閑話.武田晴信の誤算、誤算、勘違い。

(天文23年 (1554年)5月5日)

甲斐の躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた武田-晴信たけだ-はるのぶの一行が戻ってきた。

やかたでは帰参した武将らを労う宴を催され、その日ばかりは浮世の事を忘れて呑んでいた。

京は華やかだが恐ろしい所だ。

乱暴・狼藉を働けば、理由の如何に関わらずに打ち首だ。

見回り隊の目が厳しい。

腹一杯食えたのは最初の内で、2ヶ月を越えるとお粥が贅沢になる。

その癖、上役だけは贅の限りを尽くす。

戦になると喜んでいると急に帰る事になった。

何の為に行ったのか判らない。

だが、今日だけでも酒を浴びるように呑める武将らが幸運な方だ。

農兵や傭兵はそれも当たらない。

傭兵と言えば、京で解雇された者らもいた。

新しい主人を見つけたか、野盗に成り下がったかも判らない。

元々、野盗なので気にする必要もない。

とにかく、武将らは浮世を忘れて浴びるように白酒を呑んでいた。


そんな家臣団を他所に影武者の信廉のぶかど典厩てんきゅう晴信はるのぶの部屋に入った。

中には、嫡男の義信よしのぶ飯富-虎昌おぶ-とらまさ春日-虎綱かすが-とらつな奥近習六人衆おくきんじゅうろくにんしゅうが待っていた。


ようやく、解放されたか」

虎昌とらまさ、先に逃げるとは卑怯だぞ」

「あははは、今日だけは『逃げ弾正』を見習わせて貰った」


弾正忠 だんじょうちゅうを名乗るのは春日-虎綱かすが-とらつなで、元奥近習の一人であり、今は足軽大将となっていた。

殿しんがりを任されても、必ず生き延びる事から『逃げ弾正』と呼ばれていた。

捕まった信廉のぶかどが悪いと虎昌とらまさは言う。

自分は修羅場しゅらばとなった宴会場から巧妙に逃げ出した事を自画自賛した。

一方、信廉のぶかど典厩てんきゅうに助けられて、やっと晴信はるのぶの部屋に連れられて来たのだ。

皆が揃った所で壁に掛けてあった屏風の裏から晴信はるのぶが登場した。


「よく無事に帰ってきた」

晴信はるのぶ兄者の予想が外れましたな」

「嬉しい限りだ」

「外れると思っておりませんでした」

「必ず当たるなら義元よしもとの下などに付くか」

「取り敢えず、ながらえました」


武田家と今川家が通じているのはバレていた。

バレない方が可怪しい。

当然、織田家が報復をする。

道中で襲って知らぬ顔をするか、あるいは、京で弾劾されて腹を切らせるか?

織田家のまな板に上がっていた。

否、晴信はるのぶ以下、重鎮が死ぬ事で許して貰うつもりだった。

玉砕覚悟で相打ちを狙う気にもならない。

あの義元よしもとを軽くあしらって勝つ化け物だ。

織田家に降伏して傘下に入ってもよい。

後継ぎの義信よしのぶに譲って、自分は影から支える。

死中に活を求めた。


典厩てんきゅう兄者、その話は聞いておりませんぞ」

「おまえに言えば、ボロが出るであろう」

「その話ならば、甲斐に戻る時は首と胴が離れていたという事ではありませんか」

「織田家にびるならば、10個くらいの首がいるだろうと申されておった」


がははは、虎昌とらまさ手癪てしゃくで酒を呑みはじめ、おどおどする信廉のぶかどを笑った。

見た目が晴信はるのぶと同じなので滑稽こっけいに映ったのだ。


「武田家の重鎮と評価された事を喜ぶべきですな。信廉のぶかど様も武田家の当主として死ねるなど二度とない名誉でございますぞ」

「俺は嫌だ。死にたくない」

「京であれだけよい想いをしたのにそれを言いますか。ただより高い物はないという事です」


武田家は大国にして名家である。

側室に元左大臣の三条-公頼さんじょう-きんよりの娘を貰っている。

義理の弟になる従四位上左近衛中将三条さんじょう-実教-さねのりも頼って来た。

実教さねのりはまだ15歳だ。

武田家の後ろ盾が欲しかった。


晴信はるのぶが公方様に許されると、正二位権大納言の三条西-実枝さんじょうにし-さねきも擦り寄ってきた。

公家様や諸大名から同じ大国でも新参者で、どこの馬の骨か判らない織田弾正忠家とは家格が違うとおだてられた。

招き招かれ、接待の応酬は2月半ばまで続いた。

幕府の役職も与えられ、官位も従五位大膳亮から正五位大膳大夫に1つ上がった。

能や歌を楽しんだ。


3月になると尼子-晴久あまご-はるひさの侵攻を退けた別所-就治べっしょ-なりはる有馬-重則ありま-しげのりの三津田城を襲った。

播磨はりま守護を晴久はるひさから赤松-晴政あかまつ-はるまさに戻すようにとの公方様への抗議こうぎであり、堂々と『惣無事令そうぶじれい』を破ったのである。


幕府からすれば、尼子、大内、毛利の三カ国が水面下で争っており、各所の訴えが絶えない。

衰退した赤松家の復興する事など眼中になく、それに対しての抗議だったのだが早過ぎた。


尼子軍の侵攻を退けた自信だろうか?

単に別所-就治べっしょ-なりはるが短慮だったのか判らないが、別所の領内に進出していた有馬家の三津田城を奪った。

重則しげのりは幕府に訴え、三好家に援軍を求めた。


「武田家の力を見せ付ける為に、あのまま播磨に進軍するのも一興でしたな」

「今の幕府は簡単に動けんのだ」

「幕府軍に尼子勢と大内・毛利勢を加えたいのは判りますが、調整は一苦労ですな」

「待たされた挙句、帰還する羽目になるとは思いませんでした」


まだ一万人近く残っていた上洛軍が播磨の別所家の成敗に動くかと思っていたのだが、四月になると事態が急変した。

越前の白山が噴火したのだ。

朝倉-宗滴あさくら-そうてきが加賀の一向宗の動きを懸念して帰国し、東国の諸将の帰国が始まった。

被害は越前、加賀、飛騨、木曽、美濃に及ぶ。

武田家の諏訪も無事とは言えない。

帰りは東山道(中山道)を使って美濃を通った。

美濃の斎藤-高政さいとう-たかまさが同盟を結びたがり、通行の許可などの手間が色々と省けたからだ。


「帰り道はどうであった?」

「美濃の被害は軽微ですが、木曽はかなり酷い事になりそうです」

「飛騨はもっと酷そうだな」

「武田家も無傷ではございません。安曇あずみ筑摩ちくま諏方すわも日が雲に遮られ、余りよろしくないと百姓が申しておりました」


ここに来て『惣無事令そうぶじれい』が重く圧し掛かる。

足りない米を北信濃や上野や下伊那を攻めて奪い取る。

去年までなら簡単だった。

あるいは、弱っている木曽の木曽家と飛騨の姉小路あねのこうじ家を奪いに行く機会だった。


「ここは逆に絡め取るべきか」

「我らも余裕はありませんぞ」

「駿河で得た銭で米を買えばよい」

「此度の上洛でかなり減っておりますぞ」

「ここが攻め時だ」


晴信はるのぶは臣従を条件に支援する事を木曽家と姉小路家に伝える事を決めた。

姉小路家の中身は三木氏であり、対立する江馬氏と広瀬氏が虎視眈々と三木氏の足元を狙っていた。

もちろん、姉小路-嗣頼あねこうじ-つぐよりも黙っていない。

嗣頼つぐよりの子、光頼みつより(14歳)を元服と同時に斎藤-利政さいとう-としまさの娘を妻に貰って、美濃斎藤家と結び付きを固めた。

去年の事だ。

しかし、その利政としまさが暗殺されて、斎藤家と中途半端な状態となっていた。


木曾-義康きそ-よしやすは織田と武田に両属するだろう」

蝙蝠こうもりめ」

「だが、姉小路家が織田家に従属するのは望むまい」


義康よしやすは東山道(中山道)と善光寺街道の交易で儲けている。

だが、意外と野心家であった。

織田家、斎藤家、武田家を相手するほどは馬鹿でもない。

狙うならば、飛騨の国しかない。

織田家に従属されては手が出せない。

それは武田家が結んでも同じだが…………いずれにも協力するまい。

武田家は独自に姉小路家を攻略せねばならない。

姉小路家はどちらを取るのか?

武田家が飛騨に接しているのに対して、織田家は遠く離れている。

どちらが支援し易いのかは明らかだった。


晴信はるのぶは大きな勘違いをしていた。

魯坊丸は一見積極外交をしているように見えるが、実は情報収拾に積極的なだけで内向的な政治に徹していた。

一方、交易は積極的に手を広げていたが、船を使わないと人件費が馬鹿にならない。

コストの掛かる内地に興味がなかった。

そして、三河のように尾張と隣接していない。

飢えた民が領内に襲ってくる危険もない。

つまり、魯坊丸が木曽家や姉小路家に支援する理由がなかった。

晴信はるのぶもそこまで読み切れていなかったのだ。


魯坊丸ろぼうまるは熱田明神の化身であり、民を救済する大日如来だいにちにょらいを謳って、他国を侵略する謀略家と思っていた。

この謀略家が木曽家と姉小路家を奪える絶好の機会を見逃す訳もない。

ここは織田家を出し抜いて確実に駒を進めたい。

武田家の価値を上げねばならない。


だが、晴信はるのぶが知る訳もない。

この越前の白山の噴火が天文23年4月から丸2年も続く事を。

駿河の交易が復活しない事を。

駿河の金山の採掘量が減って来ていた事を。

関東征伐がはじまる事を。

晴信はるのぶは自分の首を絞めていた。

まぁ、気付けという方が無理ですけどね。

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