第5話 今川氏真の帰還。
(永禄3年 (1560年)3月初旬)
俺は日々の政務を行っていると
その面会を求めるのが実に下らない理由だった。
だが、その下らない理由に至る経緯には同情する。
「同情とは何かございました?」
俺の横に座っている
皇女という事もあって誰も止めようとしない。
蝶よ花よと育てられ、決して無能ではないが器用でもない。
おっとりした性格もあって誰も厳しく言わない。
いいや、俺から厳しく言って欲しいと思っているのだろう。
俺はそういうのが苦手なのだ。
それに
また、本当に
奥は総取締役の千代女が取り仕切っており、これと言った仕事もない。
教師を付けて、幼い嫁達と一緒にお勉強をさせているが、一日中勉強させる訳にもいかない。
気が向くと俺の横に座ってずっと俺を見ている事が多かった。
「
一々説明するのが面倒なので俺の側近に事情を説明させる。
「そもそもは公方様が空席の奉公衆代官を選んだ事に回帰します」
「あっ、思い出しました。武田領が幕府領に変わって、沢山の奉公衆代官を選ぶ事になったのですね」
「その通りです。はじめから武田家が京に連れてきた者もいましたが、三好家などに世話になっている者、畠山家に仕官していた者など様々です」
「そうだったのですか」
「奉公衆代官に指名した者は公方様が喜びそうな名家や没落した公家などが多く、実務が期待できない者がほとんどですが、その中でも選んで当然という者も含まれておりました。その一人が
「選ばれなければ、幕府が不審がる訳ですね」
「その通りでございます」
幕府に呼び出された
逆に
激怒した
今の幕府は
それで事件が起きてしまった。
本当に偶然だった。
その御家人は商家を営んでおり、その嫁が役者と不義をおこなった。
主人が間男を呼び出して切り捨てた。
証拠の手紙もあり、その場に立会人も呼ばれていた。
それで終わるハズだったが終わらなかった。
その役者は赤松家が支援する猿楽師の一門であり、不義のもう一方である嫁が生きている事を指摘して幕府に訴えた。
ご政道に則れば、幕府は不義に至った嫁を罰して、赤松家の面目を立てて終わる。
しかし、
役者を殺した主人を妻と一緒に殺し、商家の店ごと没収した。
「
何故、わざわざ俺に聞く?
側用人に聞けばいいだろうと思いながら、俺が答えてやる。
「
「???」
「不思議に思うのは判る。だが、幕府は全国の裁判を訴える場所でもある。特に公家は地方に領地を持つ者が多い。地元で問題が起こると、まず幕府に訴えて処理して貰う。直接、領地に行って差配してもいいが、そんな事ができる公家様は滅多にいない」
「つまり、武家も公家も幕府に頼るのですね」
「そういう事だ。今回の不義でも赤松家はまず幕府に訴えた。幕府はこういった些細な調停も引き受ける役目を持っている。だが、その調停に幕府自身が不正を働いた」
「あっ、判りました。公方の機嫌を取る為に
「そういう事だ」
御家人である商人を殺された
幕府から商家にも詫びが入れられ、没収した財貨も返還された。
だが、死んだ主人は戻らない。
そして、これからも
「そんな事が許されるのですか?」
「最後まで聞け。小役人は
「許せません」
「そうだな。しかし、
「狡いです」
「あぁ、狡いな」
「主様、これを許してはなりません」
「安心しろ。同じ事を繰り返すようならば、是正命令が出る。それに従わねば、
「流石です。主様」
「これくらいは当然だ」
だが、そんな段取りになっているとは知らない
それを察した
「それはお気の毒な事です」
「俺も気の毒と思った?」
「何故、疑問形なのですか」
「向かった先が尾張だったからだ」
「尾張ですか?」
「蹴鞠の名手である
俺もそんな感じだ。
幕府に追い詰められたのに、何を
意図が読めない。
「元々、武者修行の旅に出るつもりだったのでしょうか?」
「そうかもしれん」
「変わった御仁でございますね」
「そうだな」
もしそうならば、肝の据わった男とも言える。
以前あった時は正義感と義務感が強いだけの若者のように見えた。
男子、三日会わざれば
という奴か?
いずれにしろ、そのまま遊ばせておく手はない。
今川家の嫡男だ。
疲弊する駿河や東遠江では武田家の取り立てが厳しいせいで、旧今川家臣らは
おそらく、武田家も取り込みたかっただろう。
織田家が取り込めば、それだけ織田家に寝返った旧家臣の忠誠心が上がり、まだ旧領にいる旧今川家臣の調略がし易くなる。
あるいは、それを逆手にとって東遠江と藤枝を支配している
使い道は沢山ある。
だから、俺は帰蝶義姉上に頼んでこちらに送って貰う段取りをした。
お市と蹴鞠勝負をする為という理由で、昼過ぎに
「お久ぶりでございます」
「あぁ、久しいな」
「大きゅうなられました。もう立派な武士でございます」
「そうか。そなたは老けたか?」
「そうかもしれません」
「冗談だ。まだ若かろう。だが、何故婚礼には来てくれなかった」
「申し訳ございません。今川家としてご招待頂いても服もない有様でございました」
「服がなかったのか」
「貧乏暮らしでございます。申し訳ございません」
なるほど、気が付かなかった。
元守護の肩書きを持つ
真面目なのか、
慶次くらいの度胸があれば、紙に『金一〇〇貫』とでも書いて堂々をやって来てただ飯を食いそうな気がする。
紙の証文はある時払いの催促なしだ。
そんな無い袖を振るのが
そんな空手形が嫌ならば、
「借りるのですか?」
「こちらとすれば、それでもよかったのだ」
「返す当てもないのに借りるとは思いもつきませんでした」
「
「まったく考えも致しませんでした」
「今川家との和解は金一〇〇貫なら安いモノだ」
「私にそんな価値はございません」
「そうでもない。駿河、東遠江の惨状を見れば、今川家の価値は戻って来ている」
「そうでしょうか?」
借りは作りたくない。
なるほど、織田家に利用されるのが嫌だったのか。
悪いな。
こちらも手札を増やしておきたい。
この察しの良さは
気に入った。
警戒心も強そうなので下手を打たなければ、裏切る事もないだろう。
ふふふ、本人の意志など構うものか。
「さて、お市はどこにいるかもよく判らん。しかし、いずれはここに戻ってくる。それまで逗留されて如何か?」
「この浜松にですか?」
「場所はいくらでも空いている。屋敷を建てさせてもよい」
「遠慮致します。旧家臣に見せる顔もございません。できますれば、尾張辺りに留め置いて貰えると助かります」
「悪い。すでに松井らにそなたの到着を知らせてしまった」
「お心遣いに感謝致します。ですが、浜松に留まるのはお許し下さい」
「宴会の用意もしてある」
「どうか、それは遠慮させて下さい。顔を合わせても祝う気持ちにはなれませぬ。会わねばならぬならば、こちらから足を運ばせて頂きます」
「なるほど」
「申し訳ありません」
「俺が居ては楽しむ事はできぬな。済まなかった。こちらの手落ちだ。許せ」
「滅相もございません」
俺は
理屈では判っていても父親殺しには変わりない。
わずかに視線を下に逸らし、目を合わすのも嫌がっている。
仕方ない。
説得は
「では、二俣城に行って貰いたい。
「頭をお上げ下さい。行かせて頂きます。とにかく頭をお上げ下さい」
「いずれはお市も戻ってくる。それまでゆっくりされるとよかろう」
「お気遣い。ありがとうございます」
これで旧今川家の家臣の心証が変わってくる。
武田から暗殺されないように警備を増やしておこう。
俺が
織田家の流儀も教えておくほうがいいか。
敵対せねば、敵であった者も重用する。
ともかく、能力のある奴を遊ばせる気はない。
俺の為に頑張って貰うぞ。
こうして俺は手札を一枚増やした。
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