第3話 直虎の仮祝言。
(永禄3年 (1560年)3月初旬)
ぴ~ひょら、ぴ~ひょら、
小川の流れる音と合わさって、趣が深く感じられた。
うす紫のつつじの花が咲き乱れ、酒も合わさって、皆は身も心も軽やかになっていた。
2月の末で尾張を発つと居城である西遠江の浜松城に戻った。
俺は西遠江の衆を集めて花見をしたいと望んだ。
白と赤を混ぜたような薄い
妻達は咲き乱れるつつじの美しさにうっとりとしていた。
しばらくすると、宴は盛り上がり、笑い声が溢れた。
西遠江の城主や領主を集めての宴会だ。
花より団子、肴を美味そうに食うと酒に溺れて皆が楽しそうにしている。
今日は無礼講だ。
敢えて咎める事はしない。
でも、俺は酔って
それを避ける為に、妻達の
俺の方は水だ。
兄上(信長)を真似て水盃を酌み交わした。
俺の帰りを心待ちにしていたのか、西遠江の村長達も駆けつけてくれた。
一人一人が挨拶に来る。
俺は妻達を紹介する。
隣に正室の
その周りを侍女達が囲む。
言われて気が付いたが美女軍団だ。
全部が俺のお手付きではないぞ。
鼻の下を伸ばし、勘違いしている奴らには敢えて訂正しない。
千代女は俺の前で一段下がった所に座っていた。
家臣の席だ。
後ろに座らせると不便であり、横に座らせると不都合だからだ。
千代女は側室というより、まだ秘書なのだ。
順番にやってくる領主達は農地が広がった事を自慢する者も居れば、賊を退治した身内を褒めて褒美を
中には家臣同士の婚姻を認めて欲しいと聞く者もいる。
信広兄ぃの許可で十分なのだろうが、敢えて俺が戻ってくるまで待っていた者も多い。
スケベ親父達が侍女達を見て俺を羨んだ。
侍女達の顔ぶれが少し変わった。
さくら達の下にいた鶴、亀、茜、朝顔らが
別に解雇した訳じゃない。
後輩が育ってきたので役目が変わったのだ。
今度は
その下の下忍の侍女らは夫を貰った。
同じ村の者もいれば、城で働く者などもいる。
侍女らの相手は様々だ。
すると、さっそく
補充するように下で働いていた忍びが上に上がって来た。
何故か、美女度が上がってしまった。
さて、下忍は夫を与えられるが、中忍の鶴、亀、茜、朝顔らは夫を取らないらしい。
婿養子を迎えるのでなく、種を貰う。
考え方が実にクールだ。
馬と同じ、サラブレッドの種付けのような感覚で相手を選んでいる。
ちょっと怖い。
そのまま仕える事になった中忍の福や牡丹も
無礼講と言ったので、今日は侍女軍団が客の脇でお酌をしていた。
彼女らも新しく家を興した家長だ。
最強の種が欲しいらしい。
誰の事だ?
嫌、俺は首を横に振った。
聞かない方がいい、敢えて聞かないでおこう。
聞くと色々と拙い事になる。
「輝ノ介様、一献どうぞ」
「うむ、貰おう」
「退屈ではございませんか?」
「これもまた一興」
上忍と中忍では格が違うように、中忍と下忍でも立場が違う。
上忍は、豪族や土豪など小さな集団の一族長であり、団長として鍛えられる。
中忍は、一族を構成する家臣の長であり、兵長として育てられる。
下忍は、村人や連れて来られた者らだ。
上忍は侍に嫁ぐ事もあれば、家臣として派遣される事もある。
千代女は差し詰め、上忍の女王蟻だ。
国主領主級上であり、忍の頂点として動く。
中忍は上忍の補佐であり、集団を指揮する事が求められる。
武術に優れているのは当然だが、それなりの教養を身に付けさせられる。
しかし、中忍と下忍の境は曖昧だ。
同じ家臣でありながら、中忍と呼ばれる者もいれば、下忍と呼ばれる者もいる。
かなり強いのに下忍と呼ばれる者もいる。
俺に仕える侍女の多くは下忍だが、教養も有り、実力も中忍並だ。
でも、下忍は下忍だ。
俺が苗字を与えて、これから「中忍だ」と言えば、明日から中忍になりそうな気もする。
よく判らない。
とにかく、上忍、中忍、下忍は強さを表すモノではない。
上忍が必ずしも下忍より強い必要もない。
が、実際に指揮を取る上忍が中忍や下忍より強い者である事が多い。
一般的に上忍は中忍より、中忍は下忍より厳しく鍛えられる。
下の者に舐められたら終わりだ。
そこだけは同じようだ。
尾張以外では上忍と中忍は後継ぎが必要だが、消耗品の下忍は必ずしも妻を娶る訳ではない。
褒美で妻を与えられる者もいれば、人員の補充で産む者もいる。
だが、やはり一番はどこからか調達してくる事が多い。
下忍と中忍の違いはそこら辺りか?
織田家は少し特殊だからよく判らない。
あれ、婚期と言えば一番上の二人はいいのか?
俺が思った疑問を
「千代女、順番で言えば、
「奥方様、
「そうなのですか?」
「
そうなのか?
知らなかった。
二人目は赤子の時に顔を見たきり、それから会っていないという。
凄く、申し訳ない。
さくら、楓、紅葉も家を興したので立派な中忍だ。
千代女と一緒に来た頃の三人は半人前だったので、家の名前を名乗る事もできない下忍として連れて来られた。
すぐに忍びが増え、俺が三人を侍女長に指名したので、後から来た
誰が見ても恥ずかしくない中忍並の実力になった。
何故か、後から来た侍女達は可愛い子が多い。
どうやら三人を可愛がった事で俺が女好きという噂が甲賀で立っていた。
実力より見た目を重視された。
「千代女、何か理由があるのですか?」
「奥方様が想像している通りでございます。若様のお手付きになる事を期待して容姿の良い者を送ってきたようです。ですが、若様が幼すぎて意味を為しませんでした」
「新しく入った者も可愛らしいですね」
「それは単なる偶然でございます。実力が伴わない者を送ってくるような事はもうしておりません」
そうだったのか。
見た目を重視したので実力が伴わない子が多かった。
一緒に来た
幸い、中根南城には凄腕の忍びが多くいたので練習相手に事欠かない。
お市らの為に造ったおもちゃも大いに役立ったという。
なお、千代女は一連の騒動が終息するまで側室ではなく、家臣として接する。
子ができて戦力外になって貰っては困るのだ。
同じ理由でさくら達の御相手探しもお預けだ。
だが、あと三年も待たすつもりはない。
奥州征伐と九州平定を三年以内に終わらせるつもりだった。
だが、予定と違う嵐が近づいている。
「殿。一献、如何ですか」
「貰おう」
俺はそれを飲み干すと、井伊谷の様子を聞いてみた。
「
「そうか、色々と手間を掛けさせているがよろしく頼む」
「お任せ下さい」
普通に取れるようになるのに10年程度もかかり、最盛期はその後だ。
苗木を沢山購入して知多に植えたが、やっと収穫が安定してきた。
その知多で育てた新しい苗を西遠江に持って来て植えさせた。
『桃栗3年柿8年、ユズの大馬鹿18年』
柑橘類の収穫には時間が掛かり、大量に取れるようになるまで気の長い計画になっている。
だから、大馬鹿などと言われる。
グレープフルーツを日本で育てると実がなるまで30年も掛かるという話を聞いた事がある。
普通の柑橘でも10年から20年だ。
グレープフルーツは大馬鹿ではなく、大うつけだ。
ただ、その中でも
蜜柑も少し大きめの苗を持って来させたので、少しだけ実がなったようだ。
俺は織田領の山々に柑橘類を植える事にした。
いずれは大量に必要になってくる。
チマチマと知多で作っている暇がなくなってきた。
とにかく低い山の木々をすべて切り倒し、柑橘類の木に植え替えるだけで銭を与える。
山の持ち主は領主だが、柑橘の木は
だが、何も取れない木を植えるだけでは
実がなるとそれも違ってくる。
蜜柑などは凄く高値で取引されるので、それを知ると
少し収穫できて、予想通りにやる気になってくれたらしい。
「
「報告で聞いておる」
「蜜柑の実が高値で売れた後は栄養を雑草に取られてならんと、今朝も花見の前に山に入ってゆきました」
「そうか、やる気が出てよかった」
俺が植物の種や苗を高値で買うと知った葡萄牙人(ポルトガル人)は苗や種を山ほど船に積んで持って来てくれているようになった。
その中にはライムやレモンらしきモノもあり、もしかするとグレープフルーツもあるかもしれない。
一気に数が増えた。
柑橘類は極秘から除外して、織田領内の各所で栽培を奨励する事に変えた。
種や苗の
山を貸してくれて、世話をするなら銭を出すと触れ回った。
西遠江守護代の俺はこの西遠江で率先して植えさせている。
西班牙人(イスパニヤ人)のフアン・カルロス・デ・グスマンは、ヨーロッパに帰るとスペイン国王とローマ教皇パウルスⅣ世から不興を買ったらしい。
又聞きの又聞きなので、どのような不興だったかは伝わっていない。
ともかく、織田家とは友好を結ぶべきだと言う意見が気に入らなかったと伝わった。
教皇パウルスⅣ世はジパングを邪教徒の国と認定し、その教祖である俺を討伐するようにポルトガル国王とスペイン国王に命令した。
葡萄牙人(ポルトガル人)は商船が多く、商人である彼らはポルトガル国王だろうが教皇だろうが命令に従わない。
宣教師らの心証を傷つけない程度に気を使っている。
織田家は南蛮船を軽々と占領するヤバい奴らと思われており、倭寇も織田家も野蛮である事に変わりない。
そんな危険な奴らと無用に争うのは得ではないと考えたようだ。
交易で銭を奪う事に集中しているように見える。
宣教師には「憎き織田家から銭をせしめております」とでも報告しているのだろう。
又は、織田家と同盟国の毛利家と対立する大友家に力添えをして、武器を売って協力しているとでも言っているのだろうか?
いずれにしろ、葡萄牙人(ポルトガル人)は儲ける事しか考えていないし、一緒に来る宣教師は布教に熱心な者ばかりだ。
一方、スペイン国王はジパングの植民地分界線(海外領土の分割)に教皇勅書を出して貰った事を喜んだ。
俺を討てば、フィリピンに続いてジパングもスペイン領になる。
何とも勝手な事を言っている。
教皇パウルスⅣ世は邪教徒の教祖である俺を討伐した国にジパングの所有権を与えると宣言した。
スペイン国王はやる気だ。
だが、母国の国防を手薄にしてジパングを襲うような愚は犯さない。
カリブに徘徊するイギリス、フランス、オランダの
インディアス艦隊などは南米の銀をヨーロッパに運ぶ事で巨万の富を得て、今では50隻以上もある商船艦隊になっていると言う。
確かにそんな大船団が来れば大変だ。
確かに
尤も簡単に
まだまだ、先の話になる。
だが、来ないとも断言できない。
「
「とてもよい方と思っております」
「嫌いではないのだな?」
「もちろんでございます」
「では、信広兄上の嫁になる気はないか?」
「その、私がですか?」
後ろで聞いていた
5年間も断ってきたのだ。
その声が
どうやら信広兄ぃと
俺はそれを見逃さない。
まだ微妙な確執が残っているようであった。
しかし、その今川家から織田家に乗り換えた事で、
しかし、帰って来た
許嫁に裏切られ、呆れた
先代様にしたくない
それを
それでも
唯一、俺の元なら嫁いでもいいと言っているそうだが、俺は早々に断った。
代わりに進めたのが信広兄ぃの側室だ。
最初は信広兄ぃでもよかったみたいなのだが、
俺はこれ以上嫁を増やすつもりはない。
「信広兄ぃ、ここだけの話ですがよろしいですか」
俺は信広兄ぃに声を掛けた。
皆の前でここだけの話もない。
俺は今年中に奥州征伐を行い、来年は九州平定の予定だった事を告げる。
織田家の力を存分に見せつけて、逆らう諸大名を力で従わせる。
公方の
派手に動けば、その分の反感も生まれる。
数による織田包囲が引かれるだろうが、言葉虐めで苦労するのは兄上(信長)だ。
俺は遠慮しよう。
右大臣にでも引き上げて貰い、朝廷が忙しいとか言って幕府御所には出向かず、非難から逃げるつもりだった。
そして、関白までサクサクと上がって隠居する。
隠居しても仕事がすぐに減るとは思わないが、公式行事からは逃げられるだろう。
そんな予定だったのだが、少し狂ってきた。
周りを抑える為にも秋には奥州征伐を終え、冬には九州平定を為す必要がありそうだ。
「戦ですか。腕がなります」
「公方様に許可を頂くつもりだが、公方様の許可がなくとも帝から勅命が貰えるようになっている。何も問題はない」
「流石、殿でございますな」
「そこで問題となってくるのが南蛮人だ」
「何か、ございましたか?」
「俺の討伐令を出した馬鹿が西班牙(イスパニヤ)にいる。すぐに来ると思わぬが、先手を打って南海の島の
「
「悪いが俺が赴く」
「殿ご自身ですか」
「俺しかおらん。そうなれば、俺の拠点は次に南に移さねばならん。この西遠江守護代を信広兄ぃに譲りたいと思っておる」
「そういう事でしたらお受け致します。東国への睨みはお任せ下さい」
「頼む。もちろん、九州平定の後だ」
「当然ですな」
俺は
一度は受ける態度を見せたが、結局は断った。
月日が経ち、本当に行き遅れになってしまった。
しかし、幸か不幸か信広兄ぃの正室は恭姫を産んでから体調を崩して亡くなった。
こうして正室の座が空いた。
そして、守護代職がぶら下がってきた。
「ところで
「はい、何でございましょうか」
「やはり、信広兄上では嫌か?」
「滅相もございません。お受けさせて頂きます。むしろ、お願い致します。あのぉ、そのぉ、当然ですが正室と思ってよろしいでしょうか?」
「もちろんだ」
そう先に答えたから改めて信広兄ぃの方を向いた。
敢えて聞いておく。
「信広兄ぃ、奥方が亡くなって喪も明けて、年も変わりました。そろそろ後妻を取ってもよろしいでしょうか?」
「異存はございません」
「
「承知致しました」
「そうか安心した。帰蝶姉上も信長兄上の子供たちを自分の養子としてかわいがり、後見しておる。しっかりと頼むぞ」
「必ず、やり遂げてみせます」
どうやら西遠江守護代の正室の座に目が眩んだようだ。
この二人の確執は根が深そうだ。
「先程も言ったが戦の準備もあって時間がない。皆もここに居る。この場で仮祝言を上げたいが異存はあるか」
「まったくございません。むしろ、お願い致します」
皆も頷いた。
「信広兄ぃ、よろしいか」
「問題ございません」
「信広様、感謝致します」
「奥向きの事をよろしく頼む」
こうして、花見の場は祝言の場に代わり、
◇◇◇
フアン・カルロス・デ・グスマンの航海記はヨーロッパで大きな話題となっていた。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』が見直され、『黄金の国ジパング』が実在した事が噂になっていたのだ。
フアン・カルロス・デ・グスマンはその目で黄金が散りばめられた屋敷を見て来た。
ヨーロッパと変わらぬ高い文化と技術がそこにあった。
帆船の操舵で負けた事も衝撃を与えた。
あの『ジパング』が実在した。
黄金の国があったのだ。
そして、黄金より価値のある緑茶もある。
フアン・カルロス・デ・グスマンは織田家で出された緑茶を気に入った。
彼は気に入った緑茶を大量に買って帰った。
そして、自慢した。
ある貴族にはお土産として与え、茶会では貴族達に振る舞った。
分けて欲しいという商人には高値で売り付けた。
持ち帰った織田家の緑茶が大ヒットしていた。
まさか、フアン・カルロス・デ・グスマンが緑茶で稀代の財を貯める事になったなどと俺が知る訳もない。
商人らが指を咥えて待つ訳もなく、葡萄牙人(ポルトガル人)は緑茶を買い占めようと船を出していた。
俺がそれを知るのは少し後の事だ。
この空前の緑茶ブームが起こり、緑茶がグラム当たりで銀の100倍の値段で取引きされているなどと俺が知る訳もない。
◇◇◇
浜松城、信広の屋敷の寝室で
「数々の無礼、どうかお許し下さい」
「気にするな。又代の側室では井伊家の姫としての家格に傷が付くのも頷ける」
「いいえ、そんな事はございません」
「俺は織田家と言っても庶子でしかない。帝や公方様の覚えが目出度い訳でもない」
「いいえ、そんな事はございません。信広様がずっと遠江に居られるのならば、側室でも良かったのです。ですが、お会いした時に
「
「妾の一人が遠江に残っていても怒られる事はないと思いました。できれば、遠江の内政に口出しできるように計らって頂ければと思っていました」
「では、正室に拘ったのはどういう事だ?」
「この5年間、
「当主を立てるのは当然だろう」
「そうです。納得していますが、納得できないのです」
「それで正室を望んだのか」
「はい、正室ならば、もう無視はできません」
あははは、信広が大声で笑った。
正室を望んだ理由が可愛らしいかったので笑ってしまった。
ただ拗ねているだけだった。
判っていたのか、
こうして遠江の夜が静かに更けて行った。
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