第38話 駿河侵攻(1)

(永禄3年 (1560年)7月10日~15日)

躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた武田-信繁たけだ-のぶしげが戻って来ると、信玄しんげんの部屋に入った。


「どうであった?」

「伊那の織田軍は地頭駒沢こまざわ-新右衛門しんざえもん峰畑城みねばたじょうの手前で止まっております」

「諏訪湖の手前、伊那谷で止まった儘か」

「おそらく、諏訪氏の旧家臣を調略していると思われます」

「儂もよくやった手だが、仕掛けられるのは辛いな」

「織田家が強いのは疑いようもありません」

「謀略の徒、騙し討ちを得意とすると、ずっと噂を流しておいたので、皆、疑心暗鬼に駆られております」

「領地安堵も疑っているのだな」

「はい。後は四郎(勝頼かつより)の存在で保っている感じです」

「で、織田の背後はどうだ」

「吉良辺りが反発を強めていますが、家臣が止めて終わっております。一戦して勝利できれば、謀反を起こしてくれるかもしません」

「期待薄か」


室町から続く足利家の征夷大将軍の血筋を否定され、足利家に近い家柄ほど織田家に反発を覚えた。

だが、三河では織田支持派が圧倒的に多く、とても大規模な反乱に広まる気配はない。


「三河では織田家に対する不満はあれど、それを口に出すモノも少なく、織田家に反旗を翻す領主も名主も出てくる事は期待できません」

「であろうな。織田家は富の象徴だ。だが、富が偏っていれば、不満はあるハズなのだが…………」

「兄者の言う通りでした。虎視眈々と狙っている者は多く、仕掛ける事ができます。ですが、時間が足りません。皆、織田家に逆らうのではなく、他者を追い落として自らが利権のうま味に預かろうと画策しているだけで、謀反を起こすまでの気概はありません」


織田家の富の配分は決して均一ではない。

信玄しんげんはそこに目を付けて、信繁のぶしげに以前から調べさせていた。

より富んだ者を妬む者が多くいた。

噂を流して疑心暗鬼を誘い、頃合いを見て問題を起こせば、騒動にできると確信を持った。

だが、仕込みに時間が掛かる。

派手に動けば、織田家の目に止まる。

そもそも民は生活が楽になって織田家に感謝しており、織田に反発心を強めていない。

まだまだ、時機を見る必要があった。


「兄者がやりたかった事をすべてやられている感じですな」

「まったくだ。小憎こにくくってしょうがない」

「我が武田家は昨年の大洪水の被害が癒えておりません。織田家ならば、備蓄の倉を開くだけで解決するのでしょうが、武田家にそんな倉を建てる余裕もございません」

「それゆえに恥を忍んで幕府に守護職を奉還したのだ」


守護職を返した武田家はすぐに守護職を返されたが、武田領から幕府直轄領に変わった。

飢える民を救いながら、幕府の力を借りて治水を進める。

そこまでして織田家との対決を避けて、時間を稼ぎたかったのに思ったように進まない。


「斎藤家より譲渡された南蛮芋の栽培も軌道に乗り、何とか餓死者を増やさずに済んでおりますが、以前の儘でしたら間引きが必要でありました」

「周辺の状況を鑑みれば、以前のような間引きを実行できん」

「織田家は当然、他の国も北条家や長尾家の支援を受けて餓死する民がいなくなった」

「武田家だけが餓死者を出せば、見限られて終わってしまうわ」


信照のぶてるの陰湿さに呆れていた。

民そのものを武器として武田家を攻めてくるのだ。

織田家や北条家に支援を求めれば、東遠江と駿河の返還が条件となり、武田家はやはり見限られて終わる。

長尾家一国で武田家を支援する力はない。

結局、幕府に頼るしか道はなく、義輝の世ならば詰んでいた。


「今更、東遠江・駿河が惜しいなど思わぬが、動かぬ訳にいかぬ」

「今、動かねば、皆は兄者を見限ってしまいますからな」

「信濃、東遠江に援軍を送る指示はどうなった」

「すでに発して兵が集まって来ております」

「頃合いだな」

「はい、甲斐武田家は援軍を送ると皆に知れました。ここで謀反が起こり、本隊が動けなくなっても仕方ありません」


ふっと信玄しんげんが笑った。

信虎のぶとらを追放して家督を継いだ時、信濃佐久郡を武田・村上・諏訪三氏が共同して攻めるように画策したのは今川-義元いまがわ-よしもとではないかと考えている。

そして、上杉-朝定うえすぎ-ともさだ海野-棟綱うんの-むねつなに援軍を送るように画策したのも、義元よしもとと思えた。

すべては信虎のぶとらの力を割く為の謀略であり、信虎のぶとらが駿河を我が物にする隙を与えなかった。

そうして、味方すら騙して義元よしもとは駿河を立て直す時間を稼いだのだ。


信玄しんげん義元よしもとを真似て、僧侶や商人など様々に扮装して諸国で情報収集を行う『間見』、屋敷に侵入して調べる『見分』、それらを見張る『目付』の忍び衆を鍛えた。

武田の忍び『かまり』だ。

三ツ者みつものとも呼ばれるようになった。

信玄しんげんは今ならば信虎のぶとらを追放した謀略と同じ事ができる気がした。


「儂以上に忍びを巧く使う信照のぶてるでなければ、勝ちようはいくらでもあるのだ」

「兄者でも信照のぶてるに敵いませんか?」

「質で敗けておらん。だが、武田家の忍びは30人。対する織田方は300人以上だ。一人で10人分の仕事をしろと言うのは無茶であろう」

「5人分くらいならば、やってみせます」


三ツ者の棟梁である富田とみた-郷左衛門ごうざえもんが天井から降りて来た。

この一帯は武田、織田、真田の忍びが徘徊し、今川家の残党である藤林伊賀衆も山本-勘助やまもと-かんすけに雇われていた。

さらに、北条の風魔やその他の国の間者が入り混じっていると報告を受けていた。


「宿で行商が10人入れば、8人までは忍びと見て間違いありません」

「真田の寝返りは間違いないか?」

「お屋形様の見立てに間違いございませんでした。ですが、申し付けの通り織田家からの情報を流して貰います」

「それでよい。真田の始末は武田が生き残れた後で考える」


真田家は海野うんの一族であり、一族の再興の為に武田家に従った。

一族の存続を優先し、武田家を裏切って織田家に付くのは読めていた。

そもそも信玄しんげんが織田家への使者に真田-幸隆さなだ-ゆきたかを選んだのは、織田家に寝返らせる為だ。

幸隆ゆきたかは三男の昌幸まさゆき真理まりの従者に付けて、織田家の信用を勝ち取った。

読み通りであった。


信繁のぶしげ、儂に何かあれば、真田を頼って信照のぶてるに嫁いだ真理まりすがれ」

「兄者、不吉な事を言わないで下さい」

「今でも謀略では義元よしもと公に敵うと思わん。だが、武田軍は強い。今ならば互角に戦えると自信がある。しかし、その全盛期の義元よしもと公を軽くあしらった化け物が相手だ。始めから勝てるなどという慢心はない」

「兄者!?」

「だが、やすやすと負けるつもりもないぞ。武田家の意地を見せて、皆を納得させねば降伏もできんからな」


信玄しんげんはそう言いながら楽しそうな笑みを浮かべる。

この戦は騙し合いだ。

いつか義元よしもと公を越えたいと思っていた信玄しんげんにとって、壁となって立ちはだかる信照のぶてるは力を試す絶好の機会であった。


郷左衛門ごうざえもん、織田の配置はどうなっておる」

信照のぶてるは尾張・美濃に展開していた兵から、自らの黒鍬衆と鍬衆と鉄砲衆を集めました」

信照のぶてるの手足と呼ばれている兵だな」

「黒鍬衆は治水や開拓を主に携わっており、鍬衆を使って実行しております。ですが、関所では警護隊の任に付いている者もいます。水回り衆、石垣衆、土盛衆などとも呼ばれており、各地に散っておりました」

「その数は?」

「5,000人でございます。他に鉄砲衆が4,000人加わって、9,000人を結集して尾張から発ちました」

「うむ、それで西遠江はどれだけ集めている」

「国境の警備に2,000人、浜松城に1,000人、西遠江衆2,000人、東三河衆2,000人が結集しております」

「合わせて、1万6,000人か」


伊那に展開している織田軍は、南伊那衆2,000人、西遠江衆1,200人、寝返った伊那衆5,000人の総勢8,200人であった。

対する武田軍は甲斐・信濃で2万2,000人、駿河・東遠江で1万人を動員できた。

兵数だけならば、武田軍は互角以上であった。

駿河・東遠江の兵が寝返らなければ、互角に戦えるだろう。

寝返らなければ…………だ。

勝ち目が薄い武田に忠誠を示す者がどれだけ残っている?

そう考えると、次の手が見えてきた。


穴山-信友あなやま-のぶとも山本-勘助やまもと-かんすけはどうなった?」

「駿河・東遠江の領主達の願いを聞いて織田家に降る用意ができております。それに呼応こおうして、穴山-信君あなやま-のぶただが叛旗を翻します」

「この程度では騙されてくれんだろうな」

「無理ですか?」

「無理だ。だが、信照のぶてるも寝返る者を見極めたいと考えるであろう」

「兄者、信照のぶてるは浜松城から出てきますか?」

「必ず出て来る。織田-信照おだ-のぶてるとはそういう男だ」

「出て来ねば、我らに勝機はございません」

「心配はない」

「兄者がそう言うならば、そうなのでしょうな」


翌日、穴山-信友あなやま-のぶとも山本-勘助やまもと-かんすけが領主の嘆願に応えて織田方に寝返った。

信玄しんげん信照のぶてるの思惑に乗る。

駿河奪還を独力で行えれば、今川-氏真いまがわ-うじざねを駿河守護にするという密約を信照のぶてると交わしたと噂された。

密約ではなく、口約束だ。

総大将は朝比奈-泰朝あさひな-やすともが引き受け、東遠江衆と藤枝衆が駿河に侵攻を開始する。

駿河を拠点としていた義信よしのぶも兵を集めて戦いに応じた。

旧今川家臣同士の戦いからはじまった。

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