第36話 東征への出陣式。

(永禄3年 (1560年)6月29日~7月1日)<新暦で8月に入った所です>

爽やかな風が恋しい。

じりじりと照り付ける太陽が昇ると心地よい夜の一時を終えて、ぼわっと気温が上がり出す。

白き衣を脱いで朝衣ちょういに着替えると、もう汗が噴き出した。

部屋を出るとお迎えが来ている。

屋敷を出て朝の散歩を楽しむ。

庭には花が舞い咲き、涼やかな水のせせらぎが聞こえる。

まだ重たい足を前に進めて長い回廊をゆっくりと歩く。

通り掛かる方々と軽く会釈をする。

花園に囲まされた先に可愛らしいあずま屋に辿り着いた。

すだれを横に置いて朝から照らす日の光からあずま屋を隠す。

木陰の中に白いテーブルと椅子を用意させた。

テーブルには朝に焼いたばかりのトーストを釜でこんがりと焼き直し、ベーコンと散りばめたスクランブルエッグとハムとレタスを並べた上にトマトを乗せて柚子ドレッシングを掛けたサラダ、具を少なめにしたコンソメスープ、デザートのヨーグルトが添えられていた。

セミの声が遠くで聞こえる。

願わくはセミではなく、小鳥のさえずりで歓迎して欲しい。

席に付くと淹れたてのコーヒーが出て来て、たっぷりのミルクと小さじ2杯の砂糖を入れてくれた。

香ばしいコーヒーの香りが鼻孔をくすぐった。

どこかに残る寝ぼけ眼が香りで目を覚ます。

これで二人ならば、朝のたたずまいとして最高だった。

だが、残念な事にお客を迎えている。

現帝の皇太子である誠仁親王さねひとしんのうだ。


俺の隣の氷高皇女ひだかのひめみこがにっこりと笑った。

誠仁親王さねひとしんのうは伊勢へ参った後に足を延ばして熱田神社も参拝した。

熱田神社は三種の神器の1つである『草薙剣くさなぎのつるぎ』をご神体として祀っている。

朝廷が保管している『草薙剣くさなぎのつるぎ』とどちらが本物かとか、そんな難しい話はしたくない。

この『草薙剣くさなぎのつるぎ』は朝廷を守る護剣だ。

熱田に来るのは不思議でも何でもない。

参拝を終えると、古渡城ふるわたりじょうの跡地に造った仮御殿に入って体を休めていた。

尾張の案内役に氷高皇女ひだかのひめみこを当てた。

誠仁親王さねひとしんのうは割と楽しく過ごしてくれているようで、お忍びで熱田の町に出た事もある。

帝もお出掛けになる事が多いが、護衛を廃して徒歩で出る事はなく、皇太子も四・五人の供を連れてぶらぶらと出掛けた事などなかった。

お忍びの氷高皇女ひだかのひめみこが慣れた感じで熱田の町を案内した。

元気過ぎる氷高皇女ひだかのひめみこに、「本当に姉上なのですか」と問い掛けるほどであったという。

町娘と言われても不思議でないほど打ち解けていたからだ。

心の中で済まないと謝っておく。

出来の悪い三侍女長らの悪影響だ。

流石に浜松では町に出るなどはしないが、広い城内を探索して遊んでいる。

三ノ丸の森の中には、皆の希望で『遊戯道(アスレチック)』も設置した。

初級コースを楽しんでいる。

それはともかく、土岐川(庄内川)の内側にいる限りは安全を保障できた。


中根南城では西洋式の変わった朝食が出る事があり、それが氷高皇女ひだかのひめみこのお気に入りの1つだ。

誠仁親王さねひとしんのうの要望で用意する事になったが、奥座敷で食べていては美味しさが半分になるという事で、急遽、あづま屋に場所を作らせた。

花が咲き誇る西洋風の庭園ガーデンにテーブルを入れた。

誠仁親王さねひとしんのうが居られる部屋から見える庭園は近衛-稙家このえ-たねいえが監修したので古式正しい池を配置した庭であり、西洋式のガーデンとは少し趣が違う。

わざわざお越し頂いたのだが、余程楽しみだったのか?

俺より先にやって来ていた。

箸を使わぬ食事に目を丸くする。


「姉上、大変おいしいです」

「こうしてパンの上に乗せても美味しいのよ」

「やってみます」

「コーヒーのおかわりを」


少し残念なのはコーヒー豆がまだ手に入っていないので、豆で作った豆コーヒーという点だ。

イスラム圏で広がり始めていると聞いているので、今か今かと待っている。

どうやら俺の名前がイスラム圏でも広がり始め、簡単に手に入るハズだったコーヒー豆がムスリム商人とポルトガル商人との諍いになっているらしい。

倭国との貿易をポルトガル商人と組んだ倭寇わこうが独占していた。

胡-宗憲こ-そうけんによって倭寇の頭目であった徐海じょかいが捕まり、その部下の陳東、麻葉、辛五郎は捕らえられて都(北京)に送られて死刑になるハズだったが、倭国のお茶を献上した事で助命された。

胡-宗憲こ-そうけんが嘆願していた海禁政策の緩和は認められなかったが、お目溢しが認められ、胡-宗憲こ-そうけん王直おうちょくと和睦した。

非公式ではあるが、倭寇わこうの日明貿易が認められた訳だ。

あれっ、王直おうちょくって、死ぬハズじゃ…………そんな歴史があったのだろうか?

お茶の力が歴史を歪めた気がする。

ともかく、一部が緩和されてポルトガル商人と倭寇わこうが独占した事で、ムスリム商人とさらに険悪になっている。

また、その影響はスペイン商人に広がり、怒ったスペイン商人らは艦隊を寄越すように国王に要請したという噂も流れている。

今の俺には関係ない事だ。


さて、それぞれの屋敷に入った公家の方々も落ち着きを取り戻している。

今度は準備をする時間がある。

来る道のりは本当に悲惨であった。

誠仁親王さねひとしんのうを野宿させる訳にいかないので、寺や屋敷を借りていたが、公家方々におかれては織田家が用意したテントなどで過ごされた。

護衛の兵は草木の上で雑魚寝だった。

余り多くの荷物を持って行く事もできず、参拝用の衣服を用意するのが精一杯であり、伊勢に到着した一行はどこの乞食かと思われるほど小汚くなっていた。

初夏の暑さ、着替える事もできずに数日も同じモノを着ていれば、臭さも酷いモノになっていたと聞く。

伊勢で一息付くと、小奇麗にして持ってきた衣服に着替えて参拝された。

そこから船で熱田に渡った。

帰りはちゃんとした宿舎を用意して、十分な世話人も付けねばなるまい。

殿下にあいさつに来る武将らにも対応できるように準備を始めたが、戦後処理も重なって、もう少し時間が掛かりそうだった。


「皆が色々と世話になっておる」

「臣下として当然であります」

「一緒に戻れると思っておった」

「申し訳ございません」


次に京に上がる時は、氷高皇女ひだかのひめみこを連れて行く事を約束して朝食を終えた。

俺は美濃から帰って来ると、誠仁親王さねひとしんのうにあいさつして、西遠江に戻るつもりだったのだが、近衞-晴嗣このえ-はるつぐ久我-晴通こが-はるみちらに止められた。

京に残った西園寺-公朝さいおんじ-きんともらと連絡を取って、帝の勅命を待たされる事になったからだ。

兄上(信長)も口頭で『朝敵、義昭よしあきを討て』と勅命を授かって越前に向かった。

同じように、俺にもはくを付けるつもりだ。

俺は内外に討伐の『大義名分たいぎめいぶん』を手に入れ、朝廷は俺を従わせているという『実績』を得る。

時間は惜しいが、一挙両得いっきょりょうとくなので従う事にした。


翌日、帝からの勅命を誠仁親王さねひとしんのうが読み上げて俺に命じる。


平朝臣たいらのあそん-織田おだ-従二位内大臣ないだいじん-信照のぶてる征夷大将軍せいいたいしょうぐん鎮守府将軍ちんじゅふしょうぐんを授ける。拝命して、朝敵義昭よしあきを討て』


えっ、聞いてないぞ。

俺は内大臣ないだいじんなので、通称は『内府様』だ。

(名前が変わると読み難いので信照様と書いていますが、実は内府様と呼ばれております)

従三位だったハズなのに、さり気なく昇進している。

官位で下になる征夷大将軍と鎮守府将軍を兼任するのはありなのだろうか?


坂上さかのうえ-田村麻呂たむらまろが征夷大将軍と鎮守府将軍を兼務した事がある。太政官符に田村麻呂たむらまろが中納言で中衛大将を兼務した時に、『中納言征夷大将軍従三位兼行中衛大将陸奥出羽按察使陸奥守勲二等』の肩書きで名前を連ねている」


首を捻る俺に晴嗣はるつぐがそっと口を開いて「問題ない」と呟いた。

征夷大将軍はそもそも蝦夷討伐の役職であり、関東、つまり鎌倉府を治める事ができる。

鎮守府将軍は陸奥に置かれた鎮守府の長官職であり、奥州を束ねる者という意味だ。

この二つの役職を与えられた事で、東征に当たって敵対する者はすべて朝敵とできる。

好きに暴れて来い。

そう言ったお墨付きを頂いた。


だが、家臣らは別の意味で騒いでいる。

やり過ぎだ。

大義名分は大切だが、鎌倉幕府以降、この国の政策は『自助じじょ』なのだ。

たとえば、

川の利権を争って守護に訴える。

守護が判決を言い渡すが、川の利権を取り戻すのは訴えた本人だ。

裁判は何の為にあるか?

大義名分を保障するだけであり、自分で取り戻さないと裁判の効力は発揮しない。

この守護の力の無さを嘆かれた。

室町になると、守護は訴えた者に代わって戦う事になった。

しかし、兵も兵糧もない。

そこで神社・仏閣・朝廷の土地を横領して、兵を集めた。

横領するので守護が訴えられる。

こうして戦国の世がはじまった。


『勝てば、官軍。負ければ、賊軍』


守護であっても勝たなければ意味がない。

俺や兄上(信長)の祖父である信定のぶさだは守護に従って討伐したり、守護に逆らって返り討ちにしたりして力を付けた。

兵を養う為に中島郡の寺を横領して自分のモノにした。

体裁が悪いので横領と言わず、保護と言っている。

朝廷の勅命はありがたいが、『征夷大将軍せいいたいしょうぐん』まで付いてくるとやり過ぎた。


これも現代に例えるならば、

老舗の足利株式会社と新興の織田株式会社の戦いだ。

織田家の株を多く持つ北条家は、足利の株がごみ屑になっても、織田の株が倍以上の価値になるので問題ない。

しかし、100年掛けて足利の株を買い続けてきた領主や大名はどうだろうか?

手持ちの株がすべてごみ屑になるのだ。

長尾家の関東管領職も武田家の守護職もゴミになる。

鎌倉公方もすべて白紙だ。


自分の身になって考えれば、

銀行に貯金しているお金は日銀券である。

今日から日本政府は無くなったので、そのお金は使えません。

そう言われたらどうする?

日本政府を潰すのに反対するだろう。

つまり、そういう事だ。


旧体制を望む者が旧公方義昭よしあきに集う。

織田家を支持する者と支持しない者にきっちりと線が引かれる。

だが、最初に言ったように、この世は『自助』である。

俺が戦に勝って実力を示さないと効力は発揮されない。

負ければ、なかった事にできる。

確かに義昭よしあきが除名されて、将軍職が空いた?

そこに俺が入る必要があるのか?

俺は『織田幕府』を開く権限を手に入れた事になる。

義昭よしあきはさらに激怒して、対決姿勢を露わにするだろう。


「おめでとうございます」

『おめでとうございます』

『…………』


熱田から出陣式に参加していた諸将が大声で祝いの言葉を述べる。

清洲から参加した武将らは戸惑っている。

織田家三頭体制などと揶揄されるが、実質は二頭体制であり、俺と兄上(信長)が公家と武家を分担して、織田家を引っ張っていた。

ここで武家の棟梁の役職が俺に付いた。

大垣城で大喧嘩したのは芝居だったと説明したが、まだ疑っている者も多い。

はっきり言って、この称号はやり過ぎだ。

織田家の内部でも困惑するぐらいなのだから、畿内でも大慌てだろう。

九州や奥州も反対する者が続出する。

ホント、征夷大将軍せいいたいしょうぐんは余計だった。


「鎌倉に向けて出陣した足利-尊氏あしかが-たかうじ公を追い駆けて、帝がやむなく征東大将軍せいとうたいしょうぐんを認めたという伝説を彷彿とさせますな」

「鎌倉を落とした後は、織田幕府の誕生だ」

「おぉ、目出度い」


全然、目出度くない。

だが、ここで断る訳にもいかない。

俺はぎゅっと晴嗣はるつぐを睨んでから拝命した。

頭を上げると、すぐに出陣だ。

仮御所を出ると、兵を連れて出陣する。

そのまま熱田を抜けて中根南城に入って休息を与えた。

俺は部屋に戻ると寝転がる。


「してやられた」

「申し訳ございません」

「千代のせいではない。兄上(信長)が知らぬハズはないと思うのだが…………」

「注意が散漫になっておりました」

「京から忍びを引き抜き過ぎた事が原因だ」

「公家がこのような手に出ると思いもしませんでした。もう少し残しておくべきでした」

「それは駄目だ。真田家は内通しているが、どこまで信用していいのかは判らん。武田には忍びも多い。一人でも多い方がよい」

「しかし、申し訳ございません」

「千代が頼りだ。この戦は情報が勝敗の鍵を握る。多い方がよい。間違っておらん」


畿内から西は兄上(信長)に丸投げした。

加藤かとう-三郎左衛門さぶろうさえもんらも京から呼び戻して、俺の下に入れた。

東征は少数精鋭の火力重視を基軸にして、足りない兵は現地で調達する。

その代わりに織田家の忍び衆を大量導入する。


『情報を制する者は世界を制する』


この東征はほとんど俺が戦わないで勝つ事を目指す。

そう思って忍びを集めた所で騙し討ちだ。

狸爺め、何が何でも俺を宰相にして日ノ本もまとめる気だな。

だが、京が手薄になったからと言って、帝が兄上(信長)に相談もなく決めたとは思えない。

御所には千代女に仕える望月家の侍女らもいたハズだ。

兄上(信長)が止めていないとすると不自然だ。

何が狙いだ?

ともかく、これで足利幕府が終わった。


「輝ノ介、何か言いたい事はあるか?」

「まぁ、よいであろう。あの馬鹿の所為せいで足利家が終わった。それだけだ」

「そうか」

「仕方ない」


中根南で待機して貰っていた輝ノ介を呼んでいた。

まず、謝るつもりだった。

俺は足利幕府を潰すつもりはなかったのだ。

だが、輝ノ介は悟ったように諦めてくれた。

助かった。

輝ノ介に逆上されたら、俺に止める手立てはない。

糞爺め、良い様に振りまわしてくれたな。


「輝ノ介がそれでいいなら俺は構わない。だが、俺は幕府を開くつもりはない」

「では、どうする」

「次の代で決めてくれ」

「次?」

「輝ノ介の子、源次郎を養子に貰って後を継がせる。そして、兄上(信長)からも娘を貰って嫁にするのではどうだ」

「いいのか?」

「騙されたのだ。騙し返して何が悪い。見た事もない日ノ本の民の事など知らん。俺は俺の手の届く範囲しか面倒を見る気がない」

「そうか、余も同じだ。常に戦に身を投じたい。だが、帝の方はどうする?」


輝ノ介が気に掛けるのは氷高皇女ひだかのひめみことの間に子ができた場合だろう。

皇女の子を差し置いて家督を継がせたら角が立つ。


「問題ない。俺は鷹司-忠冬たかつかさ-ただふゆが亡くなって断絶した鷹司家たかつかさけの家名を貰う事になっている。氷高皇女ひだかのひめみことの子にはそちらを継がせ、中根織田家と鷹司家に割ればよい」

「ならば、貰おう。感謝する」

「気にするな」

「若様、源次郎はまだ赤子でございます。氷高皇女ひだかのひめみこに至っては、まだ子が生まれる気配もございません」

「それもそうだな」

「若様、目の前の敵に集中して下さい」

信照のぶてる、勝ちに行くぞ」

「当然だ」


俺は寝転がりながら輝ノ介が突き出した拳に拳を合わせた。

まずは武田-信玄たけだ-しんげんだ。

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