…………ような、ドラマ的な感動の再会は起こらなかった。

氏真うじざねは織田家の将の一人として堂々としていた。

浜松で対面した時の氏真うじざねはどこに行ったのか?

青い顔をし、おどおどとする公家の青年のようなおもむきが残されていなかったそうだ。

あれから半年も経っていないのに、随分と落ち着いた武将に変わった。

今川館に入ると寿桂尼じゅけいにとの再会を後に回し、各武将への連絡と寝返った領主達の状況を確認し、次々とくる面接を優先した。

さらに先行した軍の様子も確認して、後続の俺に連絡を入れて上で受け入れ体制の準備も熟した。

う~~~ん、随分と武将らしくなった?


「照子殿が懐妊したと聞いております」

「照子?」

氏真うじざねの妻、中御門-宣綱なかみかど-のぶつなの娘でございます」

「いたな」


氏真うじざねに変貌に首を捻っていると直虎なおとらが突然に口を開いた。

だが、照子という名がすぐに思い出せない。

すると、千代女がそっと教えてくれた。

おぉ、確かに氏真うじざねの横にいた事を思い出した。

どうやら直虎なおとらと仲が良いらしく、照子の事を聞きもしないのに教えてくれる。


「はい、照子殿とは仲良くさてもらっております。とても気さくな方で公家様に見えません。様子を伺いに行きますと村娘かと思うほど人当たりが良い姫でした。ですが、氷高皇女ひだかのひめみこ様にごあいさつに来られた時は、艶やかな姿と振る舞い、その動きの美しさに唖然とし、瓜二つの双子ではないかと思ったほどです。氏真うじざね様の奥方でなければ、信広様の側室に迎えたいほどです」

「これ、余計な事は申すな」

「すみません」



照子は軽快でそそっかしく、直虎なおとらと一緒に山に狩りに行くほど勇敢な女性らしい。

直虎なおとらは仲間ができたと喜んでいたが、氷高ひだかの歌会などでは公家らしく美しい振る舞いで早川はやかわらと戯れる。

田舎者で行儀の悪い直虎なおとらだけが仲間外れにされた。

少なくとも本人がそう思っている。

早川はやかわら、俺の妻や侍女達はお市の侍女に中根南城で鍛えられたからね。

礼儀作法もばっちりだ。

武芸もできる。

腕に自信があったハズの直虎なおとらがまったく敵わない。

俺の侍女達は人間を辞めているし、早川はやかわは元々強く、豊良とよらも腕を上げた。

10歳の真理姫まりひめと互角なのだが、直虎なおとらは納得できない。

それに比べると照子は普通だった。

照子を仲間と思った直虎なおとらだったが、中御門なかみかど家の息女が礼儀作法を知らないハズもない。

裏切られたなどと愚痴をつらつらとしゃべっているがどうでもいい。


「折角、妻仲間ができたと思っていたのです。可怪しいと思いませんか、狡いと思いませんか?」

「可怪しいのはお前の頭だ。軍議の場だ。しばらく、黙っておれ」

「とほほほ、判りました」


直虎なおとらがいると軍議が和む。

程よく笑いを誘ってくれる。

青い顔をしているのは直親なおちかだけだ。

氏真うじざねは二俣城に入って落ち着いたのか、あるいは、共に旅をして妻との愛情が深まったのか?

照子が懐妊し、来年には父親になるらしい。

子を思う心が氏真うじざねを変えたのだろうか?

ともかく、乱暴や狼藉を働いた兵を捕えて公開で斬首に処すと、「皇軍に不埒者はいらん」と兵を引き締めてくれたらしい。

織田本隊は藤枝で一泊すると、20日に駿河に入った。


信照のぶてる様、お待ちしておりました」


氏真うじざねらが俺を出迎えてくれる。

すでに先発隊は富士川を渡ると河東かとうに入って、善得寺城ぜんとくじじょう付近で武田-義信たけだ-よしのぶと一戦した。

穴山-信友あなやま-のぶともらの旧武田兵が激しく襲い掛かったが、馬場-信房ばば-のぶふさの援軍が到着した事で一時撤退したらしい。

さらに、甲斐で反旗を翻した小山田おやまだ-信茂のぶしげらが討伐されて、穴山-信君あなやま-のぶただも敗れて河東かとうに逃げてきた。

信玄しんげん率いる武田軍1万が穴山あなやま氏の城を落としながら富士川ふじがわに沿って下って来ている。

報告に来た使者を下げると、氏真うじざねが無言で一歩前に出た。


「余りゆっくりしてられないようだな」

朝比奈-泰朝あさひな-やすとも率いる東遠江衆と穴山-信友あなやま-のぶともが率いる藤枝衆を合わせると1万5千人に上りますが、武勇に優れている者の数は限られております」

「すぐに動けるか?」


氏真うじざねがちらりと松井-宗信まつい-むねのぶを見ると、宗信むねのぶが頷く。


「問題ございません」

「では、明日一番に出陣せよ。俺も後に続く」

「畏まりました」


まず、氏真うじざねに率いられた国境警備(旧今川)衆2,000人が出陣する。

それに続き、西遠江衆2,000人、東三河衆2,000人、浜松衆1,000人、鉄砲衆4,000人、花火(迫撃砲)衆1,000人、黒鍬・鍬衆4,000人の総勢1万6千人が駿河から出発した。

そこから寝返った駿河の国人衆2,000人が合流し、富士川ふじかわを渡河して東遠江衆と藤枝衆の1万5千5百人と合流する事になる。


東遠江衆と藤枝衆をもう詳しく分類すると、穴山-信友あなやま-のぶとも信君のぶただ親子が率いる穴山衆2,500人、元々2,000人だったが、信君のぶただの敗残兵500人が加わった。

山本-勘助やまもと-かんすけが率いる勘助かんすけ隊(旧武田兵)も2,000人だ。

城代の勘助かんすけには目付け役として6人の家老が付いてきており、それぞれが300人の家臣団を引き連れて、勘助かんすけの手勢は200人だ。

勘助かんすけが武田軍で足軽大将並であった事が、この手勢の数から判った。

その他に藤枝衆5,000人、東遠江衆6,000人だ。

その構成は朝比奈-泰朝あさひな-やすともをはじめてとする旧今川家臣団が3,000人と農兵8,000人で構成される。

藤枝衆・東遠江衆は不満から立ち上がった一向一揆のような兵が中心だと思えばいい。

7年前の大戦で大量の武具を手に入れていた。

武器は鍬や棒きれではなく、高さの揃った槍を持ち、皆が鎧を身に付けている。

中には兜を被った者もいる。

農民と思えない立派な出で立ちに武将と兵を間違いそうになるらしい。


対する武田軍は、甲斐から信玄しんげんが1万人の武田軍を自ら率いて出陣して来た。

武田-義信たけだ-よしのぶに率いられた元駿河駐留隊は3,500人で、河東かとう飯富-昌景おぶ-まさかげ山県-昌景やまがた-まさかげ)の河東駐留隊1,000人、援軍に駆け付けてきた馬場-信房ばば-のぶふさらの駿東すんとう駐留隊3,000人が加わった。

河東かとう駿東すんとうの国人衆は城を護っているようだ。


23日、信玄しんげんが富士宮台地に布陣すると、義信よしのぶらも合流する。

こちらは東遠江衆と藤枝衆と分断を避ける為に富士川ふじがわに浮き橋を掛けて渡河した。

渡河を優先したので平地に陣を置くことになった。

東西を潤井川うるいがわ富士川ふじがわに挟まれ、背後は海だ。

背水の陣のような場所に陣取らされた。

兵数と火力で圧倒していなければ、反対した武将も多いだろう。


本来ならば、兵を3つに割って、俺が富士川ふじがわを挟んで西の蒲原城に入り、氏真うじざねをこの場所に配置し、朝比奈-泰朝あさひな-やすともらに命じて、義信よしのぶを追って富士宮台地の東側に布陣するように命じる所だ。

だが、今回は何も指示を出していない。

勘助かんすけの進言に従って、合流の為に戻ってくる東遠江衆と藤枝衆を咎めるつもりもない。


東遠江衆と藤枝衆が潤井川うるいがわを渡り直して戻ってきた。

重々しい空気に包まれながら、穴山-信友あなやま-のぶとも信君のぶただ勘助かんすけらが寝返った経緯を説明し、受け入れて貰った事に感謝を述べ、今後の対策を練る事になった。


「ここで兵を二分すれば、信玄しんげんは間違いなく兵を引いて、より狭い峡谷に陣を構えます。それでは大軍の利が生かせません」


武田軍1万7,000人に対して織田軍3万3,500人だ。

数・火力において、織田軍が圧倒している。

富士宮台地に布陣した武田軍に地の利があるが、数に勝る織田方が弱気になる必要はないという勘助かんすけの意見に皆が同意する。

兵がほぼ倍もいるのだから軍を二つに割って東と南から攻める策もあるのだが、勘助かんすけが必死に食い下がった。


俺的には大軍の利などどうでもいい。

狭い場所に集めれば、迫撃砲の効果が増す。

城に籠城してくれれば、それこそ幸いだ。


広い台地に兵を散らして配置している鶴翼陣は、間違いなく迫撃砲対策の1つだ。

密集してくれれば、被害が大きくなる。

逆に広く浅く配置されると、被害は限定的になって効果が薄まる。

伊那の花火大会、長島の殲滅戦、関ヶ原の戦いや稲葉山の包囲戦でも見せているので、情報を集める『足長坊主』の異名を持つ信玄しんげんに伝わっていて当然だと思った。

対策を練ってきた。


「敵は広く散開し、兵は各所に分散しております。1つ1つが脆いのです。こちらは魚鱗ぎょりんの密集陣形で一点突破を掛ければ、容易く打ち破る事ができるでしょう」

「そう巧くゆくか?」

「先陣はこの勘助かんすけの隊が行います。皆様は付いて下さればよろしい」

「抜かせ。一人で手柄を取らせるつもりはない」

「右翼は某が引き受けましょう」

「ならば、左翼は我が引き受ける」


勘助かんすけが武田の陣の弱点を熱弁して決戦を唆した。

東遠江・藤枝・駿河の武将らもやる気になっている。

ここで手柄を取って、俺に褒めて貰う思惑が見え見えだ。

だが、俺は敢えて水を差すつもりはない。

明日、陣を前に進めて、富士宮台地の手前に移し、明後日が決戦と決まった。

そこから前祝いの宴が軽く行われる。

酔いが回って足に支障がでるような量を出さないが、軽く景気付けに酒を少し振る舞う。

翌朝、仮設テントを出ると、霧の中を水鳥が羽ばたいて飛び立った。

源平合戦『富士川ふじかわの戦い』は有名だ。

鎌倉で源-頼朝みなもとのよりともが挙兵し、その討伐軍を指揮したのが平-維盛たいらのこれもりだ。

この戦いは『平家物語』では7万人の大軍であったと書かれているが、実際は4,000人程度であったと言われる。

富士沼の数万羽の水鳥がいっせいに飛び立った羽音に驚いて、平家軍は逃げ出したと書かれている。

富士沼の数万羽の水鳥とは、甲斐から出陣した武田-信義たけだ-のぶよしの軍の事だ。

戦わずの逃げた平家はここから勢いを無くし、翌年には平-清盛たいら-きよもりが没して、平家は滅亡へと進んだ。

なんと、今の俺は平家の将軍だ。

380年前のいくさを懐かしみ、織田家打倒のきっかけにと思ったのだろうか?

もし、そうだとすると、俺は信玄しんげんを現実主義者と思っていたが、思っている以上にロマンチスト(空想主義者)なのかもしれない。


「若様、どうかされましたか?」

「特にどうという事はない」

「そうでございますか」

信玄しんげん義信よしのぶを捨てるのが惜しいと考えただけだ」


昔のように武田家を恐れる必要もなくなった。

義信よしのぶが武田家の諸将を抑えるという課題をクリアーしたならば、和議を結ぶ道もあったのだ。


「あの馬鹿(義昭よしあき)の所為だ」

「そうでございますね」

「織田家に歯向かった限り、信玄しんげん義信よしのぶの首は必要だ」

義信よしのぶ信玄しんげんの首を持って投降すれば、救いようもあると思いますが…………」

「そんな冷徹な事ができるならば、切り捨てる。できない男だから気に入ったのだ」

「他に策もございますが、もう決めておられますようですね」


親の首を切ってくるような奴はいらん。

また、黒鍬衆の命を危険に晒すくらいならば、義信よしのぶは要らない。

俺の考えを理解しようとする黒鍬衆の方が大切だ。

鍬衆隊長の可児-才蔵かに-さいぞうくらいなら交換してもいいが、そこまで甘い策に乗る武田軍とは思えない。

おそらく、自分の首を差し出して、家臣の命を助けるように言ってくる。

俺はそれを受け入れる。

甘い処置で済ませれば、謀反の連鎖が止まらない。

締めるところは締める。

さっさと戦国の世を終わらせてしまおう。

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