第14話 あばばばば、ばあ!
(弘治2年(1555年)9月3日)
あばばばば、ばあ!
信長はこめかみに手を当てて、手をひらひらとさせながら口を大きく開けて奇妙丸をあやした。
奇妙丸も少し見えてきたのか、手を前に上げてぶるぶると振っていた。
「そうじゃ、儂がお主の父だ」
信長は自分が余り父親から構って貰えなかった事を寂しく思っていたので、10日に一度は朝駆けの帰りに生駒邸に寄っては奇妙丸の様子を伺いに来ていた。
余りの親馬鹿ぶりに吉乃付きの女中から笑われるくらいだ。
溢れるばかりの愛情を見るだけで、横に座っている吉乃は心が安らいだ。
「よいか、お主は尾張、美濃、三河、南伊勢半国、西遠江半国の四ヶ国を治める織田家の棟梁になるのだ。それ以上は増やさぬと言っておったが、四ヶ国ならば大大名だ。この意味が判るか?」
(美濃も南伊勢もまだ取ってません)
ばぶぅ、奇妙丸が奇声を上げる。
そうか、そうかと頷きながら信長が頷いた。
「吉乃、奇妙丸は賢い子じゃ」
「まだ、何も判っておりません」
「いやぁ、今、俺に任せておけと言ったぞ。儂には判った」
「気の所為でございます」
それで奇妙丸が「きゃは」と笑うだけで信長は幸せで一杯になった。
がらがらや絵本などが横に置かれているが、信長はそこから平家物語を取り出して読み聞かせはじめた。
「信長様、赤子にそれを聞かせて意味があるのでしょうか?」
「
「そうなのでございますか」
「魯坊丸は2歳になると難しい本を読んでいたと言う。奇妙丸ならば、1歳で読めるようになるハズだ」
「無茶を申しますな」
「女中、儂が来られない時は代わりに読み聞かせよ」
「承知致しました」
「平家物語ばかりでは詰まらんであろう。孔子と孫子も読んでやるように」
赤子にそのような物を読んで喜ぶのだろうか?
皆が首を傾げているが、信長が命じるのだから言われてようにするしかない。
信長は奇妙丸の奇妙な顔を覗き込んだ。
その後ろで長門守が声を掛けた。
「信長様、そろそろお時間でございます」
「まだ、それほど経っておらんであろう」
「すでに一刻 (2時間)が経ちました」
「もうそんなに経ったのか?」
「朝早くに出て来ましたが、これ以上遅くなると予定が狂います」
「仕方ない」
帰る前に信長がお馴染みの言葉を繰り返す。
もう恒例であり、皆の耳にタコが出来ていた。
「よいか、日に三度は着替えさせ、体を拭いて常に清潔を保つのだ。他国では10人に一人しか育たぬが、尾張では2人に一人は立派に成長する。奇妙丸に何かあれば、唯ではすまんと心得よ。少しでも熱があれば、
「承知しております」
「寝返らせるのはよいが、俯かせて寝かせてならんぞ」
「皆で気を使っております」
「乱暴に扱わせるな」
「信長様より乱暴に扱う者はおりません」
吉乃が信長の襟を整えながらそう言った。
首も座っていない奇妙丸に『高い、高い』をして皆を驚かせたのは信長の方だ。
とにかく、構いたいのだ。
「こちらは大丈夫です。帰蝶様を大切にして下さいませ」
「大切にしておる。帰蝶は儂の半身だ」
「お寂しゅうしておると聞きます。労わってあげて下さい」
「判った。判った。今日は帰蝶と過ごすとする」
吉乃の後ろにいる土田家と明智家の後見人は帰蝶である。
そして、美濃衆は帰蝶に忠誠を誓う。
その帰蝶から不興を買えば、両家とも美濃に帰る事などできる訳もない。
異常なほどの気づかいも頷けた。
「儂が守ってやる」
「そうではございません。帰蝶様を大切にして下さいませ」
「承知しておる」
信長は楽天家であり、人のドロドロとした醜悪な妬みや誹りに疎かった。
帰蝶は賢い女だ。
話せば判ると納得し、まったく疑う様子がない。
信頼が厚いと言えばそれまでなのだが、吉乃は凄く不安だった。
「吉乃は体調を戻す事に気を使え」
「判っております。乳は乳母に任せております」
「そうか、それながらよい」
そう言いながら、信長は部屋の奥の奇妙丸を覗く。
「やはり城に来ぬか。部屋は用意してある」
「どうか、それはご容赦下さい」
「城におれば、毎日でも奇妙丸に会えるのだ」
「3歳になれば、城に上げさせます」
「お主も一緒に来てよい。父上(故信秀)のように母から子を取り上げるような事はせぬ」
信長は母上(土田御前)と引き離されて寂しい想いをした。
奇妙丸のそんな想いをさせるつもりはない。
吉乃と会えるようにする。
だが、信長と吉乃が仲良くしている所を帰蝶が見て何と思うか、どんな寂しく思っているのだろうか?
信長が去ると吉乃も寂しく思えるように、どんなに親しい者であっても殿方が向こうに行くのは寂しいモノだ。
それを考えると恐ろしかった。
信長が優しく接するほど恐ろしさが増してしまう。
だが、信長に頼らないという選択はない。
酷く惨めに思えた。
吉乃は怯えながら信長の胸に顔を埋める。
◇◇◇
第二の政務室の扉が開き、兄上(信長)の側用人・近習・中小姓らが書類を抱えて入ってきた。
なんだ、なんだ?
政務室の奥には二段のひな壇があり、俺は二段目の左側を使っている。
帰蝶義姉上は右側だ。
書類が最奥に運ばれてゆく。
最奥を使うのが誰か?
「今、戻った」
朝駆けから戻ってきた兄上(信長)がこちらにやってきた。
役方の仕事は帰蝶義姉上がほとんど引き受けており、兄上(信長)の仕事は軍務の番方の方が多い。
わざわざこちらに来るほどの仕事はないと思う。
「そう嫌そうな顔をするな」
「別に嫌という訳ではありません。こちらに来る必要もないだろうと思っただけです」
「大評定の話もしたかったのだ」
尾張織田家では4月と10月に美濃衆を呼んだ『大評定』というモノを清洲で開催する。
尾張と美濃の合同評定だ。
美濃半国を完全に属国化したとも言える。
最初に命じられた時、美濃衆も少し怒った。
従わないという選択はないが、心地よいモノではない。
だが、『大評定』が始まると帰蝶義姉上が司会から指示まで執り行う。
兄上(信長)は聞いているだけだ。
帰蝶義姉上は伺いをする素振りを見せない。
こうなると美濃
美濃衆が
巧く美濃衆を取り込んだようだ。
兄上(信長)と帰蝶義姉上が評定の間の上段に一緒に座り、帰蝶義姉上の横に美濃分国守護の新吾が付く。
京より管領となった
次代の
二人の拠点は京の武衛屋敷だ。
京で幕府の仕事を行っており、年に一度だけ戻って来る。
京に居ると肩が凝るそうだ。
判る気がする。
「関東成敗の大号令が出るのであろう」
「公方様は正月前に出すと思います。ですが、越後の雪解けを待ち、京を出立するのは4月になるでしょう」
「では、皆に心積もりだけさせておこう。で、御成り御殿だが…………」
「古渡の公家御殿で十分です」
「清洲の迎賓館を改造すれば、間に合うのではないか?」
「清洲では公方様を迎賓館に入れるのは問題ありません。迎賓館のままでお迎えすれば、良いと思います」
三河や西遠江では城の本丸をお貸しする。
公方様が泊まるのに相応しい館があるだけ清洲は贅沢なのだ。
「帰蝶はどう思う?」
「魯坊丸と同じです」
「そうか、仕方ない」
公方様を労いたいのは判るが、遠征の途中で寄るだけだ。
そこまで気を使う必要もない。
「遠征と言うが、此度の成敗で公方様が戦う事があるかどうかも怪しいではないか」
「奥州次第ですね」
「歯向かうと言うのか?」
「判りません。奥州のすべての大名が公方様へ忠誠を誓っております」
「だが、争いが絶えん。本当に敬っておるのか?」
奥州の公方様への忠誠は厚い。
それは間違いない。
おそらく畿内や東海の比ではない。
「では、何故。『
「忠誠心と命令に従うのは別の話です。奥州の者は公方様の手を煩わせる事なく、自らの手で処断しているのです」
「それで公方様の命を破るとは意味が判らん」
奥州の者は責任感が強く、我慢強い。
そして、誰かに頼って解決しようと思わない。
公方様の命に逆らった者を自らの手で処罰していると報告を上げている。
互いに公方様の敵を討っていると言う。
話だけを聞いていると訳が判らなくなる。
彼らには彼らの決まり事があり、簡単に変えられないのだ。
奥州の者は一筋縄では動かない。
つまり、奥州人にとって京は遠過ぎた。
「南九州でも争いが絶えないのも遠過ぎるからか?」
「いいえ、南九州の者はそもそも約束を守る気がないのです」
「なんだと。公方様を軽んずるのか」
「違います。純粋な忠誠心ならば、やはり畿内や東海の者より高いと思います」
「では、何故だ?」
「戦う事が好きなのです。本能の儘に動いていると言うか。素直で義理堅く、陽気で豪快な為に後先を考えていないのです」
「意味が判らんぞ」
「公方様への忠誠心はありますが、目の前で喧嘩があれば、すべて忘れて喧嘩に興じてしまう素朴な者が多いのです」
兄上(信長)が理解できないという顔になった。
そりゃ、そうだ。
俺だって判らない。
ともかく、奥州の者は思慮深い上に我慢強く、簡単に考えを変えたりしない。
一方、南九州の者は豪快で頑固一徹な者が多い。
どちらも公方様への忠誠心は高いが、『
どちらも命令に従わない荒くれ者に見える訳だ。
「武威を示せば、すぐに終わると思います」
「簡単に言うのだな」
「いいえ、そんな事は思っていません。すぐに従いますが、心から従わせる為には、何度も遠征して、心から改心させる必要があります。どちらも嫌というほどの長い時間が掛かると思います」
理屈で判ってくれない。
諸葛孔明の『
七度戦って六度
要するに、天下を一代で統一するのは無理だ。
孔明の話を例に上げても兄上(信長)は判ったような、判っていないような顔をする。
「それで軍の編成はどんな感じになる」
考えるのを諦めたな。
兄上(信長)は尾張以外の織田家の編成を聞いてきた。
俺の知る範囲を話しておく。
しかし、ここは政務の場所だ。
番方の仕事をこっちに持ってくるな。
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