第35話 信照、東に目を向ける。
(永禄3年 (1560年)6月23日)
サンサンと照る日差しを浴びて、首筋に汗がしたたった。
がさがさという地面を踏み付ける音に、少し色気を持った朱い唇の荒い息の音が加わる。
着物の裾を少し上げ、岩を踏んで山を上がる。
ときおり白き足がちらりと見える。
熱き血潮も冷めやらぬ。
あぁ、いのち短し、恋せよ少女。
「あぁ~~~若様、さっきから目が厭らしいです」
「そうです。そんなに見つめなくても熟れたりんごでよろしければ、いつでもどうぞ」
「もしかして、興奮しました? 興奮しました?」
こいつらには情緒というモノはないのか?
せっかく見ないようにしているのに自分から裾を上げるのは止めて欲しい。
桜は馬鹿だし、楓は察しない、紅葉は中学生にしか見えない。
白い足がちらちらと目に入るから、つい見てしまう。
男のサガだ。
横にいる千代女の目が段々と厳しくなってくる。
「別に怒っておりません。行き遅れでよろしければ、どうぞ貰ってやって下さい」
「俺は兄上(信長)ではない」
「では、他の者を用意しましょうか?」
「他の者を用意するくらいならば、千代でよい」
「私はまだ一線を外れる訳にいきません」
三馬鹿もなんだかんだ言って付いて来てくれる。
何もかも、この稲葉山の傾斜が悪い。
この暑さに汗を垂らし、上を見上げると勝手に目に入ってくるのだ。
見えるか、見えないか、その微妙な角度が気になった。
この三馬鹿に興味がある訳じゃない。
男のサガだ。
頂上に屋敷を造って何が楽しい。
山登りが日課になる登城なんて嫌だな。
今日の密談は山頂でしたいという帰蝶義姉上の要望を聞いたが、今度はお断りしよう。
この暑さで山登りはキツい。
「桜らはよく平気だな」
「鍛え方が違います」
「若様、最近はサボり過ぎではないでしょうか」
「一緒に鍛え直しましょう」
稲葉山城は本当に山城だ。
一ノ門までが遠い。
山の斜面に石垣を並べ、小さな曲輪に所狭しと屋敷が立っていた。
よくぞ、こんなところに建てたモノだ。
攻めるとすれば、確かに難攻不落だ。
最近は忙し過ぎる。
長島の戦いが終わると後始末が待っていた。
瓦礫の撤去が面倒臭い。
撤去が終われば、再建だ。
以前より立派なモノを建てると約束した。
虐殺して終わりという訳にいかない。
六角家に北伊勢の仕置をする余力もないので、こちらもお願いしておく。
「彦七郎(
「無理です」
「巧く行けば、神戸氏の養子に入れて又代にしてやる」
「遠慮します」
「まだ幼い
「嫌です。殺されます」
「お前を殺した時点で一族郎党の皆殺しが決まる。そう簡単に殺そうなどと思わん」
「心から遠慮します」
「うるさい。とにかく手伝え」
襟を掴まれて連行されて行った。
俺は手を合わせると合掌して見送ってから長島を後にした。
清洲に戻って帰蝶義姉上の代わりに奉行から報告を聞くと指示を出す。
それを一通り終えてから美濃にやって来たのだ。
本丸に入る前に息を整えて、汗だくの着物を換えてから帰蝶義姉上に会いに二階に上がった。
帰蝶義姉上は尾張と美濃が一望できる見晴らし台で腰かけていた。
俺を見つけるとにっこりと笑って手招きをした。
見晴らし台に出ると眼下に濃尾平野が一望できた。
「
「帰蝶義姉上の努力の賜物です」
「
「おめでとうございます」
「一先ず、これで終わりです」
「終わっていません」
「そうだったわね」
「とにかく、美濃をまとめて下さい」
「…………」
「…………」
「父上はここで月見をするのが好きでした」
「贅沢な月見です」
帰蝶義姉上にも感傷にふけりたい時があるのだろう。
だが、兄上(信長)の予想外の活躍がそれを許さない状況を生み出した。
帰蝶義姉上には伊勢から越前まで面倒を見て貰わないといけない。
帰蝶義姉上は故
故
俺が知る訳もない。
帰蝶義姉上が何を思っているのか?
やはり知る訳もない。
それはともかく。
麓の城下町は完全に焼失し、長良川沿いの土手に織田方によって造られた砦がはっきりと見える。
織田方の陣が丸見えだ。
整ってゆく織田方、指を咥えて見ていた
我慢に我慢を重ねた。
そして、
自らが
一人でも多く道連れにするつもりだったのだろう。
だがしかし、予定より早く
そうなると最早これまでと美濃武将らは降伏した。
皆、こぞって捕まえたらしい。
織田方では手柄首を持ち帰るより、生け捕りの方が評価される。
腕に自信のある者は首を取る方が好きな奴も多いが、無抵抗の者はおおむね生け捕りにする。
そのお蔭で
「兵糧がないのは判っていましたが、思っていたより早かったです」
「加えて援軍の期待もできない」
「兄上(
「
帰蝶義姉上が「はぁ、困った兄上です」と小さく呟いた。
俺が美濃を欲しがっていると思っていた。
「
「兄上(信長)は欲しがりますが、俺はいりませんね」
「殿は子供のような所がありますから」
美濃は石高的に魅力的だが、はっきり言って河川の改修が面倒だ。
知恵を貸すから故
故
「普通は判りませんよ」
「奪う事ばかりを考えるからだ。石高などいくらでも上げる事ができます」
「それが判らないのよ」
職人が撤退し、研究していた明智の者もいなくなった。
手元に残された
美濃斎藤家の石高は落ちた。
しかし、一度上がった生活水準を落とす事はできず、高い関税商品を買う事になる。
尾張の生産力は毎年上がり、米の価格もじわじわと下がってゆく。
美濃斎藤家に仕える家臣の生活は苦しくなって行く。
それでも持前の指導力で
昨年から奥州征伐を公言していたので、俺も商人も兵糧を買い漁った。
米相場が上がり、喜んだ美濃から闇米が流れていた。
贅沢品の補充ができて、ほっと溜息を付いた事だろう。
だかしかし、そんなに巧くいかない。
止めを刺したのは、幕府から頼まれて甲斐・信濃へ送った兵糧の援助だ。
余分な米はどこにもない。
今年の秋を越えないと稲葉山城に兵糧は戻って来ない状態だった。
そこに大戦が舞い込んで、なけなしの兵糧を兵が手弁当で持ってきた。
だが、十日も過ぎれば、兵の手元から米は無くなる。
倉の米が底を付くのは時間の問題だった。
「槍を使わぬ戦など、美濃の武将にできる訳もありません」
確かに槍を使わない戦は苦手そうだ。
だが、代わり身の早い家はあった。
仙石家などは早い段階で内通しており、今回の戦でも
頼んでもいないのに美濃制圧には先陣を切って戦ってくれた。
彼らに褒美をヤラネバならない。
もちろん、銭でだ。
領地を増やしてやる気などない。
意識が古く、美濃をまとめるのは中々に厄介そうだ。
そう言ってもほとんどが帰蝶義姉上に丸投げするつもりなので、感傷にふけって貰っては困るのだ。
「そう言えば、
「そんな風に見えますか?」
「えぇ、そう見えます」
「実はかなり怒っております」
「そうは見えません。そのことで相談に来たのでしょう」
まったく、その通りだ。
ゴキブリ並にしぶとい
朝倉家が降伏し辛いように
そこまでして最後に取り逃がしたと聞いて、沸騰した水が溢れ出るほど怒った。
関東、奥州、九州の敵対勢力は怖いと思わない。
だが、大義名分を与えるだけ無駄だ。
おそらく、越後に逃げたと思う。
これで公方を御旗に戦が続く。
「もう兵糧が足りなくなりましたか?」
「帰蝶様、その通りでございます。尾張・三河にある非常用の備蓄米も放出しております。空になった訳ではございませんが、何かあった事を考えますともう出せません」
「確かに大雨などが降って河川が氾濫した場合なども考えねばなりません」
俺の代わりに千代女が答えた。
生き残った10万人を超える兵士を食わせる為の食糧だ。
半端な量ではなかった。
中国地方では無理が祟って叛乱も起きていた。
越前の兵を急ぎ、播磨と但馬に返さなくてはならない。
送った兵糧が戻ってくる事はなさそうだった。
「そうなると商人らが持つ倉ですね」
「その通りです」
「清洲の倉にそれらを買う銭は残っていないでしょう」
「はい、ございません。だからと言って無理矢理に安く買うのは非常手段です。今回はできません」
商人らは戦が終わった後に各領主に売り付けるつもりだ。
秋の収穫の後に備蓄米を補充する。
そうなると市場に出てくる米が少なくなり、売れ残っても秋以降も米の相場は高くなるので十分に売れると商人らは読んでいた。
兄上(信長)が見栄を張った為に、織田家は兵糧も弾薬も使い果たして
「弾薬に関して言えば、熱田で5万発、津島でも5万発、清洲と大津で各1万発、さらに、公方様の希望があった場合を想定して、年10万発の花火を上げる事ができる火薬の生産計画と職人の育成をして来た若様の慧眼が生きております」
「じゅ、10万発?」
「伊那の戦いの後に緊急増産を命じておりますから、関ヶ原や長島で使用した分は1ヶ月で補充できます」
「それは凄いわね」
全然、凄くない。
代わりに奥州成敗を祝う凱旋花火大会が中止にされた。
俺は嬉しくない。
帰蝶義姉上が『蝮土』の改良版の製造から火薬になる過程の価格を思い出し、指を追って数え、弾薬の価格から逆算して花火の総額を計算して呆れている。
だがしかし、額ではない。
平和になれば、各地で花火大会を催させる。
花火を売って俺は儲け、人々を楽しませながら、火薬の生産を維持する。
一石三鳥だ。
気の長い投資と思えば、損はない。
「日ノ本を統一してから準備をしても遅くないと思います」
千代女がズバりと痛い所を突いた。
火薬の使い道は多岐に渡るから生産量が多い方がいいのだ。
俺は間違っていない。
「大気から直接に窒素を取り出す事に成功しております。若様が考案された大型蒸気機関が完成すれば、火薬の製造は飛躍的に伸びると存じ上げます」
わぁ、正論に反論できない。
ふふふ、帰蝶義姉上が夫婦漫才で笑ってくれた。
漫才をしたかった訳じゃないぞ。
呆れた上に頭脳をフル回転させた為か、どこか遠くを見ていた帰蝶義姉上の目の焦点が戻り、精気が戻ったように見えた。
「美濃までわざわざ来たという事は東に出陣するつもりね」
「はい、そのつもりです」
「
「ここで朝廷を使って和議を結ぶと、次の戦の理由を探すのが面倒だからです。今の儘では赤字が埋まりません」
また、幕府から利権を奪い過ぎて幕府自身が脆弱になっては意味がない。
兄上(信長)は敦賀を得た事で海洋の利便性が上がると考えているのだろう。
それは否定しない。
だが、それは幕府に代替させて良かった事だから、それほどの利益にならない。
はっきり言って大赤字だ。
「武田領や長尾領を貰っても黒字にはならないでしょう?」
「なりません。貧しい領地も奪っても面倒を見るだけ面倒です。ですが、一部だけ特別な場所があります」
帰蝶義姉上と千代女が首を捻った。
俺もまったく考えてもいなかったが、兄上(信長)が敦賀を取った事で細い糸が繋がった。
敦賀からなら管理できる。
いずれ幕府が安定すれば、越後から召し上げるつもりだった土地を織田家が先回りして飛び地の領地にできる。
その為ならば、蓄えた金や銀を放出して戦費に当てても惜しくない。
ははは、成功すればお釣りが返ってくる。
「随分と機嫌が良いのですね」
「信長様の手紙を読んで
「どういう事でしょう?」
「判りません」
「とにかく、東征に出るのですね」
「はい、そうなります」
「判りました。わたくしが伊勢から越前まで面倒を見ればよろしいのかしら」
「よろしく、お願い致します」
そこで各地に激文を送れ。
知った俺は朝敵の返還を求める。
これで兄上(信長)と同じく朝敵を討つと言って兵を送れる。
一戦して降伏させれば、賠償金としてアレを奪う事ができる。
大した労力ではない。
大義は我にあり、
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