閑話.公方様の絶叫と玉虫色。

(天文22年 (1553年)12月28日)

花の御所の離れの間の両隣の部屋には万が一に備えて家臣らが待機している。

しかし、剣豪である公方様を何とかできる敵がいるだろうか?

公方様を襲った馬鹿者が真っ二つにされる景色しか浮かばない。

むしろ、激怒した公方様を取り押さえるのを命じられた時の方が命懸けになりそうだった。

その中でそっと耳を澄ましている者がいる。

肥田ひだ-孫左衛門まごえもんである。

昔、土岐宗家に付いて美濃に入った肥田家は可児郡の所領を貰った。

この肥田家は代々奉公衆を輩出していた。

孫左衛門まごえもんも例外ではない。

肥田家は美濃騒動で明智領に接していた為に斎藤-高政さいとう-たかまさの軍に襲われた。

一族は土田家を頼って織田の家臣である生駒家の世話になっていた。


「おのれ、進士-晴舎しんじ-はるいえめ。あやつが余計な事をせねば、織田家が勝利して可児郡も取り戻せたのに」


孫左衛門まごえもん晴舎はるいえを憎んでいた。

進士家は一色家の代官として古く熱田大宮司をした事もあり、東美濃の多羅たらに所領を持っていた。

織田家と明智家に縁が深いのだが鎌倉時代より御家人を輩出した名家であり、代々御供衆・四番衆番頭である進士家は幕府を第一に考えた。

肥田家は晴舎はるいえの判断で根無し草になってしまった。

だが、希望はある。


織田家の台頭は著しい。

特に公方様は魯坊丸ろぼうまる様を重宝していた。

生駒家を通じて織田家を支援すれば、肥田家の復興は十分にあった。

魯坊丸ろぼうまるの声はどこまでも澄んでおり、孫左衛門まごえもんの心を清々しくさせていた。


孫左衛門まごえもん様、魯坊丸ろぼうまる様は本当に素晴らしいお方でございますな」

「三好、今川、そして、武田を相手に一歩も引かん」

「武士の鑑ですな」

「まだ幼いがその姿は麗しい。側室の女官らも魯坊丸ろぼうまるが来ると騒いでおります」

「将来の有望さでは、他の追随を許さん」

「帝の覚えも目出度い」


孫左衛門まごえもんとその家臣らが織田家に期待していた。

生駒家を通じて何としても織田家とよしみを得なければならなかった。

そこで意外な言葉が飛び出した。


「5年、6年、あるいは10年ほど、公方様が私(俺)の元服を認めるまで、織田領内での蟄居ちっきょが妥当かと存じ上げます」


魯坊丸ろぼうまるが自ら蟄居を願い出たのだ。

そんな事をすれば、織田家の勢いが削がれる。

晴舎はるいえ辺りは喜びそうな提案であったが、孫左衛門まごえもんにとって都合が悪い。

勢いのままで斎藤家を呑み込んで可児郡を取り戻して貰わねばならない。

しかし、公方様も折れて認めてしまった。

孫左衛門まごえもんは困った。


孫左衛門まごえもん殿、どうかされましか?」


花の御所の役所から出て来たのは一条-兼冬いちじょう-かねふゆ様に仕える家臣であった。

最近まで今川家を支援していた公家様らは苦境に立たされていた。

頼りの今川-義元いまがわ-よしもとは亡くなってしまう。

魯坊丸ろぼうまるの力は図り知れない。

帝の信任も厚く、立場がない。

この流れに逆らう事などできそうにない。


「なんとしても、魯坊丸ろぼうまる様と好を通じねばなりませんぞ」

「そうでおじゃる」

「なんとしても」

「織田様が喜ぶ事は何かないか?」


親今川派であった公家らは最強の太鼓持ちに変わった。

織田家、そして、魯坊丸ろぼうまるの機嫌を取ろうと必死になっていた。


「何ですと。それは一大事ですな。直ちに主人に伝えます」


孫左衛門まごえもんから魯坊丸ろぼうまるが蟄居されたと聞いた家来は主人に伝えた。

主人の一条-兼冬いちじょう-かねふゆは関白で左大臣だ。

直ちに御所に上がり、帝に訴状を申し上げた。

帝は魯坊丸ろぼうまるに蟄居を申し渡した公方様に激怒し、官位の除免じょめんを申し付けた。

すなわち、征夷大将軍が征夷大将軍でなくなってしまう。

タダの人に戻る。

そんな大号令が発せられれば、御所は上を下への大騒ぎだ。


「すぐに魯坊丸ろぼうまるのお味方を増やさせばならぬおじゃりますぞ」

「如何にも、如何にも」

「麿は三好の陣に赴きます」

「麿は畠山の陣に」

「ならば、麿は松永まつなが-弾正だんじょうの元に」

「おお、そうであった。一万の兵を持って来ておったな」

「見回り隊の下に付いておりまする」

「ならば、左近衛大将西園寺-公朝さいおんじ-きんとも様と右近衛大将久我-晴通こが-はるみち様に連絡を取り、兵を掌握せねばなりませんぞ」

「急ぎましょう。急ぎましょう」


親今川派だった公家衆が何としても恩を売ろうと頑張った。

牛車では間に合わない。

使者を走らせると馬に腰かけて急いだ。

こうして、瞬く間に京中に広まった。


「公方様が魯坊丸ろぼうまるに蟄居を命じ、織田家が怒っているそうだ」

「帝も賛同されて、公方様を除免じょめんされるらしい」

「我らはどうする」


上洛してきた諸大名やその名代も慌てる。

花の御所に参陣するか、知恩院の織田家の元に行くべきか?

織田家は公方様の信頼も厚い。

また、信長も公方様への忠義に厚い。

そんな事が起こるのか?

訪ねて来た公家に乗せられて下手に動けない。

判断を1つ間違えれば、家が潰れる。

使者を送って互いに確認をすると、あちらもこちらも人と馬が駆けてゆく。

京の町中も騒然となった。

これだけの大騒ぎをすれば、公方様の耳に入る。


貞孝さだたか、これはどういう事だ」


公方様は奉公衆を集める。

その中で政所執事の伊勢-貞孝いせ-さだたかを責めた。

貞孝さだたかは意外と冷静であった。

しかし、その他の奉公衆が浮足立つ。


魯坊丸ろぼうまるに騙されたのです」

「あり得ん」

「朝廷は見回り隊1,000人の他に松永の兵一万人を掌握しております。襲われれば一溜りもございません」

「その心配は無用だ」

「万が一に備えて、兵を集めておきましょう」

「ならん」


公方様は口で否定するが顔色が冴えない。

帝が激怒している意味が判らない。

諸大名の兵を集めれば、軽く一万人を超える。

松永の兵を恐れる必要はない。

だが、諸大名が花の御所に来るのか?

号令を掛けて、花の御所に兵が集まらなければ、それこそ恥では済まない。

誰かの首がいる。


「公家共が帝の命で知恩院に兵を集めろと言っているそうです」

「黙れ!」


公方様はここに来ても魯坊丸ろぼうまるを疑っていない。

直感を疑わない。

あの魯坊丸ろぼうまるの目を信じている。

だが、知恩院に兵が集まり、花の御所に兵が来ないなどとなれば笑いモノだ。

急いで知恩院に使者を送った。

手遅れになる前に。


三淵-藤英みつぶち-ふじひで魯坊丸ろぼうまる近衛-晴嗣このえ-はるつぐを連れて戻って来た。

公方様はここでやっと息を付いた。

脅かしよって。


魯坊丸ろぼうまる、これは一体どういうつもりだ」

「申し訳ございません。朝一に晴嗣はるつぐを通じて、帝にお伝えする予定でございました」

「申し訳ないではない」

「どうしてこうなったのか、まったく判りません」

腑抜ふぬけたか!」


公方様の怒りは今にも弾けそうな罵倒となった。

刀こそ取らなかったが、言葉で体が二つに割れるような殺気が二人を襲った。

殺気だけで人が切れるのではないか?

魯坊丸ろぼうまるはそう思いたくなるほど公方様が怒っていた。


少し遅れて松永-久秀まつなが-ひさひでの使者がやって来た。

どちらに付くのではなく、左近衛大将西園寺-公朝さいおんじ-きんともの命で兵を動かそうとする者を取り締まるのでご了承頂きたいという申し出であった。

公方様がそれを認めたので騒動は一先ず終わる。


魯坊丸ろぼうまる晴嗣はるつぐはて帝の誤解を解きに御所に赴く。

次の魯坊丸ろぼうまるの仕事は火消しだ。


一方、御所は幕府との話し合いが始まる。

元関白近衛-稙家このえ-たねいえが花の御所にやって来て、帝の意志を伝えた。

除免じょめんは取り消したので、蟄居も取り消せという。

そこから伊勢-貞孝いせ-さだたか近衛-稙家このえ-たねいえの長い長い交渉が始まった。


「ですから、天に二つの太陽が上がるとこうなるのです」

「順列を正せばよい」

「何かいい案がございますか?」

「蟄居などと言わずに、魯坊丸ろぼうまる執権しっけんに据えればよい」

「公方様を傀儡かいらいにされるつもりか?」

「そんな事は言っておらん。順列を改め、役目を分けるだけだ」


鎌倉幕府にも将軍がいたが北条家が執権しっけんを独占し、まつりごとを一手に引き受けた。

稙家たねいえは軍の掌握を公方様が担い、まつりごと魯坊丸ろぼうまるに任せれば、すべて巧く行くという。


「おそらく、巧くいくでしょう」

「賛同してくれるか」

「ですが、魯坊丸ろぼうまる殿の次はどうなりますか?」


日ノ本を平定すれば、公方様は飾りになる。

鎌倉幕府のように尾張幕府が生まれるだけではないか?

足利家は将軍家という神輿にされる。

つい最近まで神輿だった。

神輿から解放されてまつりごとを取り戻したら、今度は織田家に中身を譲れという。

公方様が納得する訳もない。

貞孝さだたかが拒絶すると、稙家たねいえは『改元の儀』を人質に出した。

この『改元の儀』の責任者は魯坊丸ろぼうまる以外は認めないと言い出したのだ。

貞孝さだたかは公方様を説得するしかない。


「帝は魯坊丸ろぼうまる殿の経歴に傷が付く事を嫌がっております」

「何とかならんのか?」

「公方様の家臣として魯坊丸ろぼうまる殿には蟄居を守らせ、公方様の上位者である帝の勅命で『改元の儀』の責任者とする事で納得して頂けませんか」

「それでは蟄居に意味がないであろう」

「宮中の儀式以外では出席を認めず、そう織田家に一筆書かせる事で納得して頂きたいと存じ上げます」

「織田家でも仕事をさせぬという事だな」

「表だっては」

「判った。それで納得しよう」


魯坊丸ろぼうまるは織田領で蟄居するが、帝の勅命は例外とした。

蟄居は実質なかった事にしてしまう。

公家として魯坊丸ろぼうまるの仕事が途切れず、経歴に傷が付かない。

玉虫色だが、これで帝に納得して貰うしかない。

貞孝さだたかは御所で待機して居た稙家たねいえに会いに行く。

稙家たねいえの説得で帝にも納得して貰い、二人で知恩院にやって来た頃には禅寺で除夜じょやかねが鳴りはじめていた。


「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…………」


魯坊丸ろぼうまるはそう呟いて耳を澄ましたという。

何事も思ったように巧く行かない。

知恩院では、まだ除夜じょやかねを鳴す風習はなかったらしく、魯坊丸ろぼうまるが大鐘を奉納するのは翌年の事であった。

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