第39話 駿河侵攻(2)

(永禄3年 (1560年)7月10日~15日)

駿河館(旧今川館)には駿河・東遠江から集められた人質が暮らしていた。

武田家の新当主である武田-義信たけだ-よしのぶは駿河館の北の賤機山城しずはたやまじょうを居城に定めると、西の安倍城あべじょう飯富-虎昌おぶ-とらまさ丸子城まりこじょう長坂-昌国ながさか-まさくに持舟城もちふねじょう曽根-虎盛そね-とらもりを配置して西に備え、駿河の町は奉行の浅利 -信種あさり-のぶたねを置き、警備を足軽大将の三枝-昌貞さいぐさ -まささだに任せていた。

藤枝を任されていた穴山-信友あなやま-のぶともが謀反を起こしたと伝わると、駿河の町は騒然となっていた。

義信よしのぶは駿河館(旧今川館)にいる寿桂尼じゅけいにの元を訪ねた。


「御婆様、御不便はございませんか」

義信よしのぶ様のお蔭で困った事はございません」

「織田家との和議も巧く進まず、また、お心を煩わせた事を深く謝罪致します」

「残念だったわね」

「不徳の致すところです」


寿桂尼じゅけいには妻の祖母であり、義信よしのぶにとって義理の母に当たる。

また、実母の三条夫人を紹介したのも寿桂尼じゅけいにだ。

子供頃から実の祖母のように手紙のやり取りを交わしていた。

まぁ、主に同い年の今川-氏真いまがわ-うじざねと仲良くして欲しいという内容だった。

お互いに思っていたように事は進まない。

頭脳明敏ずのうめいびん義信よしのぶは駿河侵攻にも反対の立場であったが、駿河の統治を任されてからは人柄の良さも相まって、集められた人質の奥方や子供にも気を使った。

あと10年もあれば、義信よしのぶを慕う子供らが家督を継いで義信よしのぶの忠実な家臣になったかもしれない。

だが、時代は待ってくれない。

織田家に唆かされて東遠江と駿河藤枝の領主達が謀反を起こした。

穴山-信友あなやま-のぶともが同調したのが意外であったが、その為に妻子と子供を人質として駿河に集めていたのだ。

裏切った者の妻子や子供、その側近達の末路は悲惨だ。

一族ごと殺されても文句は言えない。

だが、義信よしのぶは敢えて寿桂尼じゅけいにに人質を使うつもりのない旨を伝える。


「よろしいのですか?」

「今更、武田家の威信を気に掛ける必要もないでしょう。無駄に怒りを買うだけです」

「ありがとうございます」

「ただ、見張りの兵を引き上げさせますので、御身はご自分でお守り下さい」

「引き上げられるのですか?」

「まだ、はっきりと言えませんが、おそらくそうなるでしょう」


織田家と武田家の力の差は歴然であった。

義信よしのぶが武田家の当主になってから何度となく秘密裡に和議の交渉を試みた。

伊那で対立を深める中で二俣城主に入った今川-氏真いまがわ-うじざねを駿河守護に迎える用意があるとも打診した。

だが、密談は進まない。

信照のぶてる信玄しんげんを始め、歴代の諸将の血判を欲したからだ。

東遠江、西駿河の事情を知る飯富-虎昌おぶ-とらまさですら、そんな事をすれば血の気の多い諸将に義信よしのぶが排除され、武田家は保たないと渋い顔をされた。

義信よしのぶはかなり危険な橋を渡っていた。

せめて東遠江・駿河を引き渡す代わりに信照のぶてる義信よしのぶの後ろ盾になって貰わないと義信よしのぶの命も危ない。

飯富-虎昌おぶ-とらまさが交換条件を出すので交渉が混迷する。

その直後に伊那で紛争が起こって、話し合いは中断した。


織田家は幕府と対立し、義信よしのぶは公方義昭よしあきから背後を襲うように命令が来たが、この幕府の命令を無視する。

そもそも東遠江、西駿河の民は異常なほどに信照のぶてるを恐れており、荒神あらがみか、禍神まがつがみのように崇め恐れている。

武田家の重税の苦しみから助けを求めて、楽園と評される織田家に降らないのは信照のぶてるを恐れている為だ。

そんな民に「攻めろ」などと言える訳がない。

義信よしのぶは東遠江・駿河を治めて嫌というほど痛感させられた。

本国の甲斐や信濃の武将らはそれが判らず、背中から槍を突き出せば、従わせる事ができると信じていた。

浜松城の大砲の音を聞いただけで追い詰められた兵は正気を失って、逆に武田軍に襲い掛かって来る。

無理なモノは無理だ。

寿桂尼じゅけいにとの最後のあいさつを終えると、賤機山城しずはたやまじょうに戻ってきた。


虎昌とらまさ、反乱軍を食い止められると思うか?」

「西の宇津ノ谷峠うつのやとうげは難所ですから簡単に抜けられるとは思いませんが…………」

「問題は東だな」

河東かとうを任されている昌景まさかげがしっかり仕事を果たせていれば、問題ございません」


虎昌とらまさの弟である飯富-昌景おぶ-まさかげ山県-昌景やまがた-まさかげ)が河東かとうを任されていた。

さらに東の北条と接している所に馬場-信房ばば-のぶふさが配置されており、こちらは兵も多く、特に問題ないように思えた。

河東かとうは広い割に武田家の兵が少なかった。

すでに関ヶ原における織田と幕府との戦は終わった。

織田家はその後始末に忙しいが、いずれは大軍が押し寄せてくる。

対する武田家に打開策はない。


上杉-政虎うえすぎ-まさとら殿が北条を打ち破れば、光明も見えてきます」


関東に戻った長尾-景虎ながお-かげとらは公方様の命で上杉-憲政うえすぎ-のりまさの養子となり、関東管領職を引き継いだ。

北条家を討伐する総司令となって関東に出陣していた。

戦局は圧倒的に幕府軍が有利に戦いを進めているが、戦場では利根川を挟んで一進一退が続いていた。

利根川の河川工事は終わっておらず、幕府軍は未着工の場所から渡河した。

激しい鉄砲の砲火と火薬玉の投下を耐えて幕府軍が渡河に成功すると北条軍が散開して城に籠もる。

利根川を越えた上杉-政虎うえすぎ-まさとら縦横無尽じゅうおうむじんに駆け回り、100戦すれば100勝する国士無双こくしむそうの強さを見せた。

だが、幕府軍は上杉-政虎うえすぎ-まさとら一人で構成されている訳ではない。

上杉-政虎うえすぎ-まさとらが姿を見せると北条軍は撤退し、通り過ぎると戻って来て取り戻す。


また、北条家は城に籠もると、幕府軍の背後から強襲しては散開を繰り返した。

南下するとゲリラ戦を仕掛ける。

さらに幕府軍が北条領内に深く進攻すると、北条軍が逆に利根川を渡って越後への退路を断つ。

その傍らで北条の別動隊が下野、下総、常陸に侵入して城を奪った。

北条の城を幕府軍がほとんど落とせないのに対して、火力で勝る北条軍はどんな城でも1日で奪ってしまうのだ。

城を奪われた幕府方が援軍を求める。

上杉-政虎うえすぎ-まさとらが急いで戻ってくると、北条軍は城を放棄してどこかにいなくなる。

互いに神出鬼没しんしゅつきぼつの戦を続けていた。

違う所は幕府軍が北条領内で町や村を焼いて略奪を繰り返すが、北条軍は町や村を襲わない。

これではどちらが幕府軍か疑われてしまう。

ただ、北条領内の民は城に避難するので犠牲者が少ないとも聞こえてくる。

幕府軍は利根川を渡っては戻るという事を繰り返し、連戦戦勝の上杉-政虎うえすぎ-まさとらは忙しい日々を送らされている。


政虎まさとらで勝てるのか? 俺にはお釈迦様の手の平で暴れている孫悟空そんごくうのようにしか見えん」

「それをおっしゃいますな。北条とて2年分の兵糧を城に貯めておける訳ではございません」

「こちらは半年も持たんわ」

「上杉から用立てて貰えば、何とかなります」

「そうだな。だが、斎藤家も長島一向宗も落ちた。半年もあれば、織田軍が大挙してこちらにやってくるぞ」

「…………」


事実をずばり言われて、飯富-虎昌おぶ-とらまさも言葉を失ってしまった。

頭の切れる義信よしのぶには武田家の敗北しか見えない。


「父上は何を考えておられるのだ?」

「判りかねます」

「俺もだ」


はっきり判る事は織田家が武田家を潰す気で動いているという事実だけだった。

急ぎの使者が甲斐からやってきた。


「甲斐河内、穴山-信君あなやま-のぶただ、謀反でございます」

「まさか、信君のぶただに限ってありえん」

「事実でございます。甲斐は大騒動となっております」


穴山-信君あなやま-のぶただは祖父である信虎のぶとらの娘を母とし、元服して、妹(信玄しんげんの次女)を妻として貰っている義兄弟だ。

幼少の頃は躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたで人質として義信よしのぶと共に過ごしてきた。

一門衆として遇しており、信君のぶただ自身も武田一門衆として自負もあった。

とても裏切るとは思えない。

父の謀反で苦しい立場になったが、甲斐で謀反を起こせば、すぐに討伐される危険性がある。

否、父(信玄しんげん)に疑われて始末される前に動いたのか?

義信よしのぶは困惑しながら私考する。


義信よしのぶ様、それよりも如何致しますか?」

「そうであった。退路を断たれては拙い。駿河を放棄して河東かとうまで下がる」

「それがよろしい。直ちに準備に掛かります」


甲斐河内から富士川に沿って奥河東かとうまで穴山氏の新領地となっている。

このまま駿河に留まっていれば、挟撃される危険も出てきた。

退却だ。

富士川を越えて飯富-昌景おぶ-まさかげ山県-昌景やまがた-まさかげ)と合流すれば、富士山の東側を通って甲斐に戻る事ができる。

駿河駐留軍は撤退を決めた。

飯富-虎昌おぶ-とらまさは船を用意して、義信よしのぶを先に逃がす事にした。

撤退する兵は奥河東かとうの穴山氏の動向を気に掛けながら富士川を渡河せねばならない。


虎昌とらまさ、無理をするな。お前を失っては後が続かん」

「ご安心を。全員を無事に戻してみせます」

「先に行って、河東かとうで待っておるぞ」


義信よしのぶを乗せた船団が出航する。

すでに宇津ノ谷峠うつのやとうげを放棄したので、すぐに藤枝の旧今川軍が押し寄せてくる。

押し寄せる敵を防ぎながら味方を逃がすという退却戦がはじまる。

わずか2・3日で状況が二転三転する。

義信よしのぶもこれほど早く駿河を去る事になるとは思っていなかった。

遠くなる駿河湊を眺めながら、義信よしのぶには何が起こっているのか、まったく判らなかった。

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