第55話 永禄の変(1)

(永禄2年(1559年)10月某日)

俺は京の変を聞いて帰国の途に着いた。

心は焦っていたが、時間と距離はどうしようもない。

京から尾張まで2日も掛かり、熱田から船で相模小田原まで2日、馬で鎌倉まで1日だ。

内容の薄い速報の第一報であっても、京の変から5日が過ぎていた。

俺は小田原に戻ると北条-氏康ほうじょう-うじやすとの面会を求める。

再会すると、小田原に到着した時と同じ事でもう一度感謝された。


「この氏康うじやす、当主でいられるのが魯坊丸ろぼうまる様のお蔭でございます。これより何が起ころうともお味方致す所存でございます」


俺と早川はやかわを上座に座らせて、家老らのいる前で頭を下げた。

前回とまったく同じだが意味が違う。

この前は完全な感謝だ。


北条家は3年間を農地改革と河川の改修に勤めてきた。

洪水にならないように河川の護岸をローマンコンクリートで改修して固め直し、干ばつに備えて溜め池を増やした。

収穫を上げる為に肥料の『蝮土』を作り、作物も沢山の種類を栽培し、収穫時期をズラして天災に備えた。

急激な改革に不満の声を上げる家臣も多かった。

しかし、今年の干ばつで他の関東の大名は不作で大打撃を受けた。

収穫は五割を切った。


関東中が生き残りを掛けた大戦になる所だったのだが、北条家の余力で避けられたのだ。

そうだ。

北条家の被害は2割弱、収穫は8割を維持できた。

家臣が胸を撫で下ろす。

近年の北条家は2割増が当たり前になり、余った米を酒米に回している。

3年前を思えば、例年並みの収穫が維持できていた。

不評であったもう1つの政策の備蓄米の倉を開き、低金利で守護代や各地の領主に配った事で、関東の命運を賭けた大戦を回避し、北条家の権威が高まった。

他の領主のように商人に対して、借金を棒引きにする徳政令とくせいれいを発布し、その責を取って、家督を譲って隠居する必要もなかった。

氏康うじやすが当主でいられるのは、俺のお蔭だと感謝してくれた。


だが、関東の民が飢えて、暴動が起こる可能性を秘められていた。

そこで救済策として、『利根川の大改修』に着手する事を提案した。

飢えた民を集めて飯と銭を配るのだ。

国境も変わる大改修だ。

本来ならば、守護代や領主の大反対があっただろう。

調整の難しい案件だ。

ゆえに鎌倉府の大号令で強引に動かす。

鎌倉府から銭を借りた各守護代らは反対する事ができない。

まさにわざわい転じて福となすだ。

すぐに着工しないとちゃぶ台返しになり兼ねない。

言い出しっぺの俺が召喚された訳だ。

開発の過程で損得を調整している。


魯坊丸ろぼうまる様、武田家の調略は如何致しましょうか?」

「一先ず、白紙という事に致します」

「致し方ございませんな」

「続報は入っておりますか?」

「まだでございます」


俺が乗る船は明日の朝までに用意すると言ってくれていた。

武田家の調略は中止だ。

先程も言ったが、今年は雨が少なく全国で日照りとなった。

関東も大不作だ。

だが、西遠江から三河、尾張、美濃、伊勢、近江は例年並みか、やや豊作と言ってもいい。

大雨が降れば、最下層の田畑を放棄する事になるので、その方が収穫的に打撃なのだ。

日照りならば、溜め池を用意すれば良い。


溜め池が用意できない土地は芋や大豆を多く栽培させている。

もちろん全部干上がるような日照りの時はお手上げだ。

幸い想定内だった。

京の周辺は予想通りに日照りで川が干上がって大不作になった。

これも想定内だ。

やはり近淡海ちかつあはうみ(琵琶湖)と京を結ぶ、用水路が必要と説得する予定だった。

また、畿内は収穫を増やす事ばかりを優先したので予想通りの不作となった。

だから、言ったのにね。

収穫時期をズラした作物を栽培しているので、その被害は限定的だ。

米がないならひえを食えばいい、あわもあれば、芋や大豆もある。

稼いだ銭を吐き出せば、商人が倉を開く、足りなければ、近江や尾張まで米を買いに来ればいい。

高値で取引をしてくれるので俺の懐も温かい。

笑いが止まらない。

マジで20万人分の遠征費用を捻出できるくらいだ。

(実際の兵糧は足りません)


日照りになっても知多半島・西遠江などに植えた葡萄やトマトは豊作だった。

大島から八丈島に植えさせたサトウキビも5割増しで収穫が期待できるらしい。

島の者もやる気になって、来年は作地面積を倍にすると意気込んでいる。

益々、織田家と北条家も潤う。


天国の織田家と北条家だが、その隣の武田家は地獄の只中ただなかだった。

春に雪代ゆきしろと呼ばれる洪水を3度も経験し、夏は日照りで作物が全滅した。

武田家の生命線は金山のみだ。

長尾-景虎ながお-かげとらは畿内から米を買い、武田に売って儲けた銭で家臣を支援している。

開拓や開発は遅れていてもきっちり生き残っている。

食い物にされた武田家は堪ったモノではない。

山の恵みがあるので村が全滅する事はないが、村人のすべてが食ってゆけるほどの食糧はない。


小山田おやまだ穴山あなやまは食糧援助を条件に寝返りに応じております」

「こちらも真田から人減らしで3割の民を飛騨経由で引き受ける事になりました」

「元今川家の家臣の…………逃げ出してきました」


武田家は足りない食糧をどうしたか?

所謂、人減らしの姥捨山うばすてやまを実行した。

つまり、役に立たない年老いた物や余っている子供を始末する。

真田家を筆頭に信濃先方衆の領主が人減らしを敢行し、その人を俺が引き受ける。

天竜川の河川域に『げっぷ』が出るほどの人が溢れている。

その一割は武田家の間者で、残り三割が武田家の間者という触れ込みで寝返ってきた信濃衆だ。

信玄もきっと渋い顔をして、半分承知で許可しているのだろう。


また、小山田おやまだ家と穴山あなやま家も北条家を騙して物資を奪ったと言って甲斐に兵糧を送る。

信玄が懐疑的な目で、この二家を見る。


背に腹は変えられぬと東遠江と駿河の民はさらに厳しい重税を受け、しばらく減っていた流民が増えた。

あと一押しだ。

支援を条件に東遠江と駿河、それに加えて信濃を幕府直轄地に要求する。

武田家は自滅覚悟で一戦に及ぶか、降伏して延命するかの選択に迫られる予定だった。

この機会を失うのは惜しいが、すべて幕府が機能しての策だ。


「残念ですが支援の額を増やし、武田家は暴発しない程度に手綱を緩めるしかございません」

「承知致しました。武田の件はこちらで何とかしておきます。京の方はお任せ致します」

「お任せ下さい。奥州の件は連れて来た兵と、この慶次を残しておきます」


最近、面倒事の処理を任せる何でも屋になっている慶次と黒鍬衆100人を共に関東に残す。

その慶次に奥州に入っていいかと聞かれたので「好きにしろ」と言っておく。

そうなると関東から支援する者がいるな。

三河で暇にしている木之下きのした-藤吉郎とうきちろうの顔が浮かんだ。

あと一人は兄上(信長)と相談する事にしよう。

翌朝、北条家の者らに見送られて湊を出港した。


船内でのんびりゴロゴロ、ゴロゴロとさせて頂いた。

このゴロゴロは嬉しくない。

熱田に到着したのは3日後であった。

失敗だ。

逆風の上、風が弱く、黒潮に押し戻されながら航行する事になった。

風が変わったのは尾張の領海に入ってからだった。

遅過ぎる。

翌日の昼には到着するつもりだったのに3日も掛かるとは最悪だ。

これならば浜松に連絡を入れて小型帆船を回して、浜松から馬で尾張に入った方が早かった。

早馬を走らせて、武田家に悟らせない事に気を使ったのが裏目に出てしまった。

すでに変から10日も過ぎていた。


 ◇◇◇


花の御所の襲撃事件の全貌が清洲に届けられていた。

帰蝶義姉上が説明してくれる。


「今回の発端が強訴ごうそです」

「また、比叡山ですか?」


帰蝶義姉上が首を横に振った。

幕府では比叡山関連の寺の取り潰しが終わると、比叡山以外の寺の取り潰しが頻繁ひんぱんになっていた。

その中に珍事が起こった。

丹波の真言宗威光寺いこうじが取り潰しになる所だったが、中止して貰いたいと住職が幕府に訴えたのだ。

取り次いだのが妻木つまきの者だったらしい。

そして、威光寺いこうじの住職も美濃出身であった為に取り潰しが中止になったのだ。

進士-晴舎しんじ-はるいえも美濃に縁が深い為か、それとも惟任-咲庵これとう-しょうあんの判断か?

誰が指示したのか判らないが、取り潰しが中止になった事に興福寺の僧が「自分らの寺を返せ」と怒った。

興福寺の高僧らも手が付けられない。

そこで伊勢-貞孝いせ-さだたかに相談した。

晴舎はるいえの強引な手法には、貞孝さだたかも腹に据えかねていた。

かと言って、貞孝さだたかに幕府の方針を変える力はない。

興福寺の高僧は寺を失った僧の不満を発散させたいと言う。

妥協案として、僧や門徒の不満を強訴ごうそという形で発散させ、花の御所を何周か回った後に解散して戻って行く事になったのだ。


僧の訴えは、『進士-晴舎しんじ-はるいえを出せ、小侍従こじじゅうを解任しろ』というモノだ。


当日、肝心の晴舎はるいえ小侍従こじじゅうが懐妊したので、松尾神社に安産祈願に出ていたという。

訴える本人がいない花の御所の周辺を春日神社の御神木を持ち出した僧達が強訴ごうそで練り歩いたのだ。

手違いというのは往々にして起こるモノだ。


公方様は煩わしいと思っていただろうが、諦めて帰ってゆくのを待っていたと思われる。

僧の数は1,000人と興福寺を出た時の倍に膨れ上がっていたが、朝廷の見回り衆が2,000人、幕府の駐留兵も2,000人もいる。

万が一の場合は取り押さえる事ができる。


「花の御所の隣には花櫓はなやぐらがあります」

「堀と塀で囲われておりますから籠城すれば半日は持ちます」

「ええ、万が一はないハズだったのです」


あろうことか、その花櫓が大爆発して炎上した。

おそらく、鉄砲用に用意していた火薬に引火したとしか考えられない。

花櫓は全壊し、花の御所も半壊したらしい。

火の手も上がった。

逃げ出す兵と僧が揉めて、僧達が花の御所に雪崩れ込んだ。

上洛していた三好-長慶みよし-ながよしが連れてきた兵が突破しようとする僧を止めようとした。

しかし、多勢に無勢だったらしく、突破を許した。

暴徒化した僧らを長慶ながよしと公方様が並んで刀を取って、100人以上を殺しまくったと聞こえている。

朝廷の見回り衆を引き連れて、義兄上の中根-忠貞なかね-たださだが到着した時には、花の御所は炎に包まれてどうしようもなかった。

義兄上忠貞たださだの報告では、花櫓に常駐していた兵300人が生きていれば、こんな事にはならなかっただろうと書いている。


「花櫓が爆発して、僧達が逃げなかったのが異常だと思います」

「おそらく、誰かが計画していたのでしょうね」

「合流した僧の中に、事前に知らされていた者がいたのでしょう」

「同感です」


花の御所の備えを逆手に取った爆破テロだ。

戦える武将を失った花の御所は無防備な状態だ。

半壊した所から侵入できる上に、逃げ出した者が正門を開いたので僧らは容易に雪崩れ込めた。

公方様は守りに備える時間もなく、防戦に応じる事になった。

可怪しい?


「どうかしましたか?」

「公方様一人ならば、逃げ出せたと思うのです」

「では、どうしてでしょう?」

「奥方や家臣を見捨てられなかったのかもしれません」

「そうかもしれません」


そう言いながら、俺はあの公方様が誰かを思いやるとは思えなかった。

慶次のように『殿しんがりこそ、いくさの花』と死地に残ったとも思えない。

何かがあったのだ。

油断していた。

同じ幕臣の中にも公方様の命を狙う者がいる事を想定していなかった。

あの無敵の公方様を倒す?

毒殺以外はまったく考えていなかった。


魯坊丸ろぼうまる、それを警戒するのは無理です。花の御所に織田家の忍びは入る余地がありません。織田家にゆかりのある奉公衆や取次役を送れますが、彼らは警戒されており、自由に動けません」

「判っております。ただ、公方様だけにでも警戒するように忠告するべきだったと思っただけです」

「忠告されて、素直に聞かれるお方とも思えませんが?」

「むしろ、いつ襲ってくるかと楽しみに待ちそうな気がします」

「ふふふ、困った方ですね」


公方様の事は仕方なかったと諦めた。

兄上(信長)は兵2,000人を連れて観音寺城に入っていた。

明日にでも公方様の弟御を連れて上洛するらしい。

覚慶かくけい様が還俗し、義昭よしあきを名乗っていた。

何だ、この手際の良さは?

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