第34話 一乗谷炎上

(永禄3年 (1560年)5月22日~27日)

小谷城にいた朝倉-義景あさくら-よしかげ疋壇城ひきだじょうが陥落したという知らせに驚いた。

疋壇城ひきだじょうは最重要拠点であり、十分な備えをしていた。

しかも京がすでに奪還されていると言う。

とにかく、時間を掛ければ退路を断たれる恐れがあり、朝倉軍は直ぐ帰国の途に就いた。

そして、朝倉軍を追うように幕府軍も転進した。


義景よしかげ様、敦賀は大丈夫でしょうか?」

「まだ落ちておらん」

「如何なる理由でございましょうか?」

「信長は自ら疋壇城ひきだじょうの兵を解き放った。おそらく、襲った数は寡兵かへい(少数の兵)に違いない」


不安を抱く河合-吉統かわい-よしむねに対して義景よしかげは割と平然としていた。

信長の策で信長の兵が寡兵である事を隠す為と推測したからだ。

家臣の青木-景康あおき-かげやすが首を捻って問い質した。


「殿、何故に寡兵と断定できるのですか?」

「織田家の本陣は大垣城にある。そこから信長を慕って清洲に戻ったのは1万と聞く。それに違いないな」

「間違いございません。物見(間者)の報告でそうなっております」

「おそらく、信長は清洲に戻った振りをして少数で伊勢に渡り、伊賀街道から大和を経て京に入ったに違いない。紀伊水道を抜けて大軍を移動できるモノか」

「なるほど、それならば時間的には十分でございますな」

「だが、数は増やすのは簡単ではない。故に信長の総兵力は1万と仮定できる。だが、20日の時点で京が落とされたという報告は入っていなかった。これも間違いないな」

「確かでございます」

「ならば、京はまだ落ちていない。信長の狂言だ。おそらく、京に兵8,000人、西近江に2,000人を配置したと見る。進藤-賢盛しんどう-かたもりと信長は通じていたのだ」


義景よしかげの推理はまったく的を射ていない。

進藤-賢盛しんどう-かたもりが観音寺城を襲ったので、賢盛かたもりの領地である滋賀郡に信長の兵を隠す事ができる。

などと、時間的に辻褄が合う推測をしたに過ぎない。


「なるほど、滋賀郡から疋壇城ひきだじょうまで10里 (39km)余り。高島勢を抑えながら2日で来るのも無理でございませんな」

「寡兵ゆえに敦賀はまだ落ちておらん」


常軌を逸した行動力や朝廷の威光を借りた信長の神掛かった侵攻など考えていなかった。

常人に天才の行動を見抜く事はできない。

そして、信長が疋壇城ひきだじょうの兵を逃がしたのは、朝倉軍が急いで越前領に帰国するのを促し、夜に朝倉軍が余呉川付近を通るように狙ったという結論に辿りつけない。

釈迦の手の平を動き回る孫悟空のように転がされていた。


休憩を入れる朝倉軍に追い付いてきた幕府軍の武将が打ち合せに訪ねた。

公方義昭よしあきは京を奪還する事を決めた。

義景よしかげはそれを聞いて半分呆れたが敢えて正さない。

若狭、丹後、丹波の者はそのまま自国に戻ると思われる。

中国方面の武将もどの道を通るのかは不明だが、離脱して行くに違いない。

一番有力なのは今津から九里越えで若狭街道に出て、丹後街道を抜けて中国方面に帰る道と思われた。

京に入る前に幕府軍はほとんどいなくなると推測した。

ともかく、幕府軍は塩津街道を通って疋壇城ひきだじょうを目指す。

先鋒は若狭、丹後、丹波の兵と言う。

疋壇城ひきだじょうを破らねば、帰る道が開かれないのだ。

真剣に戦ってくれるに違いない。

ならばと、朝倉軍は疋壇城ひきだじょうが陥落した時点で北国海道 (西近江路)から敦賀に向かう部隊と、真っ直ぐに北国街道を通って今庄を目指す部隊に分ける事にした。

そして、義景よしかげは今庄から馬廻り衆に守られて一乗谷の一乗谷城に戻る事になった。


義景よしかげは構想では北国街道を進み、今庄で反転すると、木の芽峠を越えて敦賀を目指す予定だったが、2度の峠越えで全軍が2日間で到着するのは難しい。

(浅井郡木ノ本から疋田を経由して敦賀まで7里 (28km)に対して、浅井郡木ノ本から北国街道を通って今庄まで行くと9里 (36km)になり、今庄から木の芽峠を越えて敦賀に戻るには5里(22km)もあり、合わせると14里もあった)

敦賀方面の大将は年寄衆のひとりである溝江-長逸みぞえ-ながやすが選ばれた。

宗滴に従って加賀一向宗と戦った名将の一人である。

その他に魚住-景固うおずみ-かげかた山崎-吉家やまざき-よしいえ堀江-景忠ほりえ-かげただが選ばれた。


疋壇城ひきだじょう攻めは幕府軍に任せ、兵を温存せよ」

「よろしいので」

義昭よしあき様が京に戻るには疋壇城ひきだじょうを落とさねばならん。これは全幕府軍に言える。南城が落とされて降伏したらしいが本丸は無傷だ。立て籠もられたならば、被害は甚大。我が軍は攻めに加わらずに敦賀に向かわせろ」

義昭よしあき様がお怒りになるのでは?」

「怒らせておけばよい」


敦賀が陥落する前に信長の背後を襲い、信長を捕虜にできれば形勢は逆転する。

対等に近い和議が結べる。

義景よしかげの安全を確保する為に越前今庄を目指す部隊が先行し、刀根峠を越えて疋壇城ひきだじょうを目指す部隊が後続に付いた。

刀根峠に向かう別れ道で突然に鉄砲の火が噴いた事に越前勢が驚いた。

物見(間者)から織田方を見つけたという報告もない。

今庄を経由して敦賀が襲われているという報告の早馬も来ており、街道を封鎖された事実もない。

寡兵の織田軍はどこから兵を調達したのだ?


「どういう事だ。物見は何をしていた」

「判りません。突然、織田軍が現れました」

「何故、織田がいる?」


義景よしかげは完全に思考が停止した。

何故、何の報せもないと考える前に大量の忍びを抱える織田家を相手に物見の数が少な過ぎた事を反省するべきであった。

越前の物見は織田の忍び衆によって排除されて機能不全に陥っており、越前方面の早馬は敢えて見逃すように信長に命じられていたのだ。

早馬が到着する事から街道が安全と義景よしかげは疑っていなかったのだ。

義景よしかげは治世において能史の器であったが、戦では凡将であった。

引き際を知り、周囲の警戒もする。

引き際を弁えていたので撤退する事が予想でき、早馬が到着して越前との連絡路を確保していると勘違いし、物見が戻って来ない事で安全が確保できていると錯覚してくれた。

無能でなかった事が逆に信長に手玉に取られる原因になっていた。

信長は北国街道を今庄方面に撤退する朝倉軍を刀根峠方面から奇襲する事に成功した。


義景よしかげ様、塩津街道への脇道からも織田家の別働隊が襲って来ております」

「そんな馬鹿な」


あり得ない事が続け様に起こってくる。

暗闇の中で鉄砲と火薬玉が炸裂し、義景よしかげの判断の遅れに兵が狼狽する。

後方で襲われているのは朝倉軍ではなく、幕府軍であった。

幕府軍は大軍であった為に北国街道と塩津街道に兵を分ける必要があった。

また、京の奪還ができない場合、越前に逃げる事を考えていた義昭よしあきは東野館で腰を落ち着かせるつもりだったのだ。

否、疋壇城ひきだじょうを陥落させる前に坂田郡方面の追撃軍が追ってきた場合も越前に逃げるつもりだった。

そんな思惑もあった義昭よしあきに織田家の別働隊が脇腹を襲ってきた。


『もう駄目だ』


何も考えていない総大将の義昭よしあきが逃げ出せば、軍が崩壊する。

とにかく東へ、義昭よしあきは八草峠を越えて越前を目指した。

(八草峠は揖斐川町と長浜市木之本町の間を通る国道303号線付近の旧街道の峠です)


後方の幕府軍が簡単に崩壊すると朝倉勢に動揺が走った。

織田軍を無視して兵を進めようとするとさらに前に伏兵がおり、織田軍の攻勢に脆くも崩れた。


「殿、最早これまでございます。織田軍が来る前にお逃げ下さい」

「どこに逃げろというのだ」

「東の七々頭ヶ岳ななずがたけを越えれば、間道が多くございます」

「兵を見捨てて、おめおめと逃げろと申すのか」

「殿がおられれば、朝倉の再編ができます」

「判った。死ぬな」


足軽の兵は蜘蛛の子が散るように逃げて当てにできない。

河合-吉統かわい-よしむね青木-景康あおき-かげやすらが側近を集めると織田軍に突撃する。

義景よしかげは山を越え、さらに山奥へと獣道を進んだ。

僅かな側近と共に一晩中逃げ続けて、やっと辿り着いたのが夜叉ヶ池やしゃがいけであった。

夜叉ヶ池やしゃがいけは美濃国と越前国の国境にあり、817年(弘仁8年)に娘を竜神に嫁に出して雨を降らせて貰ったという『安八郡の伝説』の地である。

疲れ果てた義景よしかげは岩陰に身を寄せて体を休めた。

翌日、川を下って今庄に到着する。

義景よしかげは三日も掛けて今庄に入った。

その戦で多くの武将が討ち取られ、その首と交換に敦賀の金ヶ崎城かながさきじょうが開城した事を知らされた。

義景よしかげが一乗谷に戻ったのは27日であった。


一方、運が良かったのは敦賀攻略を命じられていた溝江-長逸みぞえ-ながやすらの後続部隊であった。

援軍に駆け付けたくとも前も後ろも詰まっており、身動きが取れない。

そして、義景よしかげが逃げたと聞けば、そこに留まっている必要がなくなった。

そうなると手は1つである。

自分達を追い越していった公方義昭よしあきを追って八草峠方面の脇に逃げるしかなかった。

部下の魚住-景固うおずみ-かげかた山崎-吉家やまざき-よしいえ堀江-景忠ほりえ-かげただらも多くの脱走兵が出た為に数を半数ほど減らしてしまったが、幕府軍の兵が壁になってくれたので被害が少なくて済んだ。

義景よしかげより数日遅れでほぼ無傷で越前まで戻れた。

だが、減った兵力を再編すると言って自領に戻ったきり、再び一乗谷に戻る事はなかった。


もちろん、それぞれに言い分もある。

堀江-景忠ほりえ-かげただの堀江家は元々斯波家に仕えていた。

越前で甲斐家の勢力が伸びると斯波家と甲斐家が争うようになり、甲斐家に付いた朝倉家とも戦った。

堀江家にとって朝倉家は打倒すべき怨念の敵であった。

そんな不穏な堀江家を見張るように言われていたのが、領地を隣接する溝江-長逸みぞえ-ながやすの溝江家であった。

自領に戻った堀江-景忠ほりえ-かげただの動きが奇妙なので、溝江-長逸みぞえ-ながやすは動けなくなった。


また、魚住-景固うおずみ-かげかた山崎-吉家やまざき-よしいえの領地は南仲条郡(越前町)であり、一乗谷より先に信長と対峙する事になった。

自領を捨てて一乗谷に兵を送る余裕はない。

むしろ、一乗谷から援軍が欲しかったに違いない。


 ◇◇◇


(永禄3年 (1560年)5月25日~6月18日)

5月25日に敦賀が引き渡されると、信長はここで一度足を止めた。

降伏した幕府軍を味方に入れ、軍を再編していると朝倉方にも噂が聞こえてくる。

どこから侵入したのは不明だが、織田家の間者が越前中を駆け回った。

あちらこちらで切り崩されてゆく。

信長の調略である事は明白であり、それに対して義景よしかげは何の対策も取れないでいた。

義景よしかげを支持した武将らが『刀根峠の戦い』で軒並み討ち取られたからだ。

さらに信長は敦賀で捕えた兵を解放していた。

その兵の口から抵抗すれば一族皆殺し、降伏すれば命を保障し、領地の事も考えると信長の意志が伝わる。

幕府軍も織田軍も侵略した所で略奪を許さないのが有名であり、織田家に降伏すれば領地安堵も夢ではないと豪族や名主の心がくすぶられる。

さらにさらに、越前劔神社つるぎじんじゃに安堵状を発給した。

織田家が余所者でないと名乗りを上げる。

越前に侵入するのではなく、信長の織田一族はこの地から尾張に旅立った事を喧伝する。

織田に近い部族が糾合して義景派の武将を唆した。

義景よしかげの命令に反して、一乗谷に兵が集まる様子はまったくなかった。


「日和見どもめ」

「こうも兵が集まらぬのでは、ここを死守するのは至難でございますな」

景鏡かげあきらか」


朝倉-景鏡あさくら-かげあきらは先代孝景の弟の朝倉景高の子で義景よしかげの従弟に当たる。

父の景高が大野郡司を務め、亥山城を拠点としていた。

しかし、先代孝景と不仲となり、謀反の疑いを掛けられて罷免されて京に追放された。

子の景鏡かげあきらは何とか許されて、亥山城の城主を続けていた。


「最早これまでだ。この首を差し出して家臣の助命をするくらいしか使い道がない」

義景よしかげ様、諦めるのは早いのではありませんか?」

「何か策があるのか?」

「大野に逃げて再起を図りましょう」

「大野だと!?」

「大野郡は山奥の地で大軍も容易に寄せて来られません。しかも比叡山の末寺である平泉寺へいせんじを味方にできれば、山道を抜けてくる織田軍を襲う事もできます」

「時節を待てという事か」


織田家の天下は間違いない。

そう誰もが思っているが、一瞬先はどう変わるかなど誰も判らない。

その例が『永禄の変』であった。

一乗谷から東に4里の山奥の盆地が大野である。

狭い山道は大軍の利が生きない。

山で修行する平泉寺の僧を味方にできれば、織田軍は簡単に侵入できなくなる。

景鏡かげあきらはそう言っているのだ。


「申し上げます。木ノ芽峠きのめとうげにあった西光寺丸城、木ノ芽峠城、観音丸城、鉢伏城のすべてが織田家に降伏した由にございます」

「もう時間がございませんぞ」


25日に金ヶ崎城かながさきじょうを開城させると、27日には侵攻を再開した。

神速で疋壇城ひきだじょうを落としたのとは打って変わって、今度は包囲して調略戦を展開した。

日に日に後続が到着して織田軍が増えていった。

木ノ芽峠きのめとうげを守る四城の城主は不安に駆られ、毎日のように「これ以上の殺生は望まぬ」という使者が通って来る。

対して、援軍がやって来ない。

遂に、四城主が相談の末に降伏を決めた。


これで織田軍が一気に押し寄せてくるのは明らかとなった。

街道沿いの城は兵も少なく士気も低い。

南仲条郡(越前町)に入ると、均衡が崩れて織田家に味方する豪族や名主が現れるに違いない。

そこを越えると一乗谷は目と鼻の先になる。


義景よしかげ様、この後はどうされます」


景鏡かげあきらを信じて大野郡に撤退を決めた。

大将が逃げれば、寝返る者も加速し、30日には北国街道の織田軍も侵攻を開始した。

だが、信長は慌てない。

兵糧が足りず、略奪などさせては元も子もない。

一時的に城を接収して目付けを置く、織田方に参陣し調略に協力した者を厚遇した。

朝倉家に義理立てして降伏しない城で極地的な激戦が起こった以外は静かな行軍が続いた。


『掛かれ』


森-可成もり-よしなりの声が響いた。

可成よしなりは内心穏やかでない。

疋壇城ひきだじょうの戦いを除くと、包囲戦ばかりで活躍の場がない儘で一乗谷まで来てしまった。

ここで活躍せねば、何の為に来たのか判らないとばかりに猛攻を掛けた。

兵が少なかった。

6月8日、大将の姿はすでになく、わずかな抵抗で一乗谷は陥落した。


「すべての屋敷に火を掛けよ」


100年の栄華を誇った朝倉の本拠地は三日三晩にわたって燃え続けた。

信長にとって義景よしかげを大野に逃がしたのは誤算であった。

一乗谷に火を放ったのは半分が腹いせであり、もう半分が義景よしかげの首の代わりに火を付けたと言っても過言ではない。

朝倉家は終わったと印象付ける必要があった。


「また、信照のぶてるがうるさい事を言うではないか」


大野を攻めるので兵糧をさらに寄越せと言えば、「兄上は阿呆ですか?」、「打出の小槌でもあると思っていませんか」などと整った言葉に隠した罵詈雑言ばりぞうごんの手紙が届くに違いない。

信長は寝返った幕府軍を解散し、残った織田軍と寝返った朝倉勢のみで何とかならないかと悩んだ。

出し惜しんで負けるのはもっと駄目だ。

大野の情報を集め直す。

そこで信照のぶてる愚連隊が撤退すると言い出した。

山岳戦の切り札を失った。

長期戦を避ける為に慎重に行った策だったのに、結果として長期戦に引き込まれた。


「どこで読み間違えた?」


義景よしかげの性格ならば最後に一戦か、首を差し出してくる。あるいは家臣が義景よしかげの命を助けるように懇願してくると読んでいた。

どちらにして一乗谷で終結するハズであった。

信長は頭を抱える。

やはり、信照のぶてるに頭を下げるしかないかと思っている所に幸運が落ちてきた。


大野の六坊賢松寺ろくぼうけんしょうじに身を置いた義景よしかげ景鏡かげあきらに率いられた200人の兵に取り囲まれた。

景鏡かげあきらは大野郡司でなく、まだ唯の領主に過ぎない。

まず、大野の有力者の説得に失敗した。

次に平泉寺へいせんじが比叡山に火を掛けた幕府軍に参加できないと断ってきた。

これでは防衛線が引けない。

織田方を困らせてから交渉を持ち掛け、義景よしかげの首を差し出して高く売りつける策が瓦解した。

こうなると景鏡かげあきらにできる事は一日でも早く義景よしかげの首を差し出すしかない。

山中を抜けて一息も付く間もなく、取り囲まれたのだ。

ははは、義景よしかげも笑うしかない。

一乗谷では義景よしかげの首が取れないので、大野まで逃げる事を薦められた事に気付いた。

最後の最後で身内に騙された。

妻子や母を寺から出すと最後まで戦って自害して果てた。


6月18日、信長の下に景鏡かげあきら義景よしかげの首を持ってきた。

やっと朝倉家との戦いが終わった。

信長は安堵の息を吐いた。

だが、そこに公方義昭よしあきの姿はなった。

義景よしかげが一乗谷を逃げる時に別れたらしく、義昭よしあきらは足羽川あすわがわを舟で下って、三国湊から船で逃げたと聞かされた。

戦火を逃れる為に三国湊から逃げ出す船は多く、どの船に乗ったかは判らない。

ただ、九州に逃げようと思うと敦賀や小浜で捕まる可能性が高い。

やはり、北上して越後を目指したと思われた。

どうやら義昭よしあきの抵抗はまだまだ続くようだった。


「致し方ない。可成よしなり、後を任せる」

「畏まりました」

「皆の者、凱旋だ」


信長は森-可成もり-よしなりに後を任せて京に引き返した。

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