第12話 帰蝶の花園。

(弘治2年(1555年)8月26日)

俺は西遠江の仕事を終えると千代女と慶次を連れて尾張に戻った。

兄上(信長)にあいさつと思ったが、今日は鷹狩りに行って城を不在にしている。

清洲での仕事も多い。

兄上(信長)が居なくとも俺は清洲に入った。

まずは、清洲を預かっている帰蝶義姉上に帰国のあいさつで会い行く。

今は花園にいるらしい。

清洲御殿の一角にある栽培場は帰蝶義姉上のお気に入り、季節の花々が咲き誇る。

帰蝶義姉上の趣味の箱だ。

迎賓館と隣接しており、公園では季節の花を植えて招いた客を花々で喜ばせる。

栽培園では公園に植える花を育てている。

帰蝶義姉上は自ら土に触れて、その花を育てていた。

栽培園に入ると俺の姿が見つけた帰蝶義姉上は駆け寄って来てそのまま抱きしめられた。


魯坊丸ろぼうまる、おかえりなさい」


ぐわぁ、苦しい。

走ってくると飛び込んで俺をぎゅっと抱きしめたのだが、背丈が伸びた所為で顔が胸の狭間にすっぽりと埋まってしまった。

帰蝶義姉上の両手が俺の頭をロックすると、俺は身動きが取れなくなって息すらできない。

過激な愛情表現だ。


あれぇ、帰蝶義姉上って、こんなにスキンシップをしてくる人だったか?

豹変ぶりに戸惑った。

こんな事は初めて、少し変わった?

それより息ができない。

俺はもぞもぞと動かすと体をずらして呼吸ができる位置に体を移した。

ぎゅぎゅっと込められた力で頭をロックして中々に離してくれない。


「沢山の花を送ってくれて、ありがとう」

「帰蝶義姉上が好きそうだと思ったものです。気に入られて何よりです」

「それはもちろんです。魯坊丸ろぼうまるから送られてくるものを気に入らない訳がないでしょう」

「それは幸いです」


帰蝶義姉上は俺の目利きを信用していると言う。

万遍の笑みが俺に振り注ぐ、背中がこそ痒い。

そっと後ろを見ると千代女がジト目になり、慶次がにやにやと顎をさすっている。


「若様、鼻が伸びておりませんか?」

「寂しい義姉に花を送って気を引くとはやるじゃないか」

「気に入られてよろしゅうございました」

「信長様に殺されるぞ」

「そんな事はさせません。殿にわたくしの方からキツく言っておきますから大丈夫です」


眉が跳ねて千代女の目が「そろそろ離れなさい」と語っているが、両腕でロックされて動けないのだ。

俺は「そろそろ離して欲しい」というが、「もう少し」と離してくれない。

帰蝶義姉上の着物には土と花の香りが漂っていいた。

決して嫌いな香りではないが、背中が痒い。

千代女の目が怖い。

兄上(信長)が忙しいのでお寂しいと判るのだが、俺を代わりにされるのは困る。


「帰蝶様、そろそろ若様が苦しがっております。お離し下さい」

「苦しくありませんよね」

「帰蝶様」

魯坊丸ろぼるまるは皆の者です。一人占めはいけません」

「わたくしは何もそんな事も言っているのではありません」

「千代女、目が怖くなっていますよ。微笑みなさい」


帰蝶義姉上に命じられて千代女が無理に微笑んだ。

すると、帰蝶義姉上は膝を折って視線を落とし、俺の頬に触れてくる。


「随分と日焼けしましたね。女子のような白い肌が台無しです。でも、つやつやしているので大丈夫でしょう」

「帰蝶義姉上」

「これくらいは大丈夫です。わたくし達は義姉弟ですもの」


帰蝶義姉上はちらちらと千代女の方を見ていた。

過激なスキンシップ、その度に千代女の唇に端がぴくぴくと揺れる。

ふふふ、帰蝶義姉上が笑い出すとやっと俺を解放してくれた。


「帰蝶様、お人が悪くなりました」

「だって、あなたの反応が面白いもの」

「面白くありません」

「でも、覚えておきなさい。強い殿方には有象無象うぞうむぞう羽虫はむしが寄ってきます。でも、それを払う事すら許されない」

「帰蝶様がそうなのですね」

「嫌になるわ。殿が偉くなるのも考えものね。こんな風に」


帰蝶義姉上の唇が俺の頬に触れると千代女の顔が強張った。

千代女をからかうのは止めて!

俺は心の中で叫ぶ。

可愛い千代女の反応に帰蝶義姉上は袖で唇を隠しながら笑いを堪えている。

夫婦揃って悪戯好きだ。

兄上(信長)も少し小馬鹿にした悪戯が大好きなのだ。


「でも、寂しいのは本当ですよ。最近は寝屋にも来て頂けておりません」

「言っておきましょうか?」

「止めて下さい。意地の悪い正室と思われたくありません」


帰蝶義姉上には帰蝶義姉上の意地がある。

兄上(信長)は側室吉乃、妾塙-直子ばん-なおこ手懸てかけ中条なかじょうが無事に出産して三児の父親になっていた。

また、側室の元子(木造-具政こづくり-ともまさの養女)にも懐妊の兆しがあり、清洲は大いに沸いている。

それに水を差すような真似がしたくないと言う。

健気けなげだ。


「いいえ、女の意地です」


見栄を張っているそうだ。

吉乃が産んだおのこは養子に貰う事も決め、帰蝶義姉上は養母として、これからも織田家に君臨する。

世継ぎも決まって織田家は安泰だ。


兄上(信長)の子供として認めるのは側室までとされ、妾の子は実家で預かる。

その他の側女そばめ手懸てかけ手付てつきは兄上(信長)の実子として認められない。

それでも兄上(信長)の子である事は代わりない。

家臣らはその子を抱えているかどうかで安心度が違う。

だから、多くの姉妹や娘を差し出し、兄上(信長)も信頼を買う為に沢山の女に手を出している。

半分、兄上(信長)も好きでやっている訳ではないと帰蝶義姉上が庇った。

そう思いたいのだろう。

とにかく、理解ある正室という猫を被る事で威厳だけでも残しておきたいと言う。


「巧く行っているのです。わたくしの我儘で乱したくありません」

「ですが、兄上(信長)にもう少し控えるように」

「止めて下さい。殿も家臣の事を思ってやっているのです」

「それは判りますが、義姉上が」

「その分、魯坊丸ろぼうまるがわたくしを慰めて下さい」

「もっと花を贈れという事ですね」

「薬草でもいいのです」


最近は薬草にも興味を持っているそうだ。

その薬草の教師の一人が果心-居士かしん-こじと言うのは微妙だ。

彼の知識は誘惑、幻覚の薬草に偏っている。

何を求めているのか?

帰蝶義姉上の心がドンドンと歪んで行っているような気がした。


「こらぁ、そんなに心配そうな顔をしない」


また、帰蝶義姉上が抱き付いてきて千代女が怖い顔をする。

心配だ。

帰蝶義姉上が壊れてゆく。

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