閑話.桔梗屋事件と氏真道中記。

(永禄3年 (1560年)2月下旬から3月上旬)

今川-氏真いまがわ-うじざね義昭よしあきに呼び出され、仕官の話を断ってから数日後の事であった。

氏真うじざね中御門-宣綱なかみかど-のぶつなの離れ屋敷でごろりと寝転がっていた。

時折飛び込んでくる公家・武家作法の指導や蹴鞠の伝授、楽器などの家庭教師を生業としていた。


たとえば、ふえと言っても1つではない。

龍笛りゅうてき(七孔)

高麗笛こまぶえ(六孔)

神楽笛かぐらぶえ(六孔)

能管のうかん(七孔)

篠笛しのぶえ(五〜七孔)

みさと笛(七孔・裏孔)

明笛みんてき清笛しんてき(七孔・響孔・飾孔)

などがあり、吹けるのが教養人とされた。


特に雅楽ががくで使う楽器は注目される。

しょう

篳篥ひちりき

龍笛りゅうてき高麗笛こまぶえ神楽笛かぐらぶえ

琵琶びわ

そう

和琴わごん

鞨鼓かっこ三の鼓さんのつづみ

太鼓たいこ

鉦鼓しょうこ

などが重要であり、中でもしょう篳篥ひちりき龍笛りゅうてき高麗笛こまぶえ神楽笛かぐらぶえのどれかが吹けて当然とされた。


武家の者が公家に頼めば、大金を要求される。

小領主ではとても払える額ではない。

そこで駆け込み寺のように氏真うじざねの元に教授して欲しいと頼んでくる。

芸は身を助ける。

慎ましく暮らすくらいには稼げていた。

忙しかった駿河の暮らしに比べると貧しく慎ましい生活であったが、のんびりとした優雅な暮らしでもあった。

氏真うじざねは割とこの生活が嫌いではなかったのだ。


今日は必死な形相の番頭風の男が駆け込んで来た。

何かあったみたいだ。

宣綱のぶつなが数人の連れを伴って慌てて出て行った。

白湯を持って戻ってきた妻に氏真うじざねは問うた。


てる、何かあったのか?」

「先程、御家人の商人の主人が役人に捕えられたと番頭が騒いで来たそうです」

「また、どうして?」

「一昨日でしたか、父様が不義をした間男の介錯の立会人として行かれました」

人情沙汰にんじょうざたか、京も騒がしいな」

「そうでございますね。幕府組が京の町をうろうろして物騒になっております。買い物に行こうとして下男に止められました」

「この公方様は碌な事をせぬな」


見回り組に対抗して、幕府は各大名から家臣を出させて幕府組を編成した。

駐留軍と合わせると数で見回り組を凌駕する。

本来ならば、見回りをする数が倍に増えて治安がよくなるハズであった。

しかし、幕府の思惑は外れた。

近場の領主は領民の一部を派遣して来たが、地方に至ってはそんな手間を取る事もなく、傭兵を雇って家臣として幕府に送った。

諸大名や小領主は裕福な者ばかりではない。

銭を惜しめば、職を失った盗賊崩れや討伐された寺の僧兵崩れが集まる。

秩序を知らない無法者らが幕府組として編成されたのだ。

結果として、見回りをする者が乱暴を働くという三好の時代に戻ってしまった。


要するに治安を他人任せにするなという教訓そのままの、駄目な手本だった。


治安ちあんが乱れると、人心を荒廃こうはいさせる。

切った張った喧嘩が多発し、特に幕府組の横暴な振る舞いが目立つようになる。

挙句、無礼討ちが横行する。

捕まった者はトカゲのしっぽ切りで見放されて処分される。

もう幕府はアテにできない。

自粛から自衛に戻り、町衆の若党が復活すると刃傷沙汰が絶えなくなった。

そこで起こったのが『桔梗屋ききょうや事件』であった。


桔梗屋ききょうや-李昞りへいの妻は当代第一と言われるほど美しく、連歌や和歌にも通じていた。

小太りの中年はこの若い妻に骨抜きにされた。

財を好きなように使わせていたのだ。

ある日を境に妻は『猿楽』を好むようになる。

そして、金春こんぱる一門の猿楽師と恋に落ち、不義に至ってしまったのだ。

李昞りへいの激怒は尋常を越えた。

中御門-宣綱なかみかど-のぶつなの御家人であったので、家老に相談すると数人の立会人を集めると猿楽師を呼び出した。

猿楽師は不義を認めて謝罪するが李昞りへいの怒りは収まらず、その場で手打ちにしてしまった。

こうして、不義を証明する証文を書き綴って金春こんぱる一門に遺体を返して終わるハズであった。


しかし、その猿楽師が伊予局いよのつぼねのお気に入りであった為に問題が大きくなる。

呼び出したその日、赤松-政元あかまつ-まさもとの屋敷で能会が開かれる事になっていた。

待てど暮らせど、お気に入りの猿楽師が現れない。

その猿楽師なしで舞台が終わって、伊予局いよのつぼねが怒って帰ってしまう。

政元まさもとは大恥を掻かされた。

さらに、お気に入りが殺されたと聞いて伊予局いよのつぼねの怒りの矛先が政元まさもとに向く。


「まさか、恥を掻かされて何もしない訳ではないのでしょうね」

「当然でございます」

「かの者を殺した罪、何とか問いなさい」

「今、何かないかと探らせております」

「よい返事を期待しておりますよ」


女の嫉妬は醜い。

お気に入りが他の女と不義を働いていたなど許せる訳がない。

それでも情が勝ったのか、殺した男への怨念となった。

李昞りへいも不幸な男だ。

政元まさもとは何かないかと探らせ、何としても伊予局いよのつぼねを宥めなだめねばならなくなった。


政元まさもと金春こんぱる一門を問い質す。

これでは何の為に高い銭を払って金春こんぱる一門を支援しているのか判らない。

桔梗屋ききょうや-李昞りへいも調べさせる。

念の入った事に処罰には立会人もいる。

下手に騒ぐと、赤松あかまつ家がまた恥を掻く事になる。

政元まさもとは知恵を搾り、そこで昔あった事案を見つけてきた。


赤松家被官であった神沢かんざわ--なにがしが起こした不義の沙汰である。


神沢かんざわ-なにがしは梅酒屋の妻と不義になり、怒った梅酒屋の主人に殺された。

赤松家では、被官を殺されたとあっては恥になると兵を上げた。

一方、梅酒屋の主人は斯波家の板倉氏と縁が深かった。

そこで兵を上げた赤松家に対して、板倉氏は斯波家と山名家に声を掛けて兵を集めた。

赤松家の被官と斯波・山名家の被官が睨み合う。

京の町は一触即発いっしょくそくはつの雰囲気で包まれる。

この騒動は公方様の所に持って行かれた。

放置すれば、京の町が火の海になるかもしれない案件であった。

第8代目公方足利-義政あしかが-よしまさは面倒な案件に頭を抱える。

これまでそんな案件はなかったからだ。

慣例に沿って処理できない。

悩んだ末に次のような方法でこの騒動を収めた。

不義をおこなった両名は死罪とするという判決であった。

梅酒屋の妻も死罪となった。

赤松家は面目を保って納得し、板倉氏も妥当と矛を降ろした。

こうして、不義は両名が死罪という室町法が生まれた。

まぁ、大抵は間男が切り殺されて終わる。

そんな室町法があった事も忘れさられていたが政元まさもとはそれを掘り起こした。


李昞りへいの妻が生きていると聞くと、政元まさもとはさっそく幕府に訴える。

お気に入り猿楽師の不義の相方を始末したと言えば、伊予局いよのつぼねも納得すると思えたし、実際に昔はこれで丸く収まった。

しかし、李昞りへい中御門-宣綱なかみかど-のぶつなの御家人であった事が別の事件を引き起こす。

その訴えが御供衆一色-藤長いっしき-ふじながの耳に入ったのだ。

藤長ふじながは「忌々しい氏真うじざねを何とか懲らしめよ」と公方義昭よしあきから焚き付けられていた。

そこにこの事件だ。


「なんと中御門-宣綱なかみかど-のぶつなの御家人が事件を起こしたと申すのか?」

「公方様より今川-氏真いまがわ-うじざねの弱みを探れと聞いておりましたが、利用できませんか?」

氏真うじざね中御門-宣綱なかみかど-のぶつなの世話になっておったな」

「はい」

「利用できるな」


藤長ふじながはさっそく進士-晴舎しんじ-はるいえに相談しに向かった。

それを聞いて晴舎はるいえは目を細めて喜んだ。

晴舎はるいえもまた、義昭よしあきから「まだか、まだか」と言われて急かされた。

しかし、無位無官の者を懲らしめるとなると、幕府組で甚振いたぶるくらいしか思い付かない。

しかし、公家の中御門なかみかど家の世話になっているので、騒ぎが大きくなると朝廷の見回り組が出てくる。

見回り組の後ろには織田家があり、同盟の六角家も出てくる。

時期尚早と思えた。

そこに中御門なかみかど家の御家人が騒ぎを起こしてくれた。


今、訴えてきているのは赤松家であり、幕府はその訴えに応じて動くに過ぎない。

これは仕方ない処置だ。

晴舎はるいえは役人に命じて李昞りへいとその妻を捕えさせた。


「公方様が中御門なかみかど家の態度に不満を持っていると小役人に命じて、小役人に赤松に有利な判決を出させしょう」

「それがよかろう」

「では、かの者を殺した李昞りへいを自害させ、世を騒がした罪で屋敷一切を取り上げてしまうのはどうでしょうか?」

藤長ふじなが、お主…………悪よのぉ」

晴舎はるいえ様には敵いません」


ははは、晴舎はるいえ藤長ふじながが一緒に笑った。

だが、懸念もある。


「やり過ぎては遺恨となるぞ。それはどうする」

「そのときは仕方ありません。中御門なかみかど家が訴えを聞き、幕府の間違いを認めましょう。その上で謝罪し、主人の遺体と私財を返せばよろしいではありませんか。死人にくちなし、赤松家も喜ぶ事でしょう」

「なるほど、手違いはよくある事だな」

「はい、そこで中御門なかみかど家を少し脅しておけば、自然と氏真うじざねに伝わる事でしょう」

「悪くない」

「これで公方様へも言い訳が立ちます」

「お待ち下さい」


それを止めようとしたのが、惟任-咲庵これとう-しょうあんだ。

細川-晴元ほそかわ-はるもとが暗殺され、武田-信豊たけだ-のぶとよが失脚して以来、晴舎はるいえとは微妙な齟齬そごが生まれている。

当然であった。

二人が居た頃は咲庵しょうあんが側用人になった事で繋ぎ役として重宝した。

咲庵しょうあん晴舎はるいえと公方を繋ぐ糸であったからだ。

しかし、強敵の二人がいなくなると、咲庵しょうあんは目の上のたんこぶ・・・・でしかない。

むしろ、下手に知恵が回る分、いずれは力を付けるのではないかと警戒された。


「主人は厳重注意の上に釈放し、幕府に迷惑料を払わせるだけでよろしいでしょう」

咲庵しょうあん、儂がいつ意見を求めた」

「下手に処分をすれば、中御門-宣綱なかみかど-のぶつなは幕府に訴えず、朝廷に訴えます。今川-氏真いまがわ-うじざね如きの為に朝廷の不評をこれ以上貯めるのはよろしくありません。それよりも朝廷に協力を願って、大坂御坊の移転を進める方が得策であります」

「儂がいつ意見を求めたかと聞いておる」

「求めておりません」

「ならば、黙っておけ」

「しかし…………」

「丹波の山狩りの準備に戻ってきただけであろう。さっさと山に戻れ」


咲庵しょうあんが丹波から戻って来たのは、顕如けんにょの使者が来て、幕府に詫びを入れてきたと聞いたからだ。

咲庵しょうあんは折れてきたのを利用して、大坂御坊がある石山から河内に移転させて勢力を剥ぐ事を進言しに戻ってきた。

しかし、多額の献金と後奈良帝より下賜された『三十六人家集』を献上された事で気をよくした義昭よしあきが首を縦に振らない。

晴舎はるいえも大坂御坊の肩を持つようになっていた。


晴舎はるいえ様、どうか腐れ坊主の佞言ねいげんに耳をお貸し下さるな。残るは大坂御坊と高野山のみとなりました。敵は焦っております。石山を幕府領とすれば、幕府の力は倍となります。くれぐれもご自重下さい」

「黙れ。儂はお主に意見など聞いておらん。図に乗るな」


結局、咲庵しょうあんの意見は聞き入れられず、即日李昞りへいの妻は首を切られて、傷心した李昞りへいは自ら毒を食らって死んだ。

結果を知った赤松-政元あかまつ-まさもとは思った以上に喜んでくれた。

役人が死体を届けると、そのまま役人が世を騒がした罪で私財一切を没収した。

倉にあった銭だけでも中々の収入だった。

このまま収まるかと思ったが、中御門-宣綱なかみかど-のぶつなが朝廷に訴えたので私財は返す事になる。

立会人の中に宣綱のぶつながいたので晴舎はるいえが声を掛けた。


「此度は幕府に手違いがあり申し訳ない」

「二度とこのような事のないようにして貰いたい」

「気をつけますが、どうなるかは判りません。今川-氏真いまがわ-うじざね殿を匿っている中御門なかみかど家と聞くだけで小役人が妙な気を回してしまうのです」

「何故、氏真うじざね殿の話が出てくるのでおじゃりますか?」

氏真うじざね殿は公方様を罵倒したのです。中御門なかみかど家に味方して不興を買いたくないと思ったようです。誠に申し訳ない。これも忠義心から来る奉公です。私としては叱る事はできても罰する事はできません」

「まさか、毒を盛ったのはそなたなのか?」

「そのような事はございません。あっという間で止める暇もなかったと聞きます。ですが、次に同じ事があっても止める者がいるかどうか。これ以上、不幸な事件が起こらねばよろしいのですが、何分、私は色々と忙しくしておりまして目が届きません」

「そういう事でおじゃりますか」

宣綱のぶつな様、そして、回りの一門の方々もよくよくお考え下さい」

「考える事はない」

「そうでございますか、残念でございます」


宣綱のぶつな桔梗屋ききょうや-李昞りへいがとばっちりで殺された事を知った。

だが、証拠はない。

自害を咎める法もない。

謝罪とも思えぬ脅迫を残して晴舎はるいえが戻って行った。

屋敷に帰った宣綱のぶつなは頭を抱えた。

裁判事は必ずどこかで起こってくる。

中御門なかみかど家の一門すべてとなると相当な数になる。

幕府は必ず不利な判決をする。

まさか、このような嫌がらせを幕府がしてくるとは思いもしなかった。


 ◇◇◇


桔梗屋ききょうやの没収された私財が返され、受けとりに行った宣綱のぶつなが暗い顔をして帰ってきた。

宣綱のぶつなに声を掛けてから娘の照子が離れ屋敷に戻って来た。


てる、どうであった」

「父様は何もおっしゃりませんでした」

「で、あろうな」

氏真うじざね様は何かご存知でございますか?」

「あくまで想像だが、私がここにいる事が問題なのだろう」

氏真うじざね様が?」

「公方様は俗物だ。俗物には俗物の家臣が付く。俗物ならば、私への嫌がらせがあっても当然であろう」

「それで父様がお悩みなのですか」

「妻に溺れておったと言っても、あの欲深い李昞りへいだぞ。妻を追って死ぬような奴か、てるはどう思う?」

「下女がよく尻を触られております。女と見れば、嫌らしい目で見ます」

「一人の女の為に死ぬと思うか?」

「思いません」

「ならば、殺されたのであろう。私への嫌がらせとしては念のいった事だ」

「それで父様が悩んでおられるのですか」

「そうだ、私の為に公方様との喧嘩をするかを悩んでおいでだ」


あくまで想像に過ぎないと付け加える。

氏真うじざねは小者を呼ぶと、準備させた荷物を馬に乗せるように命じた。

それを妻の照子がぼっと見ている。


「何をしている。早く必要な衣服を整えよ」

氏真うじざね様、何故、荷物もまとめておられるのです。それにそのお衣装はどこかに出掛けられるのですか?」

「今日中に京の町を出奔する。そして、残る女中には私が追い出されたと噂させる。然すれば、幕府の溜飲りゅういんも下げり、これ以上の嫌がらせもなくなるであろう」

「それは嬉しいですが、京の町を出て、ひなびた田舎に行くのは嫌です」

「私も嫌だ」

「どこに行かれるのですか?」

ひなびていない所と言えば、六角家の観音寺、朝倉家の一乗谷、織田家の清洲と言った所だ」


照子も少し悩む。

六角家の観音寺が近すぎる上に息子の出来が悪く、何度が見かけたが没落した氏真うじざねを見下す態度が目に付いた。

朝倉家は名家であり、多くの公家も頼っている。

その中の公家の何人かは面識もある。

行っても粗末にはされない。

しかし、最近の朝倉家はいい噂を利かない。

粗末にされないが、大切にされるとも思えなかった。

最後の織田家の清洲は信長のぶながの居城がある所だ。

あの恐ろしい信照のぶてる様の兄という事を除けば、親しみがあった。

何度が話したが、いつも困っておらぬかと声を掛けてくれる。

信長のぶなが氏真うじざねが良ければ、「昔の事は水に流して欲しい」と頭を下げる。

腰の低い御仁であった。

織田家の気前の良さも誰もが知る所だ。

急に訪ねたからと言って、粗雑に扱われる心配もない。


「だから、尾張の織田家に世話になるつもりだ」

「織田家ですか」

「京より煌びやかと聞いておるぞ」


照子が顔をぱっと明るくさせた。

毎年、西園寺さいおんじ家や久我こが家の者が尾張に下向して土産を持ち帰る。

珍しいモノや美味しい食べ物はすべて尾張から来る。

京の町より清潔でいろどりが豊かで、食べ物も美味しいと聞いていた。

だが、残念な事に中御門なかみかど家とは縁が薄かった。


「私も尾張は通った事しかないが、綺麗に整備された町であった」

「誰を頼って尾張に行かれるのですか?」

「縁者は居らぬ。だから、織田-お市おだ-おいち様に蹴鞠勝負を挑みに行く。お市様は飛鳥井あすかい家の猶子であり、蹴鞠の免許皆伝を貰っておられる。勝負を挑めば受けて下さるだろう」

「なるほど、それはよい考えだと思います」

「そのまま居座って、ほとぼりが冷めるまで逗留しようかと思っている」

「それは素敵でございます。すぐに準備をして参ります」


氏真うじざね信長のぶながの人の良さに付け込んで、かなり図々しい事を考えていた。

心を決めると照子も動き出した。

連れて行く小者は3人のみ、荷物を馬二頭に積むと氏真うじざねは馬に乗り、照子は籠に詰めた。

最近、はじまった辻駕籠つじかごだ。

宿場から宿場まで駕籠を担いで走ってくれる。

氏真うじざねは日が暮れる前に逢坂の関を越えた。


翌日、大津から近淡海ちかつあはうみ(琵琶湖)を渡り、再び辻駕籠つじかごを雇って関ヶ原を越えた。

西美濃の垂井まで来ると、川下りの舟に載って大垣、大垣から津島まで下った。

津島から清洲までは辻馬車を使う。


「馬を使った乗り物ははじめてでございます」

「私も始めてだ」

氏真うじざね様もですか」

「あぁ、そうだ。だが、荷物と一緒に乗るのは奇妙な気分だ」


京や近江では借り馬が多く、馬に荷物を載せて運ぶのが盛んになっていた。

しかし、関ヶ原を越えると荷車を引いた馬車が多くなる。


「こちらの方が便利と思います」

「確かに便利だ。しかし、近江や京の土の道ではこの馬車を走らせるのは無理だな」

「そうなのございますか」

「この綺麗に整備された道もそうだが、すべての河に橋を掛けておく必要がある。余程、守りに自信がなければ、こうはできない」


氏真うじざねは行く先々で城主や領主とあいさつを交わす。

そうする事で宿代と飯代が浮く。

京の話をし、中御門なかみかど家などの公家との仲介を引き受けると小遣いも稼げた。

求めるならば、蹴鞠の伝授も行った。

のんびりとした旅で清洲までかなりの日数を使い、清洲に入った頃には3月になっていた。

信長がまだ京にいたので、帰蝶が二人を出迎えた。


「お初にお目に掛かります。今川-氏真いまがわ-うじざねと申します」

「殿からお噂は聞いております」

「そうでございますか」

「此度はどのような御用件でこちらに来られたのでしょうか」


帰蝶は尋ねるが要件は知っている。

氏真うじざねが来る先々で触れ回っていたからだ。

先に城主らから手紙が送られて来ていた。

しかし、お市と蹴鞠勝負と言われても困ってしまう。

そのお市は不在だ。

城主から聞いて氏真うじざねはむしろ喜んでいた。

市様がお帰りになるまで居座ってやると。

帰蝶は丁寧にお市が留守である事を告げ、すぐに蹴鞠勝負ができない事を詫びた。


「いえいえ、こちらは暇を持て余しております。約束もせずに来たこちらに非がございます。もしよろしければ、気長にお待ちさせて頂きたいと思います」

「そうは参りません。殿が留守の間にお客様に迷惑を掛けては、わたくしが殿に叱られていまいます」

「しかし、奥州に行かれておられてはどうしようもございません。流石に奥州まで追い駆けるのは非礼でございます」

「そうでございますね。ですから、浜松の信照のぶてるに手紙を書いておきました。浜松から奥州に船を出しております。ここより連絡が付くと思います」

「いえいえ、そのようなお気遣いは無用でございます」

「ご遠慮なさらずとも結構でございます」


氏真うじざねは遠慮などしていない。

むしろ、迷惑だ。

このまま、尾張でのんびりと暮らしたいのだ。

しかも、西遠江と言えば最前線の地だ。

旧家臣が訪ねてくる。

そして、何よりも鬼のような厄神やくじん様と一緒に居たくない。

信照のぶてるが恐ろしい。

出来る事ならば、もう一生会いたくなかった。


はじめて会った時は、幼く綺麗な顔をしているのに何を考えているのか判らない奴だと思った。

何を仕出かすかも判らない。

今も思い出すだけで冷や汗が出て、手が震えて止まらない。

氏真うじざねは地獄を知っている。

厄神やくじん様が創った地獄だ。

首がごろごろと転がり、亡者の手が襲ってくる。

やっと嫌な夢を見なくなって来た。


西遠江に行きたくない。

尾張がいい、このまま清洲に残りたい。

必死に残りたいと主張するが、帰蝶がこれからの予定を決めてしまっていた。

ひなびた田舎が嫌という妻、それに同意したい氏真うじざね

銭のない夫婦に逃げる先はない。

旅の疲れを取りたいと言って清洲に2日ほど逗留を許して貰ったが、浜松行きは断れなかった。

そして、豪華な景色が一望できる特上の馬車が用意された。


「織田様の町はどこも賑やかでございます」

「あぁ、ここが三河とは信じられん」

「街道はどこも綺麗ですし、町も整っております。ご飯も美味しいです」

「楽しそうで何よりだ」

氏真うじざね様は元気がないように見受けられます」

「そんな事はない。少し落ち込んでいるだけだ」


清洲、那古野、熱田が煌びやかなのは知っていたが、三河まで綺麗に整備されていた事にびっくりした。

土岐川(庄内川)や矢作川では橋の代わりに、馬車が二台乗せられる大きな渡し舟があった。

岡崎城を斜めに見て街道を進む。

東三河の吉田城の手前にはまっすぐで大きな新豊川に大きな橋が掛かっていた。

今川が支配していた頃には考えられない。

織田家は周辺の領主が力を持つのが怖くないのか?

尾張のように華やかさはないが、街道の両側に綺麗に整備された田畑が並んだ。

民の顔も明るい。

織田家と今川家の支配ではここまで違うのかと見せ付けられた思いだった。

城下町に入ると、こちらも綺麗に整備されていた。


「来ている衣服は同じような者が多いですわ」

「確かに同じような服が多いと見える」

「ですか、帯や根付け、小物が違うようです」

「そうなのか。気が付かなかった」


絹など、様々な布を使った尾張の華やかさと違って、三河は木綿の衣服が多かった。

派手な柄の服を着ている者は少なく、小物や着付けを少し崩す事で違いを出している。

泊まった屋敷の女中に聞くと尾張の者ほど収入がなく、それでも着飾りたいので小物やちょっとした違いのおしゃれをしているそうだ。

木綿の服が多いのは木綿が安いからだ。


「ちょっとした贅沢と言えば、偶に食べる鯨肉の鍋汁くらいですかね」


ちょっと待て、『ちょっとした贅沢』ではない。

鯨の肉と言えば、超贅沢な高級食材だ。

庶民が食べられるモノではない。

だが、この東三河では年に何度か振る舞われる事があるらしい。

実際、氏真うじざねの夕餉に鯨の燻製肉が出てきた。

貧しいと言いながら、帝でもそうそう手に入らない超高級食材を食している。

価値観がガラガラと音を立てて崩れていった。


「行く先々で美味しいモノが変わるので楽しいです」

「私は胃が痛くなってきた」

「大丈夫ですか?」

「大した事はない」


そのまま鎌倉街道を東に進み、遠津淡海とおつあわうみ(浜名湖)を大型の渡し舟で抜ける。

すると、丘の向こうに城が見えてきた。

浜松城と言われた。


「大きな城です」

「あぁ、見た事もない大きな城だ」

「お城がいくつも入りそうです」

「見上げるだけで首が痛くなってきた」

「本当ですね」


大垣城や清洲城を見て石垣の城を珍しいと思わなくなって来たが、海岸沿いに見渡す限りに石垣が続く。

以前、通った時にこんなモノはなかった。

わずか数年で造った事になる。

ぶるぶるっと氏真うじざねは背中から冷たいモノを感じて身震いがした。


「うまぁ、鰻とはこんなに美味しかったのですね」

「そうさ。浜松の自慢の一品だ」

「鰻丼がこれほどとは思いませんでした」

「いくらでもおかわりできるよ」


城に上がる前に浜松の町で食事を取る。

あちらこちらに鰻の旗が立っていた。

にぎやかな町であった。

侍だけでなく、兵もいれば、商人、大工、土方、荷運びなど様々な人が集まっている。

やはり尾張のような華やかさはないが、活気では負けていない。

護衛の兵も交代で飯を食っていた。


「この鰻は養殖なのですか?」

「そうさ。最初は変な殿様と皆思った。川場に行けば、鰻などはどこにでもいる。わざわざ稚魚を掬って育てる酔狂な殿様だと笑ったものさ」

「私もそう思います」

「ここを見てみな、これだけ沢山の人が食するようになると、川場の鰻がいなくなってしまう。だが、養殖ならばいくら食べてもなくならない」

「これだけの店が鰻を取るのは大変そうです」

「大変そうじゃない。すぐに捕りつくして店を畳む事になるよ」

「この殿様は偉いのですね」

「あぁ、そうさ。なんと言っても現人神だからね」

「これから会いに行くのです」

「しっかり拝んで来な。御利益が貰えるよ」

「はい」


西遠江では特別な場合を除いて川場で鰻を取る事が禁止され、稚魚を見つけて掬って養殖場へ持ってゆくようになっているという。

鰻の保護と産業の育成を長い目で準備していた。

店屋の話を聞いて、氏真うじざねの胃がさらにキリキリと痛み出した。

西遠江を奪った直後から準備をするなど信じられない。

まだ、父の義元よしもとが健在な頃だ。

どれだけ先を見通しているのか?

怪物だ。

やはり会いたくない。

このまま逃げたい。

お茶を飲んだ所で浜松城に向かった。

長い階段を昇り、迷路のような通路を通って本丸に達する。

御殿に入ると信照のぶてるが待っていた。


「お久ぶりでございます」

「あぁ、久しいな」

「大きゅうなられました。もう立派な武士でございます」

「そうか。そなたは老けたか?」

「そうかもしれません」

「冗談だ」


冗談に聞こえない。

幼かった雰囲気が消え、より美しくなった信照のぶてるがこちらを見ている。

横にいる妻の照子の目がうっとりと異様に目が輝いているのが判る。

一瞬で魅了されている。

じわっと胃が痛くなってきた。

このまま精気を吸い取られて、白髪の老人になってしまいそうな気分に追いやられる。

そんな気分だった。


「だが、何故婚礼には来てくれなかった」


会いたくなかったからです。

そう言ってしまえれば、どれほど楽だろうか。

神・仏、将又、鬼神・阿修羅な信照のぶてる様と会いたくなかった。

招待状が届けられ、知恵を搾って断った。

全部、貧乏が悪い事にした。


「申し訳ございません。今川家としてご招待頂いても服もない有様でございました」

「服がなかったのか」

「貧乏暮らしでございます。申し訳ございません」


返事を持って行かせた者に同じ返答を信照のぶてる様に言った。

銭がないならば、空の証文でも、山科-言継やましな-ときつぐ様に借りてくればよかったと切り返される。

どう答えたものか?

焦るな。


氏真うじざねは必死に表情を隠そうとする。

どうすれば行かないで済むかしか考えていませんでしたなんて言えない。

少しだけ目線を上げると、信照のぶてるの目がまっすぐに向いているのが判る。

氏真うじざねはすぐに目線を下げた。

心の中を見透かされているような気がして、このまま謝りたい気分になる。


駄目だ、悟られているのか?

ヤバい、殺される。

まだ、死にたくない。


氏真うじざねは今更、駿河・東遠江の事なんかどうでもいい。

ここに来る途中の三河を見て、そう結論した。

また、京の暮らしも悪くない。

守護職が理不尽にも忙しく、偉そうにできるだけでのんびりと暮らせない。

勝手できるようで何も思い通りに動かない。

父上(義元)の圧力からも解放されて、氏真うじざねは初めて生きている事を実感した。

旧家臣は戻って来て欲しいと手紙が送ってくるが、そんな面倒な事はもうやりたくなかった。

織田家に任せれば、大丈夫と確信も持てた。

それなのに、信照のぶてる様がまったく違う事を言う。

やんわりと氏真うじざねの価値を述べた。


『今川家の価値は戻って来ている?』


だから、殺さないのか。

理解した。

だが、よくよく考えて見る。

この厄神やくじん信照のぶてる)様の家臣となる事は、義元よしもとがいた頃より窮屈で恐ろしい。

嫌だ、引き受けたくない。

自然と氏真うじざねの眉間に皺が寄った。


「私はまだ若輩者でございます。信照のぶてる様のお力になれるような事はございません」

「そう卑下するモノではない」

「本当でございます。蹴鞠を蹴っているのが似合っているのでございます」

「いずれにしろ、ゆるりすればよかろう。さて、お市はどこにいるかもよく判らん。しかし、いずれはここに戻ってくる。それまで逗留されて如何か?」


止めて!

氏真うじざねが心の中で絶叫する。

今直ぐにも逃げ出したい。

毎日、どこかで信照のぶてる様と会うかと思うだけで胃がキリキリと痛くなる。

機嫌を損なっただけで首が飛ぶ。

何とか、断らねば大変な事になる。

氏真うじざねは必死に浜松での逗留を断った。

すると、信照のぶてるが腕を組んで考え始める。

ヤバい、これ以上は怒らせるのはマズい。


「では、二俣城に行って貰いたい。松井-宗信まつい-むねのぶも会いたがっておる。顔を出してやってくれ」

「そういう事でしたら行かせて頂きます」

「いずれはお市も戻ってくる。それまでゆっくりされるとよかろう」

「お気遣い。ありがとうございます」


た、助かった。

氏真うじざねは二俣城での逗留で妥協して貰って息を付いた。

機嫌が変わらぬ内に退出し、急ぎ足で浜松城を後にする。


氏真うじざね様、甘いお菓子を用意すると言われたのに、何故断ってしまうのですか?」

「すまん。もう胃が限界なのだ」

「ならば、仕方ありません」

「どこかで休ませてくれ」


氏真うじざねは浜松の町に入って宿屋を取ると横になった。

あぁ、美しく、さらに恐ろしくなられた。

見ているだけで後光が差しているようだったと感想を述べる。

照子も同意だ。

照子は素直に喜んでいた。


翌朝、二俣城の松井-宗信まつい-むねのぶを訪ねた。

なんと、すでに織田家に降った旧家臣らが呼ばれており、応接間で皆が待っていた。


「喜べ、今川-氏真いまがわ-うじざね様はお戻りになられた」


皆が感涙を浮かべて喜んでいる。

旧家臣の中には、まだ無官の者も多い。

無官の者は武田家の仕置が酷く、領地を捨てて西遠江にやって来た者だ。

これで取り戻す準備ができたと喜んでいた。

松井-宗信まつい-むねのぶが宣言をする。


「皆の者、よく聞け。信照のぶてる様はこの夏にも奥州征伐を行い、冬には九州平定をなされる。又代の信広様をおそらく遠江の守護にされるつもりであろう」

宗信むねのぶ様、つまり、それは」

「いよいよでございますな」

宗信むねのぶ様、はっきりと言って下さいませ」

「儂は信照のぶてる様が駿河を氏真うじざね様にお任せすると睨んでおる」


うおぉぉぉぉぉ、旧家臣が絶叫する。

その表現が様々だ。

とにかく、相当なモノを貯めてきたのは察せられる。


宗信むねのぶ、それは余りに唐突とうとつではないか?」

氏真うじざね様、そんな事はございません。私が織田家に仕えてから様々な事を学ばせて頂きました。そのすべてを一年で氏真うじざね様に伝えよと命令を頂きました」

「一年で、どういう意味だ?」

「九州平定が終わった後、幕府に掛け合って駿河を取り戻すと見ております。つまり、幕府の直轄地となった駿河に戻って作業ができるように教育せよという命令でございましょう」

「私がか?」

「他におりません。ですが、お覚悟して下さい。信照のぶてる様は家臣に優しく、また評価も公平でございますが、人使いの荒さだけは義元公の比ではございません」

「父上以上なのか?」

「私も東の防衛を管理しながら、城や砦の改修、河川の計画や田畑の収穫の計画までさせられております。その合間に兵を鍛え直し、新しい武器に慣れさせ、模擬戦もあり、易々と負けると罰も受けます。民や兵にはめっぽう気遣われる信照のぶてる様でありますが、付いてゆく家臣は大変ですぞ」

「脅かすな」

「脅しではありません。あっ、言い忘れておりました。城の帳簿の点検もできなければなりません。教師は手配して下さると言っておりますので問題はございません」

「帳簿もか?」

信照のぶてる様に気に入られてよろしゅうございました」


嘘だろう。

氏真うじざねがムンクのような表情で顔を青くする。

完全に取り込まれた。

もう逃げ出す事もできそうにない。

しくしく、逃げたら殺されるよね。

殺されないように頑張ろう。

そう心に誓う。

こうして、のんびりとした生活が終わった。


PS.照子は何人も侍女が付く身分となり、綺麗な衣装を身に纏り、毎日の三食で美味しい物が食べられるようになった。

毎月のように実家の中御門なかみかど家に仕送りができるほど余裕が生まれ、身近な者を呼ぶ事もできた。

父の中御門-宣綱なかみかど-のぶつなも大いに喜んでいると聞く。


「やはり氏真うじざね様は東海一のいい男でございます」

「私は死ぬとほど忙しい」

氏真うじざね様ならば大丈夫と宗信むねのぶが申しておりました」

「全然、大丈夫ではない」

「後継ぎが必要と言われております。てるを思って頂けるならば寝屋でも頑張って下さい。お頼み申します」

「さらに頑張れというのか」

「はい」

「相判った。とほほほ」

信照のぶてる様を心の中で拝んだ御利益が凄いです」


二俣城では、食事の前に浜松の方に手を合わせて信照のぶてるに感謝するのが仕来りとなっていったという。

チャンチャン。

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