第20話 信長、(続)平和を満喫する?

(天文22年 (1553年)6月11日)

帰蝶は清洲城の役方の一室で丹羽-長秀にわ-ながひでと机を並べて政務に励んでいると、中履きを付けた千早ちはやが庭から飛び込んで来た。


「帰蝶様、大変です。信長様が襲われました」


部屋には長秀の4人の部下が筆を落とし、長秀自身も筆を止めて顔を上げた。

帰蝶はぱちぱちぱちと算盤を弾いて計算を続けた。


「殿が襲われたというのに、護衛を任せたあなたが先に帰って来ているのですか?」

「敵を排除しようと思ったら、爺ぃに邪魔をされたのです」

佐吉丸さきちまるが止めたのですね」

「爺ぃが裏切ったのです」

「で、その佐吉丸は何をしているのですか?」

「城の番長代と話しております。私の邪魔をする奴を排除してきました」


邪魔とは一緒に出ていった千早の部下の水分みくまり達のことだろうか?

帰蝶はそう考えながら指を止めた。

ごつん、千早の頭に「この馬鹿娘」と叫びながら拳骨が飛ぶ。


「佐吉丸、詳しい話をきかせなさい」


佐吉丸が周りの様子を気にした。

帰蝶は何となく察したが、「殿が襲われた」と聞いたままでは気が気ではないだろう。


「皆、他言無用です。もしどこかで話せば、罰しなければならなくなります」


皆が一斉に頷いた。

佐吉丸が大野木城のことを話し始めた。

確かに泥棒猫の話だった。

帰蝶は何度か頷いた。


「確かに千早を止めて正解です」

「帰蝶様は泥棒猫を許すのですか?」

「遅かれ早かれ側室は娶られるのです。泥棒猫の一匹や二匹が現れるのは当然です。その者が殿を害するかどうかだけが問題なのです」


周りの目もあり、落ち着いた言葉でいった。

だが、内心は穏やかではない。

帰蝶に敵対する者であれば、早苗に命じて排除する。

それを躊躇うほど帰蝶は優しくない。


「これで殿も踏ん切りが付くでしょう。妹を妾として入れるのにも反対できますまい」


長秀が静かに頷く。

それより信長に思い人がいたのは驚きであり、その娘の父が先ごろ降ってきた生駒-家宗いこま-いえむねとは因縁を感じる。

信長の思い人である吉乃きつのは明智家の家臣である土田家に嫁いでいる。

明智家の家臣と言っても土田家は3万石も持つ土豪であり、主人である明智家とほぼ対等な関係を築いていた。


吉法師きっぽうし)(信長の幼名)のモノで、『吉乃』ですか。余程気に入っていたのでしょうね」

「信長様の母君である土田御前様の父君は生駒家から妻を娶っております。土田御前様と吉乃様は面影がよく似ております」

「そういうことですか」


生まれてすぐに信長を取り上げられた土田御前は弟の信勝ほどに信長と肌を触れ合っていない。

その頃の信秀は女遊びが酷く、それに悩んでいた土田御前は信長に冷たく当たっていたそうだと当時を知る者から聞いたことがある。


その足りない部分を吉乃に求めたのだろうか?


面影が似ていても吉乃も少女だ。

少し歳月が流れ、信長の元服が近づいてくると、兄の家長いえながは信長に嫁がせよう考えたらしい。

しかし、父は『うつけ者』(馬鹿者)と噂される信長に嫁がせることに危機感を覚えたらしく、土田家に吉乃を嫁がせてしまった。

信長の力では母の実家に喧嘩を売るようなことは許されなかった。

手に入れたと思った瞬間に砂となって零れてしまった。

信長の喪失感は酷かったらしい。

その心の隙間に直子が入り込んだ訳だ。

そこで1つ疑問が浮かんだ。


「何故、7年なのですか?」


帰蝶が織田家に嫁いで来たのは天文18年 (1549年)の春のことだ。

帰蝶は数えで15歳。

今から4年前であり、7年前ではない。


「そのことですが」


佐吉丸に代わって、控えていた清洲の番長代が話し始めた。

何でも佐吉丸は信長に古いから仕えていた番長代に当時の話を聞いていた所で千早が逃げ出して仕方なく番長代もやって来ていたそうだ。


「直子殿は男の子のような元気な娘でした」


しかも塙直子は気が強く、独占欲を出したらしい。

常に信長の側にいるようになった。

年下なのにぐいぐいと迫られて、ついに信長が逃げ出した。

信長に迷惑が掛かると直子は父と兄が引き離したそうだ。


「殿は(女の子の)押しに弱いですからね」


女遊びが激しくなったのはその頃のようだ。

美人で儚げな女性が好みらしく、魯坊丸の母の実家にも通った。

大殿のお手付きもお構いなしだ。


「もしかして、殿が魯坊丸に弱いのは魯坊丸が母親似だからですか?」

「某には判りかねまする」

「確かに魯坊丸に女着物を着せてみたいと思ったことは何度もありますが…………」


帰蝶が溜息を吐いた。

どうやら信長も同じ気持ちだったらしい。

小姓を愛でるのが好きな信長からすれば、魯坊丸も可愛い小姓のように思っているのかもしれない。

道理で甘い訳だ。

そして、魯坊丸の母も中根-忠良なかね-ただよしに下げ渡されていなくなった。

どうも信長の思い人は手に入らないらしい。

その頃から信長は小姓を愛でるようになったらしい。


「大殿(故信秀)が悪い娘に騙されぬように、可愛い小姓を宛がったのが原因だと思われます」


当主の子が病気持ちの女などに触れ合わぬように、小姓を宛がうのはよくあることだ。

小姓に嵌った信長は直子と会う機会がめっきり減ったようだ。


「殿は直子を嫌っていたのですか?」

「そのような事はございません。手紙のやりとりはしておりました。少し苦手なだけと思われます」

「気の強い所がわざわいとなったのですね」


番長代が無言で黙った。

肯定だ。

信長と直子が会うことを禁じたのは大殿(故信秀)のようだ。

気の強い母が長男を産めば家督問題になる。

どうやら悪い女と認定され、信長の嫡男が生まれるまでは会うことが禁じられた。

帰蝶が嫁ぎ、男子を出産していれば、直子は信長に再び会えるようになるハズであった。

帰蝶が嫁いで来たことを喜んだのは直子だった。

直子から帰蝶宛に祝いの手紙が送られていたことを思い出した。


『仲睦まじく、信長様と帰蝶様の間に珠のようなご嫡男が産まれるのを心から望んでおります』


そんな感じの手紙を送ってくれた。


「そういう意味でしたか」


そりゃ、応援してくれる訳だ。

塙家は当主、嫡男、そして、娘まで信長に忠義に厚い者ばかりだと思っていた。

帰蝶は自分の浅慮にもう一度溜息を付いた。


「殿も殿です。よくも7年の間も放置しましたね」


少し直子が憐れに思えた。

塙家の忠義は疑いようもない。

直子は出陣している直政に代わって指揮を取り、城を空にしても帰蝶を守る為に兵を出してくれた。

その御礼に清洲に呼んで、殿の惚気話をしたことを後悔する。


「申し訳ないことをしたわ」


直子が信長の話を聞きたがるので愚痴を含めてしゃべり過ぎた。

今度、改めて謝罪しようと思った。


「殿はお優しいですが鈍い所がございます。そう思いませんか?」


帰蝶がそう言って長秀を見た。


「某は何も聞いておりません。一切、口にすることはございません。他の者も判っておるな」


一同が頷いた。

女同士の争いに巻き込まれて失脚などしたくない。


『見ざる聞かざる言わざる』


これに限る。

すべてバレていることも知らずに暢気に信長は帰って来た。

皆が総出で出迎える。


「帰蝶、今、帰った」

「随分と長くなりましたね」

「色々にあってな」

「そうでございますか?」


上がってきた信長の手を帰蝶が取ると、人目も構わずにそのまま抱き付いた。


「これ、何をする」

「殿が遅いので、誰かに襲われているのではないかと心配しておりました」

「そんな訳がなかろう」


帰蝶が鼻をクンクンとする。

確かに別の女の匂いだ。

がぶり、信長の首元に噛みついた。


『痛い! 痛いではないか?』

「殿、汗臭いです。先に風呂に入って下さい」

「抱き付いて来たと思えば、何を言うのか?」

「その汗臭いままで部屋に入ることは許しません」


さぁ、行け。

そう言わんばかりに風呂場の方を指差した。

皆は帰蝶の心遣いと感動しているが、長秀らだけは冷や汗を流す。


「長秀様、あれは他の女の匂いを付けたままで部屋に入るなと言う意味でしょうか?」

「我らは何も知らん。考えるな」

「すみません」


帰蝶の我儘でさっぱりしてから執務の部屋に戻ってきた。

中央の信長の机の隣に書状が積まれている。

信長も書類は苦手だ。


「帰蝶、少し頼む」

「殿、わたくしも忙しいので、今日はお一人でやって下さい」

「手伝ってくれないのか?」

「はい、お一人で頑張って下さい」


いつも半分を手伝ってくれる帰蝶が冷たい。

普段ならそれでも甘えた声で帰蝶に助けを求める。

だが、今日の信長は黙ってしまった。

些細なやり取りであるが、長秀らは気が気ではない。

できれば逃げ出したい。

帰蝶はいつも以上ににこにことしている。

その笑顔が怖い。

廊下に控えている千早がハラハラしていた。


「やはり、成敗して来た方がいいのでは?」

「止めよ。直子殿に怒っているのではなく、信長様に怒られているのだ」

「意味判らないす」

「さて、信長様はこのまま黙っておられるつもりかのぉ」

「帰蝶様はいつも以上にいい笑顔ですが目が笑ってないす」


信長はまだ何も気付かれていないと思っている。

そんな鈍い信長に帰蝶は怒っていた。


この日を境にして、帰蝶がご機嫌な日と冷たい日が分かれるようになる。

勘のよい者は必ず朝駆けに行った日と勘付く。

だが、勘のよい者ほど、それを口にしない。

気が付かない信長だけが平和の日を満喫していた。

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