第2話 忠臣、信長の苦悩な日々。

俺は尾張に戻ったが兄上(信長)はまだ京に残っていた。

俺が用意したカードが次々と切られていった。

義昭よしあきの馬鹿は何やっているのだと呆れる日々を送る。

早いか、遅いかの違いなので呆れていても驚いていなかった。

そこに武田-信玄たけだ-しんげんが爆弾を落とす。

驚いた。

が、驚いただけだ。

よく考えて見れば、俺は幕府が潰れようと構わない。

すでに覚悟は決めている。


共存共栄から傀儡かいらいに落ちるだけだ。

輝ノ介も管領の斯波氏のように丁寧に扱ってくれると信じている。

そう言ってくれた。

これで差し当たっての問題は消えた。

兄上(信長)を執権にして、執権政治を復活させるだけだ。

公方が本当のお飾りになる。

足利・織田連立政権になるか、織田政権になるかは義昭よしあきの選択次第だ。

決めるのは義昭よしあきだ。

俺は沢山の愚痴を呟きながら、それなりに楽しい日々を送っていた。


だが、京に残っていた兄上(信長)は朝廷や幕府への忠義心が厚い。

何とかして義昭よしあきを支えようと、朝廷と幕府の板挟みになって悩みながら、悪戦苦闘の日々を送っていた。


 ◇◇◇


(永禄3年 (1560年)2月中旬、信照が驚いた日の3日前)

武衛屋敷が仮の幕府御所となって久しい。

信長がその廊下を眉間にしわを寄せて、ドタドタと高い足音を鳴らして歩いていた。

勝手知ったる武衛屋敷だ。

いくら待っても通されない。

遂に痺れを切らしてお住まいの方へ足を向けた。

義昭よしあきの小者が信長を制止するが、信長は止まらない。


「織田様、公方様はお会いになると申しておりません」

「先触れはすでに出した」

「今日の今日とは無礼でございます」

「黙れ。幕府がどうなっても良いのか? 屋敷から出ておらんのは承知しておる。急ぎのようだ。案内あないせい」

「公方様はお会いにならぬと申しております」

「儂は左大臣西園寺-公朝さいおんじ-きんともから使者の伝言を預かって来ておる。今日中に返答せねば、大変な事になるのは幕府であるぞ」

「しかし、公方様はお会いにならないと」

「ならば、奉公衆を説得して目通りを付けよ」


信長の先に惟任-咲庵これとう-しょうあんが立って待っていた。

咲庵しょうあんが深々と頭を下げる。

信長は咲庵しょうあんの前で足を止めた。


「公方様はあちらでお寛ぎされております」

咲庵しょうあん様!?」

「信長様が急ぎの用と言われておるのです。忠臣の信長様が曲げて来られておるのです。余程、急ぎの用事なのでしょう」

「わたくしが公方様に罰せられます」

案内あないを邪魔するならば、私がそなたを罰せねばなるまい。どちらがよい。信長様の用事はおそらく幕府の重要案件になる。そなたの首1つで済むと思うな」


咲庵しょうあんが脅すと、悔しそうな顔をして小者が下がった。

ゆっくり歩き出す。

相も変わらず、咲庵しょうあんはふてぶてしい態度だ。

肝が据わっている。


光秀みつひで、久しいな」

「お久しぶりでございます。以前はご迷惑を掛けて申し訳ございませんでした」

「過ぎた事だ。もう忘れた」

「そう言って頂けますと助かります。ありがとうございます」

「側用人とは、随分と出世したな」

「運がよろしかっただけでございます」


奥の間にも問題なく通された。

咲庵しょうあん義昭よしあきのいる部屋を指差した。

信長が予想していた部屋だ。


「はじめから迎えにくればよいものを」

「最近、織田様を擁護し過ぎると風当たりが強うございます」

「そうなのか?」

朽木くつき様をはじめ、信照のぶてる様の強さを知る者が多く辞めました」

「であるか」

「今残っている者はその強さを知っておりますが信照のぶてる様を毛嫌いしている者や、噂でしか知らぬ者が多いのです。信照のぶてる様の手前、皆が虚勢を張っております。それがどれほど危険な事かも判っておらぬのです」


辞めた者の多くが武田-信豊たけだ-のぶとよに近い者だった。

何かのきっかけで連座を言い出されて堪らない。

その前に潔く辞めた。

思わぬ所で弊害へいがいが出ていた。

義昭よしあきの部屋に入ると咲庵しょうあんを罵倒される。

これは仕方ない。

しかし、咲庵しょうあん理路整然りろせいぜんさとしたのだ。


「公方様、織田様には色々と頼まねばならぬ事がございましょう。使いの者の返事は良いモノではございません。ここは公方様がじかに言うべきと心得ます」

咲庵しょうあん、余の代わりに伝えよ」

「某では織田様を説得する事はできません。やはり、公方様の御威光がなければ、何も決まらないのです」

「余の威光が必要か」

「公方様以外に織田様を説得できる者はおりません」

「そうか」


少しおだてられて話す気になったようだ。

咲庵しょうあんが信長に問う。


「織田様、今日はどのような御用件でございますか?」

「まず、左大臣西園寺-公朝さいおんじ-きんとも様から生野銀山と石見銀山の取り扱いについてでございます。各所に代官を配置して、それぞれで手数料を取る。これは受け入れられぬと返答したのに、返事が返って来ぬと苦情を受けました」

「すでに決まった事だと返答したと心得ます。そうでございますな。公方様」

「その通りだ。幕府はすでに決しておる」


信長が首を横に何度も振った。

そもそも評定を開いていない。

それ所か、主だった者を集めて決めた訳でもない上、三管領を呼んで相談もしていない。

公方様とその近習の独断だった。


「朝廷はそれを承知できないと申しております」

「すでに決した事だ」

西園寺-公朝さいおんじ-きんとも様は今日中に取り消しの沙汰さたが出ないならば、明日の御前会議で銀山の取り扱いは朝廷自らが行う事を決議すると申しております。そのような事になれば、幕府の威信に傷が付く事になります」

「朝廷が自ら?」

西園寺-公朝さいおんじ-きんとも様は何度も相談するので使者を送って来いと申されたそうです」

「そうなのか? 咲庵しょうあん

「取り消しの使者を送れと言われておりましたので、送っておりません」


咲庵しょうあんは続けて慣例破りの公家の行いと非難すると義昭よしあきは満足そうに頷いた。

咲庵しょうあんの顔はすがすがしい。

だが、咲庵しょうあんほどの知恵者なら、朝廷の強気な態度に何か察していただろう。

何故、公方様に注意しないのか?

公方様の行為を肯定し、慣例を破っている公家を非難している?

その姿に信長が首を捻った。


そうこうしている内に他の奉公衆が集まってきた。

もう一度同じ事を告げる。

進士-晴舎しんじ-はるいえがそれを聞いて唖然とした顔になる。

幕府の財布を増やすつもりが、逆に減ってしまう。

これが慣例化すると、座などでも同じ事が起こるという声が上がった。

まさか?

そんな事ができる訳がない。

晴舎はるいえが信長に言及する。


「信長殿、朝廷にそのような事ができるのか?」

「昔の朝廷ではございません。公家様も世代が代わっております。やると言われれば、やられます」

「だからと言って、実行は無理であろう」

西園寺-公朝さいおんじ-きんとも様は各守護代に帝より勅命を出すと言われております。左程、難しくはございません。然れど、朝廷と幕府の意見が違えば、各守護代も混乱するでしょう」

「混乱するであろうな」

「しかし、朝廷は引くつもりはないと言われました。ならば、守護代も朝廷の意に逆らう事はおそらくできません」

「どうしてだ」

「お答えしかねます」


信長が返答を渋ると、細川-藤孝ほそかわ-ふじたかが代わりに答えた。


「内大臣様が出てくるからだな」

「…………」


信長の沈黙は肯定である。

皆が一斉に焦り出す。

朝廷ができなくとも内大臣の信照のぶてるが動けば、必ずやり遂げてみせる。

朝廷の強気が知れた。

ざわざわと奉公衆が騒ぎ出し、あらぬ事を口にし始めた。

仕方なく信長が口を開いた。


「この信長、公方様に逆らうつもりはございませんが、評定で家臣たちが決めた事を覆す事はできません。それは他の守護代も同じと思われます」

藤孝ふじたか、信長は何と言っておるのか?」

「主人だけで政治が決められる訳ではないと申しておるのです」

「どういう意味だ?」

「内大臣の織田-信照おだ-のぶてる様は色々なコネを持っております。家臣を籠絡し、その意見を覆す事など容易いと言う事です」

「家臣だと?」

「どちらの銀山にも信照のぶてる様が大きく関与しております。銀山から出る収益は家臣にとっても大きな収益となり、内大臣の意向を無視できないのでございます」

信照のぶてるめ、また余に逆らうというのか?」

「毛利家の先代の当主である元就もとなり殿は、幕府より内大臣の意見を優先するように現当主に言い付けたとか」

「誠か? おのれ、毛利-元就もうり-もとなり、罰してくれる」

「山名家も織田家の姫を貰いました。信照のぶてる様の影響力を無視できないでしょう。また、代官所が置かれている堺しかり。幕府の命より朝廷の命を優先する可能性が高いと思われます」


奉公衆が腕を組んで悩み始めた。

朝廷がここまで強固な姿勢に出るとは思っていなかった。

皆の口から悪態が漏れた。

その中に身を屈めて大舘-晴光おおだち-はるみつが「怖れながら」と声を震わせた。

怯える子犬のようだ。

晴光はるみつ大舘おおだち家は代々五番衆番頭を務めている。

五番衆の者が残っている。

彼らを見捨てる理由もなく、辞めるに辞められないので残っていた。


「何か?」

「先日に決めましたいくつかの懸案事項も見直した方がよろしいかと思われます」

「何の為だ?」

「朝廷から、そちらの方にも苦情が上がっております。織田様、何か聞いておりませんか?」


晴光はるみつがそう言うと信長は頷いた。

西園寺-公朝さいおんじ-きんともから忠告を受けていた。

朝廷への献金の取次ぎや官位の申請の手数料を勝手に引き上げるならば、朝廷も新たに部署を増やして、直接に受け付けるようにすると漏らしていた。


「お待ち下さい。朝廷が自ら取次ぎもなく、受け付けるのですか?」

「そう言っておられた。幕府を通じるか、公家を通して朝廷に直に渡すか、各大名や領主に任せるとおっしゃられておった」

「お待ち下さい。そのような事をされては…………」

「取次ぎ役の奉公衆は仕事がなくなるかもしれんな」


他の奉公衆らが青い顔をする。

おそらく、諸大名は幕府を通じて、これまで通りの献金などをする。

これは幕府への献金も兼ねているからだ。

しかし、小領主や家臣などは費用の少ない方に流れる。

それは奉公衆の収益に響く案件であった。


「こちらに関しての苦情ではなかった。あくまで愚痴であった。むしろ、公家様の収入が増えるので幕府が暴走してくれると助かると嫌味を言われました」

「嫌味で済む問題ではございません」

「そうであろうな」


晴光はるみつらの顔色が悪い。

若狭を拠点とする大舘家は武田-信豊たけだ-のぶとよという後ろ盾を失って、立場を悪くしていた。

連座を免れたが、そのまま奉公衆代官を続けさせる訳にいかないので辞めた者を多く抱え込んでいた。

膨れ上がった一族をどう食わせるかで頭を抱えている。

それに加えて収入源が懸念されるとなると…………。

そりゃ、青い顔になる。


「また、山科購入の件でございますが購入費が安過ぎて横領と変わらぬと、山科-言継やましな-ときつぐ様が帝に訴えているそうです。もしも横領と認定されれば、帝の勅命で天領と公家領も管理させると言っておりました。すぐではございませんが…………」

「それもまた、勅命か!?」


晴舎はるいえがまた声を荒げる。

勅命というモノは軽々しく出すモノでない。

幕府軽視に繋がる。


「この信長と致しましては勅命といえども他領に兵を配置するのは心苦しく、他領と問題を抱えるだけと思います。できますれば、購入の件も撤回して頂けると助かります」


ガラガラガラガラ、ドガ~ン!

天空に稲妻が走り、それが地上に落ちたような衝撃が奉公衆に走った。

勅命の相手が織田家と聞いていなかったからだ。


「今、何と言った?」

「織田家の兵を他領に派遣するのか?」

「あり得ん」

「勅命ゆえに織田家の兵に抵抗する者は朝敵にされるぞ」

「そんな無茶が通るのか?」

「幕府が朝廷の決めた事を覆すのはできん」

「朝廷に取り消しを訴えるしかないぞ」

「だが、朝廷は幕府の横領に対して発すると言っているのであろう。幕府の苦情を聞くとは思えん」


予想外の朝廷の抵抗に奉公衆が焦った。

そんな事になると考えてもいなかった。

全国各地に織田家の兵が配置されれば、織田家の影響力は幕府に匹敵するモノになる。

拙いと感じたらしい。

そんな中、咲庵しょうあんだけが頬を緩めて微笑んでいた。


先だって、

何の為に鋳造を織田家から幕府に移すように要望したのか。

織田家の力を削ぐ為だ。


先だって、

何の為に織田領にも奉公衆代官を配置させようとしたのか。

織田家の力を削ぐ為だ。


先だって、

何の為に織田家所有の軍艦と造船所を幕府に献上するように要望したのか。

織田家の力を削ぐ為だ。


信長は信照のぶてると相談した通りに返答した。


『謹んでお受けいたします』


鋳造は朝廷の命令なので朝廷に変更を申し出て下さい。

朝廷に変更を申し出ると幕府にも鋳造が認められた。

だが、鋳造は簡単ではない。

質の悪い銭は却下される。

幕府が抱える職人が無理だと嘆いた。

そこで技術を織田家から譲るように要求すると、商人から技術移転料として300万貫文を要求された。

役人が怒って「商人風情が!」と怒鳴り付けるが、商人であっても信照のぶてるの家臣でもあると言い返されたのだ。

これでは強引に奪う事はできない。

信照のぶてるに命令書を送ると、その程度の損害ができるので妥当な額だと返答が返ってきた。

幕府にそんな銭はなかった。

その案件は保留になった。


また、織田領に奉公衆代官を配置するのも了解してくれた。

幕府の規定に書かれているように、すでに代官が置かれている土地はその代官が奉公衆に召し上げられる。

六角領、織田領、北条領の各郡から一名の奉公衆代官が誕生する。

これでは幕府奉公衆の勢力図が変わってしまう。

そんな事が許される訳がない。

まず、奉公衆代官の規定から変更する事になったのだ。

変更は評定で決めないと『従えない』と六角家から注文が付けられた。

これでは受け入れられない。


軍艦と造船所を幕府に献上するのも了承した。

但し、すべて個人の持ち物なので買い上げて欲しいと要望する。

買い上げ総額は天文学的な数値になった。

幕府役所方の顎が外れた。

ならば、織田家が持つ貸し出し権のみを献上する事になる。

織田家は軍艦の貸し出し権で年100万貫文以上を支払っている。

もちろん、幕府にそんな銭はない。

貸し出し権を献上されても、支払の不履行で一年目にして破棄される事になる。

借金だけが残る契約など結べない。


どうして織田家はそんな大金を払えるのか?

簡単なトリックだ。

織田家は使用料で毎年100万貫文以上を払い、運営費を除いて収益のほとんどが織田家への献金として戻ってくるからだ。

実質、織田家は運営費のみ負担する。

信照のぶてるらは無料の軍艦などを使って品物を運んで差益を儲けた。

運営費という維持費が無料なので差益も大きい。

織田家は武力を得て、信照のぶてると投資家らは安全を買いながら利益を得る事ができた。

相互依存〔ウインウイン〕な関係であった。

幕府が高い銭を払って、その輪に入ってくれるならば願ってもない。

もちろん、そんな銭は幕府にはない。


何故、幕府の銭がないのか?

倉が無くなっても貸付金利で毎月4,000貫文以上の収益がある。

諸大名や領主、商人らからの献金もある。

座などからの税も上がってくる。

決して、財政が苦しい訳ではない。


銭のない一番の原因は長尾-景虎ながお-かげとらだ。


越後らの兵が大和の始末を終えると、今度は丹波に入って僧侶狩りを続けていた。

景虎かげとらを倣って、奉公衆代官や各守護代らが軍事行動を取る。

その費用は幕府に伸し掛かった。


景虎かげとらは止まらない。

先々代の公方様を殺めた僧など根絶やしにすればいい。

景虎かげとらは山に身をひそめる僧侶を山狩りで焙り出して狩った。

咲庵しょうあんらも協力した。

兵を動かせば銭が消える。

しかも花の御所に置いていた蓄えを失った。

再出発した幕府の台所は火の車だ。

まったく余裕がない。


しかも物価が上がって生活が苦しくなる。

増税や横領で穴を埋め、銀山の横取りで財政の安定を目論んだ。

一方、商人らの献金が著しく減った。


「婚礼を終えて尾張に引き上げた信照のぶてる様が資金を引き揚げたので、経営が苦しくなって献金する余裕がございません」


まったく嘘だが、“献金を減らせ”というのは信照のぶてるの指示だ。

商人が言う。


信照のぶてる様と仲良くして下さい。信照のぶてる様を怒らせると、幕府に献金が多い店ほど投資を減らされます。くれぐれも争わないで頂きたい」


それを聞いた義昭よしあきが激怒していた。


信照のぶてる信照のぶてる信照のぶてる、なぜ余の邪魔をするのだ」


そんな不満が溜まって板所に銀山の代官手数料の変更を差し戻せという朝廷の意向を信長が告げに来た。


「信長、信照のぶてるを討て」

「公方様、ご無体な事をおっしゃらないで下さい。信照のぶてるは内大臣でございます。朝廷に弓を引くなどできるハズもございません」

「他に誰かおらぬか?」


義昭よしあきが声を荒げる。

だが、誰も目を逸らして、名乗り上げる者はいなかった。

義昭よしあきが床をどんどんと叩きながら悔しがった。

信照のぶてるさえ居なければ、「誰も公方に逆らわぬのに」と勘違いをしていた。


義昭よしあき義輝よしてるではない。

純粋に公方様を恐れて従っている者はいない。

ほとんどが織田家を恐れて従っているか、公方を利用しようとしているに過ぎない。

幕府直轄領も増えたので幕府にそれなりの力はある。

しかし、召し抱えたばかりの家臣にどれほどの忠義心が期待できるのか?

命を賭して従ってくれる者は多くない。

砂上さじょう楼閣ろうかくである事すら気づいていなかった。


義昭よしあきは悔しそうに信長に銀山の変更を取り消した旨を西園寺-公朝さいおんじ-きんともに伝えて貰うように頼んだ。

そして、信長と入れ替わりに参上した武田-信玄たけだ-しんげんと謁見に応じた。


以前から予定された謁見であったが、気分は最悪だった。

すぐに帰らせるつもりだったが、信玄しんげんの言葉に心を引かれた。


「我が武田領のすべてを幕府にお返しする所存でございます」

「誠か、幕府の直轄地にすると申すのか?」

「代理守護は武田家から、また守護代も武田家から出すのが条件でございます」

「飲むぞ。その条件を飲むぞ」


領地を安堵し、派遣する奉公衆代官も武田家が指名する。

その奉公衆代官の兵は5年間に限って、その費用をすべて幕府が捻出する。

信玄しんげんの苦肉の策である。


去年、永禄2年の日照り飢饉が武田領を苦しめていた。

金の採掘量は伸びず、米を買う銭も足りない。

また、他国を攻めて兵糧を奪う事もできない。

これでは夏まで反乱が起き、鎮圧しても今年の収穫量が期待できなくなる。

そうなれば家臣団が分裂して武田家が崩壊する。

もう、織田・北条家に降伏するしか手が残されていなかった。

だが、幕府と織田家に亀裂が走った。

信玄しんげんはそれを見逃さなかったのだ。


「悔しい事に織田-信照おだ-のぶてる殿の調略に耳を傾ける家臣が多くなっております。武田家が崩壊するのは時間の問題でございます。最早、公方様におすがりするしか助かる手立てがございません」

「そなたも信照のぶてるに苦しめられておったのか。判るぞ、その気持ち」

「どうか、お助け下さい」


武田領が幕府直轄地になると関税10割が1割に下がり、改良土などの技術移転も許される

それだけでも意味がある。

奉公衆代官に従う兵を現地採用にして貰う事で、5年間に限って幕府の持ち出しとなる。

つまり、武田家の領民3,500人から5,000人の食い扶持が浮く。

奉公衆代官はその兵を使って河川工事などを行う。

武田堤がやっと完成したが、まだ手付かずの河川も多い。

その費用も幕府持ちになる。

5年後の収穫を考えれば、武田領が復活するのは容易に想像できた。


信照のぶてるも武田家が自ら幕府直轄地になるという『鬼手』に出るとは思わなかった。

しかも、奉公衆代官を武田家が指名する。

武田家を監視する奉公衆代官を武田家に選ばせるなど、代官を配置する意味がない。


信玄しんげんの助言で、空いている奉公衆代官の席を守護代や領主に選ばせて献金させれば、喜んで献金するだろうという案に飛び付いた。

側近らが各領主の名代を呼び出して打診して見ると、かなりの額を出すと言う。

足りない銭を集める目途が立った。


 ◇◇◇


この話を聞いた信長が溜息を付き、すぐに公方様に手紙を書いて間違いを指摘する。

しかし、義昭よしあきは変える気がないようだ。

信長が長門守に愚痴を言う。


「公方様は何を考えておられる」

「二条城の建設費をねん出したいのでありましょう」

「二条城など急ぐ必要もない」

「武衛屋敷の防御は花の御所と同じ程度でございます。それでは不安なのでしょう」

「愚かな。あのような間違いが起こらねば、簡単に落ちぬ」

「公方様にお話しになられては如何でしょうか」

「すでに話しておる」

「では、仕方ございません」


信長は舌打ちをした。

奉公衆代官は治安を維持し、幕府の銭で田畑を開拓、河川の改修をする為だけに派遣しているのではない。

守護代や領主を監視し、徴兵権を奪い取るという最大の目的が失われる。

守護代や領主の紐付きでは、何の為の奉公衆代官を置いているのか?

(幕府から一銭も貰わない織田家、六角家、北条家の三家のみ紐付きを認めさせる予定だったので、制度上はできるようにしていた。信玄は制度の穴を利用してきた)

他国を強くして、幕府の銭が減る。

銭の無駄使いだ。

いっその事、奉公衆代官を廃止して、幕府直轄兵を鍛えている方が有意義だと信長は思った。


義昭よしあき様には、ご政道はまだ難しいと見える」


信長は寂しそうな声で呟いた。

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